山陽道・西国街道旅日記 一日目(P9~12/P89)

263-1.jpg一角に「軍神廣瀬中佐亡友展墓記念碑」の石碑があった。経年劣化で字は読みにくい。亡友と云うのは福田久槌という人であると石碑の銅板に記してあり、詳しいことは分からない。明治37年日本海軍は旅順港内の閉塞作戦を実施、軍艦「朝日」の水雷長広瀬武夫は、この決死隊指揮官として二度にわたって出撃したが、散弾に倒れた。37歳であったという。30歳代に司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読み、漢詩を愛し、講道館柔道に熱中し六段、ロシア駐在武官時代ロシア語に熟達、ロシアの子爵令嬢から惚れられた話は有名で、ドラマにもなった。風雲渦巻く明治という時代を太く短く生きた男に一種のあこがれを感じていた。
ここから10分もしないうちに高杉晋作回天義挙碑がある功山寺(こうざんじ)に着いた。時間は830分。
263-2.jpg
功山寺は鎌倉幕府が滅ぶ6年前、1327年に開かれた曹洞宗の寺院で、高杉晋作が挙兵した寺である。境内にある馬上姿の銅像からはわずか80名という少人数で藩に立ち向かった晋作の強い決意がうかがえる。境内を散策すると三吉慎蔵の墓所が目に入った。
263-3.jpgのサムネール画像幕末、寺田屋における坂本龍馬襲撃事件の際、長州藩から護衛として京に入った人物で、坂本龍馬を助け、一緒に薩摩藩邸に逃げ込んだ人物である。この境内で三吉慎蔵お墓があるとは思いもよらなかった。お墓に向って合掌した。263-4.jpgのサムネール画像  



またこの功山寺には、幕末において7人の公家が京都から追放された。俗にいう「七卿落ち」で、うち5人は功山寺に滞在した。ところが第一次長州征伐の結果藩政の実権を握った俗論派は、5人を追放しようと謀った。高杉晋作の騎兵隊クーデターは、これが原因で起こったものである。すぐそばにある下関市立歴史博物館を訪れた。印象的だったのが「下関に集う志高き人々」のパネルだ。                
263-5.jpgのサムネール画像のサムネール画像のサムネール画像
 
こには中山忠光・久坂玄瑞・高杉晋作・平野国臣・中岡慎太郎・坂本龍馬らが街道と海道が交わる下関において、攘夷戦や幕長戦争の最前線で活躍した人々の紹介をしていた。他にも大内氏の滅亡と毛利氏の進出、毛利秀元と長府藩の始まり、幕府側の長州再征軍進発の絵巻物、幕長戦争、小倉藩との小倉戦争の概要、高杉晋作と坂本龍馬の写真や交流のいきさつ、坂本龍馬の使用した飯碗の展示、長府毛利家に仕えた三吉慎蔵の日記など見ごたえのあるものが多かった。263-6.jpgのサムネール画像のサムネール画像のサムネール画像

更に旧道を行く。歩きだすと正面方向に長府毛利邸が見える。長府毛利邸は長府藩14代当主毛利元敏、東京から長府に帰住し、この地を選んで建てた邸宅とのこと。武家屋敷造りの重厚な母屋と白壁に囲まれた日本庭園は、新緑や紅葉の季節に一段と映え、しっとりとした風情を感じさせるという。長府教会を過ぎ、十字路を左に曲がると、古い壁に囲まれた多くの家屋がある通りを進んで行った。しばらく歩くと商店街があり、「乃木さん通り」の標識があった。乃木さんとは長州藩出身で、日露戦争を戦った乃木希典大将のことだ。下関には多くの乃木神社があるが、この通りの近くにも乃木神社がある。また東京赤坂の乃木坂にも乃木神社がある。近くの海岸沿いには工業団地があり、神戸製鋼所やブリヂストンタイヤ工場ある。長府印内町、長府八幡町を過ぎると、左手に山陽本線が見え、線路と並行して進んで行くと山陽本線長府駅まえに着いた。長府駅は旧山陽道沿いにあり、ナビの目的地にすると歩きやすいので、チェックポイントにした。

263-7.jpg

次に向かうのは東行記念館だ。しばらく山陽本線の線路沿いを平行に進み、491号線を横断して、宇部市の西町を通り、東町辺りから左に折れ山陽本線を渡って神田川の神田橋を渡った。予定よりも遅れているので、小月駅手前のコンビニでおにぎり弁当を店内で済ませ、出発した。そのまま491号線を進み、木屋川手前を左に曲がり、木屋川沿いに下関宿から四番目の吉田宿に、午後1時半に到着した。吉田宿は大名の宿泊施設たる本陣も置かれ宿場町として栄えた。この町は赤間ヶ関から厚狭、舟木を経て山口に至る山陽道本街道と、長府方面より藩都萩へ通ずる萩街道の分岐点にあたるため、郡役所にも比すべき役所を置いて厚狭郡             一帯の政治経済に当たっていた。

263-8.jpgのサムネール画像
高杉晋作率いる奇兵隊も駐屯して訓練に励んだゆかりの地とのこと。旧山陽道を少し外れるが、高杉晋作の東行(とうぎょう)記念館(東行庵)に向う。東行記念館は曹洞宗功山寺の末寺で清水山東行庵(せいすいざんとうぎょうあん)と称し、維新の革命児・高杉晋作の零位礼拝堂として明治17年に創建された。初代庵主となったのは、高杉晋作の愛妾おうのである。

晋作の死後、おうのは「梅処(ばいしょ)」と称して晋作の眠るこの地で菩提を弔うことを余生としたと伝えられている。早速記念館の受付で入場券を購入した。

263-9.jpg

受付のおばちゃんが私の身なりを見て、話しかけてきた。どこから来たの、下関から歩いてきたと言ったら、驚いていた。これから晋作のお墓参りをして、15日かけて京都に行くことを話したら、さらにびっくりした表情を浮かべて、お歳は、何処からと質問してきたので、茨城県から新幹線で下関に来て今日が一日目だと話すと、郷土の英雄晋作を我がことのように教えてくれた。晋作は病気療養のため下関から、3日かけてこの地に来たことを昨日のことのように話してくれた。このような地元の人達が晋作の記念館を守っているのだと感じた。

263-10.jpg

靴を脱いで館内に入っていくと、晋作の歴史がわかるように「第一章 藩内における戦い」尊王攘夷を掲げて、長州藩の禁門の変や下関戦争の敗北を受けて、三家老四参謀が死罪、これをきっかけに晋作が起こした功山寺決起は、藩論を変えるきっかけを作り出した。「第二章 幕府との戦い」征長戦争・小倉戦争に勝利し、藩の存亡をかけた戦いで勝利に貢献した。「第三章 病との戦い」では小倉戦争中、体調不良を訴えていた晋作は戦線を離脱し、東行庵で闘病生活に専念した。愛人おうの等が、懸命に看病したが慶応3年(1867年)413日夜半に27歳8ヶ月の生涯を閉じた。

263-11.jpg

当時、日本が欧米列強の植民地にならずに、今日の日本の繁栄の礎を築いた偉人の一人だ。このような人々がこの時代に現れたのは、日本の奇跡だ。有名な晋作の辞世の句「おもしろき おもしろきなく世におもしろく」をかみしめて記念館を後にした。今日の宿泊地厚狭市に向う。近くに司馬遼太郎文学碑や奇兵隊の墓があるが、見学で大分時間を費やしてしまったので、拠るのを断念ししばらく歩くと宇賀山陽線を左に曲がり、埴生口峠を越え、山陽本線を横断して、中村の信号を左に曲がって、広い道路(厚狭・埴生線)の歩道を進んだ。         

263-12.jpg

前場川を渡りしばらく進むと山陽自動車道がみえ、橋脚下を過ぎ、埴生インターチェンジの標識を過ぎて、談合東の信号を左折し、舟木津布田線に入ると、右手には工業団地が見え、しばらく団地沿いに進んで、宿泊地、山陽本線の厚狭(あさ)駅近くホテルに到着した。一日中小雨が降っていたので、雨合羽を着たままでの一日目の旅だった。到着時間午後5時半、41.3km59,044歩。すぐに下着の洗濯、汗を流し、近くの居酒屋で夕食を取り、9時に就寝した。


前の記事へ一覧へ戻る次の記事へ

最近のエントリー

カテゴリ

月別に見る

検索


ページ先頭へ