当時は経営と組合が先鋭化していた時代である。大会では経営側の提案に対して何でも反対を大声で言っていた。屈折した正義感から回りの人におだてられ、組合活動の先頭に立っていた。後年、組合活動に対しても懐疑的になったのは、お互いの議論よりも何でも反対すれば、経営側が譲歩してくる。それが許された時代かもしれないと云う。
当時の雰囲気は今日一生懸命働けば、明日の生活はよくなる。一年後にはもっとよくなるかもしれない。だからこそ経営側は低めに回答し、労働側は高めに要求し、ストライキの姿勢を見せながら、高めに妥協をしていたのだと思う。
茨城工場の入り口ロビーに置いてある発動機は次のように記されている。「伊讃美発動機(3馬力)昭和26年頃、脱穀機・精米機・籾摺り機に使用。
昭和25~27年、創業者高橋庫吉は日平産業伊讃美工場(筑西市川島)に勤めていた。発動機の製造部で旋盤・プレーナー・ジグボーラー等の職人として従事した後、農機販売店に出向した。販売奨励金で資金を貯め、工場閉鎖の時にその資金で協立製作所を設立した。
日平産業伊讃美工場は昭和28年工場を閉鎖し、横浜工場に集約した。昭和59年トヤマキカイと合併して、株式会社日平トヤマとなった。その後平成20年小松製作所の完全子会社となり、コマツNTC株式会社として活躍している」
昭和28年、伊賛美工場を閉鎖し、横浜工場に統合するとの発表があった。工場の跡地は日立化成が従業員ごと買収したが、管理職や一般従業員で妻帯者は再雇用しないとのことだったが、社宅は1年近く使用が認められたので、庫吉は妻子を残し、一人東京に仕事を求めて出かけていった。