姫山の地に初めて砦が築かれたのは1333年、赤松氏の時代と云われ、13氏・48代が城主を務め、戦塵にまみれることなく今日に至っている。赤松氏の後、西国統治の重要拠点として羽柴秀吉、池田輝政、本田忠正が城を拡張して、今見られる全容が整ったのは、戦乱の世が落ち着いた1617年とのこと。30分程滞在して12時50分に姫路城を後にした。何気なく姫路駅に向かう大手前通りに戻り、左折して2号線の歩道を歩いた。
しばらくして道に間違えたことに気が付いた。大手前通りの手前、大手前公園の所を左折すれば、西国街道に出る。ナビと絵地図で確認したが、戻るのは嫌なので、そのまま進んだ。まもなく市川の市川橋にさしかかった。この市川橋の手前で西国街道がこちらに合流した。橋を渡り進んで行くと、播磨国分寺跡200mの標識があったので、行ってみることにした。播磨国分寺は姫路市御国野町国分寺にある真言宗の寺院、奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺の一つであるという。
創建年の741年とされている。2号線に戻り、天川を渡って、左手に御着城跡がある。御着城は場内に山陽道や城下町を取り込んだ惣構えの平城、赤松氏の一族小寺氏の居城で、1519年に小寺正隆が築城し、
弁慶の母は、福居村(別所)の生まれで山廻井といい、父は熊野神社別当で、書写山に預けられた弁慶が、京からの帰途、福居村庄屋の娘玉苗と一夜をともにしたのが、この地蔵堂であると伝えられている。
弁慶の両親の話は今まで知らなかったので、興味深い。さらに進むと、六騎塚の木柱があった。初めての言葉だ。それによると南北朝時代の延元元年(1336)児島高徳の父範長主従六人の自害を弔って建立したと伝えられている。「太平記」巻十六によれば、延元元年足利尊氏が大軍を率いて、九州から東上してくるのを備後守範長が迎え撃ったが、戦いに敗れ、最後に主従六騎となり、阿弥陀宿の辻堂で自害したという。
昔、太平記を読んだが、足利尊氏との戦いで、備後守範長の記憶になかった。すぐ隣に「備後守児島君墓」と記されたお墓があった。今でも供物が置かれている。児島範長が人々から慕われ、今に伝わっていると思うと、自然と手を合わせた。
そのまま進んで行くと、2号線と合流し進んで行き、 国道2号線と姫路バイパスを突っ切って、加古川市内に入ったのは午後4時だった。
そのまま進み加古川橋西詰に着いたのは4時半、すぐ左側には旧加古川大橋親柱が残されていた。加古川は大きな川で、橋を渡ると河川敷公園になっており、中央には中洲がある。西詰から東詰まで約400mの橋だ。橋を渡り終えると、加古川駅前、駅前東と進んで行き、坂元の信号を左折し、すぐ右折すると、西国街道に入る。しばらく行くと「西国街道風土期の道」の石碑が目に入った。公この碑を左に行くと教信
徳太子が建てた寺院とのこと。また太子町は「宮本武蔵生誕の地」と言われている石海神社があり、晩年の宮本武蔵が記した「五輪書」に、「生国播磨の武士」と書かれているとのこと。宮本武蔵に関する資料は過去の大火災で喪失しているが、生家跡として云い伝えられた場所には古井戸が残っているとのこと。
ここから179号線を進み、上之池を右手に見て、Y字路を左に入る。最初の信号の横断歩道を渡り、Y字路を右折し進む。2号線を突っ切り、青山団地第三公園を右に曲がり、青山西5丁目の信号から2号線の歩道を進み、但陽信用金庫ATMを斜め左に入っていく。
昔は西国街道には夢前川の船の渡し場があったのだが、今はなく、西国街道も途中で途切れている。現在では道なりに進み、2号線に出て左折し、夢前川の夢前橋を渡る道しかない。2号線と西国街道が入り組んでいて、歩きにくかったが、グーグルナビで西国街道が標記されているので、助かった。まもなく山陽新幹線の高架下を通って、播磨高岡駅に着いた。昼食をコンビニで済ませ、姫路城に向った。
ここから西国街道が所々入り混じっているので、姫路城までは2号線を進むことにした。姫路城の外堀と見られる船場川に架かっている白鷺(はくろ)橋を通り過ぎると、姫路城の外郭の石垣の一部が見えてきた。石垣沿いに進み、大手前通りの信号に来た。
右に行くと姫路駅、左に行くと姫路城広場だ。左に進み大手前公園を右に進み、多くの観光客と一緒になって進んで行った。「国道2号線建設之碑」が目に留まった。碑には「この石碑は昭和7年(1932)2月、国道2号線の回収を祈念して建てられた。改修にあたって、中堀東西約450mに渡って埋め立てられた。中堀があったことが分るように、その境界にこの石がたてられた。
この石碑は、元々は道路の西側にあったが、昭和61年(1986)の国道2号線拡張工事のため、同署に移転された。中堀の埋め立ては大正期にも進められていた。
昭和7年当時、この石碑から東側はすでに埋め立てられて商業地区に変貌しており、姫路市立女子技芸学校(現在の姫路市立琴丘高等学校)も建てられていた。」と記されてあった。
また、姫路城の中濠(なかぼり)跡の案内板があり、「この土塁は姫路城の中濠の土塁で、その南にある国道二号線は中濠を埋め立てて埋設されたものです。この濠より外曲輪には主に町屋が
十二日目 4月26日
水曜日
その近くを進んで行くと旧片島本陣跡の石碑が塀沿いにひっそりと建っていた。片島宿は正條宿と有年宿の間の宿場町で、竜野藩に管理されていたこの宿場には、約80軒の旅籠や茶屋等が、街道沿いに立ち並んでいたという。
当時の建屋は見当たらないが、立ち並ぶ民家は比較的大きいものが多く、宿場町であったであろう雰囲気は残っている。山陽本線竜野駅前を左に見て進んで行くと、明治天皇正條行在所の石碑と正條宿本陣井口家の木柱には「往時の姿をうかがい知ることが出来、明治十八年八月に明治天皇が休憩された御座所が復元されてあった。」と記されていた。
御座所を通り過ぎ、揖保川の堤通りに突き当り、左に曲がると、往時を偲ばせる巨木が立ち並び、「正條の渡し跡」の木柱があった。木柱には「正
正面に大きな橋が見え、国道2号線に合流する。この橋は揖保川の揖保川大橋と云い、橋の長さは目測で400mもある橋だ。この鉄橋の歩道を歩いた。昔は渡し船で川を渡り、西国街道を進んで行くのだが、現在では鉄橋の歩道を渡り、姫路フォークリフト㈱を右に曲がり西国街道に戻り、山陽本線の手前を左に曲がって行く。
しばらくすると「大燈国師誕生の地」の立派な石碑があった。大燈国師とは 鎌倉時代末期の臨済宗の僧で、宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)というが、一般には大燈国師の名前で知られているという。朝廷から興禅大灯と高照正灯の国師号が与えられた高僧で、京都の大徳寺を開山したという。林田川の橋を越え、すぐに右に曲がり、またすぐに左に曲がって行くのが、西国街道だ。しかし林田川の橋手前で合流した道が、旧2号線だった。そのまま直進したため、道を間違えてしまった。戻るのも嫌なので、旧2号線を進むことにした。「ようこそ 聖徳太子ゆかりの地 太子町」の大きな立て看板があった。この場所が聖徳太子とどのように関係するのか知らなかった。太子町は、推古天皇から聖徳太子に与えられた地域だと伝えられ、寺院や武家の荘園として栄えた歴史もあり、古くから交通の要衝として、道が整備されたという。斑鳩寺(いかるがでら)は、約1,400年前に聖衝
大避神社も通過して有年駅まで約10km、2時間の行程だ。天気も悪く、気温が下がってきたので、有年駅から相生駅まで電車で行くことにした。13時に店を出れば、約2時間の15時に有年駅に着し、15時10分発の電車に乗ることが出来る。雨合羽とレイン用ズボンをはき、店を出発した。
更に進むと東有年・沖田遺跡公園があった。ここは弥生時代の集落があった場所で、公園北側には復元された古墳時代後期の住居があるという。霧雨が降る中順調に15時ちょうどに山陽本線有年駅に到着した。予定通り15時10分の電車に乗り、相生駅には15時16分に着いた。もし、「食事処やぶ」から宿泊地の「東横イン相生駅新幹線口」まで、歩いて行くと、約18kmで到着は17時になっていて、十分に休養が取れないだろう。京都までは後4日かかる。
予定を変更して正解だった。ホテルにチェックインしたのは15時20分で2時間早く着いた。本日の歩行距離は31km、歩数は44,045歩の旅だった。早速、いつも通りホテルのコインランドリーで洗濯を行い、シャワーを浴びてから、ホテルの隣にある居酒屋で、生ビール、厚揚げ豆腐、焼き鳥4本、ベーコンとアスパラガスのサラダ、親子丼を注文し、食べながら一日を振り返った。小雨でも一日中降っている中を歩いていると、天気の良い時とは疲労感が全く違う。靴の中が濡れ、右足小指のマメが水でふやけてしまい、治療しようとして、バンドエイドを剝がしたところ、小指の爪も一緒にはがれてしまった。
十一日目 4月25日 火曜日
5時起床。天気予報によると、朝から雨、気温は10℃から15℃なので、長袖シャツに雨合羽と雨用のズボンを着用していくことに決めた。朝食時間は7時からだが、若女将に7時に出発したいことを話したら、30分前倒しし、6時半にしてもらった。朝食は老舗旅館らしい焼き魚、卵焼き、シラスと大根おろし、筍と野菜の和え物、お新香、ご飯は自分でお茶碗にもって、いつもより多く食べた。デザートに果物とコーヒーをいただいた。旅館の朝食は意識してご飯を多く食べた。長距離を歩くには、炭水化物がスタミナを維持するのに有効だからだ。
一つとして同じ色、同じ模様にはならず、手造りの味わい深さが魅力で、使えば使うほどに味わいが増していくのが特徴とのことだ。旧道の両側には備前焼の焼き物が展示されている店が多くあった。程なく2号線にでて、斜め右に旧道を進んで行くと、前川哲蔵の墓標があった。
前川哲蔵は岡山藩筆頭家老のお目見医と記載されているだけで、どのような人物かはわからなかった。今度はお夏の墓標なるものがあった。江戸時代に実話に基づいた文芸作品に「お夏清十郎」というものがあり、お夏と清十郎の悲恋物語で、清十郎は打ち首、お夏はショックのあまり狂乱状態となり、行方不明になったという。その後各地に伝承が残され、備前市の西片上にお夏のものとされる墓と、営んでいた茶屋の跡がある。片上宿に入り、西片上駅近くに本陣跡があるが、大渕川の橋の手前を川沿いに進んで行くと、八幡神社が川向こうにあり、鳥居と森の奥に社殿が見える。