関戸宿は山陽道の本陣が置かれた宿場町、本陣跡近くには松陰が当地で詠んだ詩を刻んだ碑がある。松陰は安政の大獄によって江戸に護送される際、防長惜別の地である小瀬の渡し場で、歌を詠んだと云われている。
6時50分にこの地を立って、古い家並みを通り過ぎると旧山陽道の道標が建ててあった。このような道標は道を間違えないで済むので、大変ありがたい。小瀬峠の標高は低いのだが、竹林が多くカーブが少なく一直線に上るような道なので結構きつい。朝早いこともあり行きかう人はいなかった。静かな山の中をゆっくり歩いた。
少し先に吉田松陰歌碑があった。長州藩の東端にある岩国・小瀬川は、陸路で旅をする長州藩士にとって、故郷との別れの地であり、帰藩に安堵する地でもあったという。松陰は生涯4度、岩国を通っている。最初22歳の時、江戸遊学に胸躍る旅路だったが、江戸から東北へ行った折に、藩の許可証を持たずに出かけたため、脱藩の罪で帰国命令を受けた。
2度目は再び江戸遊学の許しを受け、舟で江戸を目指す途中、岩国に立ち寄った。3度目の岩国通過は物々しい護送となった。ペリーの黒船による密航を企てたが、失敗し、罪人となって帰藩した。
4度目は日米修好通商条約の調印を批判し、江戸への護送を命じられ、岩国を通過した。小瀬川で、松陰は長州への決別の思いを歌に託した。「夢路にもかへらぬ関を打ち越えて今をかぎりと渡る小瀬川」と読まれ、夢の中でも戻れないという歌の如く、この年10月に松陰は29歳の若さで処刑された。小瀬川にはこの歌の碑がひっそりと佇み、松陰の想いを現在へ伝えている。
松陰歌碑から小瀬川沿いに進み、和木町立和木小学校を過ぎ、大和橋を渡り、長州の役戦跡碑に着いた。到着は8時半だった。跡碑は幕末、江戸幕府は二度に