茨城におけるものづくり企業経営史(16)

あとがき

このインタビューは2013年に受けた論文である。現在(20192)から振り返ると、2011年は東日本大震災で被災し、工場の復旧に2週間かかり、販売が回復したのは1ヶ月後であったが、中国の60兆円の財政出動により、受注は回復し実質11ヶ月の稼働で創業以来最高の売上高を達成することが出来た。2010年にお客様の増産要請で大型の設備投資を行い2011年に増産体制が整ってきたが、2012年になると中国経済の不透明感から売上高は減少に転じ、底を打ったのは2015年で、過去に経験のない不況に見舞われた。この頃には油圧ショベルの世界需要の半分以上を中国が占めるようになっていた。

インタビューを受けた年の心境は、もうすぐ受注の減少は止まり、翌年から回復に向かうと考えていた。しかしこの見通しの甘さが協立製作所の経営に大きな打撃を与えた。深刻な業界動向を分析し2013年下期から事業の再構築に着手したが、2015年の売上高は2011年度比40%ダウンを余儀なくされた。協立製作所にとってリーマンショックのときは、業績の落ち込みは大きかったが、1年半で回復が始まった。賢く切り抜けることが出来たと自負していたが、2012年から2015年の4年間は過去にない、受注の落ち込みは大きくその期間も長かった。企業経営の危機であった。

企業の生き残りを図るために、非常事態を宣言し経営改革プロジェクトを立ち上げた。製造部は3チーム、生産技術部チーム、生産管理チーム、品質保証チーム、調達チーム、総務部チームの8チームで、毎週1回の定例活動報告会を3年間に渡り行った。20162月頃に受注の下げ止りが実感でき、8月頃になると若干上向きになり10月頃には回復の足取りが、明確になってきた。そこで先手を打って人員の募集を行うことにした。しかし作業者が集まらない。茨城県の有効求人倍率は1.3倍に迫っていた。それから右肩上がりで2019年には茨城県の有効求人倍率が1.63倍になっていた。我々建機の油圧機器業界が長い低迷の期間、働き手は他の業種に移動してしまった。少子高齢化による生産年齢人口の減少が進んでいることもあり、新卒者を募集してもハローワークに募集を出しても集まらない。そこでやむなく派遣会社から外国人を集めるようにした。2016年当時、ネパール人の派遣が多かった。首都カトマンズの大地震により、多くのネパール人が難民ビザで日本に入ってきた。多い時はネパール人だけで約50人、他に日系人、ベトナム人を合わせると100人を超える時もあった。

当然、生産現場から不満が続出した。将来、生産年齢人口が確実に減少する日本を考えると、日本人だけでの企業活動は困難であると社員と話し合いそして説得した。2016年後半になると急激な受注の回復が鮮明になってきた。現場の作業者不足による納期遅れの多発、納期遅れによる運送費の増加、派遣社員の作業の未習熟による生産性の低下、残業時間の制限、入国管理法改定による難民ビザの延長が困難になり、作業の習熟度が増してきたネパール人の帰国、働き方改革による残業時間の制限、同一労働同一賃金による派遣社員の時間給の大幅値上げ等経営を圧迫する多くの困難に立ち向かわなければならなかった。我々の現場で使用している設備はコンピュータで制御されるNC旋盤・NC複合旋盤・マシニングセンター・NC研削盤、熱処理の炉もコンピュータで制御されている。これらの高度な設備を扱うことの出来る社員は限られている。従って派遣会社からの人は単純作業になってくる。その中で高度作業に興味を示し、操作できる人には一定の期間をおいて正社員に登用した。

いち早く外国人の派遣社員を入れることにより、約1年で生産の安定を見ることが出来た。2008年にベトナム人の工学部出身者5名を直接雇用した。東日本大震災後4名が帰国したが、1名が残っていたので、彼を先生役にし、現在(2019年)はベトナム人の実習生、ベトナム人工学部出身の直接雇用、日系人と多様性に富んだ人員構成になっている。

今振り返ると「茨城におけるものづくり企業経営史」のテーマで、筑波大学人文社会系の平沢教授からお話しをいただいたとき、ものづくり企業の現状をお伝えしたい気持ちが強く、お受けすることにした。今年、先生の論文が「ニッチトップ型中小企業の地方移転と国内・海外事業展開 株式会社協立製作所の事例分析」が正式に筑波大学で承認され「国際日本研究」12号に掲載されました。本論文は「つくばリポジトリ」に登録・公開され、PDFでも入手可能との事です。

平沢先生ありがとうございました。

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