2005年8月茨城県上海事務所において上海で活躍する日本の社長と題してインタビューを受けた。仕事以外の個人的なことも掲載したいと申し入れがあり、趣味をはじめ多角的に人間「高橋日出男」を表現したいと言われ、緊張して8月の熱い夏の日に上海虹橋地区にある上海国際貿易中心ビルの事務所で約3時間にわたって副所長からインタビューを受けた。以下茨城県広報誌に掲載された記事を高橋論に思い出のインタビューとして載せることにした。
上海の社長さんに,かく聞きました
第4回 株式会社協立製作所 代表取締役社長 高橋日出男さん
(上海協立機械部件有限公司 菫事長)
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中国における外資系企業の登録ナンバーは69番目。
平成3年に油圧機器の部品を生産する上海協立機械部件有限公司を立ち上げ、世界的にみても早々に中国進出を果たした。15年近く経過した今でも、毎月1回以上は上海を訪れて、自分の足で情報をとり、自分の目で状況を確認し、自分の言葉で指示をする。
「上海と日本を一番多く往復している茨城県人の1人じゃないの?(笑)」と世界を飛び回る多忙さを笑い飛ばすパワーの持ち主、高橋社長をご紹介します。
高橋日出男社長
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■中国進出は早すぎた!?
「覚悟はしていたが、早すぎた!?」と笑いながら進出した当時を振り返る。「当然、工場が必要とするインフラ整備も不十分。また、空港にはタクシーなんて待っていないし、機関銃を持った人民解放軍が警備していた。食事をするにもオーダーは取りに来ないし、釣り銭は投げて返されるし・・・」ハード、ソフトの両面において外国人にはストレスの溜まる状況だった。
現在の国際都市の風格からは想像もつかないが、事実、それがつい先日までの上海の姿。しかし高橋さんは、将来上海が必ず発展すると確信していた。
上海協立機械部件有限公司
■なぜ中国なのか
(株)協立製作所は先代の社長である父と叔父が、昭和29年に研磨を生業とする会社として東京に設立。両親の苦労を解消させてあげたかった高橋さんは、大学を卒業して家業を継ぐ際に地方への事業展開を提案し、両親の故郷である茨城県に工場建設を決める。工場建設後も順調に事業は拡大。労働力不足を解消するためにスポーツ紙に求人広告を掲載し、応募してきた1人の中国人を通じて、入れ替わり立ち替わり50人の中国人を雇うことになる。
「日本人より仕事の覚えが早く作業態度もまじめ」というのが高橋さんの中国人の印象。そうした中で大前研一氏の講演を聞いて海外進出の関心が高まり、中国をはじめ台湾、マレーシア、シンガポールなどを視察。そして、まだ日系企業の進出していない中国にチャンスを感じた。直接のきっかけは「茨城工場の増築、開発認可より、上海の方が早かったから(笑)」だという。
東京工場は昭和39年(1964年)に品川区東中延の現在の地に移ってきました。それまでは、 1キロ位離れた所にある荏原4丁目の平塚小学校のすぐそばにありました。1階が工場、2階が住居という当時としては典型的な零細企業の体をなし、総勢で7~8名の人が働いていました。協立製作所は昭和29年(1954年)に創業しました。創業は私の父(現会長)と叔父(父の弟)の二人で、切削工具の研削加工を主体に営業を始めました。創業して10年後、業績も順調に推移し工場が手狭になったため、近くにある工場を購入し、移転しました。このことをきっかけに二人は独立し、叔父は創業の場所を引継ぎ「高橋研磨(現ミクロテック)」を設立し、工具・部品の研削加工から金型の研削加工へと新たな方向性を見出していきました。
会長は移転先(現本社)の場所で、(有)協立製作所を引き継ぎました。ここでも1階が工場で2階が住居で、家族4人と住み込みの従業員1人の5人の構成で、従業員7~8人を引き連れ、新生(有)協立製作所として第一歩を踏み出しました。移転後まもなく油圧機器メーカーである萱場工業㈱東京工場殿と取引をすることが出来、工具と油圧機器の研削加工を行う会社として、新たな方向へと舵を切りました。数年後、工具関係の仕事から油圧機器部品の研削加工に絞って業務を拡大していきました。今で言う「集中と選択」です。ここを原点として油圧機器専門の研削加工メーカーとして新たな旅立ちが始まりました。私が高校生のときでした。
20年後の昭和59年4月(1984年)現本社の新社屋を完成させました。この頃、茨城工場は第三期工事が終わり、順調に業績を拡大していき、茨城工場で機械加工を行い、次工程の熱処理は外注で、最終工程の研削加工は本社工場で加工し、精密油圧部品の一貫加工のモデルを完成させていました。1、2階が工場、3階が事務所、そして最盛期には本社の斜め向かいに工場を賃借して25人の従業員が働いていました。本社は会長と次男の茂が研削加工専門の工場として、高い研削技術を武器に順調に業績を伸ばしていきました。しかし、弟(当時専務)は病に倒れ、11年前の平成 10年(1998年)5月に亡くなりました。当時、日本は金融危機の最中で、賃貸工場は閉鎖して、 本社工場の事業を縮小し1、2階だけで営業するようにしました。弟が亡くなってから統率者がいなくなり、徐々に従業員が少なくなっていきました。閉鎖前には5人しか従業員がいないこともあり、大勢に影響はありませんが、一つの時代が終わったとの思いはぬぐいきれません。
昭和28年に創業した場所は、東京都品川区荏原でした。その11年後、品川区東中延の地に移ってきたのは、今から45年前です。その本社工場が4月20日をもって閉鎖されることになりました。
昨年、9月15日のリーマンショック以来、世界の金融システムが機能しなくなり、アメリカ発の金融危機が起こりました。この金融危機が起こった時、マスコミの報道は、日本は既に金融危機を克服したので、アメリカより影響は軽徴であるとの論調を展開していました。しかし、10・11月に入ると経済の血液であるお金が回らなくなり、実体経済に波及し現在に至るまで経済は悪化の一途をたどってきました。そしていわゆる「派遣切り」が製造業を中心に各地で起き、報道は連日連夜「派遣切り」を行った派遣先の企業の非道を伝えていました。企業は派遣会社と契約を行い、法律に則り契約通りに実施していたにもかかわらずです。それは一ヶ月前に予告をして契約解除するか、一ヶ月の契約料を支払って即解除するかのどちらかです。しかし報道は過熱し、派遣会社への取材はなく現状認識を行わないまま、直接雇用していない派遣先の企業が矢面に立たされてしまいました。「法律を守っていればいいのか」と派遣労働者への救済を強く訴えていました。結果として世界同時不況の本質を外した議論が展開されてしまったと思う。
こうした状況に対応するためにセイフティネットを整備し、救済に当たるのは政府の仕事であると思うのだが、報道はセイフティネットを未整備のままにしていた政府の怠慢は取り上げず、派遣先の企業を標的にして批判を繰り返していた。私はこれまでの不況と質的に違い、大変なことになると思っていましたが、報道関係の人達はリーマンショック後の世界同時不況の影響を甘く見ていたように思います。トヨタが業績の下方修正を行い赤字決算に陥ると発表し、いわゆるトヨタショックが起きるとようやく冷静に世界同時不況の本質を議論するようになってきた。報道は事象の現象にとらわれず、 本質を見極めた議論・報道をしてほしいと思う。今起きたことの現象には必ず原因があります。この原因を分析していき、真の原因が分かれば問題は解決できると思いますが、本質を外した議論・報道では問題の解決にも役に立たず、世論を誤った方向に導いてしまうと思います。
大分話がそれましたが、今回の危機は過去に例の無い不況と捉えています。不況を乗り越えるため、昨年の10月からいろいろの対策を実施していきました。
東京工場の工場部門を茨城工場に集約するのもその対策の一つです。東京本社は、このような状況で借り手があるか分かりませんが、1・2階はテナントとして貸し出し、3階は本社として機能を残していきます。
この変化の激しい時代を生き抜いて行くために、過去に とらわれてはいけないと思っています。今の時代を生き抜くために、今なすべきことを実行していくことが肝要であり、ダーウィンの進化論に「世の中で生き残っていくのは最も強い者でもなく、最も賢い者でもない。変化に対応できる者だけが生き残ることが出来る」とあります。まさに変化に対応しないと生き残っていけません。東京工場の閉鎖は少し寂しい気持ちはありますが、生き残って勝ち抜いていくための積極的な施策と捉えています。