会社ヒストリー

茨城におけるものづくり企業経営史(2)

.企業理念及び経営方針

 

質問者:それでは御社の企業理念および沿革からご説明ください。

 

高橋:我社の企業理念は「挑戦と創造」です。先代(創業者高橋庫吉氏)の時は企業理念と云うのはありませんでした。どちらかと言えば,理念よりは「生きていくため」という思いが強かったのです。私も最初はそうだったのですが,この会社に入って20年近くがたち,ちょうど40歳になった頃に自分のこの20年間の歩みを振り返り、「挑戦と創造」という言葉がピッタリとくると思い,以後それを企業理念として使っています。また経営方針は3つあります。(1)油圧機器の部品製造を通じて社会に貢献する。(2)常に先端の加工技術と製造システムを追及する。そして,(3)健全な企業活動と従業員の幸福な生活の安定を目指すということです。経営判断が必要とされる際には,以上の経営理念と経営方針を基にして行うことにしています。

 

.協立製作所の沿革

 

高橋:わが社の設立は1958年ですが、創業は1954年です。現在の資本金は9,400万円です。最初の資本金は50万円で,それから増資して50万から200万,400万,そして2,000万,9,400万と増資していきました。201341日現在の従業員数は273名で,正社員が248名,パートと派遣の人が25名います。それから本社および関係会社ですが,本社は登記上,東京の品川区にあります。3階建の小さなビルですが,昔はそこに色々な機械を詰め込んでやっていました。現在、工場はなく、1,2階をテナントとして貸し,3階にだけ我社の調達関係の従業員を2名駐在しています。この部分だけ東京に残しているのは,日本中から最適調達を行なう場合に東京が非常に便利だということが1つ。それと東京で調達をやっているベテラン社員がもう70才近いので,若い人を1人,向こう(東京本社)に送ってベテラン社員から調達ノウハウを学ばせています。学び終わったらこちら(茨城)に戻すと思います。その時には本社を茨城に持ってくることになるかもしれません。今は昔ほど何でもかんでも東京にないと困るわけではないので。さらに茨城工場がここ(茨城県筑西市)で,子会社として同じ敷地内に協立熱処理工業があります。それから上海市の松江工業区に上海協立機械という会社があります。なお上海工場がある松江工業区ですが,この松江というところは茨城県と関係がありまして,旧水戸藩で日本に帰化した儒学者がいました。そして今も水戸と松江は関係が非常に深いのです。

 

高橋:話を創業当初に戻しますと、その頃は切削工具と言いまして、鉄を削る工具の最終工程をやっていました。それを我々は「刃付け研磨」と言うのですが,その工程を機械化してやったのが切削工具の研削という工程で,これを創業当時,父と叔父が2人で始めました。そして1958年に有限会社協立製作所を設立し,65年に油圧との出会いがありました。その当時、カヤバ工業と云う会社,現在はKYBとなっている東証一部上場の会社ですが,そこの油圧部品の最終工程の研削工程だけを引き受けてやっていました。


高橋:そして私が大学を卒業する1年前の71年に茨城工場を開設しました。      この工場は、「「地方に工場を作るなら、自分が後を継ぐ」という条件で建てたもの  です。ただ工場といっても,広さが約20坪,60平米ぐらいのもので、工場というより鶏小屋みたいなところでした。最初は,現在我社の顧問になっている社員が先発でやっていました。その当時私はまだ何もできないので,卒業してから2年間は大田区にある小さな町工場に行き,現場の仕事を教わってから,こっち(茨城)に来ました。


質問者:茨城に来てから日立製作所との取引が始まったのですか。


高橋:日立製作所との取引のきっかけは2つあります。1つは,私が大学を卒業し、工場に勤め始めて2年目の時です。日立製作所川崎工場の方から相談があり,「スイスのメーカーと超高圧給油ポンプで技術提携した。ついてはこれを日本で国産化したいので協力してほしい」という話がありました。その時渡されたスイスの図面というのは全部ドイツ語です。そこで私は,まずそれを日本語に翻訳し,また機能をある程度理解しながら必要な部品を大田区のいくつかの工場に発注し,試作品を組み立てました。先にお話ししたように,当時,私は、昼間は他の工場に勤めていたので,その仕事は夜にやったわけです。それを日立製作所に納めた時,「ものができるのはわかったけれど、油圧のことがわかる技術者がいないと仕事を出せない」とのことでした。それで私はそれまで勤めていた大田区の工場を辞めて,こちら(茨城)に来て,その仕事を始めたというわけです。残念ですが、現在日立製作所との取引は終了しています。もう1つは,80年に土浦にある日立建機と取引が始まりました。その頃,日立建機は油圧機器の内製化の初期のころで、私共に部品供給の依頼があったのがきっかけです。

茨城におけるものづくり企業経営史(1)

20135月、筑波大学人文社会系 平沢照雄教授から連絡を頂き、「茨城におけるものつくり企業経営」の研究の一環としてゼミの学生5名と会社訪問と工場見学の申し入れがあり、そのインタビューを平澤研究室で筑波大学『経済学論集』第66号(20143月)に発表されたので、本日公表する。 

表題

 オーラルヒストリー

   茨城におけるものづくり企業経営史

           ―協立製作所・高橋日出男社長に聞く―

1

はじめに

 本稿は,茨城におけるものづくり企業の史的展開を明らかにする作業の一環として,協立製作所社長高橋日出男氏に,創業から今日に至る同社の企業経営について聞き取り調査を行った記録である2)。

 ここで同社の概要を示すと表1のようになる。同社は油圧機器部品の専門

1 協立製作所・会社概要

設立       19582月(創業者:高橋庫吉)

資本金    9,400万円

従業員    273名(正社員:248名、パート他:25名)

事業内容              精密加工による油圧機器部品の製造

本社           東京都品川区東中延1丁目

茨城工場              茨城県筑西市三郷1239

関係会社              協立熱処理工業()(同上)

上海協立機械(中国上海市松江工業区)

        (資料)1会社提供資料より作成。

     (注)  従業員数:201341日現在。茨城工場および協立熱処理工業の

         合計

1         筑波大学人文社会系教授

2         高橋日出男氏略歴

1950年に創業者高橋庫吉の長男として生まれる。1972年日本大学理工学部精密機械工学

科卒業後、19743月協立製作所に入社。19939月同社社長に就任し、現在に至る。

                                平

メーカーとして,油圧機器の精密部品製造をはじめとし,油圧のピストンポンプやバルブのアッセンブルを主な事業として発展してきた。なかでも建設機械の分野において,油圧ショベル用コントロールバルブの主要コンポーネントであるスプールで世界シェアの約4割を占めるに至っている。

また表2の沿革に明らかなように,同社は、日本経済が高度成長を開始した時期に東京品川の地において製造を始め,高度成長末期にさらなる成長を期して茨城に進出した中小企業であった。茨城におけるものづくり企業に関しては,県北部の日立地区に集積する中小企業がその代表事例として取り上げられるこことが多い。これに対して協立製作所は,そうした産業集積地である日立以外の地域への進出を企図したこと,また進出当初から特定企業の下請けにとどまらず自立経営を指向した点で注目される事例である。

同社は茨城進出直後に石油危機に直面するが,1970年代末以降に取引企業を拡大する形でそれを乗り越える。さらにバブル崩壊と前後する形で中国(上海)に進出するとともに,日本国内においては部品製造にとどまらずアッセンブル製品も積極的に手がけつつ取引相手をいっそう拡大することで,「失われた10年」と言われる時代にも成長を続けてきたものづくり企業として注目することができる。なおこうした発展により,同社は2008年に経済産業省「元気なモノ作り中小企業300社」にも選ばれるに至っている。

 およそ以上の展開を踏まえ,本調査では,主に以下の3点を中心に聞き取りを行った。(1)同社の経営にとって大きな画期となった2つの地域展開-①東京から茨城への進出,②中国上海への進出が,どのような意図あるいは経緯で行われたのか。(270年代の石油ショックをはじめとして90年代初頭のバブル崩壊さらには2008年のリーマンショックに至る外部環境の激変に直面しながら,それをどのように乗り切ってきたのか。(3)ものづくり企業として持続的な成長を実現するにあたり,同社の企業理念や経営目標さらには社長の経営思想がどのような役割を果たしてきたのか,という点である。

茨城におけるものづくり企業経営史           

表2 協立製作所・沿革

1954   11       切削工具の研削・製造開始

1958   2      東京都品川区に有限会社協立製作所を設立

1965   5      油圧部品の研削・製造開始

                            カヤバ工業()(現KYB)と取引開始

1971   8      茨城県真壁郡協和町(現 筑西市)に茨城工場を開設

1979   5      油研工業()と取引開始

               9      ()不二越と取引開始

1980   7      日立建機()と取引開始

1991   6      上海協立機械部件有限公司を設立

                            川崎重工業()と取引開始

1992   9      ()小松製作所(現コマツ)と取引開始

1993   11       (茨城工場)スプール専用工場完成

1996   10      組立工場完成、バルブAssy製品納入開始

1997   9      (茨城工場) 熱処理工場完成

2000   11       ISO9001認証取得

2001   7      東芝機械()(現ハイエストコーポレーション)と取引開始

              10      キャタピラー三菱()(現キャタピラージャパン)と取引開始

2004   4      (茨城)新工場完成、FMS導入、三菱重工業()と取引開始

               4      ハイエストコーポレーションへポンプAssy製品納入開始

2005   12      コマツへポンプAssy製品納入開始、ISO90012000年版)更新

2006   2      協立熱処理工業()設立

2007   9      (茨城)新工場増設(K6工場)

2008   1      資本金9,400万円に増資

               2      ISO14001認証取得

               4      経済産業省「元気なモノ作り中小企業300社」に選ばれる

               6      コマツへフォークリフト用新バルブAssy製品納入開始

2009   5      東京工場を茨城工場へ統合

               7      日立建機へパワー・ショベル(PS)用レギュレータバルブ納入開始

              12      ISO140012004年版)更新

2010   2      ISO90012008年版)移行・更新

2011   7      「いばらき産業大賞」(茨城県知事表彰)を受賞

               8      パワー・ショベル用メインスプール増産設備(20,000/月)導入

              11       ISO90012008年版)更新

(資料) 会社提供資料より作成。

 なお調査は,201364日に協立製作所茨城工場(茨城県筑西市)におい

て実施された。調査実施にあたっては、高橋社長とともに同社総務部長飯塚勝

夫氏に大変お世話になった。記して感謝の意を表する次第である。当日の聞き手は平沢照雄および筑波大学社会学類平沢ゼミナール学生(市瀬,北浦,津留,長門,浜野)である(以下,本文では一括して質問者と表記する。また本文中の( )内は,特に断りのない限り平沢が補足したものである)。

創業への道(4)

発動機の販売奨励金で資金を蓄え、将来は農機具販売店を経営したいと夢を持ち始めた。そんな矢先の工場閉鎖であった。昭和28(1953)日平産業伊賛美工場の閉鎖が発表された頃、東京の工場で働いていた2つ違いの弟に研磨を主体にした会社を作らないかと持ちかけた。庫吉は敗戦の濃くなった昭和20(1945)中国出征の  とき、弟に研磨はいい仕事だと言い残して戦地に赴いていったのだった。そして庫吉は東京で仕事が成り立つか見極めるため家族と離れ一人東京へと赴いた。

 

最初、品川区東中延1丁目(現本社から100m荏原中延駅より)にある小さな賃貸工場で兄弟2人の挑戦が始まった。昭和28(1953)創業、会社名は協立製作所、由来は協力して立つということで、読んで字のごとくである。ほぼ1年後、生計の目処が立った頃私と母と弟茂の3人が東京に呼ばれ、1年間の別居生活に別れを告げることが出来た。そして庫吉は家族のため品川区荏原4丁目にある敷地20(66)の中古住宅兼工場を購入した。1階は工場と叔父夫婦の住まい、2階は我々家族4人と実家近くの坂本村から参加した1名が住込みとして、7人の生活が始まった。私が小学1年生のときである。私は近くにある品川区立平塚小学校に入学した。

 

その後仕事も順調に推移したこともあって叔父夫婦は品川区荏原7丁目に引越し、通勤するようになった。そして住宅兼工場を建ぺい率いっぱいに改築し、1階を工場、2階を住居として、私たち家族4人と3~4人の住込みの従業員との生活が始まった。私が小学4年生の頃である。そのころ工具の研磨業を主な生業とし、円筒研削盤・カッターグラインダー・ロータリーグラインダー・内径研削盤の設備で工具メーカーT社の下請けとして、高速度鋼のリーマ・メタルソー・サイドカッター等の研削加工を営業品目に順調に業績を拡大して行き、昭和34年頃(1959)従業員も5~6人になり設備を少しずつ増やしていった。

 

昭和39(1964)親会社のT社が新社屋を作り、移転した跡地の工場を購入した。そこで従来の工場には叔父夫婦が2階に住み、1階の工場で仕事を続け、庫吉は新しい工場に引越し1階が工場、2階が住まいで1~2名の住込み従業員との生活が始まった。この移転をきっかけに、叔父は高橋研磨(現ミクロテック)として独立、()協立製作所は庫吉がそのまま引き継いだ。後年、庫吉は私に「あの頃は借入金も少なく会社の資産を半分に分けることが出来た」と話してくれた。兄弟2人が助け合いながら、別々の道を進んでいくことになった。私が中学2年、世は東京オリンピックで高度成長時代の只中であった。

 

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創業への道(3)

 当時は経営と組合が先鋭化していた時代である。大会では経営側の提案に対して何でも反対を大声で言っていた。屈折した正義感から回りの人におだてられ、組合活動の先頭に立っていた。後年、組合活動に対しても懐疑的になったのは、お互いの議論よりも何でも反対すれば、経営側が譲歩してくる。それが許された時代かもしれないと云う。

 

当時の雰囲気は今日一生懸命働けば、明日の生活はよくなる。一年後にはもっとよくなるかもしれない。だからこそ経営側は低めに回答し、労働側は高めに要求し、ストライキの姿勢を見せながら、高めに妥協をしていたのだと思う。

 

茨城工場の入り口ロビーに置いてある発動機は次のように記されている。「伊讃美発動機(3馬力)昭和26年頃、脱穀機・精米機・籾摺り機に使用。

昭和2527年、創業者高橋庫吉は日平産業伊讃美工場(筑西市川島)に勤めていた。発動機の製造部で旋盤・プレーナー・ジグボーラー等の職人として従事した後、農機販売店に出向した。販売奨励金で資金を貯め、工場閉鎖の時にその資金で協立製作所を設立した。

日平産業伊讃美工場は昭和28年工場を閉鎖し、横浜工場に集約した。昭和59年トヤマキカイと合併して、株式会社日平トヤマとなった。その後平成20年小松製作所の完全子会社となり、コマツNTC株式会社として活躍している」

 

昭和28年、伊賛美工場を閉鎖し、横浜工場に統合するとの発表があった。工場の跡地は日立化成が従業員ごと買収したが、管理職や一般従業員で妻帯者は再雇用しないとのことだったが、社宅は1年近く使用が認められたので、庫吉は妻子を残し、一人東京に仕事を求めて出かけていった。

 

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                相撲が好きだった創業者19歳の時(前列右端)

70号ブログ写真①.jpg                     中国に出征する時の記念写真

創業への道(2)

 当初、旋盤工を希望したが欠員がなく製造部のプレーナー(平削盤)工として入社した。腕の良い職人と評価され、フライス盤工としても活躍し、その後冶工具課に配属されジグボーラーを操作して冶具を製作していた。発動機のクランクシャフトが入る内径加工では、直径が大きいため加工するフライス盤やジグボーラーがなかったので、旋盤の刃物台を外して、台の上に取付け冶具を製作し、旋盤のチャックに刃物を取り付け回転させ、内径の加工作業を行う。旋盤のチャックは加工物を回転させるのであって、刃物を回転させるものではない。まさに逆転の発想である。日平産業は3馬力の伊賛美発動のブランドで、農業機械の脱穀機・精米機等の駆動源として好調に販売を伸ばしていた頃である。

 

次に配属されたのは組立と試運転、その次は技術員として代理店を回り指導に当たっていた。そして技術員として下館の塚田農機に出向を命じられた。出向期間中、農機具店の拡販のため販売員も依頼された。月に1台のペースで発動機を販売し、成績はトップにいたと云う。当時は1台の発動機を販売するとバックマージンとして1万円、付属の備品のマージンでも5千円が支給された。当時の給料が5千円であるから給料の2.5ヵ月分の販売奨励金を得ていた。約2年半、毎月1台の販売を続けることができたので、蓄財が出来たと云う。なぜ毎月販売できたのか。農家が困っていると休みや時間に関係なく相談にのり、農業機械の修理を自分で行った。また軽微な修理では費用は取らなかった。頼りになる農機具店の人間がいると農家の評判を呼び次々に親戚や友達の農家を紹介してくれたことが、販売のトップセールスマンとしての成績を維持したのだと云う。しかし農機具店でお金を貯められるからと割り切っていたが、自分が知らないうちに同僚から成功したことへの妬みを受けていた。

 

創業者・庫吉は述懐する。製造部に所属していたとき、自分は機械工として誰にも負けない技術技能を持っている。しかしなぜか昇進できなかった。なぜなのか何が問題なのか。急に作業者が休んだ時など、良く便利屋に使われていたが、自分は何でも出来るのだとの自負心から積極的に協力しているのにと不満を持っていたと云う。そんな時、組合に誘われ執行委員になった。

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