山陽道・西国街道旅日記 一日目(P9~12/P89)

263-1.jpg一角に「軍神廣瀬中佐亡友展墓記念碑」の石碑があった。経年劣化で字は読みにくい。亡友と云うのは福田久槌という人であると石碑の銅板に記してあり、詳しいことは分からない。明治37年日本海軍は旅順港内の閉塞作戦を実施、軍艦「朝日」の水雷長広瀬武夫は、この決死隊指揮官として二度にわたって出撃したが、散弾に倒れた。37歳であったという。30歳代に司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読み、漢詩を愛し、講道館柔道に熱中し六段、ロシア駐在武官時代ロシア語に熟達、ロシアの子爵令嬢から惚れられた話は有名で、ドラマにもなった。風雲渦巻く明治という時代を太く短く生きた男に一種のあこがれを感じていた。
ここから10分もしないうちに高杉晋作回天義挙碑がある功山寺(こうざんじ)に着いた。時間は830分。
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功山寺は鎌倉幕府が滅ぶ6年前、1327年に開かれた曹洞宗の寺院で、高杉晋作が挙兵した寺である。境内にある馬上姿の銅像からはわずか80名という少人数で藩に立ち向かった晋作の強い決意がうかがえる。境内を散策すると三吉慎蔵の墓所が目に入った。
263-3.jpgのサムネール画像幕末、寺田屋における坂本龍馬襲撃事件の際、長州藩から護衛として京に入った人物で、坂本龍馬を助け、一緒に薩摩藩邸に逃げ込んだ人物である。この境内で三吉慎蔵お墓があるとは思いもよらなかった。お墓に向って合掌した。263-4.jpgのサムネール画像  



またこの功山寺には、幕末において7人の公家が京都から追放された。俗にいう「七卿落ち」で、うち5人は功山寺に滞在した。ところが第一次長州征伐の結果藩政の実権を握った俗論派は、5人を追放しようと謀った。高杉晋作の騎兵隊クーデターは、これが原因で起こったものである。すぐそばにある下関市立歴史博物館を訪れた。印象的だったのが「下関に集う志高き人々」のパネルだ。                
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こには中山忠光・久坂玄瑞・高杉晋作・平野国臣・中岡慎太郎・坂本龍馬らが街道と海道が交わる下関において、攘夷戦や幕長戦争の最前線で活躍した人々の紹介をしていた。他にも大内氏の滅亡と毛利氏の進出、毛利秀元と長府藩の始まり、幕府側の長州再征軍進発の絵巻物、幕長戦争、小倉藩との小倉戦争の概要、高杉晋作と坂本龍馬の写真や交流のいきさつ、坂本龍馬の使用した飯碗の展示、長府毛利家に仕えた三吉慎蔵の日記など見ごたえのあるものが多かった。263-6.jpgのサムネール画像のサムネール画像のサムネール画像

更に旧道を行く。歩きだすと正面方向に長府毛利邸が見える。長府毛利邸は長府藩14代当主毛利元敏、東京から長府に帰住し、この地を選んで建てた邸宅とのこと。武家屋敷造りの重厚な母屋と白壁に囲まれた日本庭園は、新緑や紅葉の季節に一段と映え、しっとりとした風情を感じさせるという。長府教会を過ぎ、十字路を左に曲がると、古い壁に囲まれた多くの家屋がある通りを進んで行った。しばらく歩くと商店街があり、「乃木さん通り」の標識があった。乃木さんとは長州藩出身で、日露戦争を戦った乃木希典大将のことだ。下関には多くの乃木神社があるが、この通りの近くにも乃木神社がある。また東京赤坂の乃木坂にも乃木神社がある。近くの海岸沿いには工業団地があり、神戸製鋼所やブリヂストンタイヤ工場ある。長府印内町、長府八幡町を過ぎると、左手に山陽本線が見え、線路と並行して進んで行くと山陽本線長府駅まえに着いた。長府駅は旧山陽道沿いにあり、ナビの目的地にすると歩きやすいので、チェックポイントにした。

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次に向かうのは東行記念館だ。しばらく山陽本線の線路沿いを平行に進み、491号線を横断して、宇部市の西町を通り、東町辺りから左に折れ山陽本線を渡って神田川の神田橋を渡った。予定よりも遅れているので、小月駅手前のコンビニでおにぎり弁当を店内で済ませ、出発した。そのまま491号線を進み、木屋川手前を左に曲がり、木屋川沿いに下関宿から四番目の吉田宿に、午後1時半に到着した。吉田宿は大名の宿泊施設たる本陣も置かれ宿場町として栄えた。この町は赤間ヶ関から厚狭、舟木を経て山口に至る山陽道本街道と、長府方面より藩都萩へ通ずる萩街道の分岐点にあたるため、郡役所にも比すべき役所を置いて厚狭郡             一帯の政治経済に当たっていた。

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高杉晋作率いる奇兵隊も駐屯して訓練に励んだゆかりの地とのこと。旧山陽道を少し外れるが、高杉晋作の東行(とうぎょう)記念館(東行庵)に向う。東行記念館は曹洞宗功山寺の末寺で清水山東行庵(せいすいざんとうぎょうあん)と称し、維新の革命児・高杉晋作の零位礼拝堂として明治17年に創建された。初代庵主となったのは、高杉晋作の愛妾おうのである。

晋作の死後、おうのは「梅処(ばいしょ)」と称して晋作の眠るこの地で菩提を弔うことを余生としたと伝えられている。早速記念館の受付で入場券を購入した。

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受付のおばちゃんが私の身なりを見て、話しかけてきた。どこから来たの、下関から歩いてきたと言ったら、驚いていた。これから晋作のお墓参りをして、15日かけて京都に行くことを話したら、さらにびっくりした表情を浮かべて、お歳は、何処からと質問してきたので、茨城県から新幹線で下関に来て今日が一日目だと話すと、郷土の英雄晋作を我がことのように教えてくれた。晋作は病気療養のため下関から、3日かけてこの地に来たことを昨日のことのように話してくれた。このような地元の人達が晋作の記念館を守っているのだと感じた。

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靴を脱いで館内に入っていくと、晋作の歴史がわかるように「第一章 藩内における戦い」尊王攘夷を掲げて、長州藩の禁門の変や下関戦争の敗北を受けて、三家老四参謀が死罪、これをきっかけに晋作が起こした功山寺決起は、藩論を変えるきっかけを作り出した。「第二章 幕府との戦い」征長戦争・小倉戦争に勝利し、藩の存亡をかけた戦いで勝利に貢献した。「第三章 病との戦い」では小倉戦争中、体調不良を訴えていた晋作は戦線を離脱し、東行庵で闘病生活に専念した。愛人おうの等が、懸命に看病したが慶応3年(1867年)413日夜半に27歳8ヶ月の生涯を閉じた。

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当時、日本が欧米列強の植民地にならずに、今日の日本の繁栄の礎を築いた偉人の一人だ。このような人々がこの時代に現れたのは、日本の奇跡だ。有名な晋作の辞世の句「おもしろき おもしろきなく世におもしろく」をかみしめて記念館を後にした。今日の宿泊地厚狭市に向う。近くに司馬遼太郎文学碑や奇兵隊の墓があるが、見学で大分時間を費やしてしまったので、拠るのを断念ししばらく歩くと宇賀山陽線を左に曲がり、埴生口峠を越え、山陽本線を横断して、中村の信号を左に曲がって、広い道路(厚狭・埴生線)の歩道を進んだ。         

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前場川を渡りしばらく進むと山陽自動車道がみえ、橋脚下を過ぎ、埴生インターチェンジの標識を過ぎて、談合東の信号を左折し、舟木津布田線に入ると、右手には工業団地が見え、しばらく団地沿いに進んで、宿泊地、山陽本線の厚狭(あさ)駅近くホテルに到着した。一日中小雨が降っていたので、雨合羽を着たままでの一日目の旅だった。到着時間午後5時半、41.3km59,044歩。すぐに下着の洗濯、汗を流し、近くの居酒屋で夕食を取り、9時に就寝した。


山陽道・西国街道旅日記 一日目(P6~8/P89)

一日目 415日 土曜日262-11.jpg

4時に起床。窓を開け、外を見るとやや強い雨が降っている。予定では7時出発だが、しばらく様子を見ていた。雨の降り方が少し弱くなってきたので、40分遅れて出発した。友人からのアドバイスで購入した登山用の雨合羽を身に着け、京都へ上洛の旅の第一歩を踏み出した。雨合羽は軽く通気性も良いので、歩きやすい。

 最初に訪れたのは、旧山陽道の起点とされる亀山八幡宮まで、約2㎞だ。ホテルを出てほどなく右手に見える「市立しものせき水族館 海響館」を過ぎると、唐戸市場が見える。

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唐戸市場は活気あふれる大きな市場で、刺身や寿司、加工食品を販売する露店がたくさん並んでいる。朝早い時間帯と雨が降っているので、客はあまり見られなかった。真向いには亀山八幡宮がある。この亀山八幡宮の石段下に旧山陽道の起点とされる石碑がある。亀山八幡宮は、平安時代に宇佐神社(大分県)から勧請され、室町時代に明と貿易が始まると、遺明船は太刀を奉納し航海安全を祈願したと云う。戦国時代、国内はもとより藩も疲弊し神社も荒廃していたが、藩主大内義興は朝鮮国国主に当宮修復の寄進を要請し、社殿等を修復した。

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当時朝鮮と交易していたとは言え海外に寄進を仰いだことは毛利氏が支配するようになっても能舞台を建立するなど八幡宮を保護した。

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江戸末期の文久3年(1863年)藩主は攘夷を祈願し、慶応3年(1867年)に困難は去ったとして剣馬を寄進された。このように亀山八幡宮は、累代藩主の崇敬と庇護が篤い八幡宮であった。また開国を迫る諸外国への危機感が高まり、長州藩は全国に先駆け外敵防衛策を取り、亀山八幡宮を始め、市内各地に砲台を築き攘夷戦に備えた。   

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砲台跡を見たのち、亀山八幡宮で参拝を済ませ、歩き始めるとすぐに日清講和記念館が見えた。日清戦争は朝鮮の情勢をめぐり、朝鮮半島の権益をめぐる争いが原因となって、日本と清国の間で、主に朝鮮半島と遼東半島・黄海で明治27(1894)に交戦し、明治28(1895)日本側の勝利とみなせる日清講和条約の調印によって終結した。すぐ近くに赤間神社がある。赤間神社は壇ノ浦の戦いにおいて、入水した安徳天皇を祀っている。

江戸時代まで安徳天皇御影堂といい、仏式により祀られていた。平家一門を祀る塚があることでも有名であり、前身の阿弥陀寺は「耳なし芳一」の舞台であったと云う。「耳なし芳一」は、古代の日本を舞台とした会談である。

262-77.jpg昔、読んだ本や映画を思い出した。さらに歩みを進めていくと、下関と北九州門司区を結ぶ関門橋(かんもんきょう)が目に入った。昭和48(1973)に開通した全長1,068mの吊り橋で、開通当時は東洋一の長さだったという。橋を通り過ぎると壇ノ浦の古戦場跡がある。この辺一帯は海岸と国道に挟まれた公園になっている。

262-88.jpg  壇ノ浦の戦いは、平安時代末期の1185324日に、長門国赤間関壇ノ浦を舞台としたこの戦いで、栄華を極めた平氏が滅亡した戦いで、源氏と平氏がおよそ6年に渡って争った。
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これによって源氏の棟梁「源頼朝」が鎌倉に幕府を開き、本格的な武家政権を確立した歴
史のターニングポイントになった。公園に足を踏み入れると、大きな「壇ノ浦古戦場跡」の石碑が置かれてあった。
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寿永四年(1185年)三月二十四日、平知盛を大将とした平家と、源義経率いる源氏がこの壇ノ浦を舞台に合戦をした。当初は平家が優勢であったが、潮の流れが西向きに変わり始めると源氏が勢いを盛り返し、平家は追い詰められ、最後を覚悟した知盛が、その旨を一門に伝えると、二位の尼は当時数え八歳の安徳天皇を抱いて入水し、知盛も後を追って海峡に身を投じ、平家一門は滅亡したと云う。

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さらに2~3分歩くと天保製長州砲の跡がある。幕末、関門海峡での6次にわたる攘夷戦は、元治元年(1864年)8月、長州藩兵と英・仏・蘭・米4カ国連合艦隊との交戦をもって終結したが、同時にこれは明治維新の具体的始動につながった。


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この歴史的事件で下関海岸砲台に装備された長州藩の青銅砲は、すべて戦利品として外国に運び去られ国内から姿を消してしまったが、1966年作家の古川薫氏によってパリの軍事博物館で発見され、当時の外務大臣阿部晋太郎氏の尽力により、1984年貸与の形で里帰りした。この機会に下関東ロータリークラブでは創立20周年記念事業として精密に模造して下関市に送ったという。

 国道9号線を先に進み山陽新幹線の橋脚を横切り、「平家の一杯水」を過ぎ前田の交差点を左折した。ここからが旧山陽道だ。この鬱蒼とした旧道は、今ではハイキングコースになっている。しばらく進むと空地の

山陽道・西国街道旅日記 一日目(P1~5/P89)

まえがき

20224月、東海道五十三次に続き、中山道六十九次を歩いて旅をした。
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20234月は山陽道・西国街道を歩いて京都府三条大橋に行くことにした。最初、京都から下関まで行こうと思ったが、都落ちと云う言葉にネガティブな意味を感じたので、旧山陽道の起点である下関から京都へ上洛する方が、幕末の長州藩の藩士の気持ちが感じられると思った。下関から京都まで約560kmの行程を計画するにあたって、旧山陽道の資料が少なく苦労した。ネットで探し当てたのが昭和48年中国新聞社発行の「山陽道四十八次」だ。この本は下関から大阪までの道のりを作者が歩いて、当時の旧山陽道の情景を描いてある。


    

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しかし大雑把な絵地図しか記載されておらず、下関から大阪までの四十八次の地図は右記に示すような地図しかなかった。この資料を基に歩くことに大きな不安を感じた。調べていくと山陽道は五街道と違い、古来山陽道は都と太宰府を結ぶ最重要の街道であったが、江戸時代では江戸から遠く離れているため、五街道に準ずる脇街道となってしまった。しかし西国大名の参勤交代路で、長崎と江戸を結ぶルートであるなど重要な街道であることには変わりはないと云う。一方では東海道などと比べると見劣りしている。宿場にしても「東海道五十三次」のように大規模でなく、はっきりとしていない。宿泊施設のない半宿や、半宿にしては大きいけれど本宿ではなさそうな宿場が沢山ある。街道の呼び名にしても、地方からの視点の名称も多くあり、今回の旅では山陽道・西国街道の名称でルートを検索していく。山陽道の始点と終点についても諸説あり、当時の幕府は東海道の続きということで大阪~下関間をさすが、古代山陽道にならって京都~下関とすることもあるという。この場合京都~西宮は狭い意味で西国街道と呼ぶと云われている。このようなことから旧山陽道のルートを作るにあたって、大変苦労した。

 そんな時友人の大橋さんから、昭和40年代に発行された「太陽コレクション」という雑誌に記載されている山陽道の本をバラバラにして地図の部分を裁断し、ポケットサイズ(86ページ)の地図に製本し直したと連絡があった。1月に新年会を上野で行っていた時、山陽道の資料が非常に少ないので、困っているだろうとプレゼントしてくれた。早速この地図と山陽道四十八次を見比べた。この地図では下関~京都間の山陽道五十六次であり、中国新聞社発行の本は下関~大阪間の山陽道四十八次となっている。この大橋さんの地図がなければ、「山陽道四十八次」の挿絵をコピーし、張り合わせて地図を作り、挿絵とグーグルナビを使って、計画表を作ろうと思った。しかし大橋さんからプレゼントされた地図を見て、歩いて旅をすることに自信が持てた。この地図に記してある旧跡・名跡・神社をスマホのナビに入力して行程計画を作った。大橋さんに改めて感謝申し上げたい。

 このような経緯で古代山陽道にならって下関~京都の山陽道・西国街道で、下関から京都に上洛するというルートで行くことに決めた。

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                      山陽道・西国街道行程表(下関―京都)

415日㈯ 一日目 下関ドーミーインプレミアム下関 出発7時

亀山八幡宮山陽道石碑⇒壇之浦古戦場高杉晋作回天義挙の碑長府駅小月駅高杉晋作東光記念館長慶寺厚狭市41.3km 宿泊先 

エクストールイン山陽小野田厚狭駅前  

416日㈰ 二日目 出発6時

逢坂観音堂⇒岡崎八幡宮⇒周防下郷駅⇒四辻駅⇒大村益次郎墓⇒佐波川大橋⇒宮市宿(防府市) 宿泊先 HOTEL AZ 山口防府店

417日㈪ 三日目 出発6

佐波神社⇒富海宿富海駅椿峠⇒福川本陣跡⇒山崎八幡宮⇒孝女阿米像⇒富田宿39km   宿泊先 サンホテル下松

418日㈫ 四日目  出発6

久保市公園⇒勝間駅⇒米川駅⇒周防高森駅⇒欽明寺⇒新岩国駅⇒御庄宿(岩国市)38.3km  宿泊先 末岡旅館

419日㈬ 五日目 出発6:00

吉田松陰東遊記記念館長州の役戦跡碑玖波駅大野浦駅廿日市駅古江駅広島宿 45.2km 宿泊先リーガロイヤルホテル広島           

420日㈭ 六日目  出発6

海田脇本陣⇒安芸中野駅⇒瀬野駅⇒八本松駅⇒西条駅⇒西条宿40.5km  宿泊先  東横イン東広島駅前  

421日㈮ 七日目 出発6:00

仁賀ダム展望台⇒賀茂川荘⇒安芸高木山城跡⇒本郷駅⇒三原城址⇒三原宿36.8km  宿泊先  三原ステーションホテル(田部井さん合流)

422日㈯ 八日目  出発6

尾道駅⇒防地峠⇒今津本陣跡⇒備後赤坂駅⇒大渡橋⇒神辺駅⇒井原駅着⇒井原市40.4km  宿泊地  ビジネスホテル歴城荘(田部井さん合流)

423日㈰ 九日目  出発7

旧山陽道⇒日芳橋⇒旧山陽道堀越宿跡⇒矢掛本陣⇒下道氏案内板⇒吉備寺⇒静音駅⇒倉敷市35.3km 宿泊地  倉敷アパホテル倉敷駅前(田部井さん合流)

424日㈪    十日目  出発6:00 

高松城址跡⇒備前一宮駅⇒岡山後楽園⇒東岡山駅⇒香登駅⇒備前長船刀剣博⇒ 岡山宿39.5km  宿泊地  常磐旅館

425日㈫ 十一日目  出発7

片上八幡神社⇒廣高下公民館⇒三石駅⇒有年峠⇒大避神社⇒有年駅⇒相生市38.1km  宿泊地  東横イン相生駅新幹線口

426日㈬ 十二日目  出発6:00

正条宿道標⇒太子町牛飼⇒夢前橋⇒播磨高岡駅前⇒姫路城⇒御着城址⇒加古川橋⇒加古川宿43.0km  宿泊地  ビジネス宿泊穴田荘

427日㈭ 十三日目  出発6

土山駅⇒光明寺⇒史跡敦盛塚⇒一ノ谷戦の濱碑⇒監物太郎の碑⇒海軍練所⇒明石宿39.7 km  宿泊地 ホテルヴィアマーレ神戸

428日㈮ 十四日目  出発5

住吉駅⇒西宮神社⇒甲武橋⇒昆陽寺⇒伝和泉式部の墓⇒桜井駅⇒菅谷三平旧邸⇒郡山宿本陣⇒継体天皇陵高槻⇒郡山宿50km  宿泊地 高槻サンホテル(松本さん合流)

429日㈯ 十五日目  出発8

一乗寺⇒離宮八幡宮⇒正覚寺⇒淀城跡⇒寺田屋跡⇒伏見稲荷⇒京都国立博物館⇒三条大橋30km(⇒京都駅1600)

帰宅予定:京都駅発ひかり65816:33⇒東京駅着19:12⇒東京駅発19:28⇒小山駅着20:09⇒タクシー約40

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前日 414日㈮、自宅を610分に出て、水戸線新治駅発629分、東京駅発83分、新大阪行の8号車に乗った。座席は約半分が埋まっており、ほとんどが外国人観光客、マスクをしているのは2割程度だった。新大阪駅到着後、博多駅行こだま849号に乗り換えると、座席は約60%強が埋まり、半数が外国人だった。コロナが落ち着いて、58日に2類から5に移行するとの報道から観光客、特にインバウンドが戻ってきたようだ。下関行の山陽新幹線に乗り、新下関駅で下車し、山陽本線下関駅に到着したのは1543分だった。

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早速、下関のオービジョン海峡ゆめ広場に向い、海峡ゆめタワーに行き、チケットを買い、エレベーターで展望台に上った。小雨が降っていたが、九州の小倉城、下関国際ターミナル、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘で有名な巌流島(船島)など下関海峡が一望できた。明日、下関を出発すると、すぐに通る壇ノ浦の古戦場や赤間神社を見ることが出来る。


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今夜の宿はドーミーインプレミアム下関だ。チェックインしてから下関駅に行き、地元でとれる地魚の刺身定食を頂いた。明日の天気予報をチェックしたが、一日中雨が降りそうだ。明日は山陽小野田市厚狭駅近くのビジネスホテルまで、42kmの道のりだ。雨合羽を確認して9時に就寝。

茨城産業人クラブ令和5年度定時総会

7月25日㈫ホテル・ザ・ウエストヒルズ水戸において、第60回茨城産業人クラブ定時総会・講演会が89名の参加を得て開催された。主催者挨拶は会長の髙橋と日刊工業新聞社の井水治博社長が行った。

会長挨拶「厳しい行動制限のとられていた新型コロナウイルスですが、感染症法上の位置づけが見直され、世の中は「ポストコロナ」という新たな時代を迎えております。各人の自主的な取り組みをベースとした感染対策に移行したことで、外食・旅行をはじめとするサービス業が緩やかに回復しています。また最近は、東京都心でも外国人観光客を見かけられる機会が増えたのではないかと思いますが、今年5月の訪日外国人数が対2019年比で7割の水準まで回復するなど、インバウンド需要も急回復が続いています。当面はサービス分野を中心としたリバウンド需要が日本経済をけん引し景気は緩やかな回復が続くのではないでしょうか。

一方、我々製造業を取り巻く経営環境は一段と不透感を増しております。ロシアによるウクライナ侵攻など地政学リスクの顕在化、資源・エネルギー価格の高騰を起因としたインフレの加速、気候変動に伴う自然災害の多発など、これまでの常識や過去の経験が通用しない事象が次々と起こり、不連続な時代に直面しています。

今なお経営環境は厳しく、先行き不透明ではありますが、こんな時代だからこそ、前を向き一歩足を踏み出し未来にたすきをつなげたいと強く思います。人工知能(AI)をはじめとする情報技術の活用やイノベーションが成長のエンジンとなる時代が到来した中、我々企業においても変化のスピードを上げ、競争力の強化や、新たなビジネスモデルの創出に向けた動きを加速化させる必要があります。茨城県経済をはじめ、わが国経済全体が、活力を取り戻し、新しい成長を遂げるためにも、産業人クラブをご活用頂ければ幸いです。」 

1号議案は令和4年度事業報告・収支決算を事務局が報告し、監査報告は監事の塩谷智彦様が報告され、可決承認された。続いて第2号議案令和5年度事業計画・収支予算案を事務局から説明し、可決承認された。総会終了後の講演会では,国連在職時にSDGs指標の策定作業に関わられた常磐大学の富田学長にご講演いただいた。学長の富田敬子様には「SDGs達成の現況と産業界の役割」をテーマに、ご講演いただきました。SDGsは貧困、飢餓といった開発途上国に寄った課題だけでなく、気候変動、イノベーション、働きがい(成長・雇用)という先進国の課題も内含する広範囲な目標ですと詳細にお話されました。

講演会終了後、懇親会が行われ、来賓挨拶として茨城県副知事の横山征成様、主催者挨拶は日刊工業新聞社代表取締役社長井水治博様、新入会員紹介ではみとしんリース()代表取締役社長廣瀬千秋様が自己紹介されました。続いて来年開催の産業人全国大会が、千葉県の千葉産業人クラブが主催されるに伴って、PRの一環として挨拶された。そして乾杯は副会長の伊藤幸司様の発声で行われた。立食パーティでは皆さんが笑顔で情報交換しているのが印象的だった。中締め挨拶は副会長の加藤木克也様が行った。

茨城産業人クラブ2023年経済講演会

6月5日(月)水戸京成ホテルにおいて、茨城産業人クラブ・日刊工業新聞社工業新聞社の主催で経済講演会が、91名の参加を得て開催された。主催者挨拶は会長の髙橋と日刊工業新聞社の井水治博社長が行った。

開会挨拶の要約は

「先日、広島市で開催された主要7カ国 首脳会議(G7サミット)が無事閉幕しました。予想もしなかったウクライナのゼレンスキー大統領の電撃訪問が注目された広島サミットですが、G7としては初となる、核軍縮に焦点を当てた「広島ビジョン」が表明されこちらも注目を集めました。核に関しては、一足飛びに「廃絶」というわけにはいかないと思いますが、各国の首脳が原爆の被害を知る機会が持てた、というだけでも非常に良かったのではないかと思います。

またウクライナ問題に関しましては、G7の中で唯一、アジアに位置する日本からロシアを強く非難するとともに、ロシアに対する制裁措置の強化が謳われた事は、この問題は欧州だけの地政学的問題ではない、と示す重要な機会になったのではないでしょうか。国際的な日本の地位が低下しておりますが、これを境に良い方向に動いてくれると期待しています。

さて日本経済ですが、輸出やインバウンド需 要の拡大を促す円安基調の展開やコロナ禍からの回復、好調な企業業績などを背景として「株価の上昇」が続いています。政府が先月25日に公表した「月例経済報告」でも、足元の景気の基調判断を「緩やかに回復している」と、10カ月ぶりの上方修正となりました。

自動車を中心に好調な輸出や、外国人観光客の増加などが景況感を押し上げた格好ですが、一方で、エネルギー価格の高騰や欧米を中心とした世界経済の下振れリスクの高まり、人手不足の深刻化など足下には多くの不安材料を抱えております。

産業界を取り巻く環境は年々厳しさを増しておりますが、今後も事務局と共に茨城産業人クラブをもり立てていきたいと思いますので、皆様方には引き続きご支援の程をよろしくお願い申し上げます。 

さて、本日の講演会ですが、元オックスフォード大学 教授で政府の勉強会の「顧問」を務められております、早稲田大学のスズキ トモ教授に『新しい資本主義』政策と経営 と題し、ご講演いただきます。

スズキ先生の提言される、企業の「付加価値の適正分配を通じていかに人材確保し成長するか」についてじっくりとお伺いする貴重な機会となっておりますので、今回の講演が自社のビジネスを見つめ直すきっかけとなり、強い日本の再生に尽力できる機会になればありがたいと思います。」

 講演会終了後、スズキ トモ先生(英国永住権:大学での正式名がカタカナ表記)も出席され、立食パーティー形式で行われた。久しぶりに対面の懇親会で会員同士の情報交換する姿が随所に見られ1920分に閉会した。

茨城産業人クラブ2023年新春経済講演会・賀詞交歓会

茨城産業人クラブ2023年新春経済講演会・賀詞交歓会が、29日㈭水戸市にある水戸京成ホテルで開催された。3年ぶりのリアルでの開催に茨城県産業戦略部部長、日刊工業新聞社から井水社長はじめ4名の幹部の出席を得て、8299名で行われた。

主催者挨拶の要約は

「年頭にあたり、一言ご挨拶を申し上げます。

2020年に始まった新型コロナウイルス感染症の拡大も早(はや)3年が経過しました。未だコロナ禍から完全に解放された訳ではなく、感染対策は今なお継続中ですが、ワクチン接種やウィズコロナの環境整備が進んだことにより、状況は大きく改善されています。政府は重症化率の低下などを受け、5月8日より、季節性インフルエンザなどと同じ「5類」に移行する方針を正式に決定しました。新型コロナに翻弄される3年間でしたが、今年はコロナと共生し、社会経済活動を回していくという、大きな転換の年になる模様です。

一方、昨年を振り返りますと、海外ではロシアによるウクライナ侵攻やミャンマー軍の市民への弾圧、国内では安倍 晋三 元首相の銃撃や32年ぶりの円安など、歴史的な出来事の多い激動の一年となりました。

特に、世界が震撼したウクライナ侵攻は、コロナ禍から回復しつつあった世界経済を大きく混乱させ、世界的なインフレと金融引き締めの影響による景気後退懸念をもたらし、先行きの不透明感を一段と強める事態となりました。

またウクライナ侵攻は、調達や輸送手段を含むグローバルサプライチェーンの脆弱性を浮き彫りにさせた他、エネルギー供給バランスの急激な変化をもたらし、世界的に拡大しつつあったカーボンニュートラルの進行を後退させる事態となりました。

2022年は我が国のエネルギー・安全保障に大きな課題を突きつける年となり、産業界にとりましてもかつてない不確実性とめまぐるしい事業環境の変化に直面する年になりました。  

2023年もこの流れを引き継ぎ厳しい年になりますが、世界が社会課題の解決や持続的な経済成長に向け進化を加速させる中で、我々企業経営者も自社の進化に向けて、今まで以上に新しい事にチャレンジし、具体的なアクションを展開していく事が重要となってまいります。

本日の講演では文部科学省 技術参与 の 栗原 研一様に「脱炭素社会実現に貢献する核融合エネルギーがいよいよ現実に!」と題しご講演にただきます。

核融合はCO2や高レベルの放射性廃棄物を出さず、反応を容易に停止できる優れた安全性を有しており、脱炭素やエネルギー安全保障の切り札と言われるエネルギー源です。

本日は我が国の核融合の第一人者であり、当クラブ会員でもあります栗原様に、核融合の実現性や中小企業の参入の可能性について直接お話を伺うことの出来る、貴重な機会となっております。本日の講演が自社のビジネスの次の経営につながる「ヒント」になれば幸いです。」

講演会終了後、マスクをしての立食パーティーが行われ、3年ぶりの開催に会員間の意見交換、盛り上がりを見せた。

中山道六十九次旅日記(17)

14日目(4月22日)金曜日

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4時に起床。体の調子は良い。今日は最終日、目指すはゴールの京都三条大橋だ。朝は肌寒い。長袖を着てナビと古地図で旧中山道に出るルートを確認しながら出発した。朝食は野州駅近くのコンビニで、おにぎりとサンドイッチ、お茶で食事をとった。

野州駅脇の踏切を越え歩いて行くと、「背くらべ地蔵」があった。これで旧中山道に入ったことが確認できた。道なりに進んで行くと琵琶湖線横断して、

256-2.jpg真直ぐに進むと野州川に架かる野州川橋にでる。橋を渡って振り返ると、近江富士(三上山)が見える。更に道なりに進み今宿一里塚を通りすぎると、予想しなかった「古高俊太郎先生誕生地」の石碑があった。古高俊太郎は尊王攘夷派として、古道具や馬具を扱う商人として、京の情勢を探る長州藩の情報活動と武器調達を担っていたが、新選組に捕らえられ非業の死を遂げた。享年36歳。少し先の近江守護職佐々木氏ゆかりの大宝神社を通過すると、左には栗東駅が見える。東海道本線の高架脇の道に入り、高架下のトンネルをくぐって、突き当りを右に曲がる。ここはもう草津宿だ。256-3.jpgのサムネール画像

草津宿は中山道と東海道が合流する宿場町だ。本殿のある伊砂砂(いささ)神社を見て、JR草津駅方面への大通りを渡ると、アーケードにぶつかる。このアーケードの商店街が旧中山道とのこと。このあたりは大変混雑しているエリアだ。商店街中ほどを左に曲がった覚善寺の門前に「右東海道 左中仙道」と刻まれた道標があるが、これは明治の追分道標とのこと。江戸時代の追分は旧草津川の下のトンネルを出たところに、「左中仙道のぢ 右東海道いせみち」と刻まれている。中山道と東海道という2つの主要な街道が合流する草津宿は、本陣2,脇本陣2、旅籠70余軒を擁する大きな宿場町だった。追分のすぐ先が現存する草津宿本陣で、ほぼ当時の姿を留めているという。

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立木神社を通り、草津川に出る。昨年の4月、東海道五十三次の時は、正午の京都方面は雨の予報なので、雨が降る前に到着しようと、石部宿を午前4時に出発し、南草津駅脇を通って、近江大橋にでて三条大橋に行った。今回は旧道を行く。本陣を過ぎた処にある立木神社は千二百年の歴史がある古社と云われている。

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草津川の「やぐらはし」を渡り、「野路の玉川跡」に向う。「野路の玉川跡」は平安時代から有名になった歌所で、萩の玉川ともいわれ、日本六玉川のひとつとして知られている。

野路は鎌倉時代、有名な宿駅でもあり、平安、鎌倉時代の東山道沿いに位置し、往来の旅256-6.jpg人たちも、秋には「詩に詠まれている、野路の篠原」あたりを越えると、一面に萩の花の景観を堪能したと云われている。少し先に行くと弁天池の標柱があった。ここから瀬田の唐橋まで、旧道(旧東海道)は複雑な道なので、案内板に従って進む。東海道立場跡、一里山一里塚跡、建部神社を通って行くと瀬田の唐橋だ。
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瀬田の唐橋は「唐橋を制する者は天下を制す」といわれ、多くの歴史の舞台になった。琵琶湖を街道沿いに進むと、旧善所城の城門を移築した善所神社、
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義仲(ぎちゅう)寺が見える。この寺の創建は不詳であるが、源義仲(木曽義仲)の死後、愛妾であった巴御前が義仲の墓所近くに草庵を結び、日々供養したという。寺は巴寺、無名庵、木曽塚、木曽寺、また義仲寺と呼ばれていたのが鎌倉時代後期の文書に見られるという。戦国時代に荒廃し、近江守護の六角義賢によって再興されたが、江戸時代になり再び荒廃していたところを浄土宗の僧・松寿により再再興したという。俳人松尾芭蕉はこの寺と湖南の人々を愛し、たびたび滞在し、無名庵で句会も盛んにおこなわれた。大阪で亡くなった芭蕉は「亡骸は木曽塚に送るべし」との意思により、元禄7(1694)10月、義仲の墓の横に葬られた。
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その後、荒廃再興を繰り返し、戦後壊滅の危機に瀕するも、一個人の篤志家による寄進で再建に尽力したという。このような人によって歴史が残されて、日本の誇るべき歴史が神社・寺を中心に残されていると思うと考え深い。大津宿は中山道で69番目、東海道で53番目の宿場である。古くから琵琶湖の物資を集散する水運の要として大いに栄えた。本陣2,脇本陣1,旅籠71軒、総家数3650戸、宿内人口14892人を擁し、東海道の宿場で最大の人口を有していた。滋賀県庁、札の辻跡から蝉丸神社下社を通り過ぎ、坂を上がると逢坂山関址の碑、月心寺を通って、京阪京津線追分駅に向かう。

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追分は江戸時代より東海道と伏見街道(奈良街道)の分岐点にあたり、馬子が追い分けることからその由来になっている。更に進んで行くと、昨年東海道五十三次歩いてきたとき、山科駅の標識があった。この地名を見ると京都に入った実感がわく。足を進めていくと「車石」の案内板があった。それによると大津と京都を結ぶ東海道は、コメをはじめ多くの物資を運ぶ道として利用されてきた。

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江戸時代中期の安永8(1778)には牛車だけでも年間15,894輌の通行があった。この区間は、大津側に逢坂峠、京都側には日ノ岡峠があり、通行の難所であった。京都の脇坂義堂は、文化2(1802)に1万両の工費で、大津八町筋から京都三条大橋間にかけて、約12㎞の道に牛車専用道路として車の轍を刻んだ花崗岩の石を敷きならべ牛車の通行に役立てた。

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これを車石と呼んでいるとのこと。やはり逢坂峠と日ノ岡峠の上り下りはきつかった。粟田口刑場跡三条大橋はもうすぐだ。粟田神社は、京都の東の出入り口(粟田口)に鎮座し、道中の安全を願って東海道を行き来する旅人の信仰も篤かったという。三条大橋に到着したのは午後17分だった。中山道六十九次の14日間の旅は終わった。途中、困ったときに受けた親切は、いつまでも忘れずに心に残る。これで72歳の挑戦は終わった。

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中山道六十九次旅日記(16)

13日目(4月21日)木曜日

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朝、4時に起床し、天気予報と行程の確認を行い、朝食を取り6時に出発した。今日の行程は高宮宿、愛知川宿、武佐宿、守山宿と4宿を行く。今日は松本さんが同行する。少し肌寒いが、1時間も歩くと体が温まり、ちょうど良い。

宿場町から大きく離れたところに宿を取ると、旧道に出るときに道を間違えやすい。8線にでて右折し、間もなく306号線にでて、2㎞位行くと東海道
255-2.jpg新幹線が見える。その手前528号線を右折すると旧中山道だ。1㎞位行くと芹川を渡る。渡り終えると右側に、大きな常夜灯が目印の石清水神社が目にはいった。この神社には能楽の扇を埋めた扇塚があり、江戸時代井伊藩の手厚い保護を受けた能楽喜多流(北流)は、この地で発展したという。高宮宿に入った。
高宮宿は彦根への玄関口で、天保十四年(1843)の記録では東西800mに本陣1,脇本陣2,旅籠23軒、総戸数835戸、人口3560人と記録され、中山道の武州路の本庄宿などと並ぶ、中山道の有数の大きな宿場で、もともとは多賀大社の門前町として栄えたという。
近江鉄道彦根・多賀大社線を渡ると神社が目にはいった。高宮神社という。高宮神社は明治三年の大洪水で多くの記録が流された
255-3.jpgため、沿革はほとんど残っていない。拝殿と本殿の間には正徳三年(1713)のものと思われる古い石灯籠が残っているだけだ。その先に多賀大社一の鳥居、芭蕉の紙子塚の標柱があり、続いて円照寺、脇本陣跡、本陣跡がある。またここは「高宮上布」と呼ばれた麻織物の問屋町としても賑わったという。高宮布は高宮周辺で産出された麻布のことで、室町時代から貴族や上流階級の贈答品として珍重され、麻布の集積地として栄えたという。少し進むと犬上川に架かる「無賃橋」を渡った。この橋で高宮宿は終わる。無賃橋の両岸には「むちんばし」「天保三年」と彫られた標石が立っていた。彦根藩は高宮宿の有力者に命じて橋を造らせ、当時一般的だった渡り賃を、払わなくても通れる橋にしたことから「むちんばし」と呼ばれるようになったという。
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松本さんの歩みも順調で足の調子も良さそうだ。何気ない話をしながら歩いているとすぐチェックポイントに到着する気がする。時間の流れが変わるかのように。橋を渡り終えると愛知川宿だ。滋賀県は近江商人の故郷として知られているが、愛知川宿も「愛知川商人」と呼ばれる人々により商業の町として栄え、東海道の土山宿に通じる御代参街道の分岐点でもある。無賃橋を渡って松並木が点在する旧道を進むと、「またおいでやす」のモニュメント」に見送られて進む。
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すぐ先の道を左側には、近江鉄道の尼子駅がある。左に唯念寺があり、少し先に近江商人の寄付で建てられたという旧豊郷小学校、間の宿として栄え、旅人で賑わう立場茶屋のあった石畑一里塚があった。
伊藤忠左衛門記念館だ。この記念館は旧中山道歩き旅の計画段階では気が付かなかった。伊藤忠商事、丸紅の創始者・初代伊藤忠兵衛の100回忌を記念して、初代忠兵衛が暮らし、二代忠兵衛が生まれたここ豊郷本家を整備、伊藤忠兵衛記念館と命名して、一般公開している。
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繊維卸から「総合商社」への道を開いた足跡を紹介ししている。この時9時半まだ開館していないので、先を急いだ。江州音頭発祥地の石碑があった。この江州音頭は滋賀県を中心に近畿地方各地で盆踊りとして定着したという。宇曽川に架かる歌詰橋を渡って、進むと愛知川宿の門があり、出迎えているようだ。

八幡神社の鳥居があった。その由緒記によると、太政大臣藤原不比等海公(ふひとたんかいこう)717から727年に建てらたとある。

255-8.jpg見るからに古い神社だ。この辺は道がわかりやすい。愛知川に架かる御幸橋を渡ると、常夜灯があり、少し先に行くと「てんびんの里」と書かれた石柱に、銅像が置かれていた。近江商人は銅像のような格好で近江を本拠に日本全国をまわり、一介の商人から大商人になった。その「近江商人」発祥の地といわれる東近江市五個荘が、今歩いているこの地域だ。
その先に、街道沿いに湧く湖東三名水の一つ「清水鼻の名水」の石碑を後にして、東海道新幹線の高架下を通り過ぎ、           奥石(おいそ)神社を右手に見ながら、旧道に入る。
255-9.jpg奥石神社は織田信長の寄進のより、天正年間に建てられた由緒ある古社とのこと、老蘇の森に囲まれた神社は、繖山(きぬがさやま)を神体とする最も古く原始的・根源的な神社で、安産延寿、狩猟、農耕の神様を祀ってあるという。老蘇の森は田園風景の中にある鬱蒼とした森だ。255-10.jpgのサムネール画像平家物語」をはじめ古くから文学の題材になってきたという。この辺りは、旧道には歩道がないところもあり、左側を歩いていると、後からトラックの風圧で体が引き込まれそうになる。255-11.jpg
右側の道路の端を歩き、車を視認し狭い場所では立ち止まり、車をやり過ごした。奥石神社まで約20㎞を歩いた。松本さんの足の調子も良さそうだ。20㎞以上歩いた経験はないが、問題ないと言っていた。結構歩くのが早く、気を抜くと置いて行かれる。鎌若宮神社、東光寺を通り過ぎ、武佐宿に入る。武佐宿は一本道の小さな宿場町だが、宿場風情を湛えた町並みだ。
牟佐神社、立派な冠木門がある脇本陣跡を見ながら、国道421号線の交差点を渡ると、400年以上前からの商家(大橋家)があり、その先に
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下川家本陣跡がある。建物はないが門と土蔵は当時のものであるという。愛宕山の常夜灯を過ぎ、武佐駅を左手に見て、近江鉄道の踏切を渡ると、すぐに伊庭貞剛誕生地があった。この名前に見覚えがあった。伊庭家は近江守護佐々木家の流れを汲み、弘化四年(1847)この地で生まれ、若くして剣の免許皆伝となり、尊王家に入る。明治になり京都御所警備隊士、大阪裁判所の判事となったが、明治政府に期待を持てず、裁判所を辞し、住友家に入社し、四国別子銅山の煙害の解決に尽力し、住友家総理事に就任するが、58歳の若さですべての職を辞し、石山に「住友勝機園を建て、大正1580歳で生涯を閉じたという。
伊庭貞剛の名前をどのような経緯で知ったのか、思い出せない。西宮町の交差点を左に曲がると、国道8号線にでる。この国道は両側に歩道
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ので、怖くなるほど危険だ。片側に歩道があるが、道が狭くなると歩道が消えて、反対側に歩道があるため、車の往来を見ながら、反対側に渡った。白鳥川を渡り、八幡社の鳥居を過ぎ、右手にある馬淵忠魂公園を斜め右に曲がり、進んで行く。
右手に見える新幹線を横目に、畑に沿って歩いて行く。旧中山道はかつて日野川に渡しがあった。今は渡しの場所もないので、土手を左に回り込むようにして、国道8号線に出て、右折し日野川に架かる横関橋を渡った。渡るとすぐ旧道へ、右に曲がり土手沿いに行くと西横関集落に入り進む。8号線の五差路に出ると、守山宿方面の8号線に合流する。
すぐ善光寺川を渡って、旧道に入り、8号線に同流する。この辺りは国道8号線と旧道が入り組んでいて、古地図をよく見ないと
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間違える。鏡宿跡碑があった。鏡宿は紀州徳川家の定宿だという。旧鏡宿は中世東山道の宿駅で、江戸時代は武佐宿と守山宿の間だが、3里半(14)と長いため、間の宿として栄えたという。T字路を右に進み、すぐ鏡口交差点を左に曲がり、8号と合流する。すると右側に源義経宿泊の館あとの石碑があった。ここは鏡宿本陣跡でもある。そして源義経元服の地と伝わる鏡神社があった。義経は承安4年、源氏の御曹司牛若丸は京の鞍馬で遮那王と称して、ひそかに源氏の再興を志していた。
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鞍馬を抜け出した遮那王は兄頼朝を尋ね、供三名を伴い東下りの途中近江の「鏡の宿」に入り、時の長者「沢弥博(さわやでん)」の屋敷に泊まった。その夜、稚児姿で見つかりやすいのを避けるために元服し、烏帽子屋五郎太夫に源氏の左折れの烏帽子を作らせ、鏡池の石清水を用いて前髪を落とし、元結の侍姿を、池の水に写し元服をしたと伝えられている。鏡神社より西側へ130mの所に池があり、石碑が立っていた。本日の宿泊、野州駅近くの「セントラルホテル野州」は守山宿の大分手前、入り口に近いようだ。あと約6.5㎞の道のりだ。

守山宿は京都から江戸に向う場合(東下り)、「京発ち守山泊まり」が一般的だったと言われ、守山宿は最初の宿場町として賑わっていたという。篠原神社の所を斜め右に旧道へ入って、家棟川を渡る。篠原神社を右手に見ながら、進むと桜生史跡(さくらばさま)公園がある。この公園には6世紀を中心とする甲山古墳、円山古墳、天王山古墳がある。
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特に円山古墳と甲山古墳では、横穴式石室の内部に熊本県阿蘇から産出した凝灰岩をくりぬいた家形石棺や大阪府と奈良県の境に位置する二上山で産出する凝灰岩を用いた石棺があるという。公園を過ぎたころ、右に曲がり新幹線の高架下を進む。ここから旧道を外れ、ナビで目的地に向った。京セラ㈱滋賀野州工場の正門前のホテルが宿泊地だ。ここは京セラの関係者が利用するビジネスホテルのようだ。到着は3時12分、チェックインし、洗濯してからシャワーを浴びた。5時半頃、ホテル近くの居酒屋風の店で食事をした。一日を振り返って、話が弾んだ。松本さんは今年還暦を迎えるという。記憶に残ることをしたい。それは日本橋から生まれ故郷の清水まで、東海道を歩いて行くことだという。後日談だが、5月の連休中に、5日かけて清水到着した。行動力には敬意を表する。守山宿までの道中はお互い一生記憶に残る出来事だ。翌日、私は5時に出発するため、顔を合わすことはないので、ここで分かれた。

中山道六十九次旅日記(15)


12日目(4月20日)水曜日

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朝、4時に起床。天気予報は晴れ、降水確率は少ない。昨日寝ながら考えて、大垣から赤坂宿に向い、旧中山道に入ることにした。赤坂宿、垂井宿、関ヶ原宿、今須宿、柏原宿、醒井宿、番場宿、鳥居本宿の行程だ。鳥居本宿では宿泊施設が見つからないので、約2.5㎞離れた東海道新幹線「彦根駅」近くのコンフォート彦根に泊まることにした。約40㎞の道のりだ。この彦根で友人の松本さんと合流し、翌日、守山宿までの約40㎞を一緒に歩く計画だ。7時に出発し、大垣から赤坂宿まで5㎞、18号線を進んでいき、21号線を突っ切り417号線にでて、養老鉄道を越え、赤坂宿本陣跡に着いたのは、8時頃だった。

赤坂宿は、かつて中山道六十九次の57番目の宿場町として栄え、東西に連なる町筋には、本陣・脇本陣をはじめ旅籠屋17軒と商家が軒を並べ、美濃国の

254-2.jpg宿場町として繁盛していた。現在もその古い建造物や数多くの史跡が残っており、谷汲街道・養老街道が通って、その道標が分岐点である四ツ辻にある。赤坂本陣公園(本陣跡)は敷地約800坪、建坪239坪、岐阜県では中津川に次いで2番目に大きい本陣だという。皇女和宮も宿泊したが、現在は建物もなく、公園として整備されている。公園内には幕末の青年志士、所郁太郎の功績を顕彰した銅像や皇女和宮を偲ぶ顕彰碑がある254-3.jpg銅像の所郁太郎を見て昔読んだ本の中で、名前があったのを思い出した。この赤坂宿で生まれ、幕末、  医師でありながら長州藩の尊王思想の大義を唱え、高杉晋作らと供に遊撃隊の軍監を務めた。将来を嘱望されたが、若くして27歳で病没した人物だ。歩いて旅をしていると名所旧跡で昔の記憶がよみがえることが度々ある。街道風情が漂う町を通り過ぎると、大名等が宿場に入る際、宿役人や名主が出迎えた場所である御使者場跡碑があった。その少し先に白髭神社を過ぎた直後に、思いもよらない標柱が目にはいった。254-4.jpg

それは「照手姫の水汲み井戸」だ.

なぜかというと私の住まいである筑西市(旧協和町)では毎年12月に小栗判官祭のパレードが行われ、小栗判官には芸能人が馬に乗り、照手姫はミス協和が、そして地元の有志が槍や刀を持っての武者行列だ。旧協和町に引っ越してきた48年前、小栗判官の物語を知らなかったので、興味を示さず一度も見に行ったことがなかった。突然、照手姫の名前が目にはいったので驚いた。その標柱には「昔、武蔵・相模の郡代横山将監に女の子が生まれ、照手姫(てるてひめ)と名付けられ成長し、目の覚めるような美人と言うことで世間の評判になった。その話を聞いた常陸の国(茨城県) の国司小栗判官正清は、使者も立てず強引に婿入りしてしまった。


254-5.jpgのサムネール画像そのため、父親の将監が大変怒り、小栗判官に毒の入った酒を飲ませ殺してしまいました。照手姫は深く悲しみ、あてのない旅に出て、あちこちさまよい青墓の長者「よろづ屋」に買われることになった。長者は、その美貌で客を取らせようとしたが、照手姫は拒み通した。怒った長者は「一度に百頭の馬にかいばをやれ」、「籠で水を汲め」、「十六人分の炊事を毎日一人でやれ」などと、無理な仕事を言いつけた。照手姫は、毎日毎日、泣き泣き仕事を続け
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たが、日頃信仰していた千住観音菩薩の助けで、普通の人間には出来そうにないことを成し遂げることが出来た。一方、毒手に倒れた小栗判官正清は、熊野の湯につかって蘇り、二条大納言兼家の許しを得て都に戻り、朝廷から美濃国を治める役人に任命された。その後、照手姫が青墓にいることを知り、妻として迎え、二人は末永く幸せに暮らしたということです。」と記されてあった。この井戸は籠で水を汲んだと伝えられている。お墓は100m先の園願寺(お寺は消失)境内にあるとのこと。この小栗判官と照手姫の悲恋物語は歌舞伎の演目にもあるとのことだ。昔協和町に居を構えてから地元の歴史を知らなかったことを恥じるばかりだ。確かに旧協和町の小栗に、小栗城跡がある。この城主がモデルともいわれている。
254-7.jpg「小篠竹(こしのだけ)の塚」の標柱に「青墓(あおはか)に昔照手姫という遊女ありこの墓なりぞ 照手姫は東海道藤沢にも出せり その頃両人ありし候や詳ならず」(木曽路名所図絵より)、また和歌が詠まれてあった。「一夜見し 人の情けにたちかえる 心に残る 青墓の里」慈円(天台宗座主、愚管理抄の作者)お墓の前で手を合わせた。大分時間を取ってしまった。先を急ぐ。野一里塚跡の常夜灯をあとに、垂井宿に入った。
垂井宿は美濃路の追分を控えた交通の要衝として栄え、芭蕉の足跡が感じられる宿場町だ。垂井駅がすぐ近くだ。顧客の垂井工場がすぐ近くにある。いつも垂井の駅からタクシーで行くので、景色がまるで違う。宿場の中ほどには南宮大社大鳥居道路を跨でいる。鳥居を少し南に入ると、地名の起こり
254-8.jpgとされる垂井の泉が湧いているという。街道に戻り進むと右に本龍寺がある。当時の住職は芭蕉と親交が深く、裏手に芭蕉句碑が立つという。
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垂井一里塚は、南側の一基だけがほぼ完全に残っており、旅人にとっては人夫や馬を借りるのに、里程を知り、駄賃を定める目安となっていたという。またこの地は関ヶ原の戦いで浅野幸長の陣地で、五奉行の一人であった浅野長政の嫡男で、甲斐国府中十六万石の領主であった。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、その先鋒を務め、岐阜城を攻略した。本戦ではこの辺りに陣を構え、南宮山に拠る毛利秀元ら西軍に備えた。戦後、紀伊国和歌山三十七万六千石を与えられた。さらに進み関ヶ原町に入った。
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関ヶ原宿は宿場町としてよりも関ケ原合戦の地としての知名度が勝っている。北国脇往還と伊勢街道の分岐点にあたり西に今須峠を控えていたため、多くの旅人で賑わったが、繁栄ぶりをしのぶ史跡はない。足を進めていくと、旧中山道松並木があった。

美濃路ではここしか残っていない貴重な松並木だという。次に目にはいったのは徳川家康最初の

254-11.jpg陣地だ。ここから西軍の陣地が一望できる。左側奥の山から西軍の宇喜田秀家、写真の中央辺りが                                               開戦地、その左が南天満山、右に北天満山、その手前に小西行長、右隣に島津義弘の陣があった。
ここから徳川家康最後の陣跡まで2.4㎞ある。最後の陣まで30分あれば、決戦の地に到着する。関ヶ原の戦いのイメージが具体性をおびて想像できた。 
最後の陣地まで行くと遠回りになるので、関ヶ原の町中を通り過ぎた。関ヶ原古戦場西首塚の跡碑に出会った。街道から少し離れるが、手前に東首塚がある。西首塚を過ぎてから旧中山道に入ると
254-12.jpgのサムネール画像のサムネール画像京極・藤堂高虎陣跡、福島正則陣跡、少し進むと不破関跡がある。この関は東海道の伊勢鈴鹿の関、北陸道の越前愛発関と共に、古代律令制化の三関の一つとして、壬申の乱(672)後に設けられたとされている。不破関資料館に着いたのは、12時ちょうどだった。休憩所があったので、おにぎり2個、バナナ2本とお茶で昼食を取った。途中、所郁太郎、照手姫、関ヶ原の名所で大分時間がとられた。10分程で昼食を済ませ、出発してまもなく、川を渡った。この川は伊吹山麓に源を発し、関所の傍を流れていることから、関の藤川(藤古川)と呼ばれ、壬申の乱(672)では、両軍がこの川を挟んで開戦した。さら254-13.jpgのサムネール画像のサムネール画像のサムネール画像関ヶ原合戦では、大谷吉継が上流右岸に布陣するなど、この辺りは軍



事上要害の地とのこと。間の宿山中高札場跡を通り過ぎ、東海道新幹線の高架下をくぐると、その少し先に常磐御前の墓があった。常磐御前は源義経の生母だ。このような所に墓があるとは知らなかった。墓の標柱にある関ヶ原町の説明では「常磐御前は都一の美女と言われ、十六歳で義朝の愛妾となった常磐御前。源義朝が平治の乱で敗退すると、敵将清盛の威嚇で常磐は今若、乙若、牛若の三児と分かれ、一時期は清盛の愛妾にもなります。伝説では東国に走った牛若の行方を案じ、乳母の千種と跡を追って来た常磐は、土賊に襲われて息を引き取ります。哀れに思った山中の里人が、ここに葬り塚を築いたと伝えられている。」ここで手を合わせ、故人を偲んだ。今須宿に向う。今須宿は今須峠を越えた美濃路最後の宿だ。今須峠の頂上は山中の常磐塚あたりの登り口より約1,000254-14.jpgのサムネール画像mの道のりで、一条兼良はこの峠で、「堅城と見えたり、一夫関に当たれば万夫すぎがたき所というべし」(藤川記)と認めたように、この付近きっての険要の地と言われている。今須には宿場時代の面影はあまりなく、本陣跡の先の問屋場跡や常夜灯が当時の史跡を伝える数少ない史跡だという。江戸時代、人や馬の継ぎ立てなど行った問屋が、当宿には一時七件もあって全国的にも珍しいとのこと。
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美濃十六宿のうちで、当時のまま現存し、その偉容を今に伝えているのはここ山崎家のみで、永楽通宝の軒丸瓦や、広い庭と吹き抜けなどから、当時の繁栄ぶりがうかがえるとのこと。さらに進んで行くと、「奥の細道」芭蕉道の石碑があった。いくつかの碑に俳句が記されてあった。「夕月も 美濃と近江や 閏月」の 句碑があった。芭蕉は中山道を何回も訪れたようだ。今須宿を出るとまもなく美濃と近江の国境にでた。標柱に「左に美濃国、右に近江国」と記されてあり、写真左の堀には、県境の「左側岐阜県 右側滋賀県」となっている。県境を通って柏原宿に向う。
柏原宿は近江路に入って最初の宿場となる。1.4㎞にも及ぶ大きな宿場で、街道筋には古い家屋が表にそれぞれ元の商売を記してある。町の目の前にそびえる伊吹山は古くから薬草の産地として知られたもぐさは灸に使用され、「伊吹もぐさ」として街道名物だったという。
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楓並木が続く坂道照手姫笠掛地蔵岐阜県と滋賀県県境                    を下って行くと、「照手姫笠掛地蔵と蘇生寺」があった。地蔵堂正面向かって右側、背の低いいかにも古い時代を偲ばせる石地蔵を「照手姫笠掛地蔵」という。
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現在はここに祀られているが、元はこれより東、JR踏切を
越え野瀬坂の上、神明神社鳥居東側平地に在った蘇生寺の本尊                                     

ということから「蘇生寺笠掛地蔵」とも言われているという。中世の仏教説話「小栗判官・照手姫」にまつわる伝承の地とのことだ。東海道線の踏切を渡ると柏原の町並みが見えてくる。
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柏原駅を右手に進み、本陣跡、常夜灯、伊吹堂、柏原宿記念館を通り過ぎ、柏原一里塚、小川の関に着いた。長沢にある小川の関跡から昔の街道の面影を残す林道へと入っていく。梓には松並木が残されており、国道を横断して、しばらく国道21号線を歩いて行くと、中山道の大きな石標がある。その先で左の旧道に入ったところ、北畠俱行卿の墓が目にはいった。北畠俱行卿は鎌倉時代に後醍醐天皇に仕え、幕府打倒の謀議に加わったが、笠置城落城の後に幕府方に捕らえられ、この地で斬首されたという。突然、標柱に名前があると、歴史に思いを巡らす。先に進み、醒井宿に入っていく。                     
254-21.jpgのサムネール画像醒井宿は「水の町」である。西行水、十王水、居醒(いさめ) 254-20.jpgのサムネール画像のサムネール画像

の清水という「醒井三水」と言われる湧水を集めた地蔵川が旧中山道に沿って流れている。加茂神社の前にある居醒の清水は醒井の名の由来にもなった湧水で、伊吹山の大蛇(一説には白猪)退治で遭難しかけた      日本武尊(やまとたけるのみこと)がこの清水で熱を冷まし、気分を回復させたという話が伝わっている。

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加茂川神社に上れば、町が一望に見渡せるという。地蔵川は、居醒の清水などから湧き出る清水によってできた川で、大変珍しい水中花「梅花藻(バイカモ)」が咲くことで有名だ。十王水は地蔵川の中にあり、平安時代に水源が開かれた名水で、醒井宿には江戸時代に醒井宿を通過する大名や役人に人速や馬を提供した施設が今も残っており、完全な形で復元され、日本遺産に認定されているという。

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また春は桜並木、秋は紅葉、冬は雪景色と四季折々に絵になる景色だという。歩いていても綺麗で清々しい町だ。右手に東海道本線の醒井駅がある。季節になると観光客が大勢押し寄せる町だと思う。水路が流れる樋口の集落を通り、樋口の交差点で国道を渡り、北陸自動車道下をくぐった先に久礼一里塚があた。少し先に行くと番場宿の石碑があった。ちょうど16時の通過だ。

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番場宿は日本橋から六十二番目の宿場で、摺針を控えた細長い宿場だ。番場宿には「○○跡」とかれた真新しい標柱が随所に立っているが、宿場時代の面影を伝える建物はないという。また、番場は長谷川伸の戯曲「瞼の母」の主人公、番場忠太郎の故郷でも知られている。これから摺針峠(りはりとうげ)を越えれば、鳥居本宿だ。摺針峠は標170mで、彦根市の鳥居本宿と米原市の番場の境にある。

旧中山道の難所の一つで、北国街道の分岐点でもあり、中山道の重要な位置にあったという。江戸時代この峠に望湖堂という茶屋が設けられ、峠を行きかう人達は、眼前に広がる琵琶湖の絶景を楽しみながら休憩したと言われて

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いたが、1991年火災で焼失したという。摺針峠はさほどきつくはなかった。長い登坂は緩やかだが、両側に古い民家が並び峠越えの雰囲気があり、気分的に楽に歩くことが出来た。今度は急な山道を下るようになってきた。徐々に道幅が狭くなってきたが、目の前に鳥居本宿の町と彦根駅の高い建物が目にはいった。鳥居本宿は街道情緒が色濃く残る町だが、街中は車が多い。ここの名物は胃腸薬・赤玉神教丸という丸薬で、今も販売を続ける建物は200年の歴史を持つという。すぐに8号線沿いに行くと近江鉄道鳥居本駅に着いたのは1715分だった。この駅は明治時二十八年に彦根から貴生川の区間で開業した。その後、米原間も開業し、同時に鳥居本駅舎も建てられたという。平成八年にはこの駅で184時間に及ぶ世界最長コンサートが開催されギネスブックに登録されたという。

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しかしこの宿場では宿泊施設を見つけることが出来なかったので、約2.4㎞先の東海道本線彦根駅東口にある「コンフォートホテル彦根」にした。到着時間1745分に松本さんがホテルの前で、動画を取りながら出迎えてくれた。遠く離れた地で、再会するのは、うれしいものだ。到着予定時間は2時間半遅れた。街道沿いに旧所・名跡が多く、見学をしたからだ。今日の歩数は58,69141㎞の旅だった。部屋で洗濯をして、明日の準備をして、最後にシャワーを浴びてから、ロビーで松本さんと待ち合わせ、夕食を取る店に行った。松本さんはすでに店の下見をしていたので、迷うことなく店に入った。ビールで乾杯、田部井さん、大橋さんとの中山道の歩き旅の話を肴に食事した。松本さんは守山宿までの長距離40㎞は初めてのことで、不安はあるが、初挑戦の期待の方が大きかった。

中山道六十九次旅日記(14)

11日目(4月19日)火曜日

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朝、4時に起床。今日の天気は曇りのち晴れだ。朝食はおにぎり、菓子パン、牛乳、リュックにはバナナ3本と水2本を入れ、5時に出発した。鵜沼宿、加納宿、河渡宿、美江寺宿まで47㎞の道のりだ。計画段階で、美江寺宿近郊の宿泊施設が見つからない。

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そこで美江寺宿のある瑞穂市商工農政観光課に電話して、宿泊施設の有無を聞いたところ、この近辺には一軒もないとのこと。ホテルが多くあるのは大垣駅近辺だ。美江寺宿から約8㎞、今渡の渡し場跡 木曽川1時間45分の道のりで、出発地から53㎞の道のりになってしまう。これでは体力が持たないので街道沿いにある樽見鉄道美江寺駅から、電車に乗り、大垣駅に行くことにした。ホテルは駅近くの「コンフォート大垣」にした。ホテルから旧中山道へ出る時が道を間違えやすい。 

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ナビと古地図を念入りに確認した。ホテルを出て可児川の橋を渡り、名鉄広見線とJR太多線の踏切を渡り、248号に出た。これを右折し、更に進むと、もう一度名鉄広見線の踏切を渡り、旧中山道に出る。左折し道なりに行くと木曽川にかかる太田橋に出た。木曽川の「今渡の渡し場」に到着し、太田橋を渡った。橋を渡り終えると、すぐ左手に「太田の渡し跡」があるが、現在、化石林公園の中にある。

公園を出たところで、左折し旧中山道に入った。旧中山道は木曽川沿いに設けられてあり、すぐ右手に古井一里塚跡があった。

253-4.jpg木曽川緑地ライン公園を左手に見て進んでいくと、祐泉寺(旧旅籠小松)、歴史や文化資料を展示する太田宿中山道会館、旧太田脇本陣林家住宅があった。41号線を渡っていくと坪内逍遥ゆかりのムクノキの記念板が目にはいった。それによると「坪内逍遥(18591935)は尾張藩太田代官所の役人であった平之進の十人兄妹の末子として生まれた。その後、明治二年父の引退に伴い、太田を離れた逍遥は、名古屋に移り住み風雅な中京文化の感化を受けた。十八歳にして上京し、明治十六年東京大学を卒業すると、文学論「小説神髄」や、小説「当世書生気質」などを発刊し、明治新時代の先駆となった。演劇・歌舞伎・児童劇・近代文学の指導と研究にあたり近代日本文学の基を築いた。大正八年には、夫婦そろって生まれた
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故郷を訪れ、このムクノキの根元で記念撮影をした。逍遥六十一歳でした」と記されていた。その少し先の堤防下に深田神社があり、横に庚申塚があった。木曽川を眺めながら歩く堤防沿いの旧道は、周りの景色も美しく、左側に流れている木曽川は上流の木曽川とは、同じ川とは思えない程、水量豊かで穏やかな流れだ。高山本線坂祝駅を右手に、勝山の信号を通り過ぎるとを通り過ぎると、岩屋観音堂だ。さらに進むと、各務原市にはいった。いったん川側に下りて、国道下のトンネルをくぐり、旧中山道にはいり、うとう峠一里塚を越えて、鵜沼宿に入った。

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鵜沼宿は明治二十四年の濃尾大地震により、江戸時代の建物は消失したが、その後徐々に整備され昔の宿場町の景観が再現されつつあるという。赤坂の地蔵堂を過ぎ、右に曲がる。この赤坂地蔵堂を直進すると犬山城まで2㎞だ。この辺りは名鉄犬山線江南駅で下車し、工作機械の購入時、立合いや宿泊もした場所で、また犬山城近くのホテルで顧客の会議を行った場所でもある。懐かしい。宿場の入り口にある大安寺大橋は木製の欄干や常夜燈があり、資料館になっている中山道鵜沼宿町屋館、その先に坂井家脇本陣がある。

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その横に芭蕉の句碑が3基並んでいる。芭蕉は鵜沼を訪れる度に坂井家に滞在し、いくつもの句を残したという。左手にはJR高山本線と名鉄各務原線が平行に走っている。右手に農村歌舞伎の舞台となる「皆楽座」がある津島神社を過ぎていくと、国道21号線に合流してから各務原駅を過ぎ、名鉄各務原線三柿野駅を左手に見て踏切を渡り、Y字路を右に入って旧中山道へ入っていく。ここから国道とは離れていく。神明神社、広大な各務原市民公園の横を通っていく。新加納立場跡、新加納一里塚、市街地に残る貴重な細畑一里塚、その先に延命地蔵に立つ追分道標があり、「左木曽路」の文字が見える。

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加納宿は現在の岐阜市街に属し、宿場町と城下町を兼ねていたことから美濃16宿のなかで最大の宿場町だった。当時をしのばせるものはほとんどないが、随所に道標や碑がある。中山道は大手門跡から西へ直進していくが、本陣・脇本陣の建物は残っていないという。

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東海道本線の高架下を進むと、名鉄名古屋本線の茶所駅を左手にみて、進んで行くと右手に岐阜駅が見える。二度目の東海道本線の高架下を進み、読み方が難しい多羅野(らり)八幡神社がある。この先には長良川に架かる河渡橋を渡ると、河渡宿に入る。次の美江寺宿まで約6㎞だ。美江寺宿は長良川の「河渡の渡し」や、揖斐川の「呂久の渡し」の間にあたることで栄えた宿場で、小さな宿場だ。今日の宿泊地大垣に行くために、樽見線の美江寺駅から電車で行くことにした。美江寺駅に着いたのは1645分。駅は無人駅で何もない。まわりは閑散とした住宅と畑で、宿場の面影はない。宿泊施設がないと言われたのも理解できた。次の赤坂宿まで約9㎞ある。このまま歩いて行くと18時を         過ぎてしまうので、電車で大垣まで行くことにしたのは、正解だった。

253-11.jpg美江寺駅発17時3分の電車に乗った。乗客はほとんど高校生だ。1717分に大垣駅に到着し、「ホテルコンフォート大垣」にチェクインしたのは、18時を過ぎていた。今日の歩数は64,417歩、約45㎞の道のりだったが、疲れは少ない。洗濯をし、シャワーを浴び、ホテル近くの大型のショッピングセンター内のレストランで食事をし、コンビニで明日の朝食を準備し、ホテルに帰った。明日は電車で美江寺駅に行って、赤坂宿に行くか、直接、大垣から赤坂宿に行くか考えながら、9時にベッドに入った。


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