山陽道・西国街道旅日記 十五日目(P82~83/P89)

十五日目 4月29日 土曜日

 

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5時起床。天気予報は薄曇り。足の調子は良い。それぞれ朝食を取り、7時出発だ。今日の予定は一乗寺、離宮八幡、正覚寺、寺田屋跡、ゴールの三条大橋だ。ホテルを出て、右に行くと、すぐに171号線にでる、左折し歩道を行く。二人で話しながら、進んで行き、井尻新幹線下の信号を新幹線沿いに進み、高槻上牧駅前郵便局のある交差点を左折し、東海道新幹線高架下を通り、進んで行くと67号線に合流する。

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この67号線が西国街道・丹波街道だ。しかし新西国街道の記述もあり、よく分からない。途中「梶原一里塚跡」の標識があった。この地は旧梶原村の東端に位置し、かつて、榎を植えた一里塚があった。旧芥川宿の芥川一里塚は今も現存しているとのこと。島村駅前の桜井一丁目に着いたのは810分頃だ。駅に隣接する楠の木公園があり、多くの史跡がある。史蹟桜井驛城址、水無瀬駒発祥のまち、楠公父子子別れの石像、楠公父子決別之所、楠公父子訣子之虜碑、桜井駅跡、明治天皇製碑、 楠公六百年祭記念碑等多くの楠公の史跡がある。

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計画段階ではこの楠の木公園の史跡は知らなかった。「楠公父子決児之處碑」は正成を顕彰した明治9(1876)11月に建立された。

296-3.jpgのサムネール画像

題字は大阪府知事渡辺昇の書。裏面には英国公ハリー・S・パークスの英文が刻まれている。楠正成・正行父子桜井の別れは、西国街道の桜井駅で、 楠木正成・正行父子が訣別する逸話である。楠木正成は湊川の戦い 桜井に赴いて戦死し、今生の別れとなった。

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桜井駅の別れ、「太平記」の名場面のひとつで、国語・修身・国史の教科書に必ず載っていた逸話であり、いわゆる戦前教育を受けた者には大変有名な話であったとのこと。「駅」とは宿駅のこと。太平記によると、「桜井の別れ」のあらましは、建武35月(13366月)、九州で劣勢を挽回して山陽道を東上してきた足利尊氏の数十万の軍勢に対し、20分の1ほどの軍勢しか持たない朝廷方は大騒ぎとなった。

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新田義貞を総大将とする朝廷方は兵庫に陣を敷いていたが、今の状況で尊氏方の軍勢を迎撃することは困難なので、尊氏と和睦するか、またはいったん都を捨てて比叡山に上り、空になった都に足利軍を誘い込んだ後、これを兵糧攻めにするべきだと後醍醐帝に進言したが、いずれも聞き入れられなかった。そこで正成は死を覚悟し、湊川の戦場に赴くことになった。その途中、桜井駅にさしかかった頃、正成は数え11歳の嫡子・正行を呼び寄せて「お前を故郷の河内へ帰す」と告げた。「最期まで父上と共に」と懇願する正行に対し、正成は「お前を帰すのは、自分が討死にしたあとのことを考えてのことだ」という。

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楠公六百年祭記念石碑は昭和10516日に多数の参列者と盛大な式典がもたれたという。「明治天皇御製 碑」は昭和6(1931)に建てられた。明治天皇が明治31(1898) 行幸したときに詠んだ歌が刻まれている。石碑の表面が汚れていて読みにくいが、次のように刻まれていた。「子わかれの 松のしつくに袖ぬれて 昔をしのふ さくらゐのさと」。和歌の素養がない自分でも十分に意味が伝わる歌だ。公園の史跡を見ていた私たちに声をかけてきた人がいた。史蹟の保護を担っているボランティアの人で、清掃をしていた60代後半の人だ。私が下関から旧

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