山陽道・西国街道旅日記

山陽道・西国街道旅日記 六日目(P32~33/P89)

六日目 4/20木曜日

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5時起床。前日、コンビニで買ったおにぎりで朝食を済ませ、出発は615分。右足小指の治療を行い、昨日買った靴下をはいてみた。痛みがいく分和らいだ。今日は海田脇本陣、山陽本線の安芸中野駅、瀬野駅、八本末駅、西条駅を通って、東広島駅前にある「東横イン東広島駅前」までの約41kmだ。チェックアウトし、ロビーに出ると何人かの人がいたが、私の服装は際立っていた。帽子、サングラス、マスク、黄色の半袖ティーシャツそしてリュックを背負い、靴はトレッキング用の靴、何とも違和感のある服装だ。ロビーから玄関に出て、スマホのナビで旧山陽道に行く道を確認した。


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ところがナビの画面が固まってしまい、道順が表示されない。このホテルは広島サミット関係者も宿泊するので、1ヶ月後に控えたサミットのため、警備が厳重だ。玄関を出ると左右の交差点に警官が一人ずつ配置されている。私がスマホの画面を回復しようとしている姿は、警備している警官から見れば、挙動不審者に見えるかもしれない。職務質問でもされると面倒だと思い、サングラス・マスク・帽子を取って、警官の方に向かって行き、道を尋ねた。


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「東広島市に行きたいが、この道でいいですか」、警官「車ですか」と聞かれたので、「いえ、歩いて行きます」といったら、怪訝な顔をしたので、これから京都まで、歩いて行きますと説明した。大筋の道を聞いたので、歩きながらスマホの電源を切り、再起動したら、回復した。20分程で京橋川の上柳橋を渡り、真直ぐに進み、駅前大橋南詰の信号を直進し、猿侯川復元記念モニュメントを左に見て、猿侯川の猿侯橋を渡った。ナビにこの道が西国街道(山陽道)だとある。山陽新幹線、芸備線、呉線そして山陽本線広島駅から出ている4線の陸橋を渡って、才蔵寺手前を右折し、温品川の府中大橋を渡った。スマホのナビ画面は、ある縮尺になると道路に西国街道と記してある。今頃気が付いた。道に迷わずに済む。しばらく進むと、安芸山陽道の道標があった。歩いて旅する者にとってはうれしいかぎりだ。

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比丘尼坂を上がって行き、舟越峠を越えていくと町中に、織田幹雄生家跡があった。織田幹雄は明治38年、安芸郡海田町で生まれ、昭和3年オランダアムステルダムで開催された第9回オリンピックの三段跳びで優勝し、日本人初のオリンピック金メダリストになった人である。地図で見ると海田脇本陣はすぐ近くだが、標識がない。近くを行ったり来たりしたが分からない。   

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役所の広場の中に入っていくと、右わき奥に掲示板の隣に説明板があった。すぐ近くにある「千葉家住宅」は、数少ない江戸時代中・後期の建築様式を今にえ、玄関は入母屋(いりもや)造り、座敷は数寄屋風書院(すきやふうしょいん)造りで、寛政元年(1789)の建物略図も残っているという。

270-6.jpg成本、石原を通っていくと安芸中野駅手前に「中野砂走の出迎えの松」がある。案内板によると、旧国道沿いに立ち並ぶ松並木は、西国街道にかつて植えられていた海道松の名残で、樹齢150250年と推定され、「出迎え松」の名は、当時参勤交代の責を終えた安芸国の藩主を家来や村人がこの松の辺りまで出迎えたという。瀬野川と平行に走る山陽本線沿いに進んで、安芸中野駅前に着いた。

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そのまま行くと山陽道だが、斜め右に山陽本線の下を通り抜け、左の曲がると瀬野川沿いの道に出た。川沿いを歩くと気分が変わる。20分程歩いて踏切を渡って、山陽道に合流し、中野東駅を通り過ぎた。                   

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安芸山陽道を順調に進んで行くと、左手に広島国際学院大学の校舎が見え、1040分に瀬野駅に着いた。
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この辺りは国道2号安芸中野~中野東の道線、山陽本線と旧道が絡みつく   
芸中いに


山陽道・西国街道旅日記 五日目(P29~31/P89)


269-1.jpgわたり、長州藩を攻めた戦い。長州戦争、などとも呼ばれ、幕府は蛤御門の変を理由に、元治元年(1864)長州へ出兵したが、外国の連合艦隊の下関来襲で危機に立っていた長州藩が恭順したので、戦わずに撤兵した。後に、長州藩首脳はこの処置に不満を抱いた高杉晋作らの強硬派が恭順派一掃し、幕府に対抗する姿勢を示した。幕府は第二次長州征伐で出兵したが、敗退し撤退した。長州の役戦跡碑は小瀬川西岸に佇んであった。苦の坂峠を越え、大竹市に入って進み、山陽本線と国2号線が平行に入っているところに合流した。絵地図ではここから西の山側を通っていくようになっているが、国道2号線の歩道を行くことにした。

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右側は瀬戸内海が見え、海岸沿いに工業地帯が、左側にはすぐ山が迫っている。大竹市役所を通り、945分に玖波駅に到着した。
工業地帯の大きな工場や国立病院等大きな施設があるが、玖波駅は駅が小さいと感じた。

周りに就労場所が多くあるのに、この駅で通勤時の混が起きないかなどと考えながら玖波駅を後にした。

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次のチェックポイントは山陽本線の大野浦駅だ。ここからは国道2号線を行くことにした。2号線は瀬戸内海海岸沿いで、景観が良いからだ。
瀬戸内海には牡蠣の養殖場がたくさん見られ、右斜め前方には大きな島が見える。厳島(いつくしま)だ。大野浦駅に着いたのは11時だった。ここで休憩を取り広島市役所に電話した。というのも出発前に統一地方選挙の期日前投票を広島市で行う予定を立てていた。期日前投票は20時頃まで出来ると思っていたが、念のため市役所に電話をかけて確認した。広島市役所到着時間は午後450分なので、大丈夫ですかと尋ねたところ、不在者投票は午後5時までしかできないと言われた。なんでと質問したが、髙橋さんは期日前投票ではなく、不在者投票ですと云われ、なすすべがなかった。そこで急遽予定を変え、山陽本線で広島駅に行くことにした。  残念。

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大野浦駅からの時刻表をスマホで調べると、1114分発の電車があった。広島駅到着は1148分だ。歩いて行くと5時間強かかるが、電車だとわずか34分だ。計画の廿日市と古江はパスしたが、止むを得ない。広島駅に着くと、駅内は活気にあふれていた。ここに来るまで旧街道を歩いていたから、過去から現代にタイムスリップした感じだ。

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時間は十分にあるので、駅から広島城に歩いて行くことにした。およそ1.5km20分の距離だ。京橋川の栄橋を渡り、広島城の正面に行くと池田勇人銅像が立っていた。

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   お堀を通って裏御門跡、南小天守跡、東小天守跡、天守閣、広島大本営跡、本丸御殿広間跡、広島護国神社、中国軍管区司令部防空作戦室原爆被災説明板とほぼ一周して広島城の見学を終わらせた。

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途中、町並みを見学しながら、広島市役所に向った。広島サミットを1ヶ月後に控えて、町並みが綺麗に整えられている。追い込みの工事が何ヵ所か見られた。右足小指が痛くなってきたので、タクシーで市役所に行った。案内の人に聞くと不在者投票は市役所ではなく、北区役所で投票できると云われ、道路の真向いにある区役所に行った。

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訪問の目的を告げると職員3人が対応してくれ、別室に通され投票した。投票用紙を筑西市返信用封筒に入れるのを確認して、初めての不在者投票が終わった。私は物好きだから普段やらないことを体験したが、スマホで投票できる人は、いつでもどこでも投票に行けるようにしてほしいものだ。


269-10.jpg今夜宿泊は4星ホテルのリーガロイヤルホテル広島だ。この旅を通じて一番良いホテルだ。チェックイン後、コインランドリーに行き洗濯をした。シャワーを浴びて汗を流し、食事に行く。  

本場の広島焼が食べたかったので、普段、産業界で世話になっている日刊工業の茨城支局長が広島出身だと聞いていたので、メールでお薦めの店を教えてもらった。

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それによると「みっちゃん総本店八丁堀店」が良いとのこと。午後545分店に入ると仕事帰りの人たちが男女を問わず、満席だった。運よくカウンター席が一つ空いていたので、そこに座り、生ビールと八丁堀セット3,000円を注文した。スペシャルお好み焼き(焼きそば入り)、牡蠣焼きがついている。

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生ビールを一気に三分の一程度飲み、牡蠣焼き7個を食べた。次にお好み焼きだ。関東よりキャベツの量が圧倒的に多く入っている。写真は上から取ったので、ボリュウーム感に乏しいが、実際は厚みも十分で、美味しかった。ホテルには途中でコンビニにより、明日の朝食と靴下を買った。右足小指が痛いので、少し厚みのある靴下を探した。今日は電車に乗ったが、総距離30km43,861歩だった。明日の天気は12℃から最高で21℃、丁度良い天気だ。9時に就寝。 

山陽道・西国街道旅日記 五日目(P27~28/P89)

五日目 4/19水曜日
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5時起床。前日、コンビニで買ったおにぎりで朝食を済ませ、窓の外から夜明けの錦川、錦帯橋の写真を撮った。昨夜治療した右足小指のマメが痛いので、再度消毒液を使い、大きいバンドエイドで小指を巻くように貼り付け、痛みを和らげた。治療に時間がかかったが、予定通り6時に出発した。 


268-2.jpg朝の澄んだ空気を吸い、錦川沿いに進み、錦城橋を通り過ぎたところで、山の頂にある岩国城を仰ぎ見た。岩国城は岩国藩主吉川広家によって、慶長13(1608)に作られた山城で、眼下を流れる錦川を天然の外堀にし、標高約200mの城山に位置しているという。この道は藤生停車場錦帯橋線(岩国道)と長い名前がついていた。約30分で関戸宿にある目的地吉田松陰東遊記念碑に着いた。

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関戸宿は山陽道の本陣が置かれた宿場町、本陣跡近くには松陰が当地で詠んだ詩を刻んだ碑がある。松陰は安政の大獄によって江戸に護送される際、防長惜別の地である小瀬の渡し場で、歌を詠んだと云われている。

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650分にこの地を立って、古い家並みを通り過ぎると旧山陽道の道標が建ててあった。このような道標は道を間違えないで済むので、大変ありがたい。小瀬峠の標高は低いのだが、竹林が多くカーブが少なく一直線に上るような道なので結構きつい。朝早いこともあり行きかう人はいなかった。静かな山の中をゆっくり歩いた。

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右足小指は痛いというより、ジンジンとしびれる感じだが、問題なさそうだ。一本道だが、途中「旧山陽道」の道標があり、道を間違えないことから、この地域を管轄する人たち(岩国市教育委員会)に感謝の気持ちが生まれる。小瀬峠を越えたころ「旧山陽道跡」の案内板があった。
山陽道は大化の改新(645)により都(奈良)から九州大宰府までの官道として整備され、七道中唯一の大路であった。古代には「かげとも(南斜面)のみち」とも呼ばれていた。この道は廿日市市大野大竹市小方を過ぎ、小瀬川を渡って岩国市小瀬に入り、山道を越え岩国市関戸に至る道であった。中世に入り、やや荒廃したが、近世の山陽道は、大阪から下関を経て九州小倉を結ぶ行路で、西国大名の参勤交代等により国内陸路の主要道として利用された。小瀬川の渡し場はここより南東50m付近にあった。」と記してある。
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少し先に吉田松陰歌碑があった。長州藩の東端にある岩国・小瀬川は、陸路で旅をする長州藩士にとって、故郷との別れの地であり、帰藩に安堵する地でもあったという。松陰は生涯4度、岩国を通っている。最初22の時、江戸遊学に胸躍る旅路だったが、江戸から東北へ行った折に、藩の許可証を持たずに出かけたため、脱藩の罪で帰国命令を受けた。

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2度目は再び江戸遊学の許しを受け、舟で江戸を目指す途中、岩国に立ち寄った。3度目の岩国通過は物々しい護送となった。ペリーの黒船による密航を企てたが、失敗し、罪人となって帰藩した。

4度目は日米修好通商条約の調印を批判し、江戸への護送を命じられ、岩国を通過した。小瀬川で、松陰は長州への決別の思いを歌に託した。「夢路にもかへらぬ関を打ち越えて今をかぎりと渡る小瀬川」と読まれ、夢の中でも戻れないという歌の如く、この年10月に松陰は29歳の若さで処刑された。小瀬川にはこの歌の碑がひっそりと佇み、松陰の想いを現在へ伝えている。

松陰歌碑から小瀬川沿いに進み、和木町立和木小学校を過ぎ、大和橋を渡り、長州の役戦跡碑に着いた。到着は8時半だった。跡碑は幕末、江戸幕府は二度に

山陽道・西国街道旅日記 四日目(P24~26/P89)

267-1.jpg昼食は高森駅近くのステーキ専門店「高森亭」に入り、冷たい水を何杯もお代わりしてから200gのランプステーキ定食を注文し、英気を養った。昼食後、12時半に出発し、新岩国駅を通って、今夜の宿泊地岩国宿に向けて歩き出した。周りの景色を見ると、小高い山々が見え、道路沿いには様々な店があり、私の地元と変わらない風情だ。東川の橋を渡り、進んで行くと、左側に岩徳線と国道2号線が平行しているのが267-2.jpg見える。

玖珂本郷宿を通り、絵地図に記してある欽明寺に行こうとした。絵地図で見ると欽明寺は道路沿いにあるものと思い、疑いもなく欽明路道路の標識がある道を進んで行った。順調に歩いて行くと、トンネルが見える。絵地図では右に迂回して行くようになっているが、道が見当たらない。トンネルの抜け出たばかりとみられる人が、出口の空地に座り込んでいる30歳代の人がいた。私よりも重装備して、歩いて旅をしているようだ。挨拶を交わすと、このトンネルの歩
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道は大変狭く、歩くのに危険だから気を付けてとアドバイスがあった。お礼を言って、別れを告げ、トンネルの中を進んで行った。

トンネルの中は歩道と呼べるようなものではなかった。歩道は車の路面より15cm高くなっていて、歩道というより側溝で、幅は肩幅と同じくらいの約60cm、側溝には蓋が置かれているが、蓋と蓋の間には大きな隙間がある。躓いて車道側に転ぶと車に接触してしまう恐れがある。このトンネルは交通量が多い。立ち止まったままでも10t車が来ると、風圧で体が引き込まれそうになる。慎重に蓋の隙間に躓かないように、足元をしっかり見定めて歩いて行くが、意外と真直ぐに歩くのは難しい。
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車道側に体が行かないように、気を付けていると左側に体が傾き、その都度左側の壁に腕をこすりつけ、態勢を真直ぐに立て直す。何度も同じことが起こった。大げさに言うと、人生でこれほどの緊張感を持ったことはなかった。右に体が傾くとトラックと接触事故、ドライバーもまさかこのトンネルに歩行者が入るとは思ってもいないと思う。ようやく出口の明かりが見えてきた。通過するのに約20分かかったが、通過した時の安堵感は近年経験したこと がない。後に調べてみると欽明路トンネルというのだそうだ。最初、絵地図を見た時、トンネルの手前に旧山陽道があるように見えるので、疑わずに来てしまった。もと来た道を戻って旧山陽道に行くには、予定の到着時間を大幅に超えて、暗くなってから旅館に着く恐れがあったので、このままトンネルの中を行くことにした。計画は慎重に作らないといい結果が出ない。このような事故に遭う可能性のある計画はしてはならない。

次にトンネルがあったが、300mくらいか、出口の明かりが見える。側溝の幅は1m程度、それほど神経を使わずに済むので、歩きやすい。次のトンネルは同じく300mくらいで側溝の幅は60cm、出口の明かりが見えるので、しっかり足元を見て歩いた。トンネルを出て御庄川を渡るとコンビニがあったので、中に入り、水を買ってから、トイレを借りた。左腕とシャツが埃だらけ、左の壁に擦って着いた汚れを落とすため、腕を洗い、シャツを着替えて、岩国に向った。道なりに進んで行くと、ここは御庄宿だ。岩徳線川西駅を右手に見て川西交差点を左に曲がり、右に小野畳店の十字路を右に曲がり、錦川の臥龍橋を渡って、最初の信号を左に曲がり、錦川沿いを進んで、錦帯橋の入り口に着いた。見事な5連のアーチからなる木造橋だ。橋の入り口には案内板があり、「錦帯橋は延宝元年(1673)第三代岩国藩主吉川広嘉によって創建された。
それまでの橋は、錦川の洪水の度に流されたが、 広嘉の斬新な発想と藩の技術者のたゆまぬ努力によって現在の橋が出来た。
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その後台風により橋は流失し、昭和281月に再建され、現在の橋は、平成13年度から平成15年度にかけて橋を架け替えられた。橋の長さは、橋面にそって210m、直線で193.3m、幅5m、橋脚の高さ6.64mとなっている。錦帯橋といえば、周囲の景観と調和した美しい姿が特徴ですが、木組みのアーチや橋脚、その橋脚を支える敷石等の技術は、現代の土木工学においても通用する技術である」と記されあった。

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宿泊の末岡旅館は5分程で着いた。昭和の初めに建てられ、ろくに修理もしていないと、フロントのご主人が自嘲的に話した。部屋に案内されると8畳二間で広いが、トイレ・風呂は共同である。コロナの非常事態で観光客の姿も少なく、宿泊客は私一人だった。お好み焼きが食べたくなり、10分程で店に到着したが、閉店だった。他にも当たったが同じだった。仕方なくコンビニで食事とおつまみ・ビールを買い、部屋に戻って食事をとった窓から見る錦川と河原、錦帯橋と奥の山の頂上には岩国城が見える。

267-7.jpgその景観を眺め、ビールを飲んだ。本日は43.5km62,182歩の旅のだった。両足の小指が痛い。明日は歩き出すまでが大変だ。明日の天気は晴れの予報だ。9時に就寝した。

山陽道・西国街道旅日記 四日目(P21~23/P89)

四日目 418日 火曜日
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5時起床。前日に買ったおにぎりで朝食を済ませた。出発予定6時だが、右足小指のマメが痛いので、治療に時間がかかり、6時半に出発した。今日のチェックポイントは久保市公園、勝間駅、高水駅、米川駅、周防高森駅、欽明寺、新岩国駅、そして宿泊地岩国の末岡旅館までの約39kmだ。


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薄曇り少し寒い、風は微風。国道2線を久保市に向けて歩き始めた。しばらくすると左手に山陽新幹線と岩徳線の二線が平行して、こちらに向ってくる。しばらく並行していくと、旧道に出た。汐入峠を越えて、7時40分頃久保市に着いた。ここから山陽本線の勝間駅まで、約5kmの距離で、国道2号線とほぼ同じ道のりを行く。

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標高の低い峠を越えて、山陽本線の踏切を渡り、少し歩くとまた山陽本線の踏切を渡り、勝間駅に8時40分に着いた。ここも無人駅だった。国道2号線を進み、ガソリンスタンド手前の信号を右折し、旧道に入っていく。岩徳線の踏切を渡ると、左に西善寺というお寺が見える。

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この辺りが呼坂(よびさか)宿だ。少し先に「吉田松陰 寺島忠三郎決別の地」の顕彰碑と辞世の碑があった。安政六年五月吉田松陰は江戸に送られることになり、25日檻輿(囚人用の籠)は萩を発し、小郡を経て山陽道を東進し、高水村を通過した。忠三郎は当時高水におり、呼坂に於いて師と無言の別れを告げた。 

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島忠三郎は天保14(1843)近習寺島大治郎の二男として生まれ、16才で松下村塾に入り、吉田松陰の弟子となり、尊王攘夷運動に尽くしたが、禁門の変に際して久坂玄瑞と共に自刃した。寺島忠三郎生誕の地はこの少し      先にある。

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中村川の呼坂橋を渡ると呼坂本陣跡があった。呼坂本陣跡は防長両国を東西に通じる山陽道は古くから開け、万葉集に歌われ、また、南北朝時代の旅日記「道ゆきぶり」に現在の呼坂の地名が「海老坂(えびさか)」と記されているという。                                   


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江戸時代、河内家は代々庄屋や大庄屋を    勤め、天明年間(1781)より七左衛門が本陣を引き受け、参勤交代の大名や幕府の上使が宿泊や休憩をしたと云う。左手に高水駅をみて、先に進み、岩徳線の踏切を渡り、今市宿に入った。



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高水村塾之址の石碑と浄土宗正覚寺を、右に曲がり道なりに進むと、芭蕉塚があり石碑俳句が彫られているが、文字が薄れ判読が出来なかった。更に道なりに進み踏切を渡り、進むと「郡境の碑(山陽道中山峠)」と石碑に彫られた道標があった。「従是東玖珂郡 従是西熊毛郡」と記してあり、東玖珂方面に足を進めた。中山峠の山中を歩く。行きかう人はいない、静かな山の中を歩くと水の流れる音が絶え間なく、聞こえてくる。山の斜面から、小さな水の流れ、少し大きな水の流れを、あちこちから見ることが出来る。このような空間で水の流れる音だけが聞こえる体験は初めてだ。 

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少し行くと石仏4体ありと絵地図に記されてある。調べたが、由来が分からない。ここはもう岩国市だ。島田川支流の橋を渡り、島田川沿いに進むと左手に、米川駅が見える。のどかな日和の中、島田川沿いをのんびりと歩いた。島田川支流を渡って、真直ぐに行くと旧山陽道だが、少し寄り道をして高森天満宮に着いたのは1140分だった。

266-11.jpg高森天満宮由緒には、菅原道真公を主神に奉ってあり、延喜元年菅原公57歳の時、左大臣藤原時平が右大臣である道真公を政敵として排除し、九州に左遷された道真公は太宰府の途中、当地梅林またの名を緑江の里で島田川に面した岸辺にコンコンと湧き出る泉で喉を潤し、長旅の疲れを癒されたと伝えられている。この由緒ある地に総持寺の勝宗和尚により祠が建立されたと云われている。 
 
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 見学後、旧道に戻り、高森宿の中心部周防高森駅に到着した。結構大きな街だ。途中、吉田松陰宿泊の地の石碑が、また「作家 宇野千代先生文学の碑 入口」の碑が建てられてあるのを見つけた。

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宇野千代は、大正・昭和・平成にかけて活躍した小説家で、 出生地は岩国市(川西駅)とある。高森本陣跡には「旧山陽道 高森本陣跡」と記された白木が建立されてあった。    

      


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