6日目(4月14日)木曜日
昨夜は翌日の天気予報を確認してから、9時に就寝した。朝から小雨が降っている。朝食は6時30分、出発前に天気予報を確認したが、やはり雨だ。女将さんに万が一大雨で前に進めなくなったら、どのようにしたらよいか尋ねた。女将さんから「その時は自分に連絡をしてくれれば、車で迎えに行く」と言って、携帯の番号を教えてくれた。
雨足が強いのに、無理をして和田峠の旧道を登って行くと、途中で迎えに来てと、云われても旧道に車は入れないので、遭難してしまうと言われた。これで安心、準備完了。雨具を着て7時15分に民宿を出た。民宿の裏手にある大門川沿いに歩き旧道に同流する。旧道は大和橋手前から左に曲がって、大門川を渡り、続けて依田川の橋を渡り、142号線に合流した。
これから雨が強くなることを考えて、旧中山道を通らずに、歩きやすい142号線で行くことにした。1時間半ほどして信定寺の木柱が目に入った。そこには幕末に非業の死を遂げた人物「佐久間象山先生の師」が刻まれていた。信定寺は戦国時代の武田信玄が信濃を攻め、城主大井信定は討ち死に、その菩提を弔うため天文22年に建立された。その後江戸時代14代住職活紋禅師は幕末の士、佐久間象山の師と仰がれ、その徳を慕うもの千余人、佐久間承山と一体一で世界情勢を語っていたという。佐久間承山は「東洋の道徳と西洋の科学技術、この両者について究めつくしこれによって民衆の生活に益し、ひいては国恩に報いる」と説いたが、元治元年(1864)7月にその言動は西洋かぶれに見られ、攘夷派に暗殺された。
その志は勝海舟や、河合継之助、坂本龍馬ら多くの門弟たちに引き継がれた。ちなみに正室は勝海舟の妹である。歩いての旅でないとこのような木柱を発見することは出来ない。車では通り過ぎてしまう。小雨の中、先を急ぐのでお寺を見ることはしなかった。
女将さんがハイキングコースと云っていたが、緩やかな長い登り坂は雨具を着けた身としては、結構きつい。旧中山道は集落があるところだ。142号線から見ると集落がよくわかる。周りは山に囲まれ、小さな田んぼもあったが、142号線が出来て旧宿場町がさびれているのだ。 142号線から見ると集落がよくわかる。周りは山に囲まれ、小さな田んぼもあったが、142号線が出来て旧宿場町がさびれているのだ。道路は山と山の間を延々と上が って行く。和田宿は出桁(だしげた)造り、出格子の家が連なっている。和田宿は交通の便が悪いところにあるため、貴重な歴史的遺産が多く残っているという。和田宿ステーションの標識が目に入る。標高は820mとある。和田峠は1600mこの先の男女倉口から和田峠の旧道に入っていく。ようやく鍛冶足(かじあし)を通過。
登り口を目指して、いけるところまで行き、ダメであればこのまま142号線で下諏訪に行こうと考えた。歩き始めると間もなく雨足がどんどん強くなる。行きかうトラック、乗用車は途切れることなく走っていたので、ヒッチハイカーのように手を挙げて試してみたがダメだった。
ずぶぬれになっている姿を見れば、車が汚れるので、乗せたいと思う人はいない。仕方ない。決断して民宿みやの女将さんに電話をし、状況を説明したところ、迎えに来てくれるという。場所を教えたが、雨宿りをするところがない。142号線男女倉入口で姿がすぐ見えるように立ったままの状態で待った。
4月とはいえ、気温が下がっている。少し寒くなって きた。打たれながらおよそ20分、車が来てくれた。
女将さんはまだ仕事が残っているので、民宿に帰るとのこと。その間和田宿本陣の記念館で観光をして、待ってほしいと言われた。11時過ぎに和田宿本陣前でおろしてもらった。
門をくぐって、中に入ると受付があり共通観覧券を300円で購入した。この本陣は皇女和宮が休息したと云われている。
昔のかまどや土間があり懐かしい。お客は一人もいなかったので、受付の人に断って、びしょ濡れになった下着、靴下、Tシャツを脱ぎ、取り換えた。寒さが和らいだ。荷物を整えてから本陣内を見学した。幕末の和田宿の様子を写した写真が何枚も有る。写真を撮ったが額のガラスに反射してうまく取れなかった。ほかにも国の史跡として、歴史資料館かわちや、羽田野、大黒屋などがある。男女倉口の少し先になるが、永代人馬施工所(和田峠接待)も記されていた。脇本陣の所で待っていたら、およそ1時間半後に女将さんが迎えに来てくれた。次の下諏訪宿に向う車中で、短い時間だが、会話を楽しんだ。
まもなく下諏訪駅に到着した。どのくらいのお礼をすればよいのか、率直に尋ねた。困ったときの親切はお金で表すことは出来ないが、私は言われた金額の倍のお礼をお渡しした。女将さんに何度もお礼を言って、記念写真を撮って別れた。困っているときの親切は忘れられない。
この時、既に午後1時になっていた。駅前の喫茶店で食事をとり、雨が止むのを待っていた。下諏訪宿は中山道と甲州街道の合流地だ。
交通の要衝で軍事上の要衝地でもあった。諏訪神社下社の門前町、さらに当時は中山道で唯一温泉が湧く宿場であったという。
和田峠から下って行くと諏訪大社下社春宮への分岐点に出るので、街道筋の老舗の旅館「鉄鉱泉本館」に宿泊することにした。2時半頃、雨も小降りになり、旅館の入館時間にまだ時間があるので諏訪大社に行った。
鳥居を過ぎると、樹齢600年ともいわれる大きな杉の木があり、左右に青銅製の狛犬の彫像があった。神様に雅楽や舞を奉納し、祈願を行う神楽殿がある。
正面に飾られる大きな注連縄は長さ13m、出雲大社型では日本一の長さと云われている。その奥に参拝者が参拝したり、神職が祭祀を行ったりする幣拝殿があり、さらにその奥に御祭神である建御名方神と妃神・八坂刀売神の御霊代を祭ってある宝殿がある。その宝殿の四隅に一の御柱(おんばしら)、二の御柱、三の御柱そして四の御柱が宝殿を守っている。御柱は寅年と申年の7年に一度行われる御柱祭で社殿の四隅に建てられる樅の巨木のことである。大きなもので長さ17m、重さ10tを越え、山中から人力のみで神社まで運ばれ、建て替えられるという。さらに奥に行くと、「さざれ石」を見つけた。実際に「さざれ石」を見るのは初めてだ。「さざれ石」の木柱には「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」の歌が詠まれおり、意味は君が代は日本国民の永久の幸せを祈る歌であり、国歌である。
平安時代前期に発見されたさざれ石は石灰が雨水に溶解され粘着力の強い乳状液となり何千年何万年もの間に小粒な意思を凝結して次第に大きな巌となり苔むしてくる石であると記されてあった。
話には聞いていたが、見るのは初めてだ。予定にない見学で、新しい発見が幾つもできた。また雨が降り出してきたので、老舗の旅館「鉄鉱泉本館」にチェックインした。女将さんから近くにコインランドリーがあると言われたので、傘を借りて濡れた下着、靴下、雨具などを持って行った。コインランドリーに着いた時、老眼鏡を忘れたことに気が付いた。中の照明は暗く裸眼では見えない。困っていたら、後から娘さんが入ってきたので、恥も外聞もなく使い方を聞いた。すると娘さんは「ここにお金を入れてこのボタンを押せばよい」と云った。
あまりにも簡単なので、お礼を言った後、苦笑いしてしまった。私はコインランドリーに入るのは初めてなのだ。椅子が置いてあったので、洗濯と乾燥が終わるのを待っていた。その間に翌日の天気予報を確認し、計画通りに歩いていくか考えていた。旅館に戻り、温泉に入った。日本橋から25℃を超える日が三日続いたので、背中にリュックサックが密着しているせいで、あせもが出来たみたいだ。
温泉に入ると背中のかゆみが取れていくのを感じた。すっかり気に行って夜2回、翌朝早く2回入った。夕食は7時半からと云われていたので、食堂に行った。席数は15~16席あるが、宿泊客は私一人だという。女将さんは私と同じくらいの年齢か少し上かもしれない。客は私ひとりだったので、食事中、女将が給仕と話し相手になってくれた。私は女将と雑談しているうちに、ふと幕末の相楽惣三の名前が浮かんだ。
私が下諏訪と云うと「幕末に京から相楽惣三率いる赤報隊が幕府を攻撃するために、通過したところですよね」と話をしたら、女将は相楽の名を知っていたのに、びっくりして下諏訪宿の活性化のために下諏訪ゆかりの人物を発掘して、下諏訪新聞に記事を載せているとのこと。しかしその歴史の中では、新政府軍の悪いところを一身に受けた人物の記憶だった。女将は下諏訪に伝わる話や下諏訪新聞を見せ、ゆかりの人物の話をした。下諏訪新聞には、「下ノ諏訪宿三大大騒動」の見出し記事があり、その一は皇女和宮の降嫁、その二は相楽惣三率いる赤報隊、その三に水戸天狗党の話があった。
その三は下諏訪を震え上がらせた天狗党で、元治元年(1864)に水戸藩の尊攘派は藩主徳川斉昭らの藩政改革に登場した軽輩武士を中核とする急進派で、この中心となったのは武田耕雲斎、藤田小四郎らで天狗党と呼ばれ攘夷延期を不満として、筑波山で挙兵した。天狗党は京都に上り、斉昭公の子一橋慶喜に嘆願し朝廷に訴え、攘夷を実行してもらう目的で大挙西上した。その一行は千余人、京を目指して佐久の内山峠から信州に入り、中山道を和田峠に向ってきた。これに対して高島・松本両藩は幕命を受け、これを樋橋で迎え撃ったのが11月20日だった。高島藩・松本藩の連合軍は千余人が動員された。主要武器は初歩の大砲十門ずつと猟銃が少し、あとは弓、槍刀が主要武器として使われた。半日の戦で浪士軍10余、高島・松本両藩6人の戦死者があったという。浪士たちは戦没者をここに埋めていったが、高島藩は塚を作って祀った。碑には、当時水戸に照会して得た6柱だけ刻まれている。明治維新を前にして尊い人柱であったと記されている。天狗党は馬籠宿を越えて、美濃の国に入った頃、尾張藩主の説得もあり、また冬の行軍で脱落者が相次ぎ、疲弊していたことから、越前の福井藩に身柄を預けられ、2か月後に全員処刑されたという。なぜ水戸天狗党が、11月20日で戦いを行ったか条件が悪すぎる。中山道に行くまで、水戸から旧50号線を筑西、小山、足利を通って高崎に入り、碓氷峠、和田峠を越えてからの戦では、1日当たり25㎞行軍するとして、10日で行くことが出来るが、途中軍資金不足により栃木で強奪する事件を起こしたので、更に2,3日は要する。11月20日の天候は夜になると氷点下近くになる。このような悪条件で出発すれば、峠の多い中山道では兵は疲弊し、難航を極めただろう。この後も調査したいと思う。