中山道六十九次旅日記(6) 

3日目(4月11日)月曜日

5時起床し、6時にホテルを出発した。今日の予定は安中宿を過ぎ、松井田宿寄りに位置する「ビジネスホテル宝泉」だ。約39kmの行程、到着時間は午後3時の予定だ。日程表を作るとき、出来るだけ碓氷峠手前まで行こうと計画した。昼過ぎには碓氷峠のゴールともいえる熊野神社に到着したいからだ。そのために初日50km2日目は49kmと無理な距離の計画を立てた。3日目は松井田宿まで41kmを計画したが、松井田宿近郊に宿泊する旅館がない。松井田駅から5km10kmの距離に温泉旅館があるが、それでは45km50kmを歩くことになる。3日続けて50kmを歩くのは、自分の現在の体力では無謀だ。最初の難所の碓氷峠を無事に超えることができない。昨年の東海道五十三次を歩いた時も箱根の旧道を越えて、芦ノ湖で宿泊し、体力の温存を図るか、そのまま三島宿まで行くか悩んだ。そのため出発前に46kmの歩行を6回行い、自信をつけた。そして三島宿までいくことにした。箱根は標高約850m、碓氷峠は標高1200mだ。体力温存のため、松井田宿手前に見つけたのがビジネスホテル宝泉だ。周辺の状況を確認することなく、予約を入れた。これがのちに行程を変更するほどのアクシデントになるとは思いもよらなかった。

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今日の予定は本庄宿を出発し、新町宿、倉賀野宿、板鼻宿、安中宿を通って、早い時間にホテルに入り足の疲れを取る予定だ。天気予報では気温が12~26℃と高くなるのが心配だ。出発して順調に旧中山道に入り、金鑚神社を右手に見て、462号線を陸橋で渡り、しばらく歩くと左手に浅間山古(せんげんやまこふん)の案内板があり、赤い鳥居があった。

245-3.jpgこの古墳は前方後円墳で、国の史跡に指定されている。関東地方で太田天神山古墳、舟塚山古墳に次ぐ第3位の規模で、4世紀末から5世紀初頭の築造と云われている。次に神流川の神流橋を目指した。を渡ると神流川古戦場の碑があった。神流川の戦いは、天10616158275日)から6月19日にかけて、織田信長が本能寺の変によって敗死したのち、織田方の滝川一益と北条氏北条氏邦が武蔵国賀美郡周辺で争った戦いで、戦国時代を通じ関東地方で最も大きな野戦と云われている。
245-4.jpg北条軍5万、滝川方の上州軍1万6千で戦ったと云う。かつて歴史小説を読み漁っていたが、この戦いは初めて知った。滝川一益は近江国甲賀郡の生まれで、織田氏の宿老の一人で、織田信長に従い天下統一の事業に貢献した人物だ。この時の時刻は7時半を回っていた。

次の宿場町の新町宿は中山道が開かれた後に落合
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町と笛木新町が合併してできた宿場町で、明治天皇が北陸・東海巡幸の際、宿泊所として新築した屋敷が保存されているという。見学せず、次の倉賀野宿に向った。関越自動車道の高架をくぐって鳥川堤のサイクリングロードへ上がり、鳥川にかかる柳瀬橋を渡り、間もなく岩鼻町の交差点を左折し、高崎線を横断した。倉賀野宿の東の入口に入ると、文化11(1814年)に建立された常夜灯と道標、閻魔堂があり、ここ倉賀野追分は中山道と日光幣使街道の分岐点になる。町並みは脇本陣須賀家の連子格子の古い家など古い建物が所々に残っていた。右手には高崎線の倉賀野駅が見える。その先の右手には群馬県指定史跡の安楽寺と異形板碑があった。
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倉賀野は中山道の十二番目の宿場で大変栄えていたが、鉄道が敷設されると衰退てしまった。安楽寺の御本尊は七仏薬師如来であるが、古墳の中にある仏様で大変珍しいお寺、 古墳は七世紀末頃に建てられたと云われている。高崎宿まではほぼ一本道で、途中に若木20ほどで道路の南側だけだが、倉賀野松並木が復元されていた。

次に向った高崎宿は商業が盛んな城下町で、本陣・脇本陣は既になかった。高崎は今や大都会だが、乾櫓やお堀を残す高崎城址、鍛冶町、鞘町など城下町ならではの町名に昔日をしのぶことが出来る。市内に入って上越新幹線の高架をくぐり、上信電鉄の踏切を渡り、左手に南高崎駅を見て、高崎市内中心に入っていった。通行人は閑散としていたが、歩道は綺麗に整備されていた。高崎駅前通りの交差点にファミレスがあったので、12時前だが、昼食をとることにした。気温が高かったので、少し疲れた。ランチを頼みアイスコーヒーをお代わりして、大腿筋前部を伸ばすため、靴を脱ぎ正座して45分ほど休憩した。足の疲れが和らいだが、腰に違和感がある。次に進む旧中山道のチェックポイントは君が代橋、板鼻宿の鷹之巣橋、松井田宿手前のホテルだ。

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ファミレスを後にして本町3丁目を左折し、しばらくすると鳥川にかかる「君が代橋」が見えた。橋の手前端に鳥川の「君が代橋」親柱の記念碑があった。明治11年に明治天皇が北陸東海行幸のとき、馬車で木橋を渡られたことを記念して命名されたと云う。この「君が代橋」の親柱は昭和6年に木橋から鋼橋にかけ替えられた時のもので、昭和52年よ10年の歳月をかけて、三層構造のインターチェンジが建設され、「君が代橋」も新たに架け替えられたため、ここに移設されたと記してあった。この「君が代橋」からは赤城、榛名の山々が一望できるはずの日は春霞ではっきり見ることが出来なかった。

245-9.jpgのサムネール画像このまま真直ぐに行くと信州街道を行くが、左に折れると旧中山道に進む。案内板に少林だるま寺直進2㎞、直進小諸、安中とあった。今から200年前天明3年に浅間の大噴火など天変地異が多く起こり大飢饉となった。この惨状を見かね、少林寺達磨寺の東獄和尚は農民の困窮を見かねて、寺に伝わっていただるまの絵より木型を起こし、農民の副業として張り子の達磨の作り方をおしえた。現在も高崎の達磨として全国に名が知られ、板鼻の町にも達磨工房が多くみられると云う。

この上豊岡はダルマ工房が多いせいか、街道沿いに達磨のニュメントが多数あった。周りの山々を見ながら、

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碓氷川沿いの道路(国道18号線)を歩き、板鼻下町を真直ぐ進み、板鼻宿に入った。本陣跡の碑と共に皇女和宮資料館が目に入った。この建物は、板鼻宿本陣に付属した書院で、建設年代は2説ある。

。公武合体運動により皇女和宮親子内親王(1846年~1877年、孝明天皇の妹)が第十四代将軍徳川家茂(1846年~1866年)に降嫁するため、中山道を京都から江戸への下向途次、文久元年(1861年)十一月十日に一夜を     
この書院で過されたと云う。幕末の小説には必ずと言って良いほど公武合体のため、皇女和の降嫁の話
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出てくる。小説のお陰でる程度の知識はあったので、京都に向かう各宿場町の本陣に皇女和宮の足跡をたどれると思うと楽しみだ。同時に改めて幕末の中山道に思いを馳せて歩くことの感慨がわいてくる。チェックポイントの碓氷川の鷹之巣橋に着いた。安中駅までもう少しだ。南側に碓氷川、北側に九十九川(つくもかわ)が流れる安中の町は高台に位置する。街道の沓掛から先の地名と木曽街道の地名はあまり知識がないので、友人に勧められた浅田次郎」と島崎藤村の「夜明け前」を読んで地理と地名を覚えるようにした。その物語の中で、「一路」の主人公が窮地に陥った時、安中藩・藩主板倉勝明の助けを借りて、参勤交代の江戸到着遅参の書状を事前に幕府役人に渡さないとお家の取り潰しに合う。江戸まで期限に間に合うように、藩士3名に命じて約100kmを一夜で走っていく。それも3人縦列で先頭がが風よけになり、一定の間隔で先頭者は3番目に後退し、2番目が先頭にあがり、3番目が2番目へと上がる。幕末の中山道に思いを馳せて歩くことの感慨がわいてくる。チェックポイントの碓氷川の鷹之巣橋に着いた。安中駅までもう少しだ。南側に碓氷川、北側に九十九川(つくもかわ)が流れる安中の町は高台に位置する。街道の沓掛から先の地名と木曽街道の地名はあまり知識がないので、友人に勧められた浅田次郎の「一路」と島崎藤村の「夜明け前」を読んで地理と地名を覚えるようにした。
その物語の中で、「一路」の主人公が窮地に陥った時、安中藩・藩主板倉勝明の助けを借りて、参勤交代の江戸到着遅参の書状を事前に幕府役人に渡さないと、お家の取り潰しに合う。江戸まで期限に間に合うように、藩士3名に命じて約100kmを一夜で走っていく。それも3人縦列で先頭が風よけになり、一定の間隔で先頭者は3番目に後退し、2番目が先頭に上がり、3番目が2番目へと上がる。順繰りに隊列を入れ替えて、早く走り無事に遅参の書状を届ける描写だ。

その素地にあるのは藩主板倉勝明が安政2年(1855年)に藩士の心身鍛錬のために「安政の遠足(とおあし)」を行った。遠足とはマラソンのことで、碓氷峠の熊野権現まで走らせ、着順を競わせたと云う。今では毎年5月第2日曜の「安政遠足 侍マラソン」に大勢のランナーが参加している。大名小路と名付けられた安中藩士の家が並んでいる道 には、旧安中藩郡奉行役宅、旧安中藩
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武家長屋が保存されていた。その少し先に新島襄旧宅案内板があったが、旧宅の史跡は見ずに、通り過ぎた。新島襄は同志社の創立者で天保14年(1843年)、安中藩の江戸詰め下級藩士の長男として生まれ、国家の改革者、日本の近代化の先導者になったという。
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あと6㎞と少しだ。群馬県立安中総合学園高を左に見て、国道18号線を渡り、安中原市の杉並木を進み、高札場跡の碑と明治天皇小休所の碑を左手にみて進んだ。あと30~40分の所まで来たのだが、歩いている旧中山道沿いは自然がいっぱいでホテルがあるとは思えない。遠く先を見ても同じだ。ナビでホテルすぐ近くに来たが、安中工業団地の大きな看板があるだけで、工場も相当先にあるようで目視できなかった。ホテルに電話して道を聞くと道路から少し下がった所にそれらしいところがあった。周りにコンビニも商店も何もない。困った。とりあえずチェックインした。到着時間は午後3時の処、45分オーバーの3時45分だった。風呂に入り着替えてから、1日の行動を確認した。歩数計での数字は約40㎞58,535歩を要した。6時に夕食を取るため、食堂に行った。中年夫婦が二人で経営しているビジネスホテルだ。野菜と肉料理で種類も多く美味しかった。部屋に戻り、翌日の日程の確認を行った。初日に日本橋から浦和宿まで一緒に歩いた田部井さんからメールが来て、4日目の碓氷峠を同行したい旨のメールだった。もちろん快諾した。また、友人である大橋さんとは日本橋を出発する前から、横川駅で合流し、碓氷峠を越えて軽井沢までいこうと計画した。しかし困ったことが起きた。朝食時間は6時30分からだ。私は6時に出発しないと横川駅待ち合わせ時間8時03分に間に合わない。朝食はコンビニで購入しようと考えたが、宿の人がホテルの周辺にコンビニはないと言う。おにぎりは用意出来るが、飲み物の自動販売機がない。近くに商店もないという。横川駅まで約9.1㎞約2時間だ。水がないと途中でへばってしまう。やむを得ず計画を変更して、7時30分にタクシーを予約して横川駅に行くことにした。計画段階の失敗だ。





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