茨城におけるものづくり企業経営史(10)

.石油危機後の企業経営

質問者:話を戻して1970年に茨城に工場を作ったことに関連した質問をさせてください。新工場建設後すぐにオイルショックに直面したわけですが,オイルショック後の経営に,工場建設にともなう投資負担が重くのしかかることはなかったのですか。

高橋:あまり関係なかったです。というのは最初,茨城工場は小さく作りましたので。それほど大きな投資をしていません。最初は東京の本社で稼いだ利益をこちら(茨城)に投資してもらい,こちらで基礎を作りました。そしてこちらで稼いだ利益を再投資するという形で規模を大きくしていきました。

質問者:そうすると,当時,むしろ大変だったのは人集めですか。

高橋:はい。我社が小さいからということもあり,ハローワークから人がほとんど来てくれませんでした。私も30代前半の頃から周辺の高校に行き直接先生にお願いしましたが,なかなか学生を回してくれませんでした。その後も人がなかなか集まらないので,バブル崩壊直後の頃で従業員が7080人でしたが,そのうち外国人が30人くらいいました。主に中国人と,あとはイラン,パキスタン,マレーシア,バングラディシュ出身者です。人が集めやすくなったのはバブルが崩壊してからです。バブル崩壊後に大企業が人を取らなくなってゆくと,だんだん我社にも直接人が来てくれるようになりました。

.経営戦略と企業成長

質問者:次に製品戦略に関する質問ですが,「スプールを特に手がけています」というのと「スプールをはじめとして油圧機器を手がけています」というのでは違うのでしょうか。

高橋:「スプールを・・・」というと,スプールという部品だけ作っているかのようなイメージを与えてしまいます。部品というのは必ずライバル会社が出てきて,もしくはお客さんが自分たちで作るということもあります。これに対して我社が手がけるポンプやバルブは簡単には追随できません。例えばポンプにはベアリングをはじめとして色々な副資材品をいっぱい使います。それらを安定して,しかも安く調達しなくてはいけません。つまり製品を作る技術と,多様な部品を調達する技術の両方が組み合わさらないと,うまくできないのです。もちろん油圧メーカーとか建機メーカーの大手は自分たちで事業部を持っていますのでそれが可能ですが,中小・中堅企業でそこまでできる会社というのは多くありません。我社クラスの会社は日本全国で10社無いのが現状です。

質問者:そうすると,それらの製品を手がけるのは容易ではないけれど,逆にそれを手がけることができれば生き残るための手段にもなるというわけですか。

高橋:そうです。

質問者:御社が工作機械メーカーに機械を発注する際に,御社独自のノウハウなどを取り込んだ形でカスタマイズをお願いし,独自仕様の機械を納品してもらうとのことですが,それですと御社が長年蓄積したノウハウが発注先メーカーに漏れてしまうことはないのですか。

高橋:そうしたノウハウや設計が漏れてしまう可能性はあります。これに対して製造特許によってそれを防ぐという方法が考えられます。ただし我々は隙間産業に属するので,製造特許によって重要なノウハウなどを全部公開してしまうと,逆に模倣されやすくなるというリスクもあります。他社に真似された場合に,どこでどう真似しているのか調べるだけでも大変です。ですから,極力そうした特許戦略によらず,独自のノウハウのなかに閉じ込める形でやっています。

質問者:積極的に特許を取得しないということですか。

高橋:いいえ,我社にも製造特許はいっぱいあります。ただし我社の製品は大量生産ではなく,類似品の少量多品種生産です。そうすると頻繁に機械のセット替え,段取り替えがあります。例えばAというスプールを作り,続いてBというスプールを作る場合にはその都度,刃物が微妙に違うのでセット替えをします。そこで我社ではバーコードが世間に出回り始めた頃ですが,そのバーコードを使って刃物を効率よく交換して,AもBもCもDも全部作れるような工作機械にカスタマイズしました。その時には,工作機械はこの機械メーカーに,バーコードリーダーは別の会社に,その他はこっちの会社にというように分けて発注したこともあります。これらは製造特許を取れるかもしれませんが,取得したからといって今度はそれを管理するのに多くの費用がかかりますし,模倣を立証することは結構難しい場合があります。

質問者:そこらへんはシビアで大変ですね。それでは次の質問ですが,アッセンブルに取り組むことになったきっかけは何だったのでしょうか。

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