六日目 4/20木曜日
ところがナビの画面が固まってしまい、道順が表示されない。このホテルは広島サミット関係者も宿泊するので、1ヶ月後に控えたサミットのため、警備が厳重だ。玄関を出ると左右の交差点に警官が一人ずつ配置されている。私がスマホの画面を回復しようとしている姿は、警備している警官から見れば、挙動不審者に見えるかもしれない。職務質問でもされると面倒だと思い、サングラス・マスク・帽子を取って、警官の方に向かって行き、道を尋ねた。
「東広島市に行きたいが、この道でいいですか」、警官「車ですか」と聞かれたので、「いえ、歩いて行きます」といったら、怪訝な顔をしたので、これから京都まで、歩いて行きますと説明した。大筋の道を聞いたので、歩きながらスマホの電源を切り、再起動したら、回復した。20分程で京橋川の上柳橋を渡り、真直ぐに進み、駅前大橋南詰の信号を直進し、猿侯川復元記念モニュメントを左に見て、猿侯川の猿侯橋を渡った。ナビにこの道が西国街道(山陽道)だとある。山陽新幹線、芸備線、呉線そして山陽本線広島駅から出ている4線の陸橋を渡って、才蔵寺手前を右折し、温品川の府中大橋を渡った。スマホのナビ画面は、ある縮尺になると道路に西国街道と記してある。今頃気が付いた。道に迷わずに済む。しばらく進むと、安芸山陽道の道標があった。歩いて旅する者にとってはうれしいかぎりだ。
比丘尼坂を上がって行き、舟越峠を越えていくと町中に、織田幹雄生家跡があった。織田幹雄は明治38年、安芸郡海田町で生まれ、昭和3年オランダアムステルダムで開催された第9回オリンピックの三段跳びで優勝し、日本人初のオリンピック金メダリストになった人である。地図で見ると海田脇本陣はすぐ近くだが、標識がない。近くを行ったり来たりしたが分からない。
役所の広場の中に入っていくと、右わき奥に掲示板の隣に説明板があった。すぐ近くにある「千葉家住宅」は、数少ない江戸時代中・後期の建築様式を今にえ、玄関は入母屋(いりもや)造り、座敷は数寄屋風書院(すきやふうしょいん)造りで、寛政元年(1789)の建物略図も残っているという。
成本、石原を通っていくと安芸中野駅手前に「中野砂走の出迎えの松」がある。案内板によると、旧国道沿いに立ち並ぶ松並木は、西国街道にかつて植えられていた海道松の名残で、樹齢150~250年と推定され、「出迎え松」の名は、当時参勤交代の責を終えた安芸国の藩主を家来や村人がこの松の辺りまで出迎えたという。瀬野川と平行に走る山陽本線沿いに進んで、安芸中野駅前に着いた。大野浦駅からの時刻表をスマホで調べると、11時14分発の電車があった。広島駅到着は11時48分だ。歩いて行くと5時間強かかるが、電車だとわずか34分だ。計画の廿日市と古江はパスしたが、止むを得ない。広島駅に着くと、駅内は活気にあふれていた。ここに来るまで旧街道を歩いていたから、過去から現代にタイムスリップした感じだ。
時間は十分にあるので、駅から広島城に歩いて行くことにした。およそ1.5km約20分の距離だ。京橋川の栄橋を渡り、広島城の正面に行くと池田勇人銅像が立っていた。
お堀を通って裏御門跡、南小天守跡、東小天守跡、天守閣、広島大本営跡、本丸御殿広間跡、広島護国神社、中国軍管区司令部防空作戦室原爆被災説明板とほぼ一周して広島城の見学を終わらせた。
途中、町並みを見学しながら、広島市役所に向った。広島サミットを1ヶ月後に控えて、町並みが綺麗に整えられている。追い込みの工事が何ヵ所か見られた。右足小指が痛くなってきたので、タクシーで市役所に行った。案内の人に聞くと不在者投票は市役所ではなく、北区役所で投票できると云われ、道路の真向いにある区役所に行った。
訪問の目的を告げると職員3人が対応してくれ、別室に通され投票した。投票用紙を筑西市返信用封筒に入れるのを確認して、初めての不在者投票が終わった。私は物好きだから普段やらないことを体験したが、スマホで投票できる人は、いつでもどこでも投票に行けるようにしてほしいものだ。
本場の広島焼が食べたかったので、普段、産業界で世話になっている日刊工業の茨城支局長が広島出身だと聞いていたので、メールでお薦めの店を教えてもらった。
それによると「みっちゃん総本店八丁堀店」が良いとのこと。午後5時45分店に入ると仕事帰りの人たちが男女を問わず、満席だった。運よくカウンター席が一つ空いていたので、そこに座り、生ビールと八丁堀セット3,000円を注文した。スペシャルお好み焼き(焼きそば入り)、牡蠣焼きがついている。
生ビールを一気に三分の一程度飲み、牡蠣焼き7個を食べた。次にお好み焼きだ。関東よりキャベツの量が圧倒的に多く入っている。写真は上から取ったので、ボリュウーム感に乏しいが、実際は厚みも十分で、美味しかった。ホテルには途中でコンビニにより、明日の朝食と靴下を買った。右足小指が痛いので、少し厚みのある靴下を探した。今日は電車に乗ったが、総距離30km、43,861歩だった。明日の天気は12℃から最高で21℃、丁度良い天気だ。9時に就寝。
関戸宿は山陽道の本陣が置かれた宿場町、本陣跡近くには松陰が当地で詠んだ詩を刻んだ碑がある。松陰は安政の大獄によって江戸に護送される際、防長惜別の地である小瀬の渡し場で、歌を詠んだと云われている。
6時50分にこの地を立って、古い家並みを通り過ぎると旧山陽道の道標が建ててあった。このような道標は道を間違えないで済むので、大変ありがたい。小瀬峠の標高は低いのだが、竹林が多くカーブが少なく一直線に上るような道なので結構きつい。朝早いこともあり行きかう人はいなかった。静かな山の中をゆっくり歩いた。
少し先に吉田松陰歌碑があった。長州藩の東端にある岩国・小瀬川は、陸路で旅をする長州藩士にとって、故郷との別れの地であり、帰藩に安堵する地でもあったという。松陰は生涯4度、岩国を通っている。最初22歳の時、江戸遊学に胸躍る旅路だったが、江戸から東北へ行った折に、藩の許可証を持たずに出かけたため、脱藩の罪で帰国命令を受けた。
2度目は再び江戸遊学の許しを受け、舟で江戸を目指す途中、岩国に立ち寄った。3度目の岩国通過は物々しい護送となった。ペリーの黒船による密航を企てたが、失敗し、罪人となって帰藩した。
4度目は日米修好通商条約の調印を批判し、江戸への護送を命じられ、岩国を通過した。小瀬川で、松陰は長州への決別の思いを歌に託した。「夢路にもかへらぬ関を打ち越えて今をかぎりと渡る小瀬川」と読まれ、夢の中でも戻れないという歌の如く、この年10月に松陰は29歳の若さで処刑された。小瀬川にはこの歌の碑がひっそりと佇み、松陰の想いを現在へ伝えている。
松陰歌碑から小瀬川沿いに進み、和木町立和木小学校を過ぎ、大和橋を渡り、長州の役戦跡碑に着いた。到着は8時半だった。跡碑は幕末、江戸幕府は二度に
その後台風により橋は流失し、昭和28年1月に再建され、現在の橋は、平成13年度から平成15年度にかけて橋を架け替えられた。橋の長さは、橋面にそって210m、直線で193.3m、幅5m、橋脚の高さ6.64mとなっている。錦帯橋といえば、周囲の景観と調和した美しい姿が特徴ですが、木組みのアーチや橋脚、その橋脚を支える敷石等の技術は、現代の土木工学においても通用する技術である」と記されあった。
宿泊の末岡旅館は5分程で着いた。昭和の初めに建てられ、ろくに修理もしていないと、フロントのご主人が自嘲的に話した。部屋に案内されると8畳二間で広いが、トイレ・風呂は共同である。コロナの非常事態で観光客の姿も少なく、宿泊客は私一人だった。お好み焼きが食べたくなり、10分程で店に到着したが、閉店だった。他にも当たったが同じだった。仕方なくコンビニで食事とおつまみ・ビールを買い、部屋に戻って食事をとった窓から見る錦川と河原、錦帯橋と奥の山の頂上には岩国城が見える。
その景観を眺め、ビールを飲んだ。本日は43.5km、62,182歩の旅のだった。両足の小指が痛い。明日は歩き出すまでが大変だ。明日の天気は晴れの予報だ。9時に就寝した。薄曇り少し寒い、風は微風。国道2号線を久保市に向けて歩き始めた。しばらくすると左手に山陽新幹線と岩徳線の二線が平行して、こちらに向ってくる。しばらく並行していくと、旧道に出た。汐入峠を越えて、7時40分頃久保市に着いた。ここから山陽本線の勝間駅まで、約5kmの距離で、国道2号線とほぼ同じ道のりを行く。
標高の低い峠を越えて、山陽本線の踏切を渡り、少し歩くとまた山陽本線の踏切を渡り、勝間駅に8時40分に着いた。ここも無人駅だった。国道2号線を進み、ガソリンスタンド手前の信号を右折し、旧道に入っていく。岩徳線の踏切を渡ると、左に西善寺というお寺が見える。
この辺りが呼坂(よびさか)宿だ。少し先に「吉田松陰 寺島忠三郎決別の地」の顕彰碑と辞世の碑があった。安政六年五月吉田松陰は江戸に送られることになり、25日檻輿(囚人用の籠)は萩を発し、小郡を経て山陽道を東進し、高水村を通過した。忠三郎は当時高水におり、呼坂に於いて師と無言の別れを告げた。
寺島忠三郎は天保14年(1843)近習寺島大治郎の二男として生まれ、16才で松下村塾に入り、吉田松陰の弟子となり、尊王攘夷運動に尽くしたが、禁門の変に際して久坂玄瑞と共に自刃した。寺島忠三郎生誕の地はこの少し 先にある。
中村川の呼坂橋を渡ると呼坂本陣跡があった。呼坂本陣跡は防長両国を東西に通じる山陽道は古くから開け、万葉集に歌われ、また、南北朝時代の旅日記「道ゆきぶり」に現在の呼坂の地名が「海老坂(えびさか)」と記されているという。
江戸時代、河内家は代々庄屋や大庄屋を 勤め、天明年間(1781)より七左衛門が本陣を引き受け、参勤交代の大名や幕府の上使が宿泊や休憩をしたと云う。左手に高水駅をみて、先に進み、岩徳線の踏切を渡り、今市宿に入った。
高水村塾之址の石碑と浄土宗正覚寺を、右に曲がり道なりに進むと、芭蕉塚があり石碑に俳句が彫られているが、文字が薄れ判読が出来なかった。更に道なりに進み踏切を渡り、進むと「郡境の碑(山陽道中山峠)」と石碑に彫られた道標があった。「従是東玖珂郡 従是西熊毛郡」と記してあり、東玖珂方面に足を進めた。中山峠の山中を歩く。行きかう人はいない、静かな山の中を歩くと水の流れる音が絶え間なく、聞こえてくる。山の斜面から、小さな水の流れ、少し大きな水の流れを、あちこちから見ることが出来る。このような空間で水の流れる音だけが聞こえる体験は初めてだ。
少し行くと石仏4体ありと絵地図に記されてある。調べたが、由来が分からない。ここはもう岩国市だ。島田川支流の橋を渡り、島田川沿いに進むと左手に、米川駅が見える。のどかな日和の中、島田川沿いをのんびりと歩いた。島田川支流を渡って、真直ぐに行くと旧山陽道だが、少し寄り道をして高森天満宮に着いたのは11時40分だった。
高森天満宮由緒には、菅原道真公を主神に奉ってあり、延喜元年菅原公57歳の時、左大臣藤原時平が右大臣である道真公を政敵として排除し、九州に左遷された道真公は太宰府の途中、当地梅林またの名を緑江の里で島田川に面した岸辺にコンコンと湧き出る泉で喉を潤し、長旅の疲れを癒されたと伝えられている。この由緒ある地に総持寺の勝宗和尚により祠が建立されたと云われている。