4日目(4月12日)火曜日
6時に起床し、変更した今日の計画を確認した。 6時30分に朝食、7時30分にタクシーを予約、横川駅に7時50分到着、電車の到着時間は8時03分の予定だ。早速、朝食をとるため、食堂に行くと既に10人位の人達が作業服姿で食事をとっていた。
安中工業団地で仕事に来ている人達だ。準備を終えて、ロビーで待っていると、時間通りにタクシーが来た。タクシーの中で、大橋さんから予定通り横川駅着の電車に乗ったとメールが来た。大橋さんの提案で、中山道69次を歩いて旅をするのだから、今後、メールの文言はタクシーは早駕籠、電車は早馬との呼び名を変え
今日の予定は、松井田宿を早駕籠で通過し、横川駅で待ち合わせし、坂本宿、碓氷峠の旧道を登り、熊野神社から軽井沢宿に下り、沓掛宿と追分宿の中間にある宿泊地「あさぎり荘」までだ。 確認して間もなく7時45分に到着した。やはり早駕籠は早い。ここ横川駅は街道の面影が残り、峠の釜飯で有名な荻野屋がある。定刻通り横川駅に電車が入ってきて、大橋さん、田部井さんが下りてきた。田部井さんは初めて25㎞を浦和宿まで歩いたとは思えない程、元気な様子だ。サァー出発だ。旧道に入ると、ここは坂本宿だ。
私も続こうとしたとき、地元の人が、熊が出るから、鈴をつけたほうが良いとアドバイスがあった。私は持っていなかったが、大橋さんが持っているようだ。2人を追いかけるようにいくと、安中遠足入口の立看板があったので、この道に間違いないとホットした。いきなり急な上り坂が続き、難儀した。道は狭く整備されていないので、歩きにくい。慎重に歩かないと捻挫する恐れがある。珍しい景観の岩石あった。柱状節理といい、火成岩の冷却、固結するとき、亀裂が生じ、自然に四角または六角の柱状に割れたものであると記されてあった。
先頭は大橋さん、2番目に田部井さん、そして私が 3番目、横川駅からおよそ1時間半、刎石の覗きと云われる場所に着いた。しばし休憩を取り大橋さんと記念写真、背景に坂本宿が一望のもとに見える。しばらく整備されたハイキングコースが続くとガイド本にあるが、前半の急な坂道を登ったため、体力を消耗した。息切れもする。前を行く2人は早い。私は疲れてくると後ろから大きな声で「小休止」と何度か叫んだ。休憩後、すぐに「四軒茶屋跡」の看板が目に入った。このような峠の奥深い所に、かつて茶屋があったとは驚きだ。刎石山の頂上で昔ここに四軒の茶屋があった屋敷跡である。今でも屋敷跡が残っている(力餅、わらび餅などが名物であった) と記されてあった。現在では誰一人としてすれ違う人はいないが、四軒も茶屋があり、石垣跡の大きさから往時が偲ばれる。
寛文2年(1662)には十三軒の立場茶屋ができ、 寺もあって茶屋本陣には上段の間が二か所あったという。
明治の頃、小学校もできたが、現在は屋敷跡、墓の石塔、畑跡が残っている。山中学校跡は「明治十一年、明治天皇ご巡幸の時、児童が二十五人いたので、二十五円の奨学金の下附があり、供奉官から十円の寄付」があったという。このような厳しい街道を、明治天皇のご巡幸があったことも驚きだが、 小学校まであり、運営していたことに、再度驚いた。
旧校舎を過ぎて間もなく先頭の大橋さんが立ち止まっている。静かにするようにと後ろを向いて、止まるように両手を挙げていた。近づいてみると大きなニホンカモシカがうずくまっている。体長1.5m以上はある。30秒ほど立ち止まって様子を見ていたが、こちらを見ているだけで、動く気配がなかった。我々3人は静かに通り過ぎた。熊でなくてよかった。横川駅を出発して3時間を過ぎ、 11時40分頃だった。最後の熊野神社まで、2㎞の標識があった。あともう少しだ。最後の山中坂の長い登り坂の頂上に行けば、ゴールともいえる熊野神社に到着する。熊野神社は群馬県と長野県の県境に建てられてあり、神社の真ん中に境界があり、神社の宮司さんは群馬県側と長野県側にそれぞれ二人滞在している。12時半に到着。
名物の力餅を楽しみにしていたが、無情にも休業の旗が風になびいていた。田部井さんの提案で旧軽井沢に美味しい蕎麦屋があるとのこと。旧軽井沢に向って下り坂を下って行った。この辺りは熊野神社に参拝者のために道は舗装されていた。間もなく旧軽井沢の繁華街にはいろうとしたとき、右手に「日本聖公会
軽井沢ショー記念礼拝堂」の案内板と奥に礼拝堂が見えた。
そこには「カナダ生まれの英国国教会(聖公会)宣教師A・Cショー師が家族を伴い軽井沢で避暑生活を始めたのは1886年(明治19年)、師は毎夏のこの地を訪れ、静思・静養・休養・信仰の場とするとともに、礼拝堂を設けて霊的よりどころとした。現在の礼拝堂は1895年(明治26年)に由緒あるこの地に建てられ、今もなお天地創造の神を賛美し、祈祷、静思、聖書読修の場としてここを訪れるすべての人に開放されている」と記されてあった。軽井沢を現在の避暑地に切り開いたのは、明治時代にこの地を訪れた西洋人だとは知っていたが、宣教師のA・C・ショー(アレクサンダー・クロフト・ショー)師その人である。
初めて知った。学生の頃、テニスの合宿を軽井沢で行い、この地には何度か足を運んだが、メインストリートの奥に行かなかったので、気付かなかった。昼食の蕎麦屋に着いたのは午後1時を過ぎていた。天ざるそばを注文し、冷たい水を立て続けに飲みほした。田部井さんお勧めのそばは美味しかった。
コンビニで水を買い、歩き始めると国道18号線との合流地に中山道沓掛宿の宿場碑があった。ここから国道に入っていく。右手には旧近衛文麿別荘(市村記念館)がみえ、軽井沢中学校を左に曲がり直ぐに右に曲がると旧中山道だ。湯川の灰を渡って、再度国道18号線に合流し、中軽井沢駅前通りを直進する。このあたりも国道と旧道が入り組んでいるので間違えやすい。この中軽井沢駅前の交差点が沓掛宿の中心地である。なごりは旧脇本陣の元・旅館枡谷本店と八十二銀行駐車場の脇本陣蔦屋跡碑、本陣土屋の表札がある民家ぐらいであると云う。「魔の石」と云われる大きな石があった。玉垣明神魔の石の案内によると「昔、神社の前の道端に大きな石があって馬の乗り降りに便利でしたが、利用した人に足を患う人が多くあって、魔の石と呼ばれていた。皇女和宮が徳川へ輿入れの時に患いがあってはと、取り除こうとしたが、大きく重くて動かなかった。後の明治天皇のご巡幸の時にはこの石が簡単に掘り出せた。村人はあまりの不思議さに驚いてこの石を境内に安置して玉垣を巡らせ「玉垣明神としてまつった」」と記されてあった。
その境内とは遠近宮(おちこちのみや)のことである。遠近宮は、「御祭神は磐長姫命。創建は不詳だが、借宿地方開発の当所守護神として奉祀された。「信濃なる浅間の山に立つ煙 遠近人のみやはとがめん」 (伊勢物語)という在原業平作の有名な歌にちなんで名づけられたと思われる。磐長姫命は浅間山の守り神であり、富士山の木花咲耶姫命の姉君であり、特に安産の守護神として御神徳が高い。」といわれている。都育ちで京都のなだらかな山並みを見慣れた業平にとっては、山頂から噴煙をたなびかせる荒々しい浅間山の様子にさぞや驚愕し、畏怖の念を覚えたとのことでした。
ここから10分もしないうちに「あさぎり荘」に着いた。外観は2階建ての少し大きな民家である。チェックインし、部屋に落ち着いたのは15時40分予定より、10分の遅れだった。今日の歩いた距離は歩数計によると31㎞、35,686歩だった。碓氷峠の山道を歩いたので、シューズがひどく汚れていた。玄関の洗い場で汚れを落とし、玄関で乾燥させてもらった。風呂に入り、リラックス。
2階の部屋から見える浅間山を見ながら、