中山道六十九次旅日記(16)

13日目(4月21日)木曜日

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朝、4時に起床し、天気予報と行程の確認を行い、朝食を取り6時に出発した。今日の行程は高宮宿、愛知川宿、武佐宿、守山宿と4宿を行く。今日は松本さんが同行する。少し肌寒いが、1時間も歩くと体が温まり、ちょうど良い。

宿場町から大きく離れたところに宿を取ると、旧道に出るときに道を間違えやすい。8線にでて右折し、間もなく306号線にでて、2㎞位行くと東海道
255-2.jpg新幹線が見える。その手前528号線を右折すると旧中山道だ。1㎞位行くと芹川を渡る。渡り終えると右側に、大きな常夜灯が目印の石清水神社が目にはいった。この神社には能楽の扇を埋めた扇塚があり、江戸時代井伊藩の手厚い保護を受けた能楽喜多流(北流)は、この地で発展したという。高宮宿に入った。
高宮宿は彦根への玄関口で、天保十四年(1843)の記録では東西800mに本陣1,脇本陣2,旅籠23軒、総戸数835戸、人口3560人と記録され、中山道の武州路の本庄宿などと並ぶ、中山道の有数の大きな宿場で、もともとは多賀大社の門前町として栄えたという。
近江鉄道彦根・多賀大社線を渡ると神社が目にはいった。高宮神社という。高宮神社は明治三年の大洪水で多くの記録が流された
255-3.jpgため、沿革はほとんど残っていない。拝殿と本殿の間には正徳三年(1713)のものと思われる古い石灯籠が残っているだけだ。その先に多賀大社一の鳥居、芭蕉の紙子塚の標柱があり、続いて円照寺、脇本陣跡、本陣跡がある。またここは「高宮上布」と呼ばれた麻織物の問屋町としても賑わったという。高宮布は高宮周辺で産出された麻布のことで、室町時代から貴族や上流階級の贈答品として珍重され、麻布の集積地として栄えたという。少し進むと犬上川に架かる「無賃橋」を渡った。この橋で高宮宿は終わる。無賃橋の両岸には「むちんばし」「天保三年」と彫られた標石が立っていた。彦根藩は高宮宿の有力者に命じて橋を造らせ、当時一般的だった渡り賃を、払わなくても通れる橋にしたことから「むちんばし」と呼ばれるようになったという。
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松本さんの歩みも順調で足の調子も良さそうだ。何気ない話をしながら歩いているとすぐチェックポイントに到着する気がする。時間の流れが変わるかのように。橋を渡り終えると愛知川宿だ。滋賀県は近江商人の故郷として知られているが、愛知川宿も「愛知川商人」と呼ばれる人々により商業の町として栄え、東海道の土山宿に通じる御代参街道の分岐点でもある。無賃橋を渡って松並木が点在する旧道を進むと、「またおいでやす」のモニュメント」に見送られて進む。
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すぐ先の道を左側には、近江鉄道の尼子駅がある。左に唯念寺があり、少し先に近江商人の寄付で建てられたという旧豊郷小学校、間の宿として栄え、旅人で賑わう立場茶屋のあった石畑一里塚があった。
伊藤忠左衛門記念館だ。この記念館は旧中山道歩き旅の計画段階では気が付かなかった。伊藤忠商事、丸紅の創始者・初代伊藤忠兵衛の100回忌を記念して、初代忠兵衛が暮らし、二代忠兵衛が生まれたここ豊郷本家を整備、伊藤忠兵衛記念館と命名して、一般公開している。
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繊維卸から「総合商社」への道を開いた足跡を紹介ししている。この時9時半まだ開館していないので、先を急いだ。江州音頭発祥地の石碑があった。この江州音頭は滋賀県を中心に近畿地方各地で盆踊りとして定着したという。宇曽川に架かる歌詰橋を渡って、進むと愛知川宿の門があり、出迎えているようだ。

八幡神社の鳥居があった。その由緒記によると、太政大臣藤原不比等海公(ふひとたんかいこう)717から727年に建てらたとある。

255-8.jpg見るからに古い神社だ。この辺は道がわかりやすい。愛知川に架かる御幸橋を渡ると、常夜灯があり、少し先に行くと「てんびんの里」と書かれた石柱に、銅像が置かれていた。近江商人は銅像のような格好で近江を本拠に日本全国をまわり、一介の商人から大商人になった。その「近江商人」発祥の地といわれる東近江市五個荘が、今歩いているこの地域だ。
その先に、街道沿いに湧く湖東三名水の一つ「清水鼻の名水」の石碑を後にして、東海道新幹線の高架下を通り過ぎ、           奥石(おいそ)神社を右手に見ながら、旧道に入る。
255-9.jpg奥石神社は織田信長の寄進のより、天正年間に建てられた由緒ある古社とのこと、老蘇の森に囲まれた神社は、繖山(きぬがさやま)を神体とする最も古く原始的・根源的な神社で、安産延寿、狩猟、農耕の神様を祀ってあるという。老蘇の森は田園風景の中にある鬱蒼とした森だ。255-10.jpgのサムネール画像平家物語」をはじめ古くから文学の題材になってきたという。この辺りは、旧道には歩道がないところもあり、左側を歩いていると、後からトラックの風圧で体が引き込まれそうになる。255-11.jpg
右側の道路の端を歩き、車を視認し狭い場所では立ち止まり、車をやり過ごした。奥石神社まで約20㎞を歩いた。松本さんの足の調子も良さそうだ。20㎞以上歩いた経験はないが、問題ないと言っていた。結構歩くのが早く、気を抜くと置いて行かれる。鎌若宮神社、東光寺を通り過ぎ、武佐宿に入る。武佐宿は一本道の小さな宿場町だが、宿場風情を湛えた町並みだ。
牟佐神社、立派な冠木門がある脇本陣跡を見ながら、国道421号線の交差点を渡ると、400年以上前からの商家(大橋家)があり、その先に
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下川家本陣跡がある。建物はないが門と土蔵は当時のものであるという。愛宕山の常夜灯を過ぎ、武佐駅を左手に見て、近江鉄道の踏切を渡ると、すぐに伊庭貞剛誕生地があった。この名前に見覚えがあった。伊庭家は近江守護佐々木家の流れを汲み、弘化四年(1847)この地で生まれ、若くして剣の免許皆伝となり、尊王家に入る。明治になり京都御所警備隊士、大阪裁判所の判事となったが、明治政府に期待を持てず、裁判所を辞し、住友家に入社し、四国別子銅山の煙害の解決に尽力し、住友家総理事に就任するが、58歳の若さですべての職を辞し、石山に「住友勝機園を建て、大正1580歳で生涯を閉じたという。
伊庭貞剛の名前をどのような経緯で知ったのか、思い出せない。西宮町の交差点を左に曲がると、国道8号線にでる。この国道は両側に歩道
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ので、怖くなるほど危険だ。片側に歩道があるが、道が狭くなると歩道が消えて、反対側に歩道があるため、車の往来を見ながら、反対側に渡った。白鳥川を渡り、八幡社の鳥居を過ぎ、右手にある馬淵忠魂公園を斜め右に曲がり、進んで行く。
右手に見える新幹線を横目に、畑に沿って歩いて行く。旧中山道はかつて日野川に渡しがあった。今は渡しの場所もないので、土手を左に回り込むようにして、国道8号線に出て、右折し日野川に架かる横関橋を渡った。渡るとすぐ旧道へ、右に曲がり土手沿いに行くと西横関集落に入り進む。8号線の五差路に出ると、守山宿方面の8号線に合流する。
すぐ善光寺川を渡って、旧道に入り、8号線に同流する。この辺りは国道8号線と旧道が入り組んでいて、古地図をよく見ないと
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間違える。鏡宿跡碑があった。鏡宿は紀州徳川家の定宿だという。旧鏡宿は中世東山道の宿駅で、江戸時代は武佐宿と守山宿の間だが、3里半(14)と長いため、間の宿として栄えたという。T字路を右に進み、すぐ鏡口交差点を左に曲がり、8号と合流する。すると右側に源義経宿泊の館あとの石碑があった。ここは鏡宿本陣跡でもある。そして源義経元服の地と伝わる鏡神社があった。義経は承安4年、源氏の御曹司牛若丸は京の鞍馬で遮那王と称して、ひそかに源氏の再興を志していた。
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鞍馬を抜け出した遮那王は兄頼朝を尋ね、供三名を伴い東下りの途中近江の「鏡の宿」に入り、時の長者「沢弥博(さわやでん)」の屋敷に泊まった。その夜、稚児姿で見つかりやすいのを避けるために元服し、烏帽子屋五郎太夫に源氏の左折れの烏帽子を作らせ、鏡池の石清水を用いて前髪を落とし、元結の侍姿を、池の水に写し元服をしたと伝えられている。鏡神社より西側へ130mの所に池があり、石碑が立っていた。本日の宿泊、野州駅近くの「セントラルホテル野州」は守山宿の大分手前、入り口に近いようだ。あと約6.5㎞の道のりだ。

守山宿は京都から江戸に向う場合(東下り)、「京発ち守山泊まり」が一般的だったと言われ、守山宿は最初の宿場町として賑わっていたという。篠原神社の所を斜め右に旧道へ入って、家棟川を渡る。篠原神社を右手に見ながら、進むと桜生史跡(さくらばさま)公園がある。この公園には6世紀を中心とする甲山古墳、円山古墳、天王山古墳がある。
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特に円山古墳と甲山古墳では、横穴式石室の内部に熊本県阿蘇から産出した凝灰岩をくりぬいた家形石棺や大阪府と奈良県の境に位置する二上山で産出する凝灰岩を用いた石棺があるという。公園を過ぎたころ、右に曲がり新幹線の高架下を進む。ここから旧道を外れ、ナビで目的地に向った。京セラ㈱滋賀野州工場の正門前のホテルが宿泊地だ。ここは京セラの関係者が利用するビジネスホテルのようだ。到着は3時12分、チェックインし、洗濯してからシャワーを浴びた。5時半頃、ホテル近くの居酒屋風の店で食事をした。一日を振り返って、話が弾んだ。松本さんは今年還暦を迎えるという。記憶に残ることをしたい。それは日本橋から生まれ故郷の清水まで、東海道を歩いて行くことだという。後日談だが、5月の連休中に、5日かけて清水到着した。行動力には敬意を表する。守山宿までの道中はお互い一生記憶に残る出来事だ。翌日、私は5時に出発するため、顔を合わすことはないので、ここで分かれた。

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