あとがき
東海道五十三次を始めた時、江戸時代の人に出来て、現代人の自分に出来ないわけがないなどと、軽口を言っていたが、草鞋と靴では大きな違いがある。江戸時代の人にはかなわないと思った。
山陽道・西国街道の旅は旧街道の資料が少なく、大変難儀した。友人の大橋さんには旧街道の地図をポケットサイズに作成し、プレゼントしてくれた。田部井さんには三原市から、三日間ふたり旅を楽しんだ。松本さんは、4月15日土曜日の初日、下関から予定していたが、ホテルが取れず、最終日に変更した。仕事を終えてから高槻まで駆け付けて、京都までのふたり旅を実施した。皆様には旅日記の誤字脱字や全体の校正のアドバイスをいただき、お礼申し上げます。旅の途中、きつい時もありましたが、友人達からの励ましのメールをいただき、元気づけられました。旅先でいろいろな人と出会い、歩き旅でしか味わえない体験をした。街道を歩いていると、各地各所に神社があり、神社の由来に歴史が記されている。街道を歩く旅で感じることは、日本の歴史が各地で保存されていることに、誇りを感じる「歩いて旅する山陽道・西国街道」でした。
東海道の時はリュックの重量は約8㎏、半日では問題ないが、後半はリュックが肩に食い込み、表現のしようがない痛みを味わった。中山道の時は必要最小限のものだけ、持っていくようにしたところ、約4.5㎏にした。今回の山陽道・西国街道の旅も約4㎏にしたおかげで、肩の負担はなくなった。
リュックには、充電器、バッテリー、雨合羽 、ティッシュ 6個、パンツ2枚、揮発性の高いランニングシャツ、靴下2足、帽子、半袖のティーシャツ1枚、長袖シャツ、 不織布マスク2枚、軍手、タオル、ガイド本、携帯用地図、正露丸、下痢止め、歯ブラシ、歯磨き粉、バンドエイド、電池式髭剃り、アルコール消毒スプレー
、大人休日倶楽部 、ボールペン、靴の汚れ落とし・ブラシ、サングラスの27点を入れ、胸と腹でリュックを固定するワンタッチのベルト付きリュックにした。普通のリュックだと肩に負担がかかる。ポシェットには携帯電話、バッテリー、下痢止め、ポケットサイズの地図と常に必要な物をいれた。
2024年4月は奥州街道・奥州道中(日本橋~三厩)約900kmの挑戦だ。
製油を始めた。当初はこの道具を使って作られた荏胡麻油は、対岸の石清水八幡宮の灯明用の油として神社仏閣の燈明用油として奉納されていましたが、次第に全国にこの業が広まり、離宮八幡宮は朝廷より「油祖」の名を賜った。そうして、油座として離宮八幡宮は幕府・朝廷の保護の下、大山崎油座として油の専売特許を持ち栄えた。安土桃山~江戸時代には、「西の日光」と呼ばれるほどの壮大な社殿を構え栄華を極めたと言われている。しかし、応仁の乱の勃発により京都で大戦が起きると、離宮八幡宮のある山崎の地にも戦火が及び、戦場となると製油に携わる職人たちは逃亡する事態となった。尾張・美濃の戦国大名であった織田信長が上洛を遂げ、室町幕府を崩壊させたことで、幕
戦国時代の梟雄・斉藤道三がこの荏胡麻の行商で財を成し、槍と鉄砲の稽古をして武芸の達人になり、武士になった。その武芸と才覚で頭角を現し、土岐守護に取り入り、下剋上により一国一城の主になったと云われている。
天正十年(1582)の山崎合戦では、羽柴秀吉軍の先鋒高山右近が、東黒門を利用してこの地で陣取りした。門を開けるよう求めた明智光秀の軍と小競り合いとなり、合戦が始まったと言われている。すぐ脇に高瀬川清兵衛の石碑があった。高瀬川清兵衛は、江戸時代後期に活躍した大山崎出身の力士とのこと。引退後も相撲の興行主としても活動した。相撲は勧進行事や神事と密接に関わり、各神社で相撲興行に尽力したことを顕彰して、明治時代前期に建立されたと言われている。松原のT字路を右に曲がると、左側に「大山崎の地蔵道標」があった。478号線・京滋 バイパスの高架下を通り過ぎ、14号線を進んで行き、勝竜寺の信号を右に曲がり名神高速道路高架下を行き、すぐ東海道新幹線高架下を通り、交差点の十字路を新幹線沿いに左に曲がる。
しばらく進んで、再度新幹線の高架下を通り、進行方向新幹線の左側を真直ぐ進んで行く。79号線(伏見柳谷高槻線) を右に曲がり、西羽束師川を渡り、寺田屋跡に向った。大山崎からはナビの案内通りに、寺田屋跡に向ったので、旧道かどうかわからなかった。ナビ通りに進んで行くと、桂川の河川敷に出た。河川敷沿いに行くと直ぐ79号線にでて、右に曲がり桂川の羽束師橋を渡った。渡り終わると「草津みなと鱧街道由来の案内板」があり、すぐ地蔵尊(横大路草津町)を左に曲がり千本通りに入ると、「藤田権十郎・藤田四郎右ェ門邸跡」の石像があった。藤田家は権十郎を名乗り、横大路村の庄屋をつとめるいっぽう、運送業を生業とした家で、現在古民家カフェなども運営している。200m程進むと横大路草津町地蔵尊の信号を右に曲がる。
東高瀬川の橋を渡り、20分程で、「史跡寺田屋・坂本龍馬先生遭難の跡」に到着したのは、12時20分だった。若いころ司馬遼太郎の「龍馬が行く」を何回も読み返した記憶が戻ってくる。現役の時は京都に何回か来ることはあっても、この地に来ることはなかった。今こうして寺田屋の前で写真をとっていることに、感慨を覚える。
記念写真の右側に「史蹟寺田屋坂本龍馬先生遭難の地」の石碑が立っている。坂本龍馬遭難又は襲撃とは1866 年(慶応2年)1月24日の午前3時頃、寺田屋に滞在中の龍馬が、伏見奉行所の幕府役人に襲撃された。龍馬はピストルで応戦しながら追っ手をかわし、裏階段から庭に出て、隣家の雨戸を蹴破り裏通りに逃れた。手指を負傷しながら5町ほど(500~600メートル)走って濠川に達し、水門を経て入り込んだ屋敷裏手の材木納屋で救援を待ち、酷い手傷を追いながら、薩摩藩から救援隊が来て無事に藩邸に逃れた事件だ。
庭に入ると「お登勢明神」の碑があった。それによると寺田屋は江戸時代より伏見南浜と大阪八軒屋の淀川間を三十石船往来する船宿を大阪側の堺屋と業務提携して営んでいた。1847年頃に十八歳で第六代目寺田屋伊助に嫁入りしたお登勢は人の世話をすることを厭わない性分であり、明治十年に逝去した。
寺田屋騒動で上意打ちされた薩摩藩九烈士の供養や、「寺田屋事件」での坂本龍馬など多くの尊王攘夷派の志士たちを保護、支援した生き様は第七代の心に刻まれており、明治二十七年の九烈士三十三回忌に有志一同と、寺田屋騒動が起きた寺田屋址地に記念碑を建立したとのこと。
奥には寺田屋騒動の記念碑に当時の顛末を彫ってあり、記念碑の前には坂本龍馬の銅像が建立されていた。室内に入り2階に上がると、龍馬と護衛の三吉慎蔵は逗留していた部屋があり、坂本龍馬が高杉晋作から贈られた六連発拳銃(同形)が展示されてあった。また襲撃されたときに放った拳銃跡や刀痕があった。
一階にはお龍が風呂に入っていた時の風呂も残っており、入浴中に外のザワツキを察知し、幕府役人が来たことを、二階に駆け上がって、いち早く龍馬に知らせ、自身は薩摩藩邸に駆け込み、救援を頼んだと司馬遼太郎は小説で述べている。見学が終わり、気が付いたことがある。幕末のころ寺田屋は宇治川から濠川につなぐ川の途中にあり、大阪、伏見を往来する人達の船宿として生業を立てていた。現在、寺田屋の前は埋め立てられて道路になっているが、道路と住宅の先にある川と一体だったとのこと。
「坂本龍馬遭難の地寺田屋」を後にしたのは午後1時半だった。近くにあった蕎麦屋に入り、昼食をとった。ここから三条大橋まで約10㎞、2時間の距離だ。ゴールが近づくと自然と足が前に進む。十条通りを横断して、鴨川が見えてきた。
川沿いを進んで行くと、外国人のカップルが、河原の自転車道路でサイクリングを楽しんでいる姿が見えた。五条大橋、四条大橋を通り、三条大橋に着いたのは午後3時40分。東海道、中山道を通って、三条大橋に着いた時は、新型コロナで人通りはなく、閑散としていたが、今回は人通りも多く、外国人の観光客が目立って多かった。高槻から35㎞の二人旅は終わった。
十山陽道・西国街道を歩いて、京都に行くところだと話したところ、熱心に聞いてきた。これからどこに行くのか聞かれたので、「旧道沿いにある正覚寺だ」と答えると、「あんなところよりも由緒正しい水無瀬神宮に行った方がよい」とアドバイスしてくれた。あまり熱心に進めるので、旧道から外れるが、水無瀬神宮に行くことにした。後に調べてみると、共同墓地(合祀墓)のお寺・正覚寺と有ったので、「あんなところ」という表現をしたのだと思う。ナビで調べると水無瀬神宮まで15分程だ。右手にある粟辻寺を通り過ぎて、次の信号を右に曲がれば、良かったが、直進してしまった。すこし進んで行くと左手に山崎サントリー蒸留所の建物が見えた。ここで初めて道の間違いに気づいた。再度ナビで水無瀬神宮を設定して、目的地に向かった。
大分遠回りをした。水無瀬神宮の手前に水無瀬駒発祥の地があった。水無瀬駒とは「水無瀬神宮の13代目の宮司を務める水無瀬兼成は、安土桃山時代の公家で、能筆家であった兼成は駒の銘を書き、89歳で亡くなるまで700組以上の将棋駒を制作した。江戸時代には美術的価値の高いものとして重宝された。」とのこと。すぐ隣に水無瀬神宮があった。
水無瀬神宮では、後鳥羽天皇・土御門天皇・順徳天皇が祭られ、後鳥羽上皇がこの地に水無瀬殿を造営し、水無瀬離宮と称されていたものを、承久の乱で隠岐に流されそこで崩御した後鳥羽上皇の遺勅に基づき、1240年(仁治元年)、藤原信成・親成親子が離宮の旧跡に御影堂を建立し、上皇を祀ったことに始まるとのこと。最初は「法華堂」と称されていたが、室町中期1494年(明応3年)、後土御門天皇から、水無瀬宮の神号を賜ったとのこと。さらに、1873年(明治6年)に官幣中社に、1939年(昭和14年)に官幣大社に列格し、現在の水無瀬神宮と改称したとのこと。
楠の木公園であった人は、三人の天皇が祀られているので、由緒ある神宮だと言っていたのだ。正面鳥居をくぐると、砂利が敷かれた参道がある。神門に向かって右側に石川五右衛門が、祀られた名刀を盗みに入ろうとして様子を窺っていたが、神威により門内へも入れず、やむなく立ち去ったときに残した手形が残っているというが、金網で守られて見難いので、はっきりと手形だとまでは確認できなかった。水無瀬神宮を後にして、離宮八幡宮へは約20分で到着した。
離宮八幡宮は、石清水八幡宮の元社にあたり、八幡大神を祭神とする神社で、貞観元年(859年)に清和天皇が、神託により国家安泰のため、宇佐神宮から分霊し平安京の守護神として奉安することとし、その時に九州に使わされた大安寺の僧行教が帰途山崎の津(当時の淀川水運の拠点港)で 神降山に霊光を見、その地より石清水の湧いたのを帰京後天皇に奏上したところ、国家鎮護のため清和天皇の勅命により「石清水八幡宮」が建立されたのが始まりとされているとのこと。その後、嵯峨天皇の離宮「河陽(かや)離宮」跡であったので、社名を離宮八幡宮としたという。
門の右わきに「国家安泰・国土平安祈願所」の大きな木の板に由来のことが記されてあった。また、離宮八幡宮は油の独占で栄えたという。平安時代の後期(貞観年間)となり、津として栄えたこの地の人々の中に、荏胡麻(えごま)の油絞りの道具を考え出した者(離宮八幡宮の神官貞観年間、時の神官が神示を受けたとされる)「長木」という搾油器を発明し荏胡麻油の
十五日目 4月29日
土曜日
5時起床。天気予報は薄曇り。足の調子は良い。それぞれ朝食を取り、7時出発だ。今日の予定は一乗寺、離宮八幡、正覚寺、寺田屋跡、ゴールの三条大橋だ。ホテルを出て、右に行くと、すぐに171号線にでる、左折し歩道を行く。二人で話しながら、進んで行き、井尻新幹線下の信号を新幹線沿いに進み、高槻上牧駅前郵便局のある交差点を左折し、東海道新幹線高架下を通り、進んで行くと67号線に合流する。
この67号線が西国街道・丹波街道だ。しかし新西国街道の記述もあり、よく分からない。途中「梶原一里塚跡」の標識があった。この地は旧梶原村の東端に位置し、かつて、榎を植えた一里塚があった。旧芥川宿の芥川一里塚は今も現存しているとのこと。島村駅前の桜井一丁目に着いたのは8時10分頃だ。駅に隣接する楠の木公園があり、多くの史跡がある。史蹟桜井驛城址、水無瀬駒発祥のまち、楠公父子子別れの石像、楠公父子決別之所、楠公父子訣子之虜碑、桜井駅跡、明治天皇製碑、 楠公六百年祭記念碑等多くの楠公の史跡がある。
計画段階ではこの楠の木公園の史跡は知らなかった。「楠公父子決児之處碑」は正成を顕彰した明治9年(1876)11月に建立された。
題字は大阪府知事渡辺昇の書。裏面には英国公ハリー・S・パークスの英文が刻まれている。楠正成・正行父子桜井の別れは、西国街道の桜井駅で、 楠木正成・正行父子が訣別する逸話である。楠木正成は湊川の戦い 桜井に赴いて戦死し、今生の別れとなった。
桜井駅の別れ、「太平記」の名場面のひとつで、国語・修身・国史の教科書に必ず載っていた逸話であり、いわゆる戦前教育を受けた者には大変有名な話であったとのこと。「駅」とは宿駅のこと。太平記によると、「桜井の別れ」のあらましは、建武3年5月(1336年6月)、九州で劣勢を挽回して山陽道を東上してきた足利尊氏の数十万の軍勢に対し、20分の1ほどの軍勢しか持たない朝廷方は大騒ぎとなった。
新田義貞を総大将とする朝廷方は兵庫に陣を敷いていたが、今の状況で尊氏方の軍勢を迎撃することは困難なので、尊氏と和睦するか、またはいったん都を捨てて比叡山に上り、空になった都に足利軍を誘い込んだ後、これを兵糧攻めにするべきだと後醍醐帝に進言したが、いずれも聞き入れられなかった。そこで正成は死を覚悟し、湊川の戦場に赴くことになった。その途中、桜井駅にさしかかった頃、正成は数え11歳の嫡子・正行を呼び寄せて「お前を故郷の河内へ帰す」と告げた。「最期まで父上と共に」と懇願する正行に対し、正成は「お前を帰すのは、自分が討死にしたあとのことを考えてのことだ」という。
楠公六百年祭記念石碑は昭和10年5月16日に多数の参列者と盛大な式典がもたれたという。「明治天皇御製 碑」は昭和6年(1931)に建てられた。明治天皇が明治31年(1898) 行幸したときに詠んだ歌が刻まれている。石碑の表面が汚れていて読みにくいが、次のように刻まれていた。「子わかれの 松のしつくに袖ぬれて 昔をしのふ さくらゐのさと」。和歌の素養がない自分でも十分に意味が伝わる歌だ。公園の史跡を見ていた私たちに声をかけてきた人がいた。史蹟の保護を担っているボランティアの人で、清掃をしていた60代後半の人だ。私が下関から旧