こんにちわ。 今回は自己紹介をさせてください。
私は1950年2月に茨城県下館市稲荷町(現筑西市)の借家で産声を上げました。当年59歳です。7歳の時、東京都品川区立平塚小学校に入学し、中学は専修大学付属高校、高校は日大三高、大学は日本大学理工学部精密機械工学科に入学し、昭和47年に卒業しました。中学時代は野球部が無く、やむなくバレーボール部に入り練習に励んでいました。東京オリンピックでは6人制でしたが、中学生の大会では9人制でした。
私は足腰を鍛える為に自宅(品川区東中延)から自転車通学をして 品川区自宅 いました。自宅から環状7号線まで10分、環7から甲州街道の笹塚 まで全力で飛ばして25分、学校まで5分、合計40分ひたすら足腰 の鍛錬の為、3年間通っていました。しかし、どうしても野球がやりた いので、高校生の草野球に入れてもらい、日曜日に練習や試合をし ていました。
そこで私は高校進学に当たり先生・親の反対を押し切って、東京都で名門といわれた日大三高の野球部に入り、甲子園を目指していました。目指しているというよりも野球が大好きだったという方が当たっているかもしれません。しかし、2年に進級する時に文科系か理工系かの選択をしなくてはならず、数学が好きで、国語が特に作文や感想文を書くのが嫌いだったので、理工系を選択しました。当時、理工系を選択すると野球部は辞めなくてはいけませんでした。なぜかというと理工系の勉強と野球部の練習は両立できないとのことでした。私は不満でしたが、野球部の練習が終わって家に帰るのは毎日11時を過ぎていました。食事をして勉強を終わらせると毎日午前2時頃でしたので、大学受験を考えるとやむを得ないと考え、2年生からテニスに転向し、大学に入ってからもテニスを続けました。戦績は関東理工系テニス連盟の大会で3年、4年とダブルスで2年連続ベスト4になったのが最高でした。中学時代の3年間、自転車通学40分、ほぼ全力でペダルをこいで体力をつけたおかげだと思っています。
若い時の趣味は、テニス・野球・スキー・ボーリング・水泳など。大学の時に研究所の助手の方から囲碁を、教授からコントラクトブリッジとお酒の飲み方を教わりました。クラシックギターは1年間通信講座で勉強し、社会に出てからはテニスとスキーを続け、30歳を超えた頃から歴史小説を乱読していました。現在は、ゴルフが大好きでオフィシャルハンデ15で目標は2年以内にシングルハンデになることです。50歳の時に、伝統芸能江戸小唄の松風派松陽会に入門し、稽古に励み、4年間に名取となり『松風裕日出』の名を頂きました。
どんなに忙しくても時間を上手に使うことを考えていれば時間は作れます。私は年代によって趣味が変わってきていますが、今でも変わらないのはいつも鞄の中に経済・経営・歴史小説・レポート類・文藝春秋そして、数独(パズル)など2~3冊の本を入れておきます。電車の中・待ち合わせの時間・突然のキャンセルで空いた時間・一人で外食する時の時間・寝る前等々時間を作っています。忙しい事を理由に時間がないと出来ない理由を言って、何もしない事にならないようにしましょう。わずかな時間の積み重ねを10年・20年・30年と続けていくと自分がその積み重ねた分だけ厚みを増し変化していきます。
最初、私は製造現場でフライス盤を使ってフルバックで鉄を平面に削り、エンドミルで溝を削っていました。それから直立ボール盤で穴あけ作業、旋盤で鉄を削る切削作業を5年ほどやっていました。その後、コンピュータの発達に伴い数値制御のNC旋盤やマシニングセンターを導入し、工程設計・ツーリング設計・プログラム作成・段取り作業・加工作業・検査と行ってきました。その合間に工場経理を勉強し、見積りを覚え、営業を行い、将来協立にとってどの方向の仕事を選択していくべきか、日々悩んでいました。そして、気がついてみると、現場を約20年体験していました。私は現場を中心に仕事を行いながら、経理・総務・庶務・生産技術・製造技術・営業・機械修理・品質保証そして経営戦略を行ってきました。43歳で社長になり、山あり谷ありの16年間でした。16年間の中でも今回の世界同時不況は過去の例と質の違う不況です。それは短い時間で落ち方が激しく底が見えないことです。幸い私は過去5度の不況を乗り切った体験があり、優秀なスタッフがサポートしてくれています。
全員で世界同時不況を乗り切ろう。
はじめまして。 私は、高橋日出男と申します。 今回、社長ブログを始めることになりました。
きっかけは、昨年2月に茨城県経営者協会経営教育委員会主催の「中小企業の人材採用」の講演を聴いたことです。私は13年前に経営教育委員会の委員になりました関係から、この講演会の主催者の一員として出席しました。講師は日本経営教育研究所の石原社長です。講演の内容は中小企業の人材採用をWebサイト上で行うことです。具体的な成功事例を紹介した内容は私にとって新鮮な講演内容でした。既存のホームページの採用サイトとは異質なものでした。良い人材を採用し、教育し、定着させる、その上で安定した利益を確保し続け、社会に貢献するにはどうしたらいいか、常に悩んでいました。そこでおよそ1週間後に東京の神保町にある日本経営教育研究所を訪問し、石原社長に相談に乗っていただきました。そして、2008年6月からコンサルタント契約を結び指導を受けることになったわけです。早速7名の若手をスタッフに選任し、教育をはじめました。
その結果、Webサイト上に協立製作所のホームページを2008年11月に載せることが出来ました。キーワードは「見える化」です。会社の中を見えるようにして、Webサイトに会社の活動や社員の紹介・イベント・トピックス等々、社外の人達に協立製作所を良く知って貰おうということです。そうした「見える化」活動を通じて、協立製作所に興味を持ち応募してくる人が、Webサイトを通じて協立製作所の活動を我々と共有し、入社前と後の仕事に対するギャップを少なくすることができ、そうすれば入社後も違和感無く仕事に徒事できると思います。
もう1つのきっかけは、昨年、茨城大学で私がボランティアの講義を行ったことです。講義の地域連携論とは茨城県内で活躍している大企業・中小企業の経営者の企業理念・活動と産業界のダイナミックな活動を紹介して、学生に実経済の企業活動を考えさせることです。学生は講義のレポートを提出し単位を取得するわけですが、そのレポートを見ると、県内で世界シェアを取っている会社があるという驚きの感想が非常に多かった。我々の会社は油圧ショベルをコントロールするバルブの部品(スプール)で世界シェア45%を持っています。茨城県内に建設機械用油圧機器で頑張っている会社があるとは知らなかった。等々新鮮な驚きを表したレポートが多かった。協立製作所を知ってほしいと宣伝もしていましたが、完全なミスマッチであることを思い知らされました。
では、なぜ学生が実社会の企業活動を知らないのか考えてみました。テレビのコマーシャルに出てくる企業の名前は知っているが、中小企業は分からない。全国に企業数は260万社にあるが、その内、95%が中小企業です。しかし、メディアに露出する企業は残り5%の中のごく一部であることを考えると無理もありません。ましてや物づくりの現場など知る術もありません。
私は子供の頃、東京の品川区荏原という所で育ちました。私の家の周りには畳屋さん・プレス屋さん・金属加工さん・靴屋さん等物作りの零細企業がたくさんありましので、工場の中を覗いたり、靴を作っている所をしゃがみこんで見ていたり、生活の中に物作りがありました。日本でバブルがおこった1980年代、物作り企業の工場は地方・海外へと移っていきました。一部の零細小企業は東京に残りましたが、大田区にある京浜工業地帯といわれる地域にある「もの作り企業」はバブル時に 約10,000社ありましたが、2000年の頃には半減したといわれています。東京から都市部から生活の中に物作りの現場が消えていきました。従って多くの学生が物作りの工場を知らないのは、生活の中に物作りが無くなって来たからだと思います。我々の会社を知らないことは、学生に問題があるのでは無く、我々自身に問題があり、努力が足りなかったと思いました。
以上、述べた経緯で、今回Webを活用して社員・地域社会・茨城県・日本・世界の人に協立製作所を知っていただき、我々の会社の企業活動をPRしていきたいと思った次第です。社長ブログはその一貫です。
これからも宜しくお願いいたします。