山陽道・西国街道旅日記 十五日目(P88~89/P89)

製油を始めた。当初はこの道具を使って作られた荏胡麻油は、対岸の石清水八幡宮の灯明用の油として神社仏閣の燈明用油として奉納されていましたが、次第に全国にこの業が広まり、離宮八幡宮は朝廷より「油祖」の名を賜った。そうして、油座として離宮八幡宮は幕府・朝廷の保護の下、大山崎油座として油の専売特許を持ち栄えた。安土桃山~江戸時代には、「西の日光」と呼ばれるほどの壮大な社殿を構え栄華を極めたと言われている。しかし、応仁の乱の勃発により京都で大戦が起きると、離宮八幡宮のある山崎の地にも戦火が及び、戦場となると製油に携わる職人たちは逃亡する事態となった。尾張・美濃の戦国大名であった織田信長が上洛を遂げ、室町幕府を崩壊させたことで、幕 府の禁令に依存していた大山崎の優位が崩壊。大山崎油座の持っていた特権はなくなり、豊臣秀吉による保護もあったが、荏胡麻から油を絞るという作業自体は特に難しい技術を必要とする産業ではなかったため、衰退していった。

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戦国時代の梟雄・斉藤道三がこの荏胡麻の行商で財を成し、槍と鉄砲の稽古をして武芸の達人になり、武士になった。その武芸と才覚で頭角を現し、土岐守護に取り入り、下剋上により一国一城の主になったと云われている。

 山崎駅を通り過ぎ、67号線(西国街道)に戻り、阪急京都線を横断して、東海道新幹線沿いをしばらく進んで行った。茶屋前公園から新幹線と離れて進んで行くと、大山崎の東黒門跡の説明板があった。江戸時代後期までの大山崎は、西国街道に沿って屋敷地が細長く続く集落で、東黒門、西黒門を設け、治安の維持を図っていたとのこと。

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天正十年(1582)の山崎合戦では、羽柴秀吉軍の先鋒高山右近が、東黒門を利用してこの地で陣取りした。門を開けるよう求めた明智光秀の軍と小競り合いとなり、合戦が始まったと言われている。すぐ脇に高瀬川清兵衛の石碑があった。高瀬川清兵衛は、江戸時代後期に活躍した大山崎出身の力士とのこと。引退後も相撲の興行主としても活動した。相撲は勧進行事や神事と密接に関わり、各神社で相撲興行に尽力したことを顕彰して、明治時代前期に建立されたと言われている。松原のT字路を右に曲がると、左側に「大山崎の地蔵道標」があった。478号線・京滋 バイパスの高架下を通り過ぎ、14号線を進んで行き、勝竜寺の信号を右に曲がり名神高速道路高架下を行き、すぐ東海道新幹線高架下を通り、交差点の十字路を新幹線沿いに左に曲がる。

 

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しばらく進んで、再度新幹線の高架下を通り、進行方向新幹線の左側を真直ぐ進んで行く。79号線(伏見柳谷高槻線) を右に曲がり、西羽束師川を渡り、寺田屋跡に向った。大山崎からはナビの案内通りに、寺田屋跡に向ったので、旧道かどうかわからなかった。ナビ通りに進んで行くと、桂川の河川敷に出た。河川敷沿いに行くと直ぐ79号線にでて、右に曲がり桂川の羽束師橋を渡った。渡り終わると「草津みなと鱧街道由来の案内板」があり、すぐ地蔵尊(横大路草津町)を左に曲がり千本通りに入ると、「藤田権十郎・藤田四郎右ェ門邸跡」の石像があった。藤田家は権十郎を名乗り、横大路村の庄屋をつとめるいっぽう、運送業を生業とした家で、現在古民家カフェなども運営している。200m程進むと横大路草津町地蔵尊の信号を右に曲がる。

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東高瀬川の橋を渡り、20分程で、「史跡寺田屋・坂本龍馬先生遭難の跡」に到着したのは、1220分だった。若いころ司馬遼太郎の「龍馬が行く」を何回も読み返した記憶が戻ってくる。現役の時は京都に何回か来ることはあっても、この地に来ることはなかった。今こうして寺田屋の前で写真をとっていることに、感慨を覚える。  


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