山陽道・西国街道旅日記 十五日目(P84~85/P89)

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十山陽道・西国街道を歩いて、京都に行くところだと話したところ、熱心に聞いてきた。これからどこに行くのか聞かれたので、「旧道沿いにある正覚寺だ」と答えると、「あんなところよりも由緒正しい水無瀬神宮に行った方がよい」とアドバイスしてくれた。あまり熱心に進めるので、旧道から外れるが、水無瀬神宮に行くことにした。後に調べてみると、共同墓地(合祀墓)のお寺・正覚寺と有ったので、「あんなところ」という表現をしたのだと思う。ナビで調べると水無瀬神宮まで15程だ。右手にある粟辻寺を通り過ぎて、次の信号を右に曲がれば、良かったが、直進してしまった。すこし進んで行くと左手に山崎サントリー蒸留所の建物が見えた。ここで初めて道の間違いに気づいた。再度ナビで水無瀬神宮を設定して、目的地に向かった。

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大分遠回りをした。水無瀬神宮の手前に水無瀬駒発祥の地があった。水無瀬駒とは「水無瀬神宮の13代目の宮司を務める水無瀬兼成は、安土桃山時代の公家で、能筆家であった兼成は駒の銘を書き、89歳で亡くなるまで700組以上の将棋駒を制作した。江戸時代には美術的価値の高いものとして重宝された。」とのこと。すぐ隣に水無瀬神宮があった。

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水無瀬神宮では、後鳥羽天皇・土御門天皇・順徳天皇が祭られ、後鳥羽上皇がこの地に水無瀬殿を造営し、水無瀬離宮と称されていたものを、承久の乱で隠岐に流されそこで崩御した後鳥羽上皇の遺勅に基づき、1240年(仁治元年)、藤原信成・親成親子が離宮の旧跡に御影堂を建立し、上皇を祀ったことに始まるとのこと。最初は「法華堂」と称されていたが、室町中期1494年(明応3年)、後土御門天皇から、水無瀬宮の神号を賜ったとのこと。さらに、1873年(明治6年)に官幣中社に、1939年(昭和14年)に官幣大社に列格し、現在の水無瀬神宮と改称したとのこと。

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楠の木公園であった人は、三人の天皇が祀られているので、由緒ある神宮だと言っていたのだ。正面鳥居をくぐると、砂利が敷かれた参道がある。神門に向かって右側に石川五右衛門が、祀られた名刀を盗みに入ろうとして様子を窺っていたが、神威により門内へも入れず、やむなく立ち去ったときに残した手形が残っているというが、金網で守られて見難いので、はっきりと手形だとまでは確認できなかった。水無瀬神宮を後にして、離宮八幡宮へは約20分で到着した。

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離宮八幡宮は、石清水八幡宮の元社にあたり、八幡大神を祭神とする神社で、貞観元年(859年)に清和天皇が、神託により国家安泰のため、宇佐神宮から分霊し平安京の守護神として奉安することとし、その時に九州に使わされた大安寺の僧行教が帰途山崎の津(当時の淀川水運の拠点港)で 神山に霊光を見、その地より石清水の湧いたのを帰京後天皇に奏上したところ、国家鎮護のため清和天皇の勅命により「石清水八幡宮」が建立されたのが始まりとされているとのこと。その後、嵯峨天皇の離宮「河陽(かや)離宮」跡であったので、社名を離宮八幡宮としたという。

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門の右わきに「国家安泰・国土平安祈願所」の大きな木の板に由来のことが記されてあった。また、離宮八幡宮は油の独占で栄えたという。平安時代の後期(貞観年間)となり、津として栄えたこの地の人々の中に、荏胡麻(えごま)の油絞りの道具を考え出した者(離宮八幡宮の神官貞観年間、時の神官が神示を受けたとされる)「長木」という搾油器を発明し荏胡麻油の

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