十二日目 4月26日
水曜日
その近くを進んで行くと旧片島本陣跡の石碑が塀沿いにひっそりと建っていた。片島宿は正條宿と有年宿の間の宿場町で、竜野藩に管理されていたこの宿場には、約80軒の旅籠や茶屋等が、街道沿いに立ち並んでいたという。
当時の建屋は見当たらないが、立ち並ぶ民家は比較的大きいものが多く、宿場町であったであろう雰囲気は残っている。山陽本線竜野駅前を左に見て進んで行くと、明治天皇正條行在所の石碑と正條宿本陣井口家の木柱には「往時の姿をうかがい知ることが出来、明治十八年八月に明治天皇が休憩された御座所が復元されてあった。」と記されていた。
御座所を通り過ぎ、揖保川の堤通りに突き当り、左に曲がると、往時を偲ばせる巨木が立ち並び、「正條の渡し跡」の木柱があった。木柱には「正
正面に大きな橋が見え、国道2号線に合流する。この橋は揖保川の揖保川大橋と云い、橋の長さは目測で400mもある橋だ。この鉄橋の歩道を歩いた。昔は渡し船で川を渡り、西国街道を進んで行くのだが、現在では鉄橋の歩道を渡り、姫路フォークリフト㈱を右に曲がり西国街道に戻り、山陽本線の手前を左に曲がって行く。
しばらくすると「大燈国師誕生の地」の立派な石碑があった。大燈国師とは 鎌倉時代末期の臨済宗の僧で、宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)というが、一般には大燈国師の名前で知られているという。朝廷から興禅大灯と高照正灯の国師号が与えられた高僧で、京都の大徳寺を開山したという。林田川の橋を越え、すぐに右に曲がり、またすぐに左に曲がって行くのが、西国街道だ。しかし林田川の橋手前で合流した道が、旧2号線だった。そのまま直進したため、道を間違えてしまった。戻るのも嫌なので、旧2号線を進むことにした。「ようこそ 聖徳太子ゆかりの地 太子町」の大きな立て看板があった。この場所が聖徳太子とどのように関係するのか知らなかった。太子町は、推古天皇から聖徳太子に与えられた地域だと伝えられ、寺院や武家の荘園として栄えた歴史もあり、古くから交通の要衝として、道が整備されたという。斑鳩寺(いかるがでら)は、約1,400年前に聖衝