半年以上遅れてしまったが、茨城県経営者協会の新年号の寄稿を掲載する。
建設機械の代表的な機種である油圧ショベルは世界需要の半分を中国が占める。昨年前半、4年に渡る不況に底打ち感が出てきた。8月頃から対前年同月比で増加に転じ、11月に入っても改善が続いている。今回の長い不況は2008年のリーマンショック後に60兆円の財政支出を実施し、世界経済を支えた中国が、そのリバウンドで需要の減少、過剰在庫、腐敗撲滅運動による工事の未着工等々が長い不況の要因と考えられる。特に地方政府の資金不足が影響したと云われている。昨年、新規国債の発行が、地方政府の仮需の借り換えで可能になり、工事再開の需要条件が整ってきたことが回復の要因としてあるようだ。しかし本格的な回復を予想するには4~5月頃の需要状況の様子を見て判断する必要がある。
1989年12月22日の夜、初めて上海の虹橋空港を降り立った。空港内には機関銃を持った人民解放軍の兵士がパトロールしていた。半年前に起きた天安門事件の影響で警戒しているとすぐに分かった。出口に向かって行くと、うす暗い中で目だけが光っている大勢の人達がこちらに視線を向けていた。異様な光景だった。知人二人の顔が見え、安堵したのを覚えている。上海で会社を作って、人を集め、日本語教育を行った後、協立製作所で技能実習を行い、上海に戻して部品を製造し、日本に輸出する。当時の人手不足の解消と海外進出の目的のため、自分の目で見て、肌で感じて、実施の可能性をみたいと思った。
1971年創業者の父と会社の将来を話し合った。当時、東京品川の小さな町工場だった協立製作所は10人足らずの従業員で、1階が工場、2階が住まいで住込みの従業員も数人いた。私は地方に工場を作れば、自分が行くと話した。品川の工場は常に人手不足で、納期を間に合わせるため、両親は従業員が帰ってからも仕事をしていた。これらを解消するため、地方の工場であれば、人手不足を解消できるのではないかと提案した。入社後いかに考えが甘かったかを思い知らされ、後に人手不足解消のために上海進出へと繋がって行くことになるとは、この時思いもよらなかった。
茨城工場に赴任した時は40坪の工場に4名で始まった。それから15年の間に3回の増築で工場は320坪に拡大し、社員は50名を超えていた。80年のバブル時代、人手不足は恒常的に起こっていた。東京でスポーツ新聞に社員募集を出したところ、中国人1名が応募し入社した。この中国人から友達を紹介してもらい、茨城工場に2名の中国人が来ることになった。バブル期後半には中国人や他の外国人だけで30~40名在籍するようになり一時的に人手不足は解消した。同時に発生していたのが、工場スペースの不足だった。土地の用途変更があり、工場の増築は出来ず、深刻な問題へと発展していった。移転できる適当な場所が見つからなかったが、およそ3年で開発行為と建築確認の許可をもらうことが出来た。新工場は経営の決定から4年目で完成した。また同時に活動を開始していたのが、中国に進出し、人手不足解消と工場面積の拡大を行うことである。会社設立の活動を始めてから1年で認可を受け、貸工場の契約も行い準備ができた。中国の会社には最初に茨城にきた中国人2名が設立に参加した。しかしその後さまざまな困難が待ち受けていた。
続きは次の機会で報告したい。
字数が限られていたので、続きは2018年の新年号に掲載予定。