茨城県経営者協会発行の月間冊子「茨城経協」の念頭挨拶の執筆を依頼された。「茨城経協」の表紙とその内容を以下に示します。
新年明けましておめでとうございます。
昨年は年初、超円高から金融緩和・財政出動そして成長戦略の期待感から、円安株高へと転換し、優位な製品を武器にグローバ化した大手企業を中心に業績の回復が鮮明になってきた。しかし我々中小企業にはその波及効果はなく、円安のマイナス部分が出ていた。今年は期待したい。
今年12月、当社の海外子会社である上海協立に創業22年目で初めて総経理として社員を出向させた。中国社会では外国企業が出資した合弁・独資会社の総経理を中国人にするとナンバー2の人材を育てるどころか辞めさせてしまうことが多い。管理者層でも同じである。ナンバー2が実力をつけてくると自分の地位を脅かすと考える。いろいろな知識・技術を教え込んでいくと、自分を売込んで少しでも給与の高い会社に移り、転職を繰返していくことも要因の一つと思われる。
15年程前に中国人経営者と懇談会の機会を得た。自己紹介で私は油圧機器部品製造一筋に40年生産活動をしている会社であると話したところ、なぜそんなに長く同じ仕事をしているのかと中国人経営者から質問があった。私は加工技術を極めながら、改善を進め、現場の力を高めていくからだと答えたが、理解して貰えず、逆質問をした。
あなたは今の仕事をどのようにしようとしているのか。すると彼は企業価値が一番高い時に会社を売り、その資金で不動産業を始めると答えた。当時も今も中国の錬金術はただ同然の土地を特別開発区に指定し、市・地方政府は成功した経営者に共同で商業区・工業開発区の造成を行い、利用権を販売する。日本の製造業経営者とは価値観がまるで違うと痛感した。日本人と中国人「似て非なるもの」である。我々は今、文化の違いを乗越えることが問われている。
昨年前半から急激に受注が減少したため、やむを得ず雇用調整助成金の申請を行い、 10月から毎週金曜日を一時帰休日とした。その為、協立の経営に不安と不満を持った社員が、自ら新たな道を選んで会社を去っていった。一時帰休を実施するに当たり、経営者はもちろん管理者層にも減給をお願いした。この間、大変苦渋の選択をいくつもせざるを得なかった。2月・3月若干の受注回復基調と社員の減少で操業を維持できるようになったので、3月20日をもって一時帰休を解消し、通常勤務に戻ることにした。
2年前の3・11で工場や社員の家も被災した。工場は社員と200人を超える応援者のおかげで、2週間足らずで復旧を果たすことが出来た。その後、急激な受注の増加で生産が間に合わず、設備投資と人員の増強も行ったが、お客様に迷惑をかけてしまった。この年の売上高は過去最高を記録したが、人員の増加が利益に結びつかず、計画を下回ってしまった。ようやく体制が出来上がった時には、先行きの需要に陰りが見え始め、一時帰休の決断をせざるを得なかった。
世界の経済が結びつき、グローバルという言葉が一般化して久しい。私共のお客様はほとんどグローバル展開をしているので、約3年にわたる超円高はお客様の経営を圧迫し、我々サプライヤーも生残りをかけてコストダウンに取り組んできた。しかし変化が早いこの時代に対応するのは大変である。しかしダーウィンの進化論にあるように、「最も大きいものが生き残るのではなく、最も強いものが生き残るのでもない。環境に適応できるものだけが生き残る」を肝に銘じて。
2ヵ月後、雇用調整助成金の申請を行い09年1月から3勤4休の勤務体制を敷き、9月まで継続した。月曜日は幹部のみ出勤し会議を行い、金曜日は完全に休んだ。我社の弱みである生産管理システムを強化するため、08年11月から09年2月の4ヶ月間工場長をチームリーダーに各部署から人員を引き抜き5名のプロジェクトチームを作って改善を進めた。
私の事業再構築の骨子は、受注は80%減、売上高は20%しかないが、世界の需要は50%減である。お客様の在庫調整が終われば、最低でも売上高は50%まで回復する。我社の経営を50%でも継続できる体質にすれば生き残ることが出来ると思った。
この間、取引先の金融機関に融資のお願いをするため、出来るだけの資料を用意してコミュニケーションを欠かさなかった。私は社長になった18年前から月に1回、各金融機関の支店に出向いてコミュニケーションを図ってきたが、リーマンショック後は金融機関に今回の米国発の不況は従来と異なると説明し、従来通りの融資を統制するため、3カ年計画を作成し背景を説明した。結果として4行が計画通り融資が実行され、1行が6ヶ月遅れて実行された。
金融庁のガイドラインで中小企業の格付け審査をするときに、劣後債は資本勘定で良いとの通達が出たので、2009年9月に日本政策金融公庫より劣後債を入れ、資本の増強に努めた。茨城県では協立製作所が第一号だった。劣後債を入れるときの審査は大変厳しかった。最初に事務方同士で徹底的に帳簿のチェックを行い、最後は私と後継者へのインタビューであった。約3時間、我社が何度か事業の業態を変えて行った時の考え方を多く聞かれた。大変熱心で創業のときから私が社長になってどのように事業に取り組んでいったか質問に対して丁寧に答えた。私の後に息子である後継者へのインタビューが始まった。事前のアドバイスは一切していなかった。
2009年9月頃予想通りお客様の在庫調整が終了し、受注が戻ってきた。2010年は急速に受注が回復したので、4月から約半年で130人増員し生産に対応していった。2011年 1月決算時の売上高は2007年度過去最高に迫る回復をした。まさにジェットコースターに乗っているような経営である。2011年2月新しい期を迎えてリーマンショックで痛んだ財務を回復させようとした時に、3月11日14時46分あの大震災が起こった。
リーマンショックから3年が過ぎた。今この3年間を改めて振り返ると苦しかったことがはるか昔のような気がするから不思議なものである。
2008年9月15日米国のリーマンブラザーズが倒産したことから大きな津波に襲われたような錯覚に陥った。私が幸運だったのは心の持ち方に準備期間があったように思う。過去に数度の不況に襲われたが、その度に順応しながら生き抜いてきた。かねてよりどんな苦境に陥っても健康で気力が充実し、幾多の体験と経験を積んできたことを考えると常に最悪の事態になっても逃げずに立ち向かえると思っていた。
米国のサブプライムローンの問題を知ったのは2005年12月頃だった。新聞にこの問題を取り上げ始めたのが2007年6月頃だったと思う。注意深く関心を持って見守っていた。そんな時2008年8月中国にある上海協立の総経理から8月の受注が半減したと報告があった。北京オリンピックの影響で8月は電力制限があり、例年より暑いので現場の作業者が体力を消耗するため、生産性が著しく低下してしまうので受注が減ってちょうど良いくらいにしか考えなかった。
しかし上海協立の受注は9月に入って回復するどころか低下した。おかしいと思って調査していくうちにリーマンショックが起こってしまった。日本の協立はこの時過去最高の受注で、 残業・土日出勤の連続だった。私は大きな恐怖感に襲われた。我社は数年の間に企業規模を 3倍規模に拡大し、大きな設備投資の連続だった。従って損益分岐点売上高が危険水域に近づいていたためだ。
恐怖感は資金繰りに行き詰まり倒産することが現実味を帯びてきたからだ。私は情報を収集し、一つの結論を出した。未曾有の不況が来る。私は知りえる限りの対策の骨子を幹部に提案した。10月の第1週の日だった。最初に役員報酬の60%削減、現場の3班2直4勤2休 体制を廃止し、1直体制に、社員の残業ゼロ、派遣社員130人の契約満了時継続不可、聖域を設けず経費のカット、消耗工具の棚卸による経費削減等々の計画を示した。
すぐ東電に確認したが、罰金については自分たちの範疇ではないので経産省に問い合わせしてほしいとのこと、経産省関東局に問い合わせたところ故意でなければとの 繰り返しで、当社としても故意に節電に協力しないということは無いが、昨年7月をベンチマークにすると仕事量が大幅に増えている現況では実質30%以上の節電になり遵守出来ない可能性が大きい。結果として冷房を犠牲にすることになり従業員に暑さの中での仕事を強いてしまい大きな負担になるといったが、個別に対応出来ないとのこと。当社は精密部品を作っているのでミクロン単位の精度が要求されている現場ではエアコンで一定の温度に室温を保っているが、他の製造現場は外気温が30度になると工場内は40度近くになる作業環境になってしまい、設備の故障率も上昇し生産が低下する可能性がある。
私がこのように発言すると協立の社長は自分のことしか考えていないとんでもない人だ、「東北3県の被害が分からないのか」「自分たちも自粛しないと」「皆で我慢しないと」と言う人がいる。しかし私は云いたい。メディアの茨城県に対する取り上げる頻度が少ないからと言って知らないだけでしょう。私たち茨城県にある会社も被災しているのですよ。幸い人的被害は無く一部工場の損傷ですんだが、生活の糧である300台超の生産設備が地震の影響で横ズレしたため、元に戻さないと生産できない。全社員一丸となり又各方面から延べ人数240人の方々の応援を得て、約10日で復旧した。必死だった。
そして日本ブランドの基幹部品を作っている我々が一刻も早く部品を供給しなければ、お客様に迷惑をかけてしまう。台頭している新興国に仕事が移ってしまう可能性もある。結果として雇用も守れないし、競争力のある製造業の衰退につながってしまうという強い懸念を持っているからだ。このような考え方で懸命に復旧作業を行った中小・中堅企業は多いと思う。もちろん他の業種にしても自社のためと言うより日本の衰退を心配して懸命に復旧・復興に尽力されている企業・個人が大勢いると思う。
なぜ浜岡原発を唐突に停止要請したのか、いくら停止する理由を読んでも合理性は見出せない。日本の国難と云うからには復旧・復興を第一優先にする。そうであるならば電気の供給は復旧・復興には欠かせない要因である。日本ブランドの基幹部品の生産が復旧し、経済活動が回復してから停止要請をしても良いのではないか。せめて涼しくなる10月からの停止に出来なかったのか。懸命に復旧・復興に努力している企業にこれ以上の苦しみを強いないでほしい。