佐波神社へはグーグルナビを使い、6.5km1時間20分の道のりだ。二日続きの雨の中、今日は雨に降られることはないだろう。まだ通勤の車はわずかだ。旧山陽道は標高の低い山が多く、450m前後だという。観光地の道路標識が目に入り、近辺の旧所名跡が分る。佐波神社に着いたのは8時だった。
道を掃除していた人に聞くと、「一里塚なんてものはないよ」と言われてしまった。私の服装を見て質問してきた。旧山陽道を歩いて下関から京都まで歩きながら、街道の歴史を調べていると云うと、幕末に伊藤博文がイギリス留学を中断して、舟でこの富海を経由して下関に行ったとのこと。初耳だ。調べてみると文久3年(1863)イギリスにいた伊藤博文、井上薫は、英米仏蘭の4ヶ国連合艦隊が下関を 攻撃するとの情報に接し、英国留学を中断し
て帰国の途に就いたとのこと、両名は元治元年(1864)6月24日に富海に上陸し、飛舟問屋入本屋磯七の宅で、刀を借り、衣服を着替えて、山口の藩庁へ行き、勝ち目のない戦いを止めるよう説得をしたが、関門海峡の戦いで長州藩は大敗を喫したという。初めてのことを知ることが歩き旅の醍醐味だ。富海本陣跡が目に入った。入口には江戸時代山陽道沿いの、宮市から福川本陣へ向う半宿であり、大名行列の休憩、長崎奉行やオランダ人、日田御用金輸送などの比較的小規模な人数の宿泊に利用されたと記してあった。富海駅から国道2号線を突っ切り、ほぼ並走して椿峠を越えて行った。頂上にはドライブインが2軒あるが、両方とも廃屋になっていた。
椿峠から緩い下りの道を戸田山、赤迫越えを通り、周南市の福川に着いた。福川の本陣・脇本陣は、ともに御茶屋と称して代々福田家がこれを預かるとある。西町にある本陣は表口17間、奥行き14間で門構えのある大規模な屋敷だった。しかし今は門構えだけ残されて、表札は福田で門の奥は福田の住居になっているようだ。午後1時前にファミレスのジョイフルで昼食をとることにした。日替わり定食を注文し、30分の休憩を取り、山崎八幡宮を目指した。30分程歩いて行くと道路沿いに鳥居が見えた。
これが山崎八幡宮の入口である。山崎八幡宮は和銅二年(709)の建立と伝えられる由緒ある神社とのこと。豊作を祈願して山車を坂から突き落とす「本山神事」が有名とのこと。この神事は元禄十五年(1702)徳山藩主の毛利元次が、五穀豊穣を祈願し、奉納したのが始まりと伝わっている。社殿に入りお参りをした。
山崎八幡宮を出ると、「左下関道 右上方道」の石碑があった。上方方向に歩き始め、次のチェックポイント徳山市にある「孝女阿米の碑」に向った。旧山陽道沿いにある徳山駅近くだ。徳山駅は山陽本線、岩徳線、山陽新幹線が通っている大きな街だ。商店街を通っていくと、眼鏡専門店があったので、サングラスを買うことにした。店主に、昨日から目が充血しているので、UVカットのサングラスを買いたいと話し、べっ甲もどきの サングラスにした。店主からどこから来たのかと聞かれ、下関から歩いて来て今日で三日目、京都まで行くと話したら、驚いた表情を浮かべていた。会計を済ませてドアを開けようとしたとき、冷たいオロナミンCを渡された。その場で飲み干し、お礼を言って店をでた。気持ちの良い人だ。
店を出ると間もなく目的地の「孝女阿米の碑」に着いた。こんな近いところにあるとは思いもよらなかった。「孝女阿米の碑」の碑文には寛政三年(1791)現在の周南市(旧徳山市)橋本町に生まれ、6歳の時に母を失い、12歳の時に父が病に伏したため、孝行心の篤い阿米は四六時中、父の看病に尽くし、病状の回復のみに気を配り、孝養を尽くすこと31年に至ったとのこと。阿米さんは62歳で亡くなったが、今も市内の徳応寺には父母の墓と並んで「孝女阿米墓」があり、多くの市民が供養に訪れ、この碑はその功徳を偲ぶ人たちに守られ、今を生きる私たちに「親孝行の大切さ」語り続けているとのこと。碑文の前には花が生けられていた。一昨年両親の七回忌を済ませた自分にとって、改めて親孝行について問うた。
山陽新幹線の橋脚下を通り、左折し花岡宿に行くのが、旧道のルートではあるが、ちょうど良いところに宿泊施設がないので、少しルートの外れた南側の国道2号線沿いにある「サンホテル下松」に泊まることにした。新幹線の橋脚を通り過ぎ、末武川の末武大橋を渡り、およそ20分で「サンホテル下松」に到着した。ここは国道2号線と周南バイパスのインターチェンジにあるビジネスホテルだ。4時50分チェックイン。43.3km、62,225歩の3日目だった。