協立製作所の取り組み

東北関東大地震(3) 

12日土曜日朝6時に起床。テレビで地震と津波の被害状況を見た。阪神大震災を思い出したが、それ以上の大惨事だ。軽い食事を済ませ、早めに会社にいった。自宅の復旧を最優先に行い、その上で出社できる人は出てきてほしいと前日に皆にアナウンスしてあった。20人位の人が出てくることが出来たので、それぞれの持ち場を中心に後片付けをすることにした。

 

私は普段座っている机とその周りの後片付けを行った。私と専務の机の後ろは保管書類のエリアと事務所を仕切っているガラス入りのパーテーションがある。後ろのガラスが横揺れの歪で割れてしまった。割れたガラスを一箇所に集め、周囲を掃除し自分の仕事場を確保した。更に役員室に入ると二段重ねの書類棚の上段部が全面のガラス方向に倒れてしまいガラスの破片と書類が散乱していた。この部屋は最後に片付ければよいと思い、現場の状況を把握するため工場に向かった。

 

私は専務と明日以降の復旧手順の打合せを行い現場事務所に常駐することにした。翌日は日曜日であるが、出勤できる人の人数を製造部長が連絡を取り確認し、それぞれの部署に就いた。

 

私はお客様と連絡を取り復旧の支援を仰ぐことにした。電話がつながらない中で最初に連絡が取れたのはKYBで、当社の被害状況の報告とKYBの被害状況の情報交換を行った。そしてすぐに今から必要な道具を持たせて2名行かせると連絡があった。結局、渋滞で12日中に到着できない旨の連絡があり、翌日朝一番で来社されることになった。

 

クールテックの越藤さんから携帯に電話がかかってきた。何か困っていることがあれば遠慮なく行ってほしいと、大変ありがたい言葉を頂いた。私は機械の水平出しを行う水準器が当社には2台しかないので、調達できないかとお願いした。越藤さんは快諾し、更に人手も出すと申し出てくれた。私は恥も外聞もなく、更に応援をお願いするため、その他のお客様、取引先、機械メーカー、機械商社に連絡を取り続けた。

 

従業員の人達には長丁場になる。早めに帰り、明日は日曜日であるが、出られる人は出てほしいとお願いし、復旧1日目は19時に終了した。自分たちの家も被害を受け、まだ電気も水道も回復していない中での復旧1日目だった。

ありがとう。

 

東北関東大地震(2)

私は片づけが終わっていない二階の寝室に行った。本棚が倒れて、ガラスと本がベッドの上に散乱していたので、寝る場所を確保するために後片付けをした。掃除を手伝っていた娘が、夫は海外出張で小山市の自宅が留守になっている。心配だと言うので、家族全員で車に乗り小山市に向かった。停電の中、暗く寒い家にいるより、車の中の暖房が良いと思った。又、食事の用意が出来ないので、小山市まで行けば何か食べることが出来るだろうと思った。小山市に向かうときには国道50号線は渋滞が予想されたので、裏道を通っていった。

 

この頃既に各々のガソリンスタンド前に20~30台の車の行列が出来ていた。私の車には3/4位のガソリンが入っていたので給油しなかった。40分ほどで娘の家に着いた。家の中の被害はほとんどなかったので、火気のチェック済ませ一緒に自宅に帰ることになった。途中、食事が出来る可能性の高い国道50号線を下っていったが、何もなかった。結城市に入った時に吉野家の牛丼店が開いていた。数人の人が並んでいたが、車を止めて店に行った。私達の前で「売り切れました」と店の人が大きな声で話しているのを、耳にしたとき急にお腹が空いてきた。それまでは空腹は感じていなかったが、食べられると期待が大きかったので、ガッカリした。

 

気を取り直して車を走らせていくと普段見慣れたファーストフード店やレストラン、コンビには皆閉まっていた。鬼怒川の橋を渡り終わり川島に入ると、すきやの牛丼店の看板の明かりが見えた。やはり数人の人達が店に入っていた。息子がお土産用の牛丼を買いに行ったが、ご飯がなくなってしまったので牛皿しか買えなかった。車の中で食べた温かい牛皿は美味しかった。

 

筑西市に入るころ大渋滞。1時間経ってもぜんぜん動かない。水戸線をまたいでいる陸橋が地震の被害で通行止めになった。通行止めのたて看板が眼に入った。迂回路に誘導されたが、狭い道では大型車がすれ違うことが出来ずますます渋滞した。ようやく車が順調に流れた頃、開いているコンビニを発見した。食料の類はほとんど売り切れだが、わずかに残ったパンを買うことが出来た。

 

家に帰る前、念のため工場に立ち寄って状況を確認しに行った。大分手前から会社の周辺で電気の明かりが見えた。既に当社の電気関係を管理している為貝電気が変電設備の点検をしていた。急いで家に帰り、電気が復帰したことを確認し暖房を入れた。23時を回っていた。余震が続いていたが、明日からの復旧作業のために休もうと思い、午前0時眠りについた。長い1日だった。

東北関東大地震(1)

月11日金曜日14時46分、私は栃木県小山市にあるお客様の二階大会議にいた。15時からの会議に向けて知り合いの人達と情報交換をしていたその時、地震が起きた。私が住んでいる茨城県は地震が多く揺れには慣れていたので、1分位で収まるだろうと思った。しかしこの時は揺れがなかなか収まらず、時間を追う毎に横揺れが激しくなってきた。2分位経ったころ更に激しくなり立っていられなくなった。いつもと違う揺れ時間の長さだった。とっさに太い柱の元にしゃがみ込み揺れが収まるのを待った。初めて恐怖感を覚えた。

 

分位経って、少し揺れが収まってきたので、階段を駆け下りて表に出た。大勢の人達が同じように表に出て建物に近づかないように通路の真ん中に集まった。友人の伊藤さんの車に乗り込んでテレビを見て、初めて巨大地震であることが分かり、大津波の警報が出ているのが分かった。この間会社に電話を入れたがつながらない。家族や東京に住んでいる両親・娘に電話してもつながらない。1時間位してから退避命令が解除になったので会議室に戻り、カバンを取ってから車に乗り込み会社に向かった。この間も電話がつながらない。

 

国道50号線は停電のため信号機がつかないこともあり大渋滞。農道や裏道を走った。会社に着く少し前に総務部長と携帯電話がつながり会社の状況を把握した。17時頃、会社に着いたときには、既に全社員を帰宅させた後だった。自分がいない時にどのような判断をしたか心配だったが、的確な判断をした。現場に行ってみると機械のズレがはっきり分かり、周囲の棚が倒れていた。2階の事務所に上がってみると机や椅子、パソコンが床に倒され、天井のボードが剥れ落ちていた。まさに足の踏み場もない状況だった。余震が続いているので会社を後にして自宅に帰った。

 

自宅周辺を見るとブロック塀が崩れ、屋根瓦が破損している家が数軒眼に入った。自宅の中はガラス類のほとんどが破損し台所は足を踏み入れるところがないくらいだと家内が当時の状況を語った。私が家に帰ったのは18時位だったので、先に帰っていた子供達が部屋の片付けと掃除を済ませていた。幸い屋根と外部の壁に損傷は見られなかった。

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                       「2階事務所の天板落下」

 

東北関東大地震の復旧状況の報告

 多くの方々からご心配とご支援を頂き、予想より早く復旧が進んでいますので、当社の現況をご報告いたします。

 

幸い人的被害はありませんでした。建物の損傷も軽微で2階事務所の天井のボードが落下、一ヶ所天井からエアコン落下、机の書類はメチャメチャでパソコンはほとんど落下、ロッカー類は一部横倒しになり、足の踏み場もないような状態位でしたが、300台超の機械が横ズレしてしまいました。

 

工場の電気・水道は11()11時に復帰しました。社員の住居が多くある地域の電気は14()15()に復帰しましたが、霞ヶ浦水系の水道は未だ復旧していないとのことです。機械工場にとって機械を精密に水平に保つことは会社の命です。出社できる社員で12日・13日から機械の水平だし作業や事務所・工場現場の後片付けを行いました。14日から災害対策本部を設置し、社員一丸となっての復旧作業が本格化しました。

 

お客様やお取引先様そして機械メーカー等から応援が得られました。皆様に改めて感謝申し上げます。13()5名、14()50名、15()60名、16()50名、17()20名、18()20名、19()10名、20()8名、21()4名が応援に駆けつけてくれました。応援に来た方の総数は222名にもなりました。17日には90%の機械の水平出しが終了し、18日はおよそ50%の設備が稼働しました。19日中に全ての機械の水平だしを終わらせる予定でしたが、21日までかかりました。22日から本格的な稼働を目指します。

 熱処理工場は15日午前で炉の点検が終わり、1号炉・3号炉の2基が稼働しました。17日に4号炉の修理が終わり3基稼働することが出来ましたが、2号炉は冷却ポンプの修理が出来次第稼働の予定です。地震で洩れてしまった窒素ガスが20日に入荷するとの連絡を受けましたので、21日から5号炉(ガス軟チッカ)も稼働させる予定です。

22日から当社の社員でだけで本格稼働を目指します。機械の点検が終わった後でも試削りや品質確認等、問題が多々発生すると予想されますが、社員一同この困難を乗り越える所存です。本格稼働が始まりましたら、応援していただいた方々へのお礼の意味を込めまして、このブログに詳しく掲載したいと思います。

 

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NEXTプロジェクト(1)

月、中国の驚異的な需要の回復、またインド・インドネシアの需要回復が続き、我社の仕事量が回復に向かって来た頃、私は日本経営教育研究所㈱の石原社長に会うため、千代田区神保町に向かった。主題は「中小企業から中堅企業に脱皮するため構造改革を行う」である。その為には次世代のリーダー育成がキーになると意見が一致した。

 

日本経営教育研究所㈱に若く優秀な人材がいる。海外工場再建の実績もあり、何よりも次世代リーダー達が同じ年齢の優秀なコンサルタントに接し、一緒に活動していく中で刺激を受け、本音で意見をぶつけあうことが構造改革の原動力になると云う提案を石原社長から受けた。私も同じ考えなのですぐに賛同しお願いすることにした。私は何度かコンサルタントの指導を受けた体験から、今回の30歳代次世代リーダーを中心とした構造改革には若いコンサルタントが良いと思っていた。と言うのは年齢差がありすぎると質問しにくい、本音で言いにくい、怒られる等が予想された。私は「やらされる指示待ち」から「目標に向かって自発的に行動する」次世代リーダーを育成したかった。

 

早速、石原社長と牧野氏(38歳)が来社し、日程の打合せを行った。4月14日に班長以上の役職者約30名が研修室に集まり、石原社長の「マーケッティングについて」の講演を受講した。お客様視点でお客様から求められる生産活動と言った内容で、この日をキックオフ宣言とした。石原明社長は、勝てるビジネスモデルと売れる仕組みの発想法を学ぶ勉強会『高収益TOP3%倶楽部』を主催し、「成功曲線を描こう」(一世出版)を出版し、他多数の著書がある。

 

メンバーは10名、20歳代が2名の28歳から39歳で平均年齢35.3歳、次世代リーダーのプロジェクトにふさわしいと思う。7月に2名加わり12名のチームになった。プロジェクト名称はNEXT、意味はNew Evolution X(人数) Tryの頭文字をとってNEXTとし、意訳すると「新しく進化するため無限に挑戦する次世代の12人」とのことでした。NEXTのリーダーは中川製造部長代理(38)、サブリーダーは宮坂生産管理課長(36)、そのほか書記・広報・作戦委員・調査とメンバーの役割分担を決められた。協立の戦略局の様相を呈してきた。楽しみである。

 

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