4時に起床したが、前日50km近く歩き、気温も4月初旬としては高く、疲労がたまっている。その上、腰に違和感があり心配だ。30分入念にストレッチを行い、ホテルを6時に出発した。今日は42kmを歩き、到着 時は15時の予定だ。コンビニでおにぎり、パンと水を買い、歩きながら食事をした。
広い敷地内には信州真田藩祖の信之(幸村の兄)の三男、真田信重と母の小松姫のお墓が並んで建立されていた。小松姫は本田忠勝の娘で家康の養女になり真田信之に嫁ぎ、1620年2月24日に没したと碑文に記してあった。当山に深く帰依した信之の二女松姫がここ勝願寺に分骨造塔したという。
真田家は戦国時代から江戸初期にかけて、甲斐国の武田信玄の家臣となった地方領主で、領主の真田昌幸は長男の信之は徳川方に、次男の信繁(幸村)は豊臣方に出仕させ、信之は家康の重臣本田忠勝の娘小松姫と結婚した。30代のころ徳川家康や太閤記の小説を読み、幸村が大阪城の出城真田丸を作り、東軍を大いに苦しめたこと、信之が弟と敵味方に分かれて戦い、どちらが勝っても負けても真田家が生き残る戦略をとった。そして信之の直系の子孫が、現在、愛知淑徳大学教授の真田幸光氏だ。
私は真田教授の東アジア地域経済や国際金融市場のメカニズムの話を聴くのが好きなので、今回の旧中山道の旅で、ここ勝願寺に真田家ゆかりのお墓を発見して、うれしくなった。 歩いて旅をする小さな喜びだ。しばらく立ち止まっていた。 気が付くと、朝起きた時の腰の張が和らいでた。足の調子もよい。箕田観音堂、氷川八幡神社を順調に通り過ぎ、吹上駅を左手に見て、吹上神社に着いた。この神社は吹上夏まつりでおなじみの吹上神社だ。年越しから年始三が日にかけては地域の人や、吹上駅から徒歩5分とアクセスが良いことから電車で初詣に訪れる参拝客でにぎわいを見せていると云う。吹上神社を後にして荒川堤「久下の長土手」に入った。右手に桜の花が少し散っていたが、心が和む。菜の花の黄色がきれいだ。単調な長い土手を歩くには心地よい。
気持ちよく歩いておいたが遠くに大きな赤い橋が見える。
絵地図を見ても進行方向に大きな橋などないのだ。川(荒川)を渡って、間違いがはっきりした。なぜか真直ぐ行くところを左折して、荒川を渡ってしまった。橋の名前を見ると久下橋と書いてあった。なぜ間違ったかわからない。元の道に戻るのが嫌なので、前に進むためにナビで熊谷宿を目指して行くことにした。なるべくナビを使わず、旧中山道の絵地図だけを見ていこうとしたのが、失敗の原因だった。結局大きく迂回して荒川大橋を渡り、熊谷宿に入った。この荒川大橋が遠くに見えた橋だった。熊谷駅手前を右に曲がり、八木橋百貨店に行くところ、ロスタイムが大きかったので、先を急ぐことにした。旧中山道の両側にあった百貨店を統合した結果、八木橋百貨店の中に旧中山道が通っている。テレビの番組を見て、一度現地に行ってみたかった。残念だが仕方ない。昼食は街道沿いの「とんでん」で刺身盛り合わせご飯セットを注文した。休息と本庄宿までの道順を確認し、深谷宿を目指して出発した。国道17号線を通り、熊谷警察署の前を過ぎてからY字路を斜め左に曲がり、旧中山道に入った。宮塚古墳通りを突っ切ると国道17号線に合流し、少し歩いて斜め右に進むと旧中山道だ。新道と旧道が折り重なるようになっている。旧道を忠実に進むときに間違えやすい。2時間ほどで旧深谷宿の東の常夜燈が歴史を物語るように立っていた。この常夜燈は東の常夜燈で、西の常夜燈の区間約1.7kmが深谷宿である。江戸時代中山道深谷宿の東と西の入口に建てられ、旅人の便が図られた。高さ約4mで、中山道筋で最大級の常夜燈であると云う。唐沢川を渡り、旧道沿いに龍宮神社、岡部藩主阿部家歴代の墓碑がある源勝院、普済寺そして小山川にかかる滝岡橋を渡って本庄宿に入った。本庄宿は中山道の中でも有数の大きな宿場町で、江戸時代末期には本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠70軒、人口4,554人を数えたと云う。徳川氏の家臣小笠原信嶺が城主となるが、関ヶ原の戦い後、移封され、廃城となり江戸幕府領となって、宿場町、商人町として発展したと云う。朝は8時頃から半袖のシャツに着かえるくらいの気温だったが、午後から一段と気温が上昇し、本庄宿までにペットボトル4本、途中のコンビニで休憩を取りながら、冷たいアイスコーヒーを2杯飲んだ。脱水症状には気を付けて、多くの水分を補給したが、トイレにはいかなくて済むくらい汗をかいた。ホテルに着く直前午後4時ガソリンスタンドに大きな温度計があった。なんと27℃。この暑さだと足が前に進まないのは無理もないと思った。