中国進出の意味
坂寄 上海への工場進出も大きな決断だったのではないでしょうか。
高橋 結果的には成り行きだったのですが、1991年に上海協立機械部件有限公司を立ち上げました。この6月で創立20周年になります。私が月に1回4~5日行って指導してきましたが、日本人スタッフは1人も派遣していません。パートナーの上海人はもともと協立製作所茨城工場に2年半勤めていた人です。
坂寄 どんな経緯で中国進出を決めたのですか。
高橋 バブル全盛の頃で業容拡大が続き、本工場の増築を検討していました。ところが土地の用途変更があり、増築を認めてくれませんでした。茨城へ工場進出して7~8年後に市街化調整区域に指定されていたのです。ある人の知恵で当地選出の県会議員の力を借りて町や県へ何度も陳情に出かけ、ようやく確認申請が出たときは2年半が経過していました。バブルがはじけた直後で山形県や岩手県への進出も考えましたが、どうせリスクを冒すならいっそうのこと中国へ行こうと決めたわけです。
坂寄 上海協立社は順調だったのですか。
高橋 会社は小さいのですが、日系の油圧機器メーカーとしてしっかりした技術を持ち、売上の50%を油圧機器で占めます。中国国内はもとよりフランス、スペイン、オランダの会社と取引しています。現在従業員は私を入れて28人です。ピーク時は60人もいましたが、数年後に危惧される中国経済の鈍化傾向を見越して拡大基調を抑えています。少数精鋭の今の方が60人時代より売上も利益も多いですね。中国には外注工場が非常に少ないので、農村部で工場経営を行いたい人に経営のやり方と機械設備の導入方法や加工方法を教えて、100%仕事を発注しています。付加価値の低い粗引き加工は外注工場に出し、精度の高い仕上げ加工だけを社内で行っています。
坂寄 中国への進出は順風満帆と言えますね
高橋 「小さく生んで大きく育てる」を基本に活動してきました。最初、上海協立で製造した部品は100%日本の協立に輸出していましたが、設備償却が大きいため、設立後8年間は赤字でした。転機は1998年の日本の金融危機でした。日本の協立が不況で仕事を発注できなくなり、協立以外のお客様の開拓を始めました。日系や米国の油機メーカー、近年ではヨーロッパのメーカーとも取引を拡大し、業績が拡大してきました。20年間操業を続けられ、利益も出てきたことは成功といえます。しかし一番の成功といえるのは私自身への教育です。文化の違う外国で、一人で考え行動して来た事が、困難なことにぶつかっても自分自身で切り開く行動と考え方がより身についたと思います。2月に上海に行き、2031年までの営業許可の延長申請が受理されました。これからが成功といえるように頑張って行きたいと思っています。