創業への道(2)

 当初、旋盤工を希望したが欠員がなく製造部のプレーナー(平削盤)工として入社した。腕の良い職人と評価され、フライス盤工としても活躍し、その後冶工具課に配属されジグボーラーを操作して冶具を製作していた。発動機のクランクシャフトが入る内径加工では、直径が大きいため加工するフライス盤やジグボーラーがなかったので、旋盤の刃物台を外して、台の上に取付け冶具を製作し、旋盤のチャックに刃物を取り付け回転させ、内径の加工作業を行う。旋盤のチャックは加工物を回転させるのであって、刃物を回転させるものではない。まさに逆転の発想である。日平産業は3馬力の伊賛美発動のブランドで、農業機械の脱穀機・精米機等の駆動源として好調に販売を伸ばしていた頃である。

 

次に配属されたのは組立と試運転、その次は技術員として代理店を回り指導に当たっていた。そして技術員として下館の塚田農機に出向を命じられた。出向期間中、農機具店の拡販のため販売員も依頼された。月に1台のペースで発動機を販売し、成績はトップにいたと云う。当時は1台の発動機を販売するとバックマージンとして1万円、付属の備品のマージンでも5千円が支給された。当時の給料が5千円であるから給料の2.5ヵ月分の販売奨励金を得ていた。約2年半、毎月1台の販売を続けることができたので、蓄財が出来たと云う。なぜ毎月販売できたのか。農家が困っていると休みや時間に関係なく相談にのり、農業機械の修理を自分で行った。また軽微な修理では費用は取らなかった。頼りになる農機具店の人間がいると農家の評判を呼び次々に親戚や友達の農家を紹介してくれたことが、販売のトップセールスマンとしての成績を維持したのだと云う。しかし農機具店でお金を貯められるからと割り切っていたが、自分が知らないうちに同僚から成功したことへの妬みを受けていた。

 

創業者・庫吉は述懐する。製造部に所属していたとき、自分は機械工として誰にも負けない技術技能を持っている。しかしなぜか昇進できなかった。なぜなのか何が問題なのか。急に作業者が休んだ時など、良く便利屋に使われていたが、自分は何でも出来るのだとの自負心から積極的に協力しているのにと不満を持っていたと云う。そんな時、組合に誘われ執行委員になった。

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