山陽道・西国街道旅日記

山陽道・西国街道旅日記 十三日目(P71~72/P89)

290-1.jpgの片隅に「旧西国街道」の石碑と「旧西国街道~大路(おおみち)~」の案内板があった。中央幹線を挟んで南北両側に「大路通」という町名があり、この町名の由来は西国街道だと云われている。街道は、時代とともにその役割を変化させてきた。古代(律令時代)には街道の重要度や利用頻度などから大路・中路・小路に分けられ、そのうち山陽道は唯一の「大路」とのこと。その後、中世(鎌倉・室町)時代には公定のルートとしての山陽道は存在しないが、近世(江戸時代)に入ると、江戸幕府は参勤交代のために五街道と脇街道を整備した。西国街道は脇街道の一つで、西国大名の参勤交替に使われたとのこと。

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阪神高速3号神戸線の高架下を通り、妙法寺川に架かる三の井橋を渡り、進むと「蓮池の池跡碑」が目に入った。国の史跡に指定されている蓮ヶ池横穴群一帯を整備した公園の中にあり、18㎡の園内に厩舎、鍛冶屋、横穴群集墓などを再現している。西代蓮池公園にある整備された監物太郎頼賢の碑に向った。監物太郎頼賢は、平家の大将・平知盛の家臣であった。一ノ谷の合戦の際、平家の主力である知盛の軍勢は生田の森に陣取って源氏と戦っていたが、劣勢になると浜へと逃れ船で海上へと退却を始めた。大将の知盛も、嫡男の知章、家臣の監物太郎を伴って海辺へ向かって馬を駆っていた。

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ところがその途中で源氏方と遭遇し戦いが始まった。激闘の末、監物太郎は、大将の嫡男知章を斬った敵を討ち取り、奮闘したが、多勢に無勢、ついに左膝を射抜かれ、討死したと云う。監物太郎が討死したとされる場所は、現在碑がある場所から離れたところとされる。享保年間(1716-1735年)に儒学者の並河誠所が監物太郎の忠義を顕彰するために、討死の地からより人通りの多い西国街道沿いである現在地に移動させたという。平家方の名のある武将が多数討死した一ノ谷の合戦の古戦場周辺には、いくつもの碑が立っている。しかし監物太郎のような平家の郎党身分の者の碑は稀であると云う。

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予定よりだいぶ遅れたので、高田屋嘉兵衛本店の地は行かないで、足を速めたところ、平経俊を祀ってある鎮守稲荷神社と石碑があった。案内板によると「平経俊は、平清盛の甥で一の谷の合戦に華と散った敦盛の兄である。

湊川の合戦で、鵯越の守備についていたが、戦利あらず長田の森を経て、西出の浜へと落ちのびてきたところを、源の範頼の郎党名和太郎に追い迫られ、勇ましくも組打ちとなり当地で落命した。時に寿永三年二月御年わずか十八歳であった。」と記されてあった。あと宿泊地の「ホテルヴィアマーレ神戸」まで、約2.5kmだ。到着予定時間は310分を計画していたが、大幅に遅れているので、海軍操練所跡は行かずに、直接ホテルに向かうことにした。ここからはスマホのナビの案内で、2号線の歩道を行くことにした。

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神戸駅南口前を通り、NTT西日本 神戸駅前電話交換所、栄町通4の信号を過ぎ、栄一丁目の信号を左折し、最初のT字路を右折して、仲町通りに入り、4ブロックの左側角にホテルがあった。2時間遅れの5時になっていた。チェックインして、コインランドリーに向い、シャワーを浴びて夕食に出かけた。途中、「旧神戸居留地十五番館」のプレートがあり、慶応312月の兵庫開港により、126区画、25.8haの外国人居留地が開設され、商館を中心として領事館やホテル、教会などが次々に建てられたと当時の状況が詳しく記されていた。

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ホテルの近くの「ニュー居留地ラフレア」というレストランで、ステーキサンドを頼んだ。本日4462,384歩。見学に時間を要し大幅に遅れた。いつになく疲れたので、部屋に戻り、すぐ就寝。明日は高槻サンホテル。2日後に京都だ。

山陽道・西国街道旅日記 十三日目(P69~70/P89)

289-1.jpgの命を受けて、勝鱗太郎(海舟)の指導のもと、明石藩が築造した砲台場。タオがんの淡路島にある徳島藩松帆台場と協力して、明石海峡を通過する外国船を挟み撃ちにしたと考えられたとのこと。左手にはJR神戸線の舞子駅が見える。明石海峡大橋の下を通り、兵庫県立舞子公園の真ん中を進んで行く。


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この舞子駅は何度か利用し、左手に見える「シーサイドホテル舞子ビラ神戸」でお客様の生産説明会・懇談会を行った。懐かしい思い出だ。海岸沿いの舞子公園は松林が整備されリゾート地の趣がある。ここに来る観光客はこの道が西国街道だと気が付く人は少ないのではないかと思う。


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山陽垂水駅を通り越すとすぐに海神社(わたつみじんじゃ)が目に入った。海神社は「綿津見神社」とも表記され、「かいじんじゃ」とも読まれる。社伝によると、神功皇后が三韓征伐からの帰途、当地の海上で暴風雨が起こって舟が進めなくなったため、皇后が綿津見三神を祀ると暴風雨が治まり、その縁でこの地に綿津見三神を祀る社殿を建てたのが始まりと云う。「日本書紀」に記される広田神社・生田神社・永田神社・住吉大社創建の記述とほぼ同様であるが、「日本書紀」には当箇所の神社の記述はないという。

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福田川を渡り、JR塩谷駅を過ぎ、JR神戸線の塩屋跨線橋を渡り着いたのは1時40分だった。この辺りは源平一の谷合戦場として知られ、寿永3(1184)27日に、当時16歳の平敦盛が、熊谷次郎直実によって首を討たれ、それを供養するためにこの塔を建立したという伝承から「敦盛塚」と呼ばれるようになったという。

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この五輪塔は花崗岩製の総高4mで、中世の五輪塔としては石清水八幡宮五輪塔(京都府八幡市)に次ぎ、全国で2位の規模を誇るという。このほか、鎌倉幕府の執権北条貞時が平家一門の冥福を祈って、弘安年間(1278~1288) に造立したなど諸説があるという。

一の谷の戦いで源義経の逆落としの奇襲で平家を破ったのは有名だが、裏の崖は断崖というほどではなく、本で読んだイメージとはだいぶ違う。また海がこれほど近くに迫っているとは思わなかった。現場を見ると、より想像力が働くのではないか。いつか平家物語や吾妻鏡を読み直してみたいと思う。見学後、遅い昼食をとることにした。幸い敦盛塚の入り口にある敦盛そば屋に入り、蕎麦とそばの実が入ったぜんざいを注文した。蕎麦も美味しかったが、疲れた体にぜんざいは美味しかった。30分で昼食を終わらせ、出発した。ここは須磨浦公園の端にあり、400mほど進むと細長い公園の終わりに「源平史跡 戦の濱」の石碑があった。

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15分程進むと左手に「村上帝社の祠」があった。村上天皇の琵琶にまつわる伝説から、この地に村上天皇を祀り神社としたもので、この地には以前から前方向円墳があり、琵琶に      似ていることから琵琶伝説に結び付いたと云われている。琵琶伝説とは平安末期、太政大臣藤原師長は琵琶の名人であったが、さら奥義を極めたいと入唐の志を持ってこの地に来た。ところが村上天皇と梨壺女御の神霊が現れ琵琶の妙手を授けたので、入唐を思いとどまり帰京したと云われている。見学を終えて、2号線(西国街道)を進み、千守の交差点を左に曲がり、すぐにY字路を右に進むと、2号線と分かれ、西国街道に出る。整備された西国街道は歩きやすい。

山陽道・西国街道旅日記 十三日目(P67~68/P89)

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空港に行き、ポートライナーで三宮駅に行き、乗換えして三ノ宮駅から明石駅に行き、タクシーで工場を訪問した。この場所も何回も来ているが、新幹線で来るのとは景色が違うように感じる。西明石5丁目信号を過ぎ、斜め左に行くと西国街道に戻り、100m程先を右に曲がり、明石城跡に向う。

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明石川の嘉永橋を渡り、右に曲がり道なりに行くと、織田家長屋門がある。案内板によるとこの付近は明石城築城の当時から歴代家老・重臣が住んでいた屋敷跡で、門は舟上城(ふなげじょう)から移籍されたもの、築城は江戸時代初期のもので、門の留め金は室町後期の様式を伝えているという。1020分、明石城跡に到着した。

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入口に大洋漁業株式会社の創業者・中部幾次郎翁の銅像が建立されてあった。幾次郎翁は慶応二年(1866)明石市東魚町(現根本町)に生まれ、幼少のころから父の生魚運搬卸業を手伝い、地方の一個人商店にすぎなかった林兼商店を日本有数の水産会社に育て上げ、昭和21(1946)323日には貴族院議員に勅撰されたが、同年519日八十一歳で没し、浜光明寺に葬られたという。

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「史跡 明石城跡」の石碑があり、その奥は明石城や明石城本丸跡があるが、予定よりも遅れているので中に入らなかった。明石駅の真ん前にあり、仕事で何度も訪れたが、一度も訪れたことがなかった。久しぶりなので、北出口から駅の中を通って、東出口行き、明石銀座通りを通って、道標「みぎ ひめじ ひだり 大坂道」の石碑を左に曲がり、目印の光明寺を通り過ぎ、明石市役所北庁舎の信号を左に曲がり、次の十字路を右に進んだ。


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明石警察署大蔵交番更に大日本中央標準時子午線通過地標識の十字路を左に曲がり、目印地の稲爪神社と大蔵谷駅を目指した。明石は、日本の時刻の基準となる、統計135度子午線が通る「日本標準時のまち」「時のまち」として知られている。これは、明治19年に世界の標準時であるイギリスのグリニッジからちょうど135(9時間の時差)にある位置上の時刻を日本の標準時として定めたものだと いう。

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稲爪神社に着いたのは11時少し前だった。稲爪神社は推古天皇の御代の創建で、不死身の鉄人伝説の宮で勝運の神様が祀られているという。稲爪神社を通り過ぎ十字路を左に曲がり、2号線に出てしばらく歩くと大蔵谷駅が見えてきた。この駅は山陽電鉄線とJR神戸線が並走している。2号線・西国街道を進み朝霧駅を通過すると、右手には大蔵海岸海水浴場がある。

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更に海岸沿いを進み、山田橋を渡り、西舞子一丁目(差点)を右に曲がり、西国街道に入ると、右手には瀬戸内海が広がっていた。神戸舞子学院を左に行き、2号線に合流した。

舞子公園西を通り越し、明石藩舞子台場跡が右に見える。そしてようやく十三日目で神戸市に入った。明石藩舞子台場あと(舞子砲台跡)は幕末に外国船の侵攻に備えて、文久3年(1863)に幕府

山陽道・西国街道旅日記 十三日目(P65~66/P89)

十三日目 4月27日 木曜日

 

5時起床。天気予報は曇り、気温は9℃から19℃だ。足の調子は良い。朝食は昨日買ったおにぎりとパン、牛乳と飲むヨーグルトを食し、6時に出発だ。今日の予定は西国街道に出て、目印の土山駅近く、住友神社、光明寺、敦盛塚、一之谷戦の濱碑、、監物太郎の碑、高田屋嘉平の碑、神戸海軍操練所跡を通って、「ホテルビィルマーレ神戸」までの約40kmだ。穴田荘を出発して、5分もしないうちに西国街道に出る。左に曲がり進んで行く。朝早いので、人は見かけなかった。道の両側には趣のある大きな家があり、往時を偲ばせる街道だ。20分程で、西谷八幡神社があった。

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案内板によると「西谷八幡神社の御祭神は「誉田別命(ほんだわけのみこと)といい、第十五代応神天皇である。降誕のおり屋敷に八本の幟が立てられたことから「八幡さま」の名で親しまれてきた。戦勝を祈願したことに始まり、敵を除けることから「弓矢の神」「勝利の神」として武将から信仰を集めてきた。後に、疫病が流行する中、次第にあらゆる災いを除ける「疫病の神」として名高い神社」と記されてあった。


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神社を過ぎるとすぐに2号線に合流して、約300m進み斜め左に行くと西国街道だ。JR神戸線を通過し、左手に平岡公民館を左手に見て進み、穴田荘を出て1時間位たったころ、公園らしき道を行くと、旧街道らしく芝生の中に「1180年 平清盛が福原に都をうつす」「1192年 源頼朝が鎌倉幕府を開く」など歴史が年代順にわかるようにプレートが埋め込まれてあった。 

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更に30分程で進んで行くと、「清水新田 宝篋印塔(ほうきょういんとう)」の石碑が建っていた。案内板によると宝篋印塔は江戸時代後期に建立され、この辺りは西国街道と呼ばれる街道があり、往来する旅人が数多くいた。江戸時代の旅では途中で命を落とすことも珍しくなく、清水新田の地で行き倒れとなった旅人も多くあった。行き倒れの旅人を供養し、地域に災いが起こらないようにと清水新田の人々がこの地に宝篋印塔を建立した」と云われている。


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更に進んで行き、清水川と瀬戸川を渡っていくと、道標「右あかし道 像」の石碑があった。風化して文字は読み難い。この道標を過ぎると、左側に「臨済宗妙心寺派 公明山西福寺」があり、その先の街道沿いには清水神社鳥居、その奥に清水神社神門、清水神社がある。旧街道には神社仏閣が数多くある。改めて日本の歴史を感じる。この近くには西国街道と並行して2号線が走っており、その2号線沿いに弊社のお客様である建設機械メーカーの事業所がある。また反対方向へkm程の距離にお客様である油圧機器メーカーがあり、何度か訪問したことがある。JR神戸線の魚住駅でタクシーに乗り訪問したが、歩いて近くまで来ると感慨深いものだ。

更に進んで行くと、T字路に突き当り、右に曲がると、2号線に合流する。JR神戸線大久保駅の前を通り過ぎると、「明治天皇大久保御小休所建物」の石碑があった。道なりに進むと、セブンイレブンがある信号を斜め左に行くと、2号線と分かれ西国街道にでて、小さな川を渡ると大久保本陣跡があり、再度、2号線と合流して、左手に雲楽池という大きな池があり、そのまま進んで行くと西明石駅が見えた。この地にも弊社お客様の油圧機器メーカーの工場があり、新幹線でこの西明石駅を降りて、タクシーで行ったものだ。現在では茨城空港から神戸

山陽道・西国街道旅日記 十二日目(P64~64/P89)

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寺境内に入る。入口の門の大きな石碑には「天台園圓宗念仏道場」の文字が彫られてあり、ここは教信寺の総門だ。教信寺は称名念仏の創始者である教信によって開基され、教信は興福寺の僧であったが、奈良の貴族仏教に満足できず、各地を放浪し、現在の加古川野口町にあった賀古駅家(かこのうまや)の北辺に庵を建て、ここを永住の地としたという。

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この少し先に五社宮野口神社があった。五社宮野口神社は、比叡山延暦寺の守護神日吉大社の分霊を祭る由緒ある神社旧西国街道沿いにある五社宮の東南角には、古い道標が立っている。

秀吉の播古磨攻めの際、黒田官兵衛の指揮した秀吉軍と教信寺の僧兵と野口城兵が戦った。野口城は現在の五社宮(野口神社)付近にあったと云われている。

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ここからおよそ15分でビジネス宿泊穴田荘に到着した。女将さんが待っていた。女将さんは話好きだ。私が下関から12日かけて加古川に来たこと、15日かけて京都に行くことを話した。女将さんは話好きだ。本四架橋の工事の時、この穴田荘はいつも満杯で、良い時代だった。今はコロナもあって閑散としている。もう閉めようと思う等々。チェックイン手続きを終え、畳の部屋に入った。洗濯をすませてから、シャワーを浴び、イオン加古川店に行き、朝食を買い、フードコートで食事を済ませた。今日の歩いた距離は44.5km、歩数は63,602歩だった。京都まで、後三日だ。12日間の旅を振り返りながら、9時に就寝。

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