高橋:我社の製品が自動車部品のように数が多ければ専門の部品メーカーとしてやっていくこともあるのでしょうが,我社の主要製品は,車の部品が月産10万個や100万個単位なのと比べて50個,100個,200個単位なのです。そうすると,そうした部品の生産だけをやっていくとどんどんと間接部門が膨れ上がってきて,最終的には規模の小さい会社とコスト競争で負けてしまいます。小さい会社というのは間接部門が少なく,30~40人規模ならば社長が一人いれば全部できます。それが100~200人規模になってくると,1人ではできないので生産管理とか品質保証などの部門を作ることになります。そうするとこれが間接部門となり固定費の増大につながります。そうすると,人数の少ない会社,間接部門が少ない会社と競争すると負けることになります。価格競争で負
けるのならば,別な付加価値を求める必要があります。そこで我社は,部品製造のみでなくアッセンブルも手がけることになりました。次の企業成長につなげるということで,ポンプ・バルブのOEM生産を手がけたのです。それは私が協立製作所に入った時からずっと目標にしていたことでした。
質問者:それに関連して,ポンプのアッセンブルが本格稼働するのに5年の期間を要したとのことですが,どのような点が大変だったのでしょうか。
高橋:まず見積もりです。我社は後発メーカーですから,見積もりでお客様の希望通りの値段に到達するまでに2年ほどかかりました。図面をもらって,一点一点の見積もりをやって提出するまでに半年以上かかります。それで,いったん提出してもこれではまだ高いから駄目だということになります。そういうことをずっとやっていきながらようやく価格が決まり,「さあこれからやろう」と言うことになっても,今度は今まで作っていた先発の会社があるわけです。その会社は在庫を持っているし,ラインももっていますから,そことの調整に1年くらいかかります。その間我社は,鋳物を作る場合は型を作ったりしています。それで最初はすごく時間がかかりました。
質問者:その期間というのは赤字だったわけですか。
高橋:やはり3年くらいは赤字でした。それで3年ほどたつと設備償却がだんだん進んできますので,そうすると黒字化していくのですが。
質問者:御社の歴史をみますと,バブル崩壊の前後で大きく変わったようにみえますが,いかがでしょうか。
高橋:はい。バブルが崩壊した直後にはまだ我社は小さく,従業員も70~80人しかいませんでした。またスプールに関しても,色々なお客さんと取引をしていたわけではなく,カヤバ工業のみでした。カヤバ工業向けに月2万本くらい作っていました。それがバブルの崩壊で半分以下の8,000本くらいに落ち,さらにカヤバ工業が内製化すると4,000本にまで落ちました。その後,1年くらいは景気が回復するのを我慢していたのですが,ある人の紹介で川崎重工からお話があり,最初3,000本くらいの発注をくださいました。その後,コマツとも取引ができ,そのうちにカヤバさんの仕事も回復するという形で増えていきました。
質問者:次にOEM生産についてお聞きしたいのですが,OEM生産をより円滑に立ち上げるために設計能力の充実化に取り組んだそうですが,具体的にはどういうことでしょうか。
高橋:設計スタッフを増やしたということです。我社では技術課になりますが,一人を中途採用し,彼を取引相手先に半年くらい行かせて,基本的なことを全て教わってこさせました。あとは3年か4年前に新卒で採用した者を,東芝機械へ2年間設計に行かせました。OEM製品を作る場合には,自分たちで色々な提案をできる力が無いと駄目です。何かトラブルがあった時にその問題点を見つけるには製造の人間だけでは無理で,きちんとした技術の裏付けをもったある程度の専門家を技術スタッフとして用意していないと,なかなか話が円滑に進みません。
質問者:問題が発生した時などに設計スタッフが必要になってくるということですか。
高橋:そうです。あえて言うならば絶対に必要というわけではありません。我社と同じような会社で一番の近道は何かというと,親会社で定年退職した設計の人間を再雇用することです。しかし我々にとって難しいのは,例えば「A社を定年退職した人を(設計で)採ります」と言うと,他のお客さんが嫌がります。いくらA社を退職したと言っても,同じ会社に40年ほども勤めていれば,そこの会社特有の設計思想があるものです。そのような固有の設計思想は,他のお客さんから警戒されることになる場合もあります。それで我社は,自分たちで設計力を付けるようにしました。
質問者:御社では中途採用の方に来ていただいて,その人が社内教育を担当する形で人材を育成していくとうかがったのですが。
高橋:現在,茨城工場の工場長はK社出身で,生産管理部長はH社出身,さらに総務部長はJ銀行から来ていただいています。我社の場合,自分たちだけでは教育できない部署や,最初から育てられない人材があります。社内で人材が育つには10~30年といった時間がかかります。どんなに素質を持った人間でもすぐに育つということはありません。ですから我社が大きくなる過程では,どうしてもこの部門の人材が足りないということが生じてきます。そうした場合に,外部からの採用に頼ることになります。
9.中国(上海)での事業展開に関して
質問者:続いて中国への進出に関連した質問をさせてください。まず進出のきっかけとなったのが,日本国内でスポーツ紙に(日本国内で働く)従業員の募集広告を出した時に,中国人が応募してきたことにあったそうですが,なぜスポーツ紙で募集したのでしょうか。
高橋:それは最初に東京の本社で始めました。一般紙にも載せましたが,一回も電話がかかってきませんでした。スポーツ紙に載せると,「大井競馬場で全部お金をすって一銭もないので明日から働かせてもらえないか」といった類の電話が結構来ました。そのなかでたまたま中国人から連絡がありました。その時,私は既に茨城に赴任していましたが,当時の社長(現会長)が「猫の手も借りたい状況なのだから,外国人でもかまわないからすぐ採用しよう」ということになりました。そして採用してみると,よく働いてくれました。中国人は働かないと言う人もいますが,中国から日本に出てきて働いていると,少数派ということもあり緊張感も違うせいか仕事を覚えるのも早かったです。それで東京本社に一時3人ほど採用して様子を見ました。いずれもよくやってくれるので,それでは茨城工場の方でも採用しようということになり,中国人従業員の友達を紹介してもらったところ2人が来てくれました。2人が来て3年ほど働いてくれました。その後は,友達の友達の友達・・・という形で増やしていきました。そして最初に来たうちの1人が,現在,上海協立の総経理となっています。
質問者:そうすると今の中国工場の総経理は,かつて茨城工場で働いていた方ということですか。
高橋:そうです。なお東京本社に1番最初に来た中国人は,結局4年くらい働いた後で中国に帰りました。上海に進出するきっかけは,昔我社に勤めていた優秀な中国人が当地にいたからなのですが,それは先ほどお話ししました総経理のことです。それともう1人います。上海協立というのは,最初2人の中国人で立ち上げましたが,両人とも以前にここ(茨城工場)に勤めていました。そのうち1人が辞め,もう1人が現在総経理として上海協立を経営しています。
質問者:上海に進出したのはバブル崩壊直後ですが,当時の日本の中小企業では,まだそうした進出は多くなかったと思います。上海に出るうえで確信みたいなものはあったのでしょうか。
高橋:確信があったわけではありません。実は,ここ(茨城工場)でもし人を集めることができ,工場の拡張が順調にいっていれば,多分上海への進出など考えなかったと思います。ところが私が茨城に来てから7,8年後に土地の用途変更があり,ここが市街化調整区域に入り,工場の増築が制約されました。結局、色々手を尽くし,なんとか
増築の許可を取るまでに2年半もかかりました。
私が39歳の時ですが,こうした状況に嫌気がさして,このような状況が続くのならば,私が60歳を超えた頃にはこの仕事を辞めなくてはならないかもしれないと思い悲観しました。その時,大前研一氏の講演で,「日本の企業は安さを求めて中国大陸さらにはアフリカ大陸まで行くだろう」と言っていました。それが非常に印象的でした。それで,どうせリスクがあるのならば,日本でいつ建築許可が下りるかわからないのをじっと待つだけではなく,同時並行して中国への進出を考えるようになりました。
7.石油危機後の企業経営
質問者:話を戻して1970年に茨城に工場を作ったことに関連した質問をさせてください。新工場建設後すぐにオイルショックに直面したわけですが,オイルショック後の経営に,工場建設にともなう投資負担が重くのしかかることはなかったのですか。
高橋:あまり関係なかったです。というのは最初,茨城工場は小さく作りましたので。それほど大きな投資をしていません。最初は東京の本社で稼いだ利益をこちら(茨城)に投資してもらい,こちらで基礎を作りました。そしてこちらで稼いだ利益を再投資するという形で規模を大きくしていきました。
質問者:そうすると,当時,むしろ大変だったのは人集めですか。
高橋:はい。我社が小さいからということもあり,ハローワークから人がほとんど来てくれませんでした。私も30代前半の頃から周辺の高校に行き直接先生にお願いしましたが,なかなか学生を回してくれませんでした。その後も人がなかなか集まらないので,バブル崩壊直後の頃で従業員が70~80人でしたが,そのうち外国人が30人くらいいました。主に中国人と,あとはイラン,パキスタン,マレーシア,バングラディシュ出身者です。人が集めやすくなったのはバブルが崩壊してからです。バブル崩壊後に大企業が人を取らなくなってゆくと,だんだん我社にも直接人が来てくれるようになりました。
8.経営戦略と企業成長
質問者:次に製品戦略に関する質問ですが,「スプールを特に手がけています」というのと「スプールをはじめとして油圧機器を手がけています」というのでは違うのでしょうか。
高橋:「スプールを・・・」というと,スプールという部品だけ作っているかのようなイメージを与えてしまいます。部品というのは必ずライバル会社が出てきて,もしくはお客さんが自分たちで作るということもあります。これに対して我社が手がけるポンプやバルブは簡単には追随できません。例えばポンプにはベアリングをはじめとして色々な副資材品をいっぱい使います。それらを安定して,しかも安く調達しなくてはいけません。つまり製品を作る技術と,多様な部品を調達する技術の両方が組み合わさらないと,うまくできないのです。もちろん油圧メーカーとか建機メーカーの大手は自分たちで事業部を持っていますのでそれが可能ですが,中小・中堅企業でそこまでできる会社というのは多くありません。我社クラスの会社は日本全国で10社無いのが現状です。
質問者:そうすると,それらの製品を手がけるのは容易ではないけれど,逆にそれを手がけることができれば生き残るための手段にもなるというわけですか。
高橋:そうです。
質問者:御社が工作機械メーカーに機械を発注する際に,御社独自のノウハウなどを取り込んだ形でカスタマイズをお願いし,独自仕様の機械を納品してもらうとのことですが,それですと御社が長年蓄積したノウハウが発注先メーカーに漏れてしまうことはないのですか。
高橋:そうしたノウハウや設計が漏れてしまう可能性はあります。これに対して製造特許によってそれを防ぐという方法が考えられます。ただし我々は隙間産業に属するので,製造特許によって重要なノウハウなどを全部公開してしまうと,逆に模倣されやすくなるというリスクもあります。他社に真似された場合に,どこでどう真似しているのか調べるだけでも大変です。ですから,極力そうした特許戦略によらず,独自のノウハウのなかに閉じ込める形でやっています。
質問者:積極的に特許を取得しないということですか。
高橋:いいえ,我社にも製造特許はいっぱいあります。ただし我社の製品は大量生産ではなく,類似品の少量多品種生産です。そうすると頻繁に機械のセット替え,段取り替えがあります。例えばAというスプールを作り,続いてBというスプールを作る場合にはその都度,刃物が微妙に違うのでセット替えをします。そこで我社ではバーコードが世間に出回り始めた頃ですが,そのバーコードを使って刃物を効率よく交換して,AもBもCもDも全部作れるような工作機械にカスタマイズしました。その時には,工作機械はこの機械メーカーに,バーコードリーダーは別の会社に,その他はこっちの会社にというように分けて発注したこともあります。これらは製造特許を取れるかもしれませんが,取得したからといって今度はそれを管理するのに多くの費用がかかりますし,模倣を立証することは結構難しい場合があります。
質問者:そこらへんはシビアで大変ですね。それでは次の質問ですが,アッセンブルに取り組むことになったきっかけは何だったのでしょうか。
6.取引先の拡大
高橋:当時,我社は埼玉県浦和市にあるカヤバ工業との取引が中心で,そこの仕事が売上げの9割を占めていました。その一方で,会社の成長のためには,取引相手を増やしてゆく必要があると考えていました。ですから最初はカヤバ工業との取引をメインにして,その後はカヤバ工業の油圧商品とバッティングしない会社とのみ取引をしていました。その方針が大きく転換したのはバブル崩壊以降です。それ以降になると,ほとんどの親会社が協力会社の面倒を見られるだけの余裕がなくなり,系列関係とか下請関係とかが非常に希薄になりました。我社の取引関係も同様で,メインの取引以外の開拓が必要になりました。そこで色々な人の紹介により,川崎重工,日立建機,コマツと紹介を頂き、運よく取引を始めました。アメリカのキャタピラーとも取引を始めました。バブル崩壊というのは大変な出来事でしたが,従来の固定的な枠組みが崩れることになり、結果的には我社の取引相手を拡大することにつながりました。もしバブル崩壊がなければ,そうした変化はなかったと思います。
質問者:いまのお話によれば,最初から特定の親会社の下でずっとやっていこうというのではなく,できるだけ自立的にやっていこう,そのためにチャンスがあれば取引を拡大しようと考えていた。そうしたらバブル崩壊を契機として,ビジネスチャンスがやってきたということですか。
高橋:そうです。バブルが崩壊して7~8年くらい経った時に「どことでも取引しますよ」というオープンなスタンスに変更したのです。
質問者:ということは,取引相手先も協立製作所さんが自分以外のどのような相手と 取引をしているかについて知っていることになるわけですね。
高橋:新しい取引先は全部知っています。我々の会社案内で出しますから。
質問者:取引相手を拡大する際に苦労された点はありますか。
高橋:例えば私が飛び込みで営業に行っても,まず100%実現しません。仮にある部品をA社からB社へ変えることを考えるとした場合に,たとえ値段が安いとしても,評価にものすごく時間がかかるため簡単には変わりません。評価というのは,まずコストを検討します。そしてコストをクリアしたら,今度はそのコストを実現するためのプロセスが理にかなっているかどうかについて必ずチェックします。そうすると早くても1年,重要な部品の場合には3~5年かかることもあります。例えばリーマンショックの1年後にあたる2009年8月に,日立建機から油圧ショベルに使うポンプの部品であるレギュレーターバルブが全量を移管されました。この受注を獲得するにあたり,「全体の製造ライン構成において,我社にこの部品の供給を任せてもらえれば,これだけコストダウンできますよ」という形で色々な提案をさせてもらいましたが,取引が実現するまでに15年かかりました。
質問者:国内企業か海外の企業かにかかわらず新規取引の開始までには,ある程度時間がかかるというわけですね。また取引先のほうもある程度の時間をかけて検討し,大丈夫だとふんでから継続的な取引に入るというわけですか。
高橋:そうです。また取引のタイミングも重要です。例えば工場拡張期とか,これまでの供給先が倒産したとか,供給企業が大きな品質問題を起こして取引停止になったといったことがないと,なかなか仕事は取れません。さらに商談会などの場で新規参入をはかろうとする会社のなかには,既に仕事をやっている我々からみると,とても理にかなわないような安い見積もりを出してくる場合があります。そうすると発注側とすれば,その見積書をもとに我々に値引きを要求してくることも考えられます。特に世界的に競争が厳しくなってくると大変です。
5.茨城(現筑西市)への進出の経緯
質問者:どうもありがとうございました。それでは,以上のご説明を踏まえて,さらにいくつかの質問をさせていただきたいと思います。はじめに、大学を卒業した後に,生まれ育った東京ではなく,わざわざ茨城に来て新たな展開をはかろうとした理由は何でしょうか。
高橋:子供の時から東京にあった工場は2階建てで,1階が工場,2階が住まいと事務所でした。そしてその2階部分には中卒で入社した住み込みの従業員もいて,その人達と一緒に生活していました。子供の時からずっと父の工場を見ていたわけですが,当時の零細企業は何が一番大変かといえば,なかなか人が集まらないことでした。私がちょうど大学を卒業した頃は,東北とか北海道から中卒の人が集団就職でやってくる時代でしたが,中小企業には人が集まらない。我社でも新潟などあちこちに行き,16~17歳の子に来てもらい,私の母親にその子たちの面倒をみてもらいながら働いてもらいました。しかしちゃんと手に職をつけてずっと働き続ける人は少なかった。それでこのまま東京でやっていても思うように人が集まらないと考えました。
それならば東京ではもういいかな,地方に行けば人が集まるかなと思い,茨城に来ました。しかし,こちらに来てもなかなか人が集まらず,それが勘違いだったとわかりました。しかしその頃はそのように考え,私が会社を継ぐために父に出した唯一の条件が,「地方に工場を作ってくれれば自分がそこに行き跡を継ぐ」というものでした。一応,土台はありますから,ここ(茨城)に人を集めさえすれば大丈夫だと考えました。ものを作る技術は今から学ばなくてはいけないけれど,できないことはないとう気持ちでやって来たのです。
質問者:今のお話ですと,茨城にやって来て自分が思っていたのとは違ったそうですが,そのことに気づいた時は,どのように考え直して経営を続けられたのでしょうか。
高橋:最初の予想と違っていましたが,そんなものかなという感じでした。最初私がここに来た当時の敷地は20坪ほどで,門も何もありませんでした。雑木林の中に工場だけがぽつんとありました。ですから,今で言うハローワークから人が来る際には,我社の場所がわからなくて帰ってしまうようなこともありました。
質問者:現在でも工場の周辺に雑木林が残っていますが,当時は周囲全体に広がっていたわけですか。
高橋:そうです。この周辺はまだ家がほとんどありませんでした。当時は,夜の9~ 11時頃まで一人で残業していました。機械が動いている時は音があるから気にしませんが,機械を止めた瞬間あたりがシーンと静寂というか東京にいた時には味わったことのないような感じがありました。
質問者:高橋社長は「茨城生まれの東京育ち」なわけですから,「自分がなんで田舎に行かなければいけないのか」と思うことはありませんでしたか。
高橋:友人達には「なんで都落ちするのか」とずいぶん言われました。しかし私にはそんな感覚は全くありませんでした。だから別に茨城県じゃなくてもよくて,鹿児島なら鹿児島,北海道なら北海道でもいい。そこで自分の生活基盤をしっかり作りたいというのがありました。なぜそのような考え方になったのかといえば,大学1年の時に学園紛争があって,私も色々な集会に参加しました。そのなかで一番疑問に思ったのは,集会の主催者、この人たちはいったい何を生活の基盤として活動しているのかという点でした。私自身,働いているわけではなく,親のスネをかじりながら集会に参加していることに疑問を持ちました。それで私は学生の時から,いち早く経済的に自立したいという考えが強くなりました。ですから社会に出る際にも,別に都落ちしようが,何しようが自分の生活基盤をちゃんと作りたいと考えていました。そんなわけで結婚も早く,23歳の時でした。
質問者:茨城に工場を構える場合,日立地域への立地を考えましたか。
高橋:考えませんでした。私が「地方に出たい」と言った時に,父親は「全然知らない土地には行きたくない」ということでした。父の実家がここ(筑西市)から30分くらいのところにある農家でした。その近くで,また知り合いも何人かいたので,ここの土地を求めました。そういうわけで日立地区に行こうという考えはありませんでした。また仮にあの頃日立地区に行ったからといって,ただちに日立製作所と取引ができたとは思いません。地元がしっかり固まっていて,よそ者が入っていってもすぐにビジネスにつながるものではなかったと思います。