山陽道・西国街道旅日記 五日目(P27~28/P89)

五日目 4/19水曜日
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5時起床。前日、コンビニで買ったおにぎりで朝食を済ませ、窓の外から夜明けの錦川、錦帯橋の写真を撮った。昨夜治療した右足小指のマメが痛いので、再度消毒液を使い、大きいバンドエイドで小指を巻くように貼り付け、痛みを和らげた。治療に時間がかかったが、予定通り6時に出発した。 


268-2.jpg朝の澄んだ空気を吸い、錦川沿いに進み、錦城橋を通り過ぎたところで、山の頂にある岩国城を仰ぎ見た。岩国城は岩国藩主吉川広家によって、慶長13(1608)に作られた山城で、眼下を流れる錦川を天然の外堀にし、標高約200mの城山に位置しているという。この道は藤生停車場錦帯橋線(岩国道)と長い名前がついていた。約30分で関戸宿にある目的地吉田松陰東遊記念碑に着いた。

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関戸宿は山陽道の本陣が置かれた宿場町、本陣跡近くには松陰が当地で詠んだ詩を刻んだ碑がある。松陰は安政の大獄によって江戸に護送される際、防長惜別の地である小瀬の渡し場で、歌を詠んだと云われている。

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650分にこの地を立って、古い家並みを通り過ぎると旧山陽道の道標が建ててあった。このような道標は道を間違えないで済むので、大変ありがたい。小瀬峠の標高は低いのだが、竹林が多くカーブが少なく一直線に上るような道なので結構きつい。朝早いこともあり行きかう人はいなかった。静かな山の中をゆっくり歩いた。

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右足小指は痛いというより、ジンジンとしびれる感じだが、問題なさそうだ。一本道だが、途中「旧山陽道」の道標があり、道を間違えないことから、この地域を管轄する人たち(岩国市教育委員会)に感謝の気持ちが生まれる。小瀬峠を越えたころ「旧山陽道跡」の案内板があった。
山陽道は大化の改新(645)により都(奈良)から九州大宰府までの官道として整備され、七道中唯一の大路であった。古代には「かげとも(南斜面)のみち」とも呼ばれていた。この道は廿日市市大野大竹市小方を過ぎ、小瀬川を渡って岩国市小瀬に入り、山道を越え岩国市関戸に至る道であった。中世に入り、やや荒廃したが、近世の山陽道は、大阪から下関を経て九州小倉を結ぶ行路で、西国大名の参勤交代等により国内陸路の主要道として利用された。小瀬川の渡し場はここより南東50m付近にあった。」と記してある。
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少し先に吉田松陰歌碑があった。長州藩の東端にある岩国・小瀬川は、陸路で旅をする長州藩士にとって、故郷との別れの地であり、帰藩に安堵する地でもあったという。松陰は生涯4度、岩国を通っている。最初22の時、江戸遊学に胸躍る旅路だったが、江戸から東北へ行った折に、藩の許可証を持たずに出かけたため、脱藩の罪で帰国命令を受けた。

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2度目は再び江戸遊学の許しを受け、舟で江戸を目指す途中、岩国に立ち寄った。3度目の岩国通過は物々しい護送となった。ペリーの黒船による密航を企てたが、失敗し、罪人となって帰藩した。

4度目は日米修好通商条約の調印を批判し、江戸への護送を命じられ、岩国を通過した。小瀬川で、松陰は長州への決別の思いを歌に託した。「夢路にもかへらぬ関を打ち越えて今をかぎりと渡る小瀬川」と読まれ、夢の中でも戻れないという歌の如く、この年10月に松陰は29歳の若さで処刑された。小瀬川にはこの歌の碑がひっそりと佇み、松陰の想いを現在へ伝えている。

松陰歌碑から小瀬川沿いに進み、和木町立和木小学校を過ぎ、大和橋を渡り、長州の役戦跡碑に着いた。到着は8時半だった。跡碑は幕末、江戸幕府は二度に

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