9日目(4月17日)日曜日
旧中山道は定勝寺から岩出観音、茶屋本陣跡、天長院、大桑駅まで、山側方向に遠回りになっているので、今回は待合せ時間に間に合わせるため、国道19号線で大桑駅前を通るルートを選んだ。
大橋さんと合流し、三留野宿、妻籠宿、馬籠宿まで、一緒に行き、大橋さんは馬籠宿からバスに乗り中津川から名古屋に出る。早速、三留野宿に向けて出発した。約5.7㎞の道のりは木曽川沿いを歩く道のりだ。柿其橋から「南寝覚」と呼ばれるきれいな渓谷が見える。
右手に木曽川、左手に中央本線が走る街道を2㎞位進んだ時、左手に「与川」の文字が目にはいり驚いた。 昨年末に友人から、中山道を行くには参勤交代を描いた杉田次郎作「一路」が、参考になるとアドバイスされた。木曽街道についての知見に疎いので、 地名や物語にまつわる出来事を読みながら、歩いて旅をするイメージを膨らませた。
「一路」は美濃地方の旗本の参勤交代を描いた小説だ。その中で、どうしても想像できないのが、与川の氾濫で足止めになった時の描写だ。小説といっても杉田次郎氏の対談集を読むと、作者自身が現地を訪問し、時代考証もしっかりしていると感じた。参勤交代で妻籠宿を出発したが、嵐にあい上流が氾濫し木曽川支流の与川から、木曽川に激流となって行列を襲う描写があった。 この描写で家来の身を守るために、激流の与川に縄を張って、行列が持っている全ての荷物類を放棄し、身軽になり、縄に掴まって与川を渡った。
翌朝早く福島宿の関所を通ろうとしたが、宿役人は前日の嵐で与川を渡れるはずがないと思い、荷物を放棄するのは参勤交代の法度に背いていると詰問した。参勤交代の御供頭が、荷物は全て放棄して、江戸到着の時刻に間に合うように来たので、福島宿の関所を通過させるよう要求し、何とか通過していった。
宿役人が荷物を放棄した場所に行くと、御供頭の報告通り大小の荷物が河原に散らばってあった。宿役人はすべての荷物を拾い集め参勤交代の行列に追いつき、渡したというくだりだ。現地の与川を見たとき、与川の川幅(3m位)は狭いが、急斜面から水が落ちるので、激流になり、川幅の広い木曽川に流れ込んでいく。木曽川の河原は広く、白い大きな石があるので、荷物が石と石の間に挟まって、激流が止まれば、拾い上げることが出来ると納得がいった。幕末の参勤交代の大変さを感じながら、三留野宿に入った。
三留野宿はかつて妻籠と並ぶくらいに栄えた宿場だったが、明治十四年(1881)の大火で町並みの大部分を消失したと云う。およそ20分進んだところに上久保一里塚の案内板があった。南木曽町の町内には、十二兼・金知屋(かなちや)・上久保・下り谷の四か所に一里塚があったが、現在原型をとどめているのはこの上久保一里塚だけで、江戸から数えて78番目の塚である。少し進むと妻籠宿への道標があった。案内通り右の街道を進んでいくことにした。この先を右に曲がり10分ほど寄り道をしていくと妻籠城址がある。典型的な山城で、これから行く妻籠の街並みが見渡せると云う。
妻籠城は室町中期に築城され、天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いの折、ここも戦場となり木曽義昌の家臣山村良勝が籠って、徳川家康配下の菅沼・保科らの軍勢を退けた。また慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの時も、軍勢が入ってここを固めたが、元和二年(1616)には廃城になったという。ここ妻籠峠の道は整備され、歩きやすい。所々に旧中山道の道標が立ててあり、旧道を歩く人への配慮がうれしい。
大きな岩が目に留まった。鯉ヶ岩という。信濃道中記に鯉ヶ岩は、名の如く大きな鯉の形をした大岩であったが、明治二十四年美濃の大地震で移動したため、形が変わったと云う。すぐ近くに妻籠宿の北側に位置する古い住宅があった。
脇本陣、高札場、本陣、人馬会所、水車小屋、枡形、常夜燈などが忠実に保存・復元されている。保存より開発の方が優先と考えられていた昭和46年、「妻籠宿を守る住民憲章」には、建物などを「売らない」「貸さない」「壊さない」の三原則がうたわれ、忠実に守られてきた。脇本陣奥谷は歴史資料館となっているが、代々脇本陣・問屋(といや)を務めたのが林家(屋号が奥谷)の建物で、総檜造りになっている。またここは島崎藤村の初恋の人、「おふゆさん」の嫁ぎ先でもある。時間は10時半、少しお腹がすいたので、妻籠宿にある五平餅の看板が掲げてある店に入り、一皿食べた。
その先には一石栃白木改番所跡、一石栃立場茶屋跡があった。すると峠を歩いて、初めて案内人を先頭に10人前後の集団とすれ違った。馬籠宿から妻籠宿に向うと言っていた。70歳前後の男女で女性が多いように見えた。さらに足を進めると馬籠峠の頂上に着いた。標高は790m、ここからは下りで、いよいよ木曽街道で一番有名な馬籠宿だ。馬籠宿は眼下に美濃の国を眺望できる絶好の場所に位置するが、曇りで今にも雨が降りそうな天気で見ることは出来なかった。
馬籠宿は山の斜面にあるため風通しがよく、幾度か火災に見舞われたという。とくに明治28年(1895)の大火ではほとんどが消失してしまい、今ある家並みはその後復元されたものだという。両側には飲食店や土産物屋があり町並み保存に力を入れ、また月日を得たことで、馬籠は宿場町ならではの風情を醸し出している。
馬籠宿の名が全国に広まったのは、島崎藤村の幕末から明治の激動の時代を描いた「夜明け前」だ。私はこの旧中山道六十九次の歩き旅を思い立ってから、古地図や歩いて旅する本を買って、計画を作ろうとしたが、木曽街道の地理に疎い。今回、木曽街道二人旅を提案した大橋さんが、島崎藤村の「夜明け前を」進めてくれた。この本の第一部が木曾街道十一宿を理解する上で役に立った。主人公の青山半蔵は島崎藤村の実の父で、この小説を書くきっかけになったのは、詳細を極めた叔父の日記を発見したからだ。時代考証を加えて、執筆したので、小説での登場人物はモデルがいる。
今回の中山道六十九次の歩き旅で、一番行きたい場所の一つだった。馬籠宿で蕎麦と五平餅を食した。妻籠宿で食べた五平餅と味も形も違う。
馬籠宿に藤村記念館に「夜明け前」の重要な資料になった代々の古文書など多数展示されているという。空模様が怪しい。雨が降ってきそうだ。見学したいが、残念だ。記念館で大橋さんと分かれ、落合宿、中津川宿、そして宿泊地の大井宿に向う。約20㎞の道のりだ。別れてからすぐに島崎本陣(藤村の生家)があった。「夜明け前の」の主人公青山半蔵の記念碑もあった。馬籠城跡の説明の木板があった。
そこには戦国時代の馬籠は武田信玄の領地となるが、武田氏滅亡後、織田信長の時代を経て、豊臣秀吉傘下の木曽義昌が納めた。天正十二年(1584)三月、豊臣秀吉・徳川家康の両軍は小牧山に対峙した。秀吉は徳川軍の攻め上ることを防ぐため、木曽義昌に木曽路防衛を命じた。義昌は兵三百を送って山村良勝に妻籠城を固めさせた。馬籠城は島村重通(島崎藤村の祖)が警備をした。
天正十二年九月、徳川家康は飯田の菅沼定利・高遠の保科正直・諏訪の諏訪頼忠らに木曽攻略を命じ、三軍は妻籠城を攻め、その一部は馬籠に攻め入り、馬籠の北に陣地を構えた。その後、関ヶ原の戦いで天下を制した家康は、木曽を直轄領としていたが、元和元年(1615)尾州徳川義直の領地となり、以後戦火のないまま馬籠城は姿を消したという。
雨が降りそうな空模様なので、歩く速さを上げ、次の落合宿に向う。正岡子規の句碑が立つ子規公園があった。
病弱であった正岡子規が中山道で句を詠んで、この地で後世に残したことに敬意を表したい。さらに急いでいくと美濃と信濃の国境の石碑を見つけた。長年の風雨に耐えて、石は傷んでいるが、文字ははっきりと判別することが出来る。木曽十一宿の終点だ。雨が降ってきた。さらに強く降ってきた。
雨宿りが出来るところを探して進んでいくと、大きな公園があり、休憩所があった。びしょ濡れになった下着、シャツを着替え、靴下も取り換えた。30~40分しても雨の強さは変わらない。現在午後3時を過ぎ。
330年ほど前、江戸から北へ向かった松尾芭蕉も「奥の細道」の中で困った時の親切は忘れないと記している。中津川駅のホームに入ったところ、後ろから声をかけられた。大橋さんだ。藤村記念館で別れた後、バスを待っていたが、タクシーが来たので、乗車し、運転手に旧中山道を歩いて落合宿に行く友人を追いかけてくれと頼んだが、私の姿を見つけられなかった。ちょうど落合石畳マレットゴルフ場の待合室にいたころだ。再開を喜ぶとともに再度の別れをした。
中津川駅から電車に乗り、恵那駅に16時頃に到着。駅からタクシーで「ホテルルートイン恵那」に行った。チェックインして部屋に入り、濡れた下着、シャツ、靴下を洗濯し、乾燥させてから18時頃、近くのレストランで食事をとった。歩数は46,125歩を数えた。本来なら、格式の高い本陣が見ものだと云われている落合宿を通り、木曽路と美濃路の接点と云われる中津川宿に行く予定だ。中津川宿には、中山道歴史資料館に、桂小五郎の中津川会談をはじめ幕末騒乱に関する文書や、和宮降嫁の行列や水戸天狗党の往来の様子など、多くの資料を展示しているという。幕末から明治時代の歴史が好きな私にとって一番行きたい場所であった。大井宿までは多少舗装されているが、古い街並みや野仏などはほぼ昔の面影をとどめているという。大井宿は恵那市街の一部で、昔の面影を残す建物も多くあるという。中山道広重美術館には歌川広重の「木曽街道六十九次之内」「東海道五十三次之内」「京都名所之内」など、主に広重と中山道をテーマとして展示しているという。