東海道五十三次旅日記 12日目5/6木曜日 亀山宿出発
朝4時に起床し、いつも通り前日に買ったお握りとパン、そして野菜ジュースを飲み準備した。今日は関宿、坂下宿、土山宿、水口宿、そして石部宿の「甲西アートホテル」まで43kmの旅だ。ホテルを5時に出て、しばらくすると、山間に高速道路が見えてきた。高速道路の名前は分からないが、だんだん近づいていくと、橋脚の側壁に歌川広重の東海道五十三次の浮世絵が両側に八つ描いてあった。大きさは縦2m横3mくらいだろうか。人もほとんど通らない場所によく描いたと感心しながら、更に歩いて関宿に入った。関宿は1601年に徳川幕府が宿駅制度を定めた際、東海道五十三次で四十七番目の宿場となり、問屋場や陣屋なども整備された。鈴鹿峠を控えた東海道の重要な駅として、また伊勢別街道や大和街道の分岐点として江戸時代を通して繁栄したと云う。町に入ると江戸時代にタイムスリップしたような錯覚にとらわれるほど感動的だった。東西約2kmに渡って江戸時代の町屋が並ぶ関宿は、1984年、国の伝統的建造物群保存地区に指定され、街道に面した電線も取り除かれ、かつての関宿にたどり着いた旅人が、鈴鹿を背景に目にしたのと同じ光景が再現されている。道の両側には連子格子の家並みが続くが、商家も商売によって作りが違う。
遊郭などは二階屋の格子戸など、かつて歴史小説や時代劇を読んでいたころ、本を読みながら想像していた通りだった。更に歩みを進めると銀行や郵便局の看板が目に入った。百五銀行と郵便局の建物も町並みに溶け込んでいる。私は百五銀行を知らなかったので、調べてみると明治11年旧津藩(藤堂氏)の武士たちにより、国立銀行条例に基づく第百五国立銀行として設立され、140年以上の歴史を持つと云う。町並みに溶け込んだ銀行をこの時代まで継続していることに感動した。さらに歩みを進めていくと、町並みの出口に織田信孝卿を祭った菩提寺である
「福蔵寺」の入口に石碑があった。ガイド本に記されていなかったので、歴史好きの私にとって感動した。織田信孝は織田信長の三男で、後に伊勢国北部を支配していた豪族神戸氏の養子となってこれを継いだため、神戸信孝とも名乗った。本能寺の変で父信長が討たれた後、織田家の跡目争いで豊臣秀吉に敗れ、26歳の若さで安養寺において自害したという。