いるが、みすぼらしい感じがした。調べてみると、目的地の場所を間違えた。東太田4丁目の交差点を左に曲がれば、太田茶臼山古墳(継体天皇陵)があったのだ。全体の地図を見ないで、継体天皇のキーワードだけで選択したので、間違えてしまった。
継体天皇はなぞに満ちた天皇と言われている。『日本書紀』によれば、506年に大変な暴君と伝えられる25代・武烈天皇が崩御したが、子がなかった。仁徳天皇から続いてきた直系の皇子が不在になったという。そこで越前(福井県)の傍系から婿を迎え入れるかたちで、新たな王が生まれた。これが継体天皇である。彼は武烈天皇の姉にあたる手白香皇女を皇后とした。
継体天皇は応神天皇の5世の孫とされる。また稚野毛二派皇子(応神天皇の第5皇子)を高祖父に持つ家柄であったとされる。もともとは父の居住地である近江 (滋賀県)で生まれ、父の死後は母の実家とされる越前で育った。子孫とはいえ応神天皇から100年は超える疎遠な傍系王族だったとのこと。太田茶臼山古墳(継体天皇陵)の見学は、ホテル到着が予定より遅れているので、そのまま高槻に向うことにした。171号線にでて、左折し、高槻駅に向かい、高槻サンホテルに着いたのは、予定よりも大分遅れて午後5時半だった。
到着と同時に友人の松本さんにメールを送った。昨年の中山道の旅で十三日目に彦根から守山宿の約40kmを一緒に歩いた友人だ。ホテルで待ち合わせし、翌日の京都までを一緒に行く予定だ。松本さんから到着のメールが入り、早速ホテル近くの焼き肉屋に入り、ビールと焼肉を堪能した。飲みながら話が弾んだ。朋あり遠方より来たるまた楽しからずや。京都までの予定を確認して、8時20分に店を後にし、ホテルに帰った。10時就寝。
に入って、菅野三平のプロフィールをみて驚いた、忠臣蔵の一人だった。かすかな記憶で吉良邸の討ち入りに来られなかった義士がいることは知っていたが、菅野三平の事だった。大阪府指定史跡の説明によると「菅野三平重實は、江戸時代の延宝三年(1675)父重利、母小満の三男として当地に生まれた。三平重實は十三才の時に、父の主君である美濃の旗本大嶋出羽守の推挙により、播州赤穂五万石 藩主 浅野内匠頭長矩の中小姓として疲れるようになった。
元禄十四年(1701)三月十四日、江戸城松の廊下で幕府勅使供応役の浅野内匠頭長矩が高家肝煎りの吉良上野介義央に対して刃傷におよんだ赤穂事件の後、三平重實は大石内蔵助良雄を中心とするかたき討ちの同志に加わっていたが、三平重實を推挙した大嶋氏に迷惑がかかることを心配した父の反対と主君への恩義との板挟みに苦しみ悩み、ついに主君の月命日を自分の最後の日と決め、元禄十五年(1702)一月十四日、当地に於いて自刃し二十八才の生涯を閉じた。『涓泉(けんせん)』の名は三平重實の俳号で、多くの優れた句を残した文化人でもあった。」と記されてあった。討ち入り後、赤穂義士を預かっていた細川家の世話役が、大石内蔵助が生前「三平が生きていたら一列に加わるべき者であった。」と云う話を聞き、泉岳寺に明和四年(1767)に墓標を建てているとのこと。旧邸内を見学し、三平重實の人となり、俳人として、文化人としてこのような人物がいたことに感動を覚えた。
171号線に戻り、郡山本陣跡を目指した。清水交差点を右折し、府道1号線にでて、モノレールの豊川駅を左折すると、西国街道に入る。道なりに進んで行くと、勝尾寺川の橋を渡り、再度、勝尾寺川の鍛冶屋橋を渡って、まもなく郡山宿に入った。郡山宿は京都と西宮を結ぶ西国街道沿いに、かつて山崎・芥川・郡山・瀬川・昆陽の五つの宿駅があり、郡山本陣はその中央にあって重要な役割を果たしていた。
この本陣は、享保三年(1718)に類焼にあって、建物と共にほとんどの古記録が焼けてしまい、現在の建物は享保六年(1721)に、西国大名の寄付によって再建され、現存するのはここだけという。残された宿帳から、摂津・備前・備中・美作・四国の讃岐などの大名や、忠臣蔵で有名な赤穂城主・浅野内匠長矩が宿泊し、また慶応元年(1865)七月十五日に、明治天皇が立ち寄っているとのこと。この本陣の正門の脇に椿の大樹があり、見事な五色の花を咲かせたことから、いつしか「椿の本陣」と呼ばれるように立ったとのこと。
更に西国街道を進む。勝尾寺川沿いに、新豊川橋の交差点を真直ぐ行き、しばらく進むと「中川清秀由緒地」が目に入った。中川清秀は本能寺の変で信長が亡くなったことを、備中に出陣中の豊臣秀吉のもとに知らせ、その後の山崎の合戦では清秀は、秀吉軍の先鋒として活躍した。秀吉が柴田勝家と対立した「賤ケ岳の戦い」では秀吉軍として出陣したが、戦死した。清秀42歳だという。後に秀吉から賤ケ岳七本槍の一人として、勇猛さを伝えられた。
更に西国街道を行く。程なく、勝尾寺川の橋を渡り、46号線の耳原交番北の交差点を直進し、名神高速道路の三島高架橋を右折して、道なりに行くと、安威川にでて、橋を渡り、東太田4丁目の交差点を右に曲がり、ナビに導かれるままに進むと「継体天皇陵陪塚ろ号」の石碑があった。団地の中に囲まれて、厳重に丈夫な網の格子で囲まれて
師直・師泰父子は京都へ帰る途中、武庫川を過ぎたあたりで敵方に襲われ討たれたと云われている。場所はよくわからないが、江戸時代の山田村にはすでに高師直塚があり、文化3年(1806)年完成の「山崎通分間延絵図」にも塚地が西国街道北側に描かれている。大正4年(1915)になって村の人々が石碑を建てたが,その後場所が転々とかわって現在地に移ったとのこと。師直塚から10分位で昆陽寺(こやてら)に着いた。
昆陽寺は天正5年(733)僧行基の開創と伝えられている。その後、天正7年(1579)織田信長の兵火にかかって、一山の堂塔を消失したという。山門は、旧西国街道に面して立っている。層周囲に縁をめぐらし、細部に見る絵様繰形の形式手法は江戸中期のもので、豪壮な山門は県かでも類例がなく貴重な構造であると云われている。次に向うのは「伝和泉式部の墓」まで、約3㎞の道のりだ。歩き始めて程なく、「西国街道の碑西天社前」」の信号を斜め右に曲がり、旧西国街道に入る。少し進むと「西国街道昆陽宿跡碑」の説明板が設置されてあった。
更に進んで行くと、稲野小学校前の道標が立っていた。道標の詳しい事は分からなかった。伊丹警察署前の信号を通り過ぎると、「西国街道の碑」があった。碑には江戸時代には大名行列をはじめ商人や巡礼などが行き交い、俳人の松尾芭蕉や地理学者の伊能忠敬らもこの道を通ったと記されてあった。
また碑には宿場町が西宮、昆陽、瀬川、郡山、芥川、山崎、京都までの道中筋宿場一覧表が記されてあった。少し先に伊丹坂の地蔵尊が在る所を斜め右方向に行くと、伝泉式部の墓に到着した。墓の周囲は一般の民家の駐車場らしきところであるが、ホームページでは「和泉式部の墓は、旧西国街道の伊丹坂に臨む崖上の小堂内にある、高さが152センチ程の花崗岩製の美しい五輪塔
十四日目 4月28日 金曜日
ホテルを5時50分に出発して、昨日行くことが出来なかった海軍操練所跡に向い、6時に到着した。海軍操練所跡は現在の中央区新港町にあり、錨(いかり)の形をした記念碑が建っている。神戸海軍操練所は、「明治維新の中心人物として幕末の志士たちに大きな影響を与えた勝海舟は、神戸を拠点に壮大な構想を実現させようとしました。海軍操練所跡は現在の中央区新港町にあり、錨(いかり)の形をした記念碑が建っている。
神戸海軍操練所は、「明治維新の中心人物として幕末の志士たちに大きな影響を与えた勝海舟は、神戸を拠点に壮大な構想を実現させようとしました。操練所の開所期間は非常に短かったものの、その間に坂本龍馬、陸奥宗光など新しい時代を担う人々を育て、日本の海軍の歴史にも大きな足跡を残した。」とのこと。
すぐ近くに神戸の発展に寄与した網谷吉兵衛の顕彰碑が建てられていた。碑には「72歳にして安永新田に船蓼(ふなだて)場(舟底の貝殻や舟虫などを焼く場所)の建造に着手、苦節三年大願成就する。1863年時の将軍家茂公が小野浜に上陸の際『この地は港に最適でございます』と進言し、後年この船蓼場は勝海舟の幕府海軍操練所となって、神戸港の夜明けを迎え、今日の繁栄の基礎となる。
明治2年9月3日天寿八十戸歳」と記されてあった。三ノ宮駅発6時25分電車に乗り、芦屋駅に6時33分に到着、ここからが高槻に向けての第一歩が始まる。最初の訪問地は西宮神社まで約3㎞、途中、西国街道(171号線、国道2号線)に出て、着いたのは7時15分頃だった。西宮神社(にしのみやじんじゃ)は、兵庫県西宮市社家町にある神社で、全国に約3,500社あるえびす神社の総本社であり、地元では「西宮のえべっさん」と呼ばれているという。