シングルへの道

2014年は月末にハンデキャップになってから、月は成績が悪く90を切れなくなってしまった。シングルになった達成感が強かったためか、なんとなく次の目標が定まっていないためか、同じ気持ちでプレーしているつもりでも、スコアがまとまらない。どこかのホールで大たたきしてしまう。忙しくなって練習が出来なくなったのも調子を落とした一因かも知れない。

同年月の連休中に毎日続けて練習したところ、少しずつ感覚が戻ってきた。月のコンペで84を出し復調の兆しが出てきた。夏休みも練習を行い、コースにも行きプレーしたところ、月末のころに調子が上向いてきた。月に行われた大洗ゴルフ倶楽部のシニア選手権で、初日アウト45イン4287でまわり、二日目アウト43イン41の  84、トータル171でホールアウトした。ハンデキャップラウンドで18、ネット153オーバーで優勝した。開場記念杯は1025日土曜日に出場し、FT6188ヤード、アウト40・イン3979ホールアウトし、アンダーで優勝した。2014年は通算回優勝し、最高のゴルフイヤーだった。

私が2014年最高のプレーが出来たのは10日に開催された理事長杯である。予選を通過した32名が翌週マッチプレーで戦っていく。私は午前の回戦は大変調子が良く、特にドライバーが近年になく調子がよかった。距離も十分でフェアーウエイのキープ率も高かったので、16番で決着がついた。軽食を取り、回戦に臨んだ。ドライバーとパティングの調子も持続し、アップで勝った。回戦の相手はハンデのHさん強敵だ。前半は相手の調子が悪く、私は調子が持続していた。ホールでアップし勝てるかも知れないと、後半に望んだが、10番から12番まで連続して負けてしまい、アップまで後退。イーブンのまま18番ホールにもつれ込んだが、一歩及ばず負けた。でも貴重な体験が出来た。

明けて2015月・月も寒さに耐えて出来るだけコースでプレーしたが、90前後でしかまとめられない。寒さが原因とはわかっていても65歳の年齢を考えると気持ちがくじけそうになる。しかし気候が良くなった4月頃から徐々に調子が上向き、気持ちも前向きになった。その結果月の大洗ゴルフ倶楽部の「茨城新聞杯」RT6687ヤードではアウト39イン4483、ネット74で準優勝、続いて「茨城県知事杯」ではBT7190ヤヤード(コースレート74.4)をアウト43イン4285、ネット76で準優勝した。65歳過ぎても進化し続けることが実感できたヵ月だった。ハンデ目指して、頑張るゾー。


茨城キリスト教大学寄附講座(2)

当社は1958年に設立、今年で56年目を迎えました。私で2代目です。大学3年の時に、先代社長の父から"後を継ぐか"と問われ、悩みましたが入社する決意をしました。「"挑戦と創造"でお客様のご要望に応える」を経営理念として、日々業務に取り組んでいます。

事業所は茨城県の筑西市に所在しており、主に建設機械に用いられる"スプール"や"バルブ"など、油圧技術を用いた製品を製造しています。

世界における建設機械の需要としては、最近では中国経済の減速が報道されておりますが、それでも世界全体で50%の比率を中国が占めています。

私共も上海に工場を設け、現在のところ30名の社員が従事しております。上海への進出は、手狭になった茨城の工場を拡げるため、近隣の用地を確保したかったのですが、行政から許可が下りなかったことがきっかけです。国内でも土地を探しましたが、適した用地が見つかりませんでした。当時、私は40歳前後でした。大学を卒業して20年近くに亘り、一生懸命仕事に取り組み、当然税金を納めていましたが、このような困難な時こそ行政が手助けすべきではないのか・・・と思い立ちまして、19891222日に初めて上海を訪問し、1991年に進出しました。思い返せば、上海へ進出して20年以上が経ちます。

「意・行・習・人は運命を作る」は私が勝手につくった造語ですが、私の座右の銘としています。意識が変われば行動が、行動が変われば習慣が、習慣が変われば人生が変わる、との意味で、同趣旨の格言は他にもありますよね。

また、皆さん"和顔布施"という言葉を知っていますか?仏教の教えで"無財七施"の一つです。これは私が30代の頃、人材育成など色々な悩みを抱えていたとき、私はいつも険しい顔をしていました。そんな時"和やかな表情にはお布施をする程の価値がある"とこの言葉に教えられ、以来ずっと実践してきました。また心の持ちかたにおいても、お(怒るな)・い(威張るな)・あ(焦るな)・く(腐るな)・ま(負けるな)、の頭文字をとって"おいあくまの精神"を心がけなさい、と先輩からアドバイスをいただき、日頃より心がけています。

これから社会にでて、色々なご経験をされるかと思いますが、本日のお話が少しでも皆さんの、お役に立てば幸いです。今後の益々のご活躍を祈念致します。


茨城キリスト教大学寄附講座(1)

716() 茨城県経営者協会からの要請で、茨城キリスト教大学の寄附講座の講師として講義を行った。茨城県経営者協会は10年ほど前から大学側の要請と企業の社会貢献の一環として、現役経営者が学生に講義を行うようになり、現在、県内三つの大学で寄附講座を開催している。今回の講座は既に決まっていた講師が、人事異動により寄附講座の出講も日程も調整できないとの事、ピンチピッターとして事務局から要請で、引き受けることにした。今回で3回目の出講である。

茨城キリスト教大学は、1949茨城県日立市のクリスチャンとチャーチ・オブ・クライスト(キリストの教会)のアメリカ人キリスト教宣教師たちにより設立された大学である。多賀キリストの教会の付属教育機関として設置されていた夜学校や幼稚園を前身に、シオンカレッジを開校。その後、茨城キリスト教学園と名称を変更、1967年大学文学部を設置し、単科大学としてスタートした。1995年に大学院文学研究科、2000年に生活科学部を、2004年に看護学部を、2011年には経営学部、大学院生活科学研究科及び看護学研究科を開設し、現在は4学部7学科と3研究科をもつ総合大学となっている。

所在地の大みかキャンパス(茨城県日立市大みか町) は約13haの広大な面積を誇り、幼・中・高・大・院の校舎が立ち並ぶ。以前は日立製作所所有のゴルフ場「大みか倶楽部」の敷地であり、キャンパス各所には、大きな松の木や芝生が広がり、一部にはホールであった穴を発見できるなど、ゴルフ場であった面影を見ることができる。現在も、隣接して大みか倶楽部は営業しているが、戦前18ホールあったコースは6ホールに減少している。(ホームページ抜粋)

経営学部の学生およそ100人。今回の講義の主旨は、私が茨城県の工場に赴任してから、現在まで時系列的に会社の沿革に沿って、社会の出来事、国際的な出来事、円ドルの推移そして家族の出来事を年表にし、その時、その時、どのように考え、悩み、決断し、会社の方向性を決め、実施していったかを話すことにした。実施する前に考えたメリット・デメリットと実施後どのようになったか、今後どのように考え会社経営を進めていくか。1時間の出講であるが、茨城県経営者協会の事務局が要約し、9月号に掲載した「『意・行・習・人』が運命を作る」と題した内容は次の茨城キリスト教大学寄附講座(2)に記す。

平成26年度茨城産業人クラブ総会

()水戸市三の丸ホテルにおいて「平成26年度・第51回茨城産業人クラブ定時総会」が開かれた。総会は順調に進み、1~号議案まで可決承認された。

 

私は会長に就任して二期目を迎え、役員の選任を求める議案では副会長を名から名、新たに理事名を迎えて、更なる組織の充実を図ることが出来た。

 

以下に、総会の開会挨拶を記す。

 

「会長を仰せつかっている高橋でございます。

日頃は産業人クラブの活動にご支援・ご協力いただきまして、ありがとうございます。またご多用の中、平成26年度定時総会にお集まりいただき、重ねてお礼申し上げます。

 

定時総会の開会挨拶は、産業人クラブ理事長であり、日刊工業新聞社の東京支社長がご挨拶申し上げるところですが、社用のため出席出来ませんので、私がご挨拶させて頂きます。

 

我が国の産業・経済活動は、アベノミクスによる景気刺激策により、税収の増加、有効求人倍率の上昇、都市部の一部では人手不足が起きるなど期待が高まる一方、 4月からの消費税増税、原油・資源高、さらに電力料金の高止まりなど中小企業を取り巻く環境は依然厳しい状況にあります。国内の少子高齢化を背景に、生産拠点は国境を越えグローバル化が本格化しています。大手企業の海外進出は加速し、調達も国境がなくなりつつあります。そして国内製造業の空洞化が懸念される中、日本経済は構造変化の時代に突入しました。

 

ほとんどの人が「景気が回復した」「景気が良くなった」と思うには4~5%の経済成長が必要と云われています。現在の1%前後の経済成長では景気の回復を実感として感じるのは、ごく一部で、多くの業種では、また多くの企業では景気動向にバラツキが生じます。平均値で議論していては経営の方向を間違う恐れがあると思います。

 

中小企業の経営上の問題として、国内需要の低迷・減少、国内市場での国内企業同士の競争激化が上位を占めています。その打開策として販売先の新規開拓、設備投資による生産性向上、新規分野への進出など前向きな改善策を掲げています。私共の会社もまさに同様でございます。

 

我々経営者は時代の環境に適応しながら、経営の舵取りを行わなければなりません。内向き・下向き・後ろ向きからは希望は生まれません。お互い前向きに一緒に頑張りましょう。開会の挨拶とさせて頂きます。

本日は1日宜しくお願いします。」

 

総会終了後、「ベトナムにおける日中韓の比較~ハノイ駐在経験から感じたこと~」と題して、ジェトロ茨城の西川所長の講演が行われた。その後の懇親会では橋本知事、商工労働部長をはじめ県幹部の参加を得て、開会の挨拶を日刊工業新聞社の井水社長が行い、橋本知事の挨拶、阿部理事の乾杯で懇親会が始まった。


シングルへの道(5)


 シングルプレイヤーに仲間入りしたゾー。目標達成。

201416日大洗ゴルフ倶楽部の倉田杯でINコース43、OUTコース4083で終了し、ネット73オーバーで優勝した。当日は寒くコンデションの悪い日だった。前半は調子が悪く、ホール毎に少しずつスイングを変えたり、パティングの時にボールを目で追わないように打ったり、自分でチェックポイントを決めて、我慢のゴルフをした結果、大きく崩れないで43でまとめることが出来た。後半は食事を少しにしたことが幸いしたのか、調子が良いという感覚はないが、40で上がることが出来た。パーオンは少なかったが、アプローチショットがうまくいってワンパットでパーを取ったホールがいくつかあった。

 

ホールアウトしたときの成績はトップであったが、優勝はアンダー位と思っていたので、まさか優勝するとは思わなかった。そして26日海外出張先で大洗ゴルフ倶楽部からハンデキャップ改定の通知が届いたと連絡を受けた。素直に嬉しかった。

 

ゴルファーの夢であるシングルプレヤーになりたいと目標を掲げてから約年、 59歳の時である。最初は15から始まり、10まではおよそ1年超で行くことが出来たが、その後が大変だった。年間でアンダーを回公式カードを提出することが、シングルの条件だった。

 

年前の夏のこと、たまたま娘と一緒に近くの練習場でドライバーの練習をしていた時、娘がビデオを持っていたので、撮影してもらった。再生したとき、そこに映っているスイングは、私が描いていたスイングとは、あまりにもかけ離れていたのでショックを受けた。やはり自己流の練習では無理だと思い、その場で練習場のゴルフスクールに入り、土日の週回練習することにした。    

 

2009年以前のデータは記録していないが、およそ年間平均スコアは92位だと思う。2009年から記録をとり始めて、最初の年は88.3201089.6201188.5201286.6201386.4としり上がりに良くなってきた。

 

次の目標はを目指そう。いや思い切ってを目指してもいいかな。

やはり目標は明確な方がいい。よし6を目指そう。

2014年度 入社式挨拶

皆さん入社おめでとうございます。

私は社長の高橋です。皆さんの入社を、全社員を代表して心からお祝いいたします。

 

皆さんは当社に入社することによって、社会に出る第一歩を踏み出しました。運命というのは、出合い、すなわち「縁」によってきまります。縁が織りなす結果として運命が決まります。こうして皆さんが入社することによって、我社と皆さんの縁が始まったわけですから、この縁が皆さんにとって良い出会いであることを願っています。

 

今、世界を取り巻く政治・経済は、先進国であるG8からロシアを外しG7で制裁を行うとしていますが、世界経済を不安定化要因として危惧されています。アメリカはシェールガス革命でエネルギーコストを大幅に下げることに成功し、経済は堅調であるといわれています。中国経済は景気減速しているものの昨年から底を打って緩やかな回復をしていますが、金融問題で不安定な状態になっています。一方日本経済は東日本大震災の復興が本格し、建設機械の需要が上向いてきました。また4月1日からの消費税増税とジーゼルエンジンの排気ガス規制による建設機械の値上で、昨年から買い込み需要で上向きましたが、2014年度はこの反動が心配されています。日本は円安株高政策で、一部の輸出大手企業を中心に明るさが戻ってきていますが、まだ実体経済は予断を許しません。

 

我社は日本経済に大きな打撃を与えた「バブル経済の崩壊」を乗り越え、「ピンチの後にチャンスあり」の格言通り、中国市場の成長が始まったチャンスを捉え、他社に先駆けて積極的な経営を行い、第二の創業といわれる躍進を果たしました。我社は常にピンチを乗り越え、チャンスに変えて、成長してきました。今後も我社の理念である「挑戦と創造」で、進んでいく企業であり続けたいと思っています。

仕事は人・物・金で動いています。仕事をしていて、人・物・金のすべてが、揃っていることはありません。自分のまわりは不足している条件だらけということは多い。それでも、小さな第一歩を踏み出すことです。現在が出発点。道のりは遠いが、歩き始めればいつかは着きます。皆さんは無限の可能性を持っています。しかし最初は仕事に慣れず、いろいろ苦労があるでしょう。まずは先輩達の中でどん欲に仕事を覚えていって欲しいと思います。

 

最後に、希望に満ちた今の気持ちをいつまでも忘れずにいてください。新鮮な心をもってしっかりと将来を見据えて、たゆみなく前進を続けてください。

今、ここにいる皆さんが、我々と一緒に将来の協立製作所を築いてくれることを心より願い、本日の入社式の挨拶とさせていただきます。

 

 

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茨城県経営者協会年頭挨拶

 茨城県経営者協会発行の月間冊子「茨城経協」の念頭挨拶の執筆を依頼された。「茨城経協」の表紙とその内容を以下に示します。

 

新年明けましておめでとうございます。

昨年は年初、超円高から金融緩和・財政出動そして成長戦略の期待感から、円安株高へと転換し、優位な製品を武器にグローバ化した大手企業を中心に業績の回復が鮮明になってきた。しかし我々中小企業にはその波及効果はなく、円安のマイナス部分が出ていた。今年は期待したい。

 

 今年12月、当社の海外子会社である上海協立に創業22年目で初めて総経理として社員を出向させた。中国社会では外国企業が出資した合弁・独資会社の総経理を中国人にするとナンバー2の人材を育てるどころか辞めさせてしまうことが多い。管理者層でも同じである。ナンバー2が実力をつけてくると自分の地位を脅かすと考える。いろいろな知識・技術を教え込んでいくと、自分を売込んで少しでも給与の高い会社に移り、転職を繰返していくことも要因の一つと思われる。

 

15年程前に中国人経営者と懇談会の機会を得た。自己紹介で私は油圧機器部品製造一筋に40年生産活動をしている会社であると話したところ、なぜそんなに長く同じ仕事をしているのかと中国人経営者から質問があった。私は加工技術を極めながら、改善を進め、現場の力を高めていくからだと答えたが、理解して貰えず、逆質問をした 

あなたは今の仕事をどのようにしようとしているのか。すると彼は企業価値が一番高い時に会社を売り、その資金で不動産業を始めると答えた。当時も今も中国の錬金術はただ同然の土地を特別開発区に指定し、市・地方政府は成功した経営者に共同で商業区・工業開発区の造成を行い、利用権を販売する。日本の製造業経営者とは価値観がまるで違うと痛感した。日本人と中国人「似て非なるもの」である。我々は今、文化の違いを乗越えることが問われている。

 

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マラソンへの道ファイナル⑥

週間に1回ヒアルロン酸を直接右膝に注射した。6~7回注射し痛みがなくなってから、プールで歩くリハビリを行った。同時に膝周りの筋肉を強化する練習を行い、 9月からジョギングの練習を始めた。ホノルルに出発する1ヶ月前から1週間に1回のペースで痛み止めのステロイドを4回注射した。ホノルルマラソンでは前日両膝のテーピングを行い、万全を準備を行った。詳細はブログの「マラソンへの道」で述べたが、右膝内側の痛みは出なかった。しかしダイヤモンドヘッドを上り、緩やかな下り道で失敗した。体調がいいので、緩やかな下り坂で少しストライドが大きくなったのが原因で、両太ももの内側の筋を伸ばしてしまい、20㎞付近で走れなくなった。 あの痛みは過去にも体験したことのない痛みだった。6時間37分でゴールしたときの達成感に満ち溢れた気持ちは今も忘れない。

 

61歳のホノルルマラソンは、両太ももの内側の筋を痛めないため、普段からストレッチを行い克服したが、27~28㎞付近で右膝外側の痛みが出て、30㎞の壁を越えられずに歩いてしまった。62歳の東京マラソンでは浅草雷門の折り返しから日本橋付近で、右膝外側の感覚がなくなり、走ることが出来なくなった。やはり30㎞の壁は越えることは出来なかった。それでも約22分近くタイムを短縮し、6時間14分59秒でゴールした。

 

東京マラソンでは36,000人のランナー、新宿都庁をスタートし、飯田橋、日比谷公園、増上寺、品川駅を折り返して、銀座4丁目の交差点を浅草に向かい、スカイツリー眺めながら、雷門を折り返し、日本橋、銀座、歌舞伎座を通り、築地からラストに4つの橋を渡り、東京ビックサイトでゴールした。石原東京都知事は8時20分スタートの号砲を鳴らし6時間151(プライベートタイム)後、ゴールに知事が立っていて完走したランナーとハイタッチをしている姿が印象的だった。私もハイタッチしたのは自然の流れだった。

 

あの感動をもう一度味わいたい。しかし右膝に続き、右ふくらはぎの肉離れの故障を体験して、大げさに言えば、仕事(飲み会も含)・マラソン・ゴルフを続けるのは、心技体が充実していないと続けることは難しい。マラソンは63歳で断念した。今度はシングルプレヤーに挑戦したいと思っている。もちろんジョギング程度は気持ちの良いときにやっていく。これで5年に渡って続けた「マラソンへの道」のブログも終了する。

 

現役を引退したら、マラソンに再挑戦するかもしれない。

 

マラソンへの道ファイナル⑤

翌日滋賀県方面のお客様と午前中の約束をしていたので、東京駅近くのホテルに泊まるために、出張の用意をして東京駅にいった。電車の乗り降りは階段を使わないルートでいった。いつもなら八重洲口からホテルまで5分位で行くところ、右足を引き摺りながら、20分かかったのを覚えている。翌月曜日、5時に起床し朝一番の新幹線に乗った。10時に訪問先に入り、打合せを済ませてから、帰宅したのは夜9時頃。しかし翌日の火曜日に、目が覚めた時にはすっかり痛みは治まっていた。この体験で、シューズの重要性を認識し、初心者用のシューズを購入した。ランニングマシンの練習はマシン自体がクッションになり、膝周りの筋肉が付きにくいため、膝がロードに耐えられないと分かったので、その後はロードでの練習を主体にした。

 

忘年会の勢いで約束したが、本当にフルマラソンに挑戦しようと思ったのは、若い時にテレビで見たホノルルマラソンだ。人生の節目である還暦の年に、夫婦で国内旅行でも、海外旅行でもなくもっと記憶に残ること、海外でフルマラソンの完走が人生の記憶に残る事だと思った。幸いにもホノルルマラソンは制限時間がなく、楽しみながら走れる。国内のマラソン大会は制限時間が6~7時間なので、時間内にゴールするは無理だった。何よりも最初のマラソンは完走したかった。

 

59歳の5月、連休の間、毎日10キロを走った。調子がよかったので、ある日初めての20㎞走を行った。自宅から旧道を通り、筑西市の県西運動公園を通り過ぎ、下館駅まで10㎞、往復20㎞のコースである。5㎞位を過ぎると体がなじんできて、足も軽く快調に走ることが出来た。しかし15~16㎞地点で右膝に違和感を覚え、 痛みが出てきたので、残りは徒歩で行った。この痛みが取れないので、整形外科に行き診察したが、先生の診断は加齢による膝の軟骨の磨耗が原因とのこと、走るのは諦めなさいといわれた。先生に還暦の記念にどうしても12月のホノルルマラソンに行きたいことを話した。そして無理して走り続けた場合、右膝が最悪どのようになるのか先生にしつこく聞いた。6ヶ月の治療でも最悪は走ることが出来なくなりますと云われた。私はフルマラソンに1回だけ走ることが出来れば、後はマラソンが出来なくてもかまわない、歩くことは大丈夫ですかと質問したら、大丈夫との回答があった。ではゴルフをプレーすることは出来ますかと質問したら、たぶん大丈夫といわれたので、「老後にゴルフが出来なくなるのは困るが、出きるならOKです。治療をお願いします。」といった。

 

マラソンへの道ファイナル④

マラソン好きなお客様のある部長と忘年会でダイエットの話で盛りあがり、スポーツクラブで走っていることを話したら、フルマラソンも完走することが出来ると進められた。自信もないし体力が持たないと思っていたが、したたかに酔っ払っていたので、勢いでフルマラソンに挑戦することを約束した。相当酔いが回っていたが、不思議とマラソンを走ることだけが、記憶に残っていた。いきなりフルマラソンを走るのは無謀と思い、毎年④月に土浦市で行われるかすみがうらマラソンの10マイルの 部門にエントリーした。1~3月の間にランニングマシンで相当走りこんだ。

 

いよいよ60歳の4月、かすみがうらマラソン10マイル(16)の部に出場した。 レース当日不安もあったが、心地よい緊張感で気分も適度に高揚していたのを覚えている。会場である土浦の陸上競技場に1時間前に到着するように、車を土浦駅近くの駐車場におき、徒歩で陸上競技場にいった。陸上競技場は2万人を超える人で、開会式のセレモニーが華やかに行われていた。私は練習で計測した持ちタイム2時間のスタート場所に並んだ。一番後ろである。この時16マイル出場者は約6,000人だった。スタートして15分位して常磐線の陸橋を渡るとき、はるか遠くまで人の帯が続いていた。壮観に一言である。

 

走るペースを一定にするため、時計でチェックしながら走った。5kmを過ぎた頃から体が軽くなり、いつもよりペースが上がった。このままどこまでもこの早いペースで行けそうに感じた。これなら1時間30分でゴールできる。しかし12~13kmを過ぎた頃、右膝内側に違和感を覚えた。少しペースを落として走ったが、徐々に違和感が痛みに変わり、ラスト1kmで走れなくなった。後は右膝をかばいながら、歩いてゴールした。タイムは1時間46分。何よりも完走出来たことに、言葉に表せない達成感を覚えた。

 

ゴール後、荷物を取ってからが大変だった。特に土浦駅に向かう途中の歩道橋を上がるとき、ふだん触ったこともない補助レールにつかまりながら、痛さに堪えて階段を上がっていった。下りの階段がもっとひどかった。右足を下ろそうとすると、膝に感覚がないため、階段から落ちそうになった。やっと駐車場にたどり着くのに倍以上の時間を要してしまった。

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