12日目(4月20日)水曜日
朝、4時に起床。天気予報は晴れ、降水確率は少ない。昨日寝ながら考えて、大垣から赤坂宿に向い、旧中山道に入ることにした。赤坂宿、垂井宿、関ヶ原宿、今須宿、柏原宿、醒井宿、番場宿、鳥居本宿の行程だ。鳥居本宿では宿泊施設が見つからないので、約2.5㎞離れた東海道新幹線「彦根駅」近くのコンフォート彦根に泊まることにした。約40㎞の道のりだ。この彦根で友人の松本さんと合流し、翌日、守山宿までの約40㎞を一緒に歩く計画だ。7時に出発し、大垣から赤坂宿まで5㎞、18号線を進んでいき、21号線を突っ切り417号線にでて、養老鉄道を越え、赤坂宿本陣跡に着いたのは、8時頃だった。
赤坂宿は、かつて中山道六十九次の57番目の宿場町として栄え、東西に連なる町筋には、本陣・脇本陣をはじめ旅籠屋17軒と商家が軒を並べ、美濃国の
宿場町として繁盛していた。現在もその古い建造物や数多くの史跡が残っており、谷汲街道・養老街道が通って、その道標が分岐点である四ツ辻にある。赤坂本陣公園(本陣跡)は敷地約800坪、建坪239坪、岐阜県では中津川に次いで2番目に大きい本陣だという。皇女和宮も宿泊したが、現在は建物もなく、公園として整備されている。公園内には幕末の青年志士、所郁太郎の功績を顕彰した銅像や皇女和宮を偲ぶ顕彰碑がある銅像の所郁太郎を見て昔読んだ本の中で、名前があったのを思い出した。この赤坂宿で生まれ、幕末、 医師でありながら長州藩の尊王思想の大義を唱え、高杉晋作らと供に遊撃隊の軍監を務めた。将来を嘱望されたが、若くして27歳で病没した人物だ。歩いて旅をしていると名所旧跡で昔の記憶がよみがえることが度々ある。街道風情が漂う町を通り過ぎると、大名等が宿場に入る際、宿役人や名主が出迎えた場所である御使者場跡碑があった。その少し先に白髭神社を過ぎた直後に、思いもよらない標柱が目にはいった。それは「照手姫の水汲み井戸」だ.
なぜかというと私の住まいである筑西市(旧協和町)では毎年12月に小栗判官祭のパレードが行われ、小栗判官には芸能人が馬に乗り、照手姫はミス協和が、そして地元の有志が槍や刀を持っての武者行列だ。旧協和町に引っ越してきた48年前、小栗判官の物語を知らなかったので、興味を示さず一度も見に行ったことがなかった。突然、照手姫の名前が目にはいったので驚いた。その標柱には「昔、武蔵・相模の郡代横山将監に女の子が生まれ、照手姫(てるてひめ)と名付けられ成長し、目の覚めるような美人と言うことで世間の評判になった。その話を聞いた常陸の国(茨城県) の国司小栗判官正清は、使者も立てず強引に婿入りしてしまった。
そのため、父親の将監が大変怒り、小栗判官に毒の入った酒を飲ませ殺してしまいました。照手姫は深く悲しみ、あてのない旅に出て、あちこちさまよい青墓の長者「よろづ屋」に買われることになった。長者は、その美貌で客を取らせようとしたが、照手姫は拒み通した。怒った長者は「一度に百頭の馬にかいばをやれ」、「籠で水を汲め」、「十六人分の炊事を毎日一人でやれ」などと、無理な仕事を言いつけた。照手姫は、毎日毎日、泣き泣き仕事を続け
たが、日頃信仰していた千住観音菩薩の助けで、普通の人間には出来そうにないことを成し遂げることが出来た。一方、毒手に倒れた小栗判官正清は、熊野の湯につかって蘇り、二条大納言兼家の許しを得て都に戻り、朝廷から美濃国を治める役人に任命された。その後、照手姫が青墓にいることを知り、妻として迎え、二人は末永く幸せに暮らしたということです。」と記されてあった。この井戸は籠で水を汲んだと伝えられている。お墓は100m先の園願寺(お寺は消失)境内にあるとのこと。この小栗判官と照手姫の悲恋物語は歌舞伎の演目にもあるとのことだ。昔協和町に居を構えてから地元の歴史を知らなかったことを恥じるばかりだ。確かに旧協和町の小栗に、小栗城跡がある。この城主がモデルともいわれている。
「小篠竹(こしのだけ)の塚」の標柱に「青墓(あおはか)に昔照手姫という遊女ありこの墓なりぞ 照手姫は東海道藤沢にも出せり その頃両人ありし候や詳ならず」(木曽路名所図絵より)、また和歌が詠まれてあった。「一夜見し 人の情けにたちかえる 心に残る 青墓の里」慈円(天台宗座主、愚管理抄の作者)。お墓の前で手を合わせた。大分時間を取ってしまった。先を急ぐ。青野一里塚跡の常夜灯をあとに、垂井宿に入った。垂井宿は美濃路の追分を控えた交通の要衝として栄え、芭蕉の足跡が感じられる宿場町だ。垂井駅がすぐ近くだ。顧客の垂井工場がすぐ近くにある。いつも垂井の駅からタクシーで行くので、景色がまるで違う。宿場の中ほどには南宮大社大鳥居が道路を跨いでいる。鳥居を少し南に入ると、地名の起こり
とされる垂井の泉が湧いているという。街道に戻り進むと右に本龍寺がある。当時の住職は芭蕉と親交が深く、裏手に芭蕉句碑が立つという。垂井一里塚は、南側の一基だけがほぼ完全に残っており、旅人にとっては人夫や馬を借りるのに、里程を知り、駄賃を定める目安となっていたという。またこの地は関ヶ原の戦いで浅野幸長の陣地で、五奉行の一人であった浅野長政の嫡男で、甲斐国府中十六万石の領主であった。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、その先鋒を務め、岐阜城を攻略した。本戦ではこの辺りに陣を構え、南宮山に拠る毛利秀元ら西軍に備えた。戦後、紀伊国和歌山三十七万六千石を与えられた。さらに進み関ヶ原町に入った。
関ヶ原宿は宿場町としてよりも関ケ原合戦の地としての知名度が勝っている。北国脇往還と伊勢街道の分岐点にあたり西に今須峠を控えていたため、多くの旅人で賑わったが、繁栄ぶりをしのぶ史跡はない。足を進めていくと、旧中山道松並木があった。
美濃路ではここしか残っていない貴重な松並木だという。次に目にはいったのは徳川家康最初の
陣地だ。ここから西軍の陣地が一望できる。左側奥の山から西軍の宇喜田秀家、写真の中央辺りが 開戦地、その左が南天満山、右に北天満山、その手前に小西行長、右隣に島津義弘の陣があった。ここから徳川家康最後の陣跡まで2.4㎞ある。最後の陣まで30分あれば、決戦の地に到着する。関ヶ原の戦いのイメージが具体性をおびて想像できた。
最後の陣地まで行くと遠回りになるので、関ヶ原の町中を通り過ぎた。関ヶ原古戦場西首塚の跡碑に出会った。街道から少し離れるが、手前に東首塚がある。西首塚を過ぎてから旧中山道に入ると
京極・藤堂高虎陣跡、福島正則陣跡、少し進むと不破関跡がある。この関は東海道の伊勢鈴鹿の関、北陸道の越前愛発関と共に、古代律令制化の三関の一つとして、壬申の乱(672年)後に設けられたとされている。不破関資料館に着いたのは、12時ちょうどだった。休憩所があったので、おにぎり2個、バナナ2本とお茶で昼食を取った。途中、所郁太郎、照手姫、関ヶ原の名所で大分時間がとられた。10分程で昼食を済ませ、出発してまもなく、川を渡った。この川は伊吹山麓に源を発し、関所の傍を流れていることから、関の藤川(藤古川)と呼ばれ、壬申の乱(672)では、両軍がこの川を挟んで開戦した。さらに関ヶ原合戦では、大谷吉継が上流右岸に布陣するなど、この辺りは軍
事上要害の地とのこと。間の宿山中高札場跡を通り過ぎ、東海道新幹線の高架下をくぐると、その少し先に常磐御前の墓があった。常磐御前は源義経の生母だ。このような所に墓があるとは知らなかった。墓の標柱にある関ヶ原町の説明では「常磐御前は都一の美女と言われ、十六歳で義朝の愛妾となった常磐御前。源義朝が平治の乱で敗退すると、敵将清盛の威嚇で常磐は今若、乙若、牛若の三児と分かれ、一時期は清盛の愛妾にもなります。伝説では東国に走った牛若の行方を案じ、乳母の千種と跡を追って来た常磐は、土賊に襲われて息を引き取ります。哀れに思った山中の里人が、ここに葬り塚を築いたと伝えられている。」ここで手を合わせ、故人を偲んだ。今須宿に向う。今須宿は今須峠を越えた美濃路最後の宿だ。今須峠の頂上は山中の常磐塚あたりの登り口より約1,000mの道のりで、一条兼良はこの峠で、「堅城と見えたり、一夫関に当たれば万夫すぎがたき所というべし」(藤川記)と認めたように、この付近きっての険要の地と言われている。今須には宿場時代の面影はあまりなく、本陣跡の先の問屋場跡や常夜灯が当時の史跡を伝える数少ない史跡だという。江戸時代、人や馬の継ぎ立てなど行った問屋が、当宿には一時七件もあって全国的にも珍しいとのこと。
美濃十六宿のうちで、当時のまま現存し、その偉容を今に伝えているのはここ山崎家のみで、永楽通宝の軒丸瓦や、広い庭と吹き抜けなどから、当時の繁栄ぶりがうかがえるとのこと。さらに進んで行くと、「奥の細道」芭蕉道の石碑があった。いくつかの碑に俳句が記されてあった。「夕月も 美濃と近江や
閏月」の
句碑があった。芭蕉は中山道を何回も訪れたようだ。今須宿を出るとまもなく美濃と近江の国境にでた。標柱に「左に美濃国、右に近江国」と記されてあり、写真左の堀には、県境の「左側岐阜県 右側滋賀県」となっている。県境を通って柏原宿に向う。
柏原宿は近江路に入って最初の宿場となる。1.4㎞にも及ぶ大きな宿場で、街道筋には古い家屋が表にそれぞれ元の商売を記してある。町の目の前にそびえる伊吹山は古くから薬草の産地として知られたもぐさは灸に使用され、「伊吹もぐさ」として街道名物だったという。
楓並木が続く坂道照手姫笠掛地蔵岐阜県と滋賀県県境 を下って行くと、「照手姫笠掛地蔵と蘇生寺」があった。地蔵堂正面向かって右側、背の低いいかにも古い時代を偲ばせる石地蔵を「照手姫笠掛地蔵」という。
現在はここに祀られているが、元はこれより東、JRの踏切を
越え野瀬坂の上、神明神社鳥居東側平地に在った蘇生寺の本尊
ということから「蘇生寺笠掛地蔵」とも言われているという。中世の仏教説話「小栗判官・照手姫」にまつわる伝承の地とのことだ。東海道線の踏切を渡ると柏原の町並みが見えてくる。
柏原駅を右手に進み、本陣跡、常夜灯、伊吹堂、柏原宿記念館を通り過ぎ、柏原一里塚、小川の関に着いた。長沢にある小川の関跡から昔の街道の面影を残す林道へと入っていく。梓には松並木が残されており、国道を横断して、しばらく国道21号線を歩いて行くと、中山道の大きな石標がある。その先で左の旧道に入ったところ、北畠俱行卿の墓が目にはいった。北畠俱行卿は鎌倉時代に後醍醐天皇に仕え、幕府打倒の謀議に加わったが、笠置城落城の後に幕府方に捕らえられ、この地で斬首されたという。突然、標柱に名前があると、歴史に思いを巡らす。先に進み、醒井宿に入っていく。
醒井宿は「水の町」である。西行水、十王水、居醒(いさめ) の清水という「醒井三水」と言われる湧水を集めた地蔵川が旧中山道に沿って流れている。加茂神社の前にある居醒の清水は醒井の名の由来にもなった湧水で、伊吹山の大蛇(一説には白猪)退治で遭難しかけた 日本武尊(やまとたけるのみこと)がこの清水で熱を冷まし、気分を回復させたという話が伝わっている。
加茂川神社に上れば、町が一望に見渡せるという。地蔵川は、居醒の清水などから湧き出る清水によってできた川で、大変珍しい水中花「梅花藻(バイカモ)」が咲くことで有名だ。十王水は地蔵川の中にあり、平安時代に水源が開かれた名水で、醒井宿には江戸時代に醒井宿を通過する大名や役人に人速や馬を提供した施設が今も残っており、完全な形で復元され、日本遺産に認定されているという。
また春は桜並木、秋は紅葉、冬は雪景色と四季折々に絵になる景色だという。歩いていても綺麗で清々しい町だ。右手に東海道本線の醒井駅がある。季節になると観光客が大勢押し寄せる町だと思う。水路が流れる樋口の集落を通り、樋口の交差点で国道を渡り、北陸自動車道下をくぐった先に久礼一里塚があた。少し先に行くと番場宿の石碑があった。ちょうど16時の通過だ。
番場宿は日本橋から六十二番目の宿場で、摺針峠を控えた細長い宿場だ。番場宿には「○○跡」と書かれた真新しい標柱が随所に立っているが、宿場時代の面影を伝える建物はないという。また、番場は長谷川伸の戯曲「瞼の母」の主人公、番場忠太郎の故郷でも知られている。これから摺針峠(すりはりとうげ)を越えれば、鳥居本宿だ。摺針峠は標高170mで、彦根市の鳥居本宿と米原市の番場の境にある。
旧中山道の難所の一つで、北国街道の分岐点でもあり、中山道の重要な位置にあったという。江戸時代この峠に望湖堂という茶屋が設けられ、峠を行きかう人達は、眼前に広がる琵琶湖の絶景を楽しみながら休憩したと言われて
いたが、1991年火災で焼失したという。摺針峠はさほどきつくはなかった。長い登坂は緩やかだが、両側に古い民家が並び峠越えの雰囲気があり、気分的に楽に歩くことが出来た。今度は急な山道を下るようになってきた。徐々に道幅が狭くなってきたが、目の前に鳥居本宿の町と彦根駅の高い建物が目にはいった。鳥居本宿は街道情緒が色濃く残る町だが、街中は車が多い。ここの名物は胃腸薬・赤玉神教丸という丸薬で、今も販売を続ける建物は200年の歴史を持つという。すぐに8号線沿いに行くと近江鉄道鳥居本駅に着いたのは17時15分だった。この駅は明治時二十八年に彦根から貴生川の区間で開業した。その後、米原間も開業し、同時に鳥居本駅舎も建てられたという。平成八年にはこの駅で184時間に及ぶ世界最長コンサートが開催されギネスブックに登録されたという。
しかしこの宿場では宿泊施設を見つけることが出来なかったので、約2.4㎞先の東海道本線彦根駅東口にある「コンフォートホテル彦根」にした。到着時間17時45分に松本さんがホテルの前で、動画を取りながら出迎えてくれた。遠く離れた地で、再会するのは、うれしいものだ。到着予定時間は2時間半遅れた。街道沿いに旧所・名跡が多く、見学をしたからだ。今日の歩数は58,691歩41㎞の旅だった。部屋で洗濯をして、明日の準備をして、最後にシャワーを浴びてから、ロビーで松本さんと待ち合わせ、夕食を取る店に行った。松本さんはすでに店の下見をしていたので、迷うことなく店に入った。ビールで乾杯、田部井さん、大橋さんとの中山道の歩き旅の話を肴に食事した。松本さんは守山宿までの長距離40㎞は初めてのことで、不安はあるが、初挑戦の期待の方が大きかった。