ところがその途中で源氏方と遭遇し戦いが始まった。激闘の末、監物太郎は、大将の嫡男知章を斬った敵を討ち取り、奮闘したが、多勢に無勢、ついに左膝を射抜かれ、討死したと云う。監物太郎が討死したとされる場所は、現在碑がある場所から離れたところとされる。享保年間(1716-1735年)に儒学者の並河誠所が監物太郎の忠義を顕彰するために、討死の地からより人通りの多い西国街道沿いである現在地に移動させたという。平家方の名のある武将が多数討死した一ノ谷の合戦の古戦場周辺には、いくつもの碑が立っている。しかし監物太郎のような平家の郎党身分の者の碑は稀であると云う。
予定よりだいぶ遅れたので、高田屋嘉兵衛本店の地は行かないで、足を速めたところ、平経俊を祀ってある鎮守稲荷神社と石碑があった。案内板によると「平経俊は、平清盛の甥で一の谷の合戦に華と散った敦盛の兄である。
湊川の合戦で、鵯越の守備についていたが、戦利あらず長田の森を経て、西出の浜へと落ちのびてきたところを、源の範頼の郎党名和太郎に追い迫られ、勇ましくも組打ちとなり当地で落命した。時に寿永三年二月御年わずか十八歳であった。」と記されてあった。あと宿泊地の「ホテルヴィアマーレ神戸」まで、約2.5kmだ。到着予定時間は3時10分を計画していたが、大幅に遅れているので、海軍操練所跡は行かずに、直接ホテルに向かうことにした。ここからはスマホのナビの案内で、2号線の歩道を行くことにした。
神戸駅南口前を通り、NTT西日本 神戸駅前電話交換所、栄町通4の信号を過ぎ、栄町一丁目の信号を左折し、最初のT字路を右折して、仲町通りに入り、4ブロックの左側角にホテルがあった。約2時間遅れの5時になっていた。チェックインして、コインランドリーに向い、シャワーを浴びて夕食に出かけた。途中、「旧神戸居留地十五番館」のプレートがあり、慶応3年12月の兵庫開港により、126区画、25.8haの外国人居留地が開設され、商館を中心として領事館やホテル、教会などが次々に建てられたと当時の状況が詳しく記されていた。
ホテルの近くの「ニュー居留地ラフレア」というレストランで、ステーキサンドを頼んだ。本日44㎞62,384歩。見学に時間を要し大幅に遅れた。いつになく疲れたので、部屋に戻り、すぐ就寝。明日は高槻サンホテル。2日後に京都だ。
福田川を渡り、JR塩谷駅を過ぎ、JR神戸線の塩屋跨線橋を渡り着いたのは1時40分だった。この辺りは源平一の谷合戦場として知られ、寿永3年(1184)2月7日に、当時16歳の平敦盛が、熊谷次郎直実によって首を討たれ、それを供養するためにこの塔を建立したという伝承から「敦盛塚」と呼ばれるようになったという。
この五輪塔は花崗岩製の総高4mで、中世の五輪塔としては石清水八幡宮五輪塔(京都府八幡市)に次ぎ、全国で2位の規模を誇るという。このほか、鎌倉幕府の執権北条貞時が平家一門の冥福を祈って、弘安年間(1278~1288) に造立したなど諸説があるという。
一の谷の戦いで源義経の逆落としの奇襲で平家を破ったのは有名だが、裏の崖は断崖というほどではなく、本で読んだイメージとはだいぶ違う。また海がこれほど近くに迫っているとは思わなかった。現場を見ると、より想像力が働くのではないか。いつか平家物語や吾妻鏡を読み直してみたいと思う。見学後、遅い昼食をとることにした。幸い敦盛塚の入り口にある敦盛そば屋に入り、蕎麦とそばの実が入ったぜんざいを注文した。蕎麦も美味しかったが、疲れた体にぜんざいは美味しかった。30分で昼食を終わらせ、出発した。ここは須磨浦公園の端にあり、400mほど進むと細長い公園の終わりに「源平史跡 戦の濱」の石碑があった。
15分程進むと左手に「村上帝社の祠」があった。村上天皇の琵琶にまつわる伝説から、この地に村上天皇を祀り神社としたもので、この地には以前から前方向円墳があり、琵琶に 似ていることから琵琶伝説に結び付いたと云われている。琵琶伝説とは平安末期、太政大臣藤原師長は琵琶の名人であったが、さら奥義を極めたいと入唐の志を持ってこの地に来た。ところが村上天皇と梨壺女御の神霊が現れ琵琶の妙手を授けたので、入唐を思いとどまり帰京したと云われている。見学を終えて、2号線(西国街道)を進み、千守の交差点を左に曲がり、すぐにY字路を右に進むと、2号線と分かれ、西国街道に出る。整備された西国街道は歩きやすい。
空港に行き、ポートライナーで三宮駅に行き、乗換えして三ノ宮駅から明石駅に行き、タクシーで工場を訪問した。この場所も何回も来ているが、新幹線で来るのとは景色が違うように感じる。
明石川の嘉永橋を渡り、右に曲がり道なりに行くと、織田家長屋門がある。案内板によるとこの付近は明石城築城の当時から歴代家老・重臣が住んでいた屋敷跡で、門は舟上城(ふなげじょう)から移籍されたもの、築城は江戸時代初期のもので、門の留め金は室町後期の様式を伝えているという。10時20分、明石城跡に到着した。
入口に大洋漁業株式会社の創業者・中部幾次郎翁の銅像が建立されてあった。幾次郎翁は慶応二年(1866)明石市東魚町(現根本町)に生まれ、幼少のころから父の生魚運搬卸業を手伝い、地方の一個人商店にすぎなかった林兼商店を日本有数の水産会社に育て上げ、昭和21年(1946)3月23日には貴族院議員に勅撰されたが、同年5月19日八十一歳で没し、浜光明寺に葬られたという。
「史跡 明石城跡」の石碑があり、その奥は明石城や明石城本丸跡があるが、予定よりも遅れているので中に入らなかった。明石駅の真ん前にあり、仕事で何度も訪れたが、一度も訪れたことがなかった。久しぶりなので、北出口から駅の中を通って、東出口行き、明石銀座通りを通って、道標「みぎ ひめじ ひだり 大坂道」の石碑を左に曲がり、目印の光明寺を通り過ぎ、明石市役所北庁舎の信号を左に曲がり、次の十字路を右に進んだ。
明石警察署大蔵交番更に大日本中央標準時子午線通過地標識の十字路を左に曲がり、目印地の稲爪神社と大蔵谷駅を目指した。明石は、日本の時刻の基準となる、統計135度子午線が通る「日本標準時のまち」「時のまち」として知られている。これは、明治19年に世界の標準時であるイギリスのグリニッジからちょうど135度(=9時間の時差)にある位置上の時刻を日本の標準時として定めたものだと いう。
更に海岸沿いを進み、山田橋を渡り、西舞子一丁目(交差点)を右に曲がり、西国街道に入ると、右手には瀬戸内海が広がっていた。神戸舞子学院を左に行き、2号線に合流した。
舞子公園西を通り越し、明石藩舞子台場跡が右に見える。そしてようやく十三日目で神戸市に入った。明石藩舞子台場あと(舞子砲台跡)は幕末に外国船の侵攻に備えて、文久3年(1863)に幕府
十三日目 4月27日
木曜日
5時起床。天気予報は曇り、気温は9℃から19℃だ。足の調子は良い。朝食は昨日買ったおにぎりとパン、牛乳と飲むヨーグルトを食し、6時に出発だ。今日の予定は西国街道に出て、目印の土山駅近く、住友神社、光明寺、敦盛塚、一之谷戦の濱碑、、監物太郎の碑、高田屋嘉平の碑、神戸海軍操練所跡を通って、「ホテルビィルマーレ神戸」までの約40kmだ。穴田荘を出発して、5分もしないうちに西国街道に出る。左に曲がり進んで行く。朝早いので、人は見かけなかった。道の両側には趣のある大きな家があり、往時を偲ばせる街道だ。20分程で、西谷八幡神社があった。
案内板によると「西谷八幡神社の御祭神は「誉田別命(ほんだわけのみこと)といい、第十五代応神天皇である。降誕のおり屋敷に八本の幟が立てられたことから「八幡さま」の名で親しまれてきた。戦勝を祈願したことに始まり、敵を除けることから「弓矢の神」「勝利の神」として武将から信仰を集めてきた。後に、疫病が流行する中、次第にあらゆる災いを除ける「疫病の神」として名高い神社」と記されてあった。
神社を過ぎるとすぐに2号線に合流して、約300m進み斜め左に行くと西国街道だ。JR神戸線を通過し、左手に平岡公民館を左手に見て進み、穴田荘を出て1時間位たったころ、公園らしき道を行くと、旧街道らしく芝生の中に「1180年 平清盛が福原に都をうつす」「1192年 源頼朝が鎌倉幕府を開く」など歴史が年代順にわかるようにプレートが埋め込まれてあった。
更に30分程で進んで行くと、「清水新田 宝篋印塔(ほうきょういんとう)」の石碑が建っていた。案内板によると宝篋印塔は江戸時代後期に建立され、この辺りは西国街道と呼ばれる街道があり、往来する旅人が数多くいた。江戸時代の旅では途中で命を落とすことも珍しくなく、清水新田の地で行き倒れとなった旅人も多くあった。行き倒れの旅人を供養し、地域に災いが起こらないようにと清水新田の人々がこの地に宝篋印塔を建立した」と云われている。
更に進んで行き、清水川と瀬戸川を渡っていくと、道標「右あかし道 像」の石碑があった。風化して文字は読み難い。この道標を過ぎると、左側に「臨済宗妙心寺派 公明山西福寺」があり、その先の街道沿いには清水神社鳥居、その奥に清水神社神門、清水神社がある。旧街道には神社仏閣が数多くある。改めて日本の歴史を感じる。この近くには西国街道と並行して2号線が走っており、その2号線沿いに弊社のお客様である建設機械メーカーの事業所がある。また反対方向へ2km程の距離にお客様である油圧機器メーカーがあり、何度か訪問したことがある。JR神戸線の魚住駅でタクシーに乗り訪問したが、歩いて近くまで来ると感慨深いものだ。
更に進んで行くと、T字路に突き当り、右に曲がると、2号線に合流する。JR神戸線大久保駅の前を通り過ぎると、「明治天皇大久保御小休所建物」の石碑があった。道なりに進むと、セブンイレブンがある信号を斜め左に行くと、2号線と分かれ西国街道にでて、小さな川を渡ると大久保本陣跡があり、再度、2号線と合流して、左手に雲楽池という大きな池があり、そのまま進んで行くと西明石駅が見えた。この地にも弊社お客様の油圧機器メーカーの工場があり、新幹線でこの西明石駅を降りて、タクシーで行ったものだ。現在では茨城空港から神戸
寺境内に入る。入口の門の大きな石碑には「天台園圓宗念仏道場」の文字が彫られてあり、ここは教信寺の総門だ。教信寺は称名念仏の創始者である教信によって開基され、教信は興福寺の僧であったが、奈良の貴族仏教に満足できず、各地を放浪し、現在の加古川市野口町にあった賀古駅家(かこのうまや)の北辺に庵を建て、ここを永住の地としたという。
この少し先に五社宮野口神社があった。五社宮野口神社は、比叡山延暦寺の守護神日吉大社の分霊を祭る由緒ある神社旧西国街道沿いにある五社宮の東南角には、古い道標が立っている。
秀吉の播古磨攻めの際、黒田官兵衛の指揮した秀吉軍と教信寺の僧兵と野口城兵が戦った。野口城は現在の五社宮(野口神社)付近にあったと云われている。
ここからおよそ15分でビジネス宿泊穴田荘に到着した。女将さんが待っていた。女将さんは話好きだ。私が下関から12日かけて加古川に来たこと、15日かけて京都に行くことを話した。女将さんは話好きだ。本四架橋の工事の時、この穴田荘はいつも満杯で、良い時代だった。今はコロナもあって閑散としている。もう閉めようと思う等々。チェックイン手続きを終え、畳の部屋に入った。洗濯をすませてから、シャワーを浴び、イオン加古川店に行き、朝食を買い、フードコートで食事を済ませた。今日の歩いた距離は44.5km、歩数は63,602歩だった。京都まで、後三日だ。12日間の旅を振り返りながら、9時に就寝。
姫山の地に初めて砦が築かれたのは1333年、赤松氏の時代と云われ、13氏・48代が城主を務め、戦塵にまみれることなく今日に至っている。赤松氏の後、西国統治の重要拠点として羽柴秀吉、池田輝政、本田忠正が城を拡張して、今見られる全容が整ったのは、戦乱の世が落ち着いた1617年とのこと。30分程滞在して12時50分に姫路城を後にした。何気なく姫路駅に向かう大手前通りに戻り、左折して2号線の歩道を歩いた。
しばらくして道に間違えたことに気が付いた。大手前通りの手前、大手前公園の所を左折すれば、西国街道に出る。ナビと絵地図で確認したが、戻るのは嫌なので、そのまま進んだ。まもなく市川の市川橋にさしかかった。この市川橋の手前で西国街道がこちらに合流した。橋を渡り進んで行くと、播磨国分寺跡200mの標識があったので、行ってみることにした。播磨国分寺は姫路市御国野町国分寺にある真言宗の寺院、奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺の一つであるという。
創建年の741年とされている。2号線に戻り、天川を渡って、左手に御着城跡がある。御着城は場内に山陽道や城下町を取り込んだ惣構えの平城、赤松氏の一族小寺氏の居城で、1519年に小寺正隆が築城し、
弁慶の母は、福居村(別所)の生まれで山廻井といい、父は熊野神社別当で、書写山に預けられた弁慶が、京からの帰途、福居村庄屋の娘玉苗と一夜をともにしたのが、この地蔵堂であると伝えられている。
弁慶の両親の話は今まで知らなかったので、興味深い。さらに進むと、六騎塚の木柱があった。初めての言葉だ。それによると南北朝時代の延元元年(1336)児島高徳の父範長主従六人の自害を弔って建立したと伝えられている。「太平記」巻十六によれば、延元元年足利尊氏が大軍を率いて、九州から東上してくるのを備後守範長が迎え撃ったが、戦いに敗れ、最後に主従六騎となり、阿弥陀宿の辻堂で自害したという。
昔、太平記を読んだが、足利尊氏との戦いで、備後守範長の記憶になかった。すぐ隣に「備後守児島君墓」と記されたお墓があった。今でも供物が置かれている。児島範長が人々から慕われ、今に伝わっていると思うと、自然と手を合わせた。
そのまま進んで行くと、2号線と合流し進んで行き、 国道2号線と姫路バイパスを突っ切って、加古川市内に入ったのは午後4時だった。
そのまま進み加古川橋西詰に着いたのは4時半、すぐ左側には旧加古川大橋親柱が残されていた。加古川は大きな川で、橋を渡ると河川敷公園になっており、中央には中洲がある。西詰から東詰まで約400mの橋だ。橋を渡り終えると、加古川駅前、駅前東と進んで行き、坂元の信号を左折し、すぐ右折すると、西国街道に入る。しばらく行くと「西国街道風土期の道」の石碑が目に入った。公この碑を左に行くと教信
徳太子が建てた寺院とのこと。また太子町は「宮本武蔵生誕の地」と言われている石海神社があり、晩年の宮本武蔵が記した「五輪書」に、「生国播磨の武士」と書かれているとのこと。宮本武蔵に関する資料は過去の大火災で喪失しているが、生家跡として云い伝えられた場所には古井戸が残っているとのこと。
ここから179号線を進み、上之池を右手に見て、Y字路を左に入る。最初の信号の横断歩道を渡り、Y字路を右折し進む。2号線を突っ切り、青山団地第三公園を右に曲がり、青山西5丁目の信号から2号線の歩道を進み、但陽信用金庫ATMを斜め左に入っていく。
昔は西国街道には夢前川の船の渡し場があったのだが、今はなく、西国街道も途中で途切れている。現在では道なりに進み、2号線に出て左折し、夢前川の夢前橋を渡る道しかない。2号線と西国街道が入り組んでいて、歩きにくかったが、グーグルナビで西国街道が標記されているので、助かった。まもなく山陽新幹線の高架下を通って、播磨高岡駅に着いた。昼食をコンビニで済ませ、姫路城に向った。
ここから西国街道が所々入り混じっているので、姫路城までは2号線を進むことにした。姫路城の外堀と見られる船場川に架かっている白鷺(はくろ)橋を通り過ぎると、姫路城の外郭の石垣の一部が見えてきた。石垣沿いに進み、大手前通りの信号に来た。
右に行くと姫路駅、左に行くと姫路城広場だ。左に進み大手前公園を右に進み、多くの観光客と一緒になって進んで行った。「国道2号線建設之碑」が目に留まった。碑には「この石碑は昭和7年(1932)2月、国道2号線の回収を祈念して建てられた。改修にあたって、中堀東西約450mに渡って埋め立てられた。中堀があったことが分るように、その境界にこの石がたてられた。
この石碑は、元々は道路の西側にあったが、昭和61年(1986)の国道2号線拡張工事のため、同署に移転された。中堀の埋め立ては大正期にも進められていた。
昭和7年当時、この石碑から東側はすでに埋め立てられて商業地区に変貌しており、姫路市立女子技芸学校(現在の姫路市立琴丘高等学校)も建てられていた。」と記されてあった。
また、姫路城の中濠(なかぼり)跡の案内板があり、「この土塁は姫路城の中濠の土塁で、その南にある国道二号線は中濠を埋め立てて埋設されたものです。この濠より外曲輪には主に町屋が
十二日目 4月26日
水曜日
その近くを進んで行くと旧片島本陣跡の石碑が塀沿いにひっそりと建っていた。片島宿は正條宿と有年宿の間の宿場町で、竜野藩に管理されていたこの宿場には、約80軒の旅籠や茶屋等が、街道沿いに立ち並んでいたという。
当時の建屋は見当たらないが、立ち並ぶ民家は比較的大きいものが多く、宿場町であったであろう雰囲気は残っている。山陽本線竜野駅前を左に見て進んで行くと、明治天皇正條行在所の石碑と正條宿本陣井口家の木柱には「往時の姿をうかがい知ることが出来、明治十八年八月に明治天皇が休憩された御座所が復元されてあった。」と記されていた。
御座所を通り過ぎ、揖保川の堤通りに突き当り、左に曲がると、往時を偲ばせる巨木が立ち並び、「正條の渡し跡」の木柱があった。木柱には「正
正面に大きな橋が見え、国道2号線に合流する。この橋は揖保川の揖保川大橋と云い、橋の長さは目測で400mもある橋だ。この鉄橋の歩道を歩いた。昔は渡し船で川を渡り、西国街道を進んで行くのだが、現在では鉄橋の歩道を渡り、姫路フォークリフト㈱を右に曲がり西国街道に戻り、山陽本線の手前を左に曲がって行く。
しばらくすると「大燈国師誕生の地」の立派な石碑があった。大燈国師とは 鎌倉時代末期の臨済宗の僧で、宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)というが、一般には大燈国師の名前で知られているという。朝廷から興禅大灯と高照正灯の国師号が与えられた高僧で、京都の大徳寺を開山したという。林田川の橋を越え、すぐに右に曲がり、またすぐに左に曲がって行くのが、西国街道だ。しかし林田川の橋手前で合流した道が、旧2号線だった。そのまま直進したため、道を間違えてしまった。戻るのも嫌なので、旧2号線を進むことにした。「ようこそ 聖徳太子ゆかりの地 太子町」の大きな立て看板があった。この場所が聖徳太子とどのように関係するのか知らなかった。太子町は、推古天皇から聖徳太子に与えられた地域だと伝えられ、寺院や武家の荘園として栄えた歴史もあり、古くから交通の要衝として、道が整備されたという。斑鳩寺(いかるがでら)は、約1,400年前に聖衝
大避神社も通過して有年駅まで約10km、2時間の行程だ。天気も悪く、気温が下がってきたので、有年駅から相生駅まで電車で行くことにした。13時に店を出れば、約2時間の15時に有年駅に着し、15時10分発の電車に乗ることが出来る。雨合羽とレイン用ズボンをはき、店を出発した。
更に進むと東有年・沖田遺跡公園があった。ここは弥生時代の集落があった場所で、公園北側には復元された古墳時代後期の住居があるという。霧雨が降る中順調に15時ちょうどに山陽本線有年駅に到着した。予定通り15時10分の電車に乗り、相生駅には15時16分に着いた。もし、「食事処やぶ」から宿泊地の「東横イン相生駅新幹線口」まで、歩いて行くと、約18kmで到着は17時になっていて、十分に休養が取れないだろう。京都までは後4日かかる。
予定を変更して正解だった。ホテルにチェックインしたのは15時20分で2時間早く着いた。本日の歩行距離は31km、歩数は44,045歩の旅だった。早速、いつも通りホテルのコインランドリーで洗濯を行い、シャワーを浴びてから、ホテルの隣にある居酒屋で、生ビール、厚揚げ豆腐、焼き鳥4本、ベーコンとアスパラガスのサラダ、親子丼を注文し、食べながら一日を振り返った。小雨でも一日中降っている中を歩いていると、天気の良い時とは疲労感が全く違う。靴の中が濡れ、右足小指のマメが水でふやけてしまい、治療しようとして、バンドエイドを剝がしたところ、小指の爪も一緒にはがれてしまった。
十一日目 4月25日 火曜日
5時起床。天気予報によると、朝から雨、気温は10℃から15℃なので、長袖シャツに雨合羽と雨用のズボンを着用していくことに決めた。朝食時間は7時からだが、若女将に7時に出発したいことを話したら、30分前倒しし、6時半にしてもらった。朝食は老舗旅館らしい焼き魚、卵焼き、シラスと大根おろし、筍と野菜の和え物、お新香、ご飯は自分でお茶碗にもって、いつもより多く食べた。デザートに果物とコーヒーをいただいた。旅館の朝食は意識してご飯を多く食べた。長距離を歩くには、炭水化物がスタミナを維持するのに有効だからだ。
一つとして同じ色、同じ模様にはならず、手造りの味わい深さが魅力で、使えば使うほどに味わいが増していくのが特徴とのことだ。旧道の両側には備前焼の焼き物が展示されている店が多くあった。程なく2号線にでて、斜め右に旧道を進んで行くと、前川哲蔵の墓標があった。
前川哲蔵は岡山藩筆頭家老のお目見医と記載されているだけで、どのような人物かはわからなかった。今度はお夏の墓標なるものがあった。江戸時代に実話に基づいた文芸作品に「お夏清十郎」というものがあり、お夏と清十郎の悲恋物語で、清十郎は打ち首、お夏はショックのあまり狂乱状態となり、行方不明になったという。その後各地に伝承が残され、備前市の西片上にお夏のものとされる墓と、営んでいた茶屋の跡がある。片上宿に入り、西片上駅近くに本陣跡があるが、大渕川の橋の手前を川沿いに進んで行くと、八幡神社が川向こうにあり、鳥居と森の奥に社殿が見える。