になり、欧米列強からの侵略を防ぐために、富国強兵の政策を明治政府と一体となって進めていたことがうかがえる。
不老川を渡り進んで行くと伊部駅が右手に見える。駅前広場には「備前市立備前焼ミュージアム」がある。私は旧道を歩くことだけ考えていたので、備前焼の里とは知らなかった。細い道を左に入り、進んで行くと常磐旅館が見えてきた。到着したのは17時20分、距離約40km、一日で歩いた歩数57,448歩だった。老舗の旅館で外観も風格がある。
早速、チェックインして若女将が案内してくれた。お客は少ないようだ。いつも通り洗濯して、風呂に入り、くつろぐまもなく18時に食事だ。食事は大広間で客は、私と外国人だけだ。食事が来るまでの間、片言の英語で挨拶し、自己紹介をした。言葉が出てこない。彼はアメリカ人でバーモント大学の教授で名前はジョナサンで、71歳とのこと。バーモントから備前焼の研究、制作をしているとのこと。自分で工房を持っている専門家みたいだ。備前には3度目で、同志社大に籍を置き、11月には友人11人を連れて、この備前に来る予定とのこと。私は「なぜ備前焼きの研究をしているのか」と尋ねたら、備前焼は釉薬(ゆうやく)を使わないで、焼くので、焼きあがったときの模様は予想できない。大変難しいと云っていた。料理と共に若女将が入ってきて、英語の翻訳機をもってきて、一緒に会話を楽しんだ。私は自己紹介で、油圧機器のポンプやバルブを作る会社を経営していたが、リタイヤして旧街道を歩いていると話し、今回は下関から歩いて、この備前まで来たと地図を見せて説明したら、驚いた表情を浮かべていた。
彼は若女将にもいろいろ質問した。若女将は、自分は6代目で、小さいころから祖母に「あなたが次の若女将ですよ」といわれていた。京都の大学を出てから、就職したが、母親の体調不良から6代目の若女将を継ぐことになった」と笑顔で話していたのが印象的だった。旅の一夜で見知らぬ外国人と若女将の3人で、世間話をしながらの食事は格別に美味しかった。
一日市本陣跡は宿場町の面影は見られず、常夜灯が昔の面影を残している。前に見える大きな橋を渡ると、備前長船刀剣博物館はもう少しだ。吉井川にかかる備前大橋を渡って、川沿いに左に進むと、「明治天皇巡幸記念碑」と彫られた立派な石碑が建てられていた。昨年の中山道69次、一昨年の東海道53次を歩いた時にも明治天皇巡幸の記念碑がいたるところにあった。明治の時代
十日目 4月24日
月曜日
5時起床。前日、コンビニで買ったおにぎりと菓子パンで朝食を済ませ、6時半に田部井さんとホテルを後にした。今日の行程は、最初の計画を変更して、直接高松城址に行かないで、倉敷駅から清音(きよね)駅に行き、ここから旧山陽道(西国街道)に戻って、高松城址に向い、備前一宮駅から岡山駅に行き、ここで田部井さんと分かれた後、電車で岡山駅から東岡山駅に行き、下車して、旧山陽道を進み、香登(かがと)駅を通り、備前長船刀剣博物館で見学し、宿泊地の常磐旅館までの行程だ。気温は10℃から19℃歩きやすい気温だ。
倉敷駅発6時54分に乗り、清音駅には7時1分に到着した。ここから旧山陽道を進んで、高松城址まで11kmだ。駅を出て右に進み、すぐに踏切を渡り、線路沿いを左に進み、駅から約10分で旧山陽道に出る。右に曲がり、20分程で旧山陽道は斜め右に入っていく。旧山陽道一里塚の石柱がある。傍にある説明板には「山手村指定史跡 山陽道一里塚跡 ここを東西に走っている道は、近世の山陽道で、江戸時代、大きな街道には旅行者に行程を知らせるための「一里塚」が築かれ、道の両側に小さい丘を作って目印に 松や榎を植えた。
この一里塚跡にも一里松と呼ばれ、親しまれた立派な大きい松があったが、昭和三十年頃に枯れてしまった」と記されてあった。そのまま進むと、「清音ふるさとふれあい広場」の大きな池を通り、突き当りの道を左に曲がり、すぐ右に曲がる。県道270号線を進み、なかやグランドを過ぎ、山田池を右に行くと旧山陽道に出る。この辺りは旧山陽道と270号線が入り混じっている。429号線に出ると、斜め左方向に目印の備中国分寺が見える。
429号線を突っ切り、進んで行くと、270号線に合流した後、すぐに斜め左に進んで行けばよかったが、旧山陽道(270号線)を真直ぐに行ってしまった。そのうち道に間違えたことに気づき、何度も地図を見直して、元来た道に戻った。高松城址に行くには旧山陽道は通らないので、ナビを使って行くことにした。少し遠回りをしてしまったが、10時50分に高松城址公園の広場に到着した。
今回の旅でどうしても行きたいところの一つが、この高松城址だ。昔、読んだ歴史小説の一コマで、豊臣秀吉が高松城を水攻めにして、城に立てこもっていた城兵や領民約5,000人を助けることを条件に、城主清水宗治を切腹させた。秀吉は切腹を見届けてから、本能寺の変で主君・織田信長の仇を打つため、京に向けて全軍を取って返し、約十日間で軍団の大移動を果たした。高松城から京の山城山崎までの約230kmを踏破したことは、日本戦史上屈指の大強行軍として知られている。
この行軍の後、秀吉は摂津・山城国境付近の山崎の戦いにおいて明智光秀の軍を撃破した。今回の旧山陽道を歩いて旅して、行ってみたいところの一つだ。水攻めの戦いにおいて、文章だけではなかなかイメージが湧かず、現地に行って自分の目で見たいと思っていた。行ってみて、分かったことは城址公園の中央に大きな柱があり、柱には「本丸の高さ7.0m、現存築堤防高8.4m」と記してある。北は小高い山々が迫って、西側には足守川がある。周囲は沼地で水はけが悪く、南側と東側に本丸の高さ7mより高い堤防を作れば、水攻めは完遂できる。本丸がこれほど低いとは思わなかった。
高松城は、備前国に通じる平野の中心、松山往来沿いの要衝の地にあり、天正10年(1582)の中国の役の主戦場となった城郭で、城は沼沢地に臨む平城で、石
矢掛宿は観光のために保存されている街ではなく、今現在も住民が生活する場として「生きている」街とのこと。東海道の「関宿」、中山道の「奈良井宿」、「妻籠宿」、「馬籠宿」に勝るとも劣らない宿場と思う。
近くに矢掛駅があり、国道486号線もあることから、観光に力を入れているのが分る。本陣通りには多くの観光客がおり、出店も出ていた。出店に聞きなれない芋天(いもてん)なるものが売っていた。買ってみると実に美味しい。サツマイモを揚げたものだという。1袋買って田部井さんと食べながら、矢掛宿の風情を楽しみながら、先に進んだ。
西国街道を進んで行くと吉備真備(きびのまきび)公園があった。吉備真備は、奈良時代の公家・学者で氏性は下道(しもつみち)という。霊亀2年(716)第9次遣唐使の留学生となり、翌年に阿部仲麻呂らと供に唐に入り、経書と史書、天文学・音楽・兵学などの諸学問を18年に渡って学び、唐では知識人として名を馳せ、遣唐留学生の中で、唐で名を挙げたのは真備と阿部仲麻呂の二人のみと云われた人物である。
コンビニでカップラーメンを買い、お湯を入れて、店のなかで昼食を取り、休憩をとった。出発すると間もなく「山陽道一里塚」の石柱が目に入った。そのまま進んで行き、畑岡の信号を左折すると、西国街道だ。井原線の吉備真備駅が右手に見える。吉備寺に行く予定を変更して清音駅に、直接行くことにした。高梁川に架かる川辺橋を渡り、清音駅に着いたのは14時半ごろだった。ここまでの歩行距離は31kmだ。14時54分の電車に乗り、わずか6分で田舎の景色が都会の様子に変わっていく。倉敷駅に着いたのは15時ちょうどだ。早速、本日宿泊の「倉敷アパホテル倉敷駅前」に行き、チェックインした。少し休んでから倉敷の街を散策することにした。
倉敷市は旧山陽道から大きくそれているが、慶長5年(1600)に備中国奉行領となり、倉敷は松山藩の玄関港として、上方への物資の輸送中継地となり、寛永19年(1642)には幕府直轄地、「天領」として代官所が置かれた。江戸時代中後期には綿加工業を展開し、綿の集積地だった倉敷は小倉織・真田紐・運才足袋などを生産した児島は、倉敷市の繊維産業発展の基礎となり、商業都市として発展したという。
明治維新後、発展から取り残された暗い状況から、大原氏を中心に明治21年(1888)代官所跡に倉敷紡績(クラボウ)が設置され、倉敷の発展に寄与してきた。現在この地帯を趣ある景観が楽しめる「倉敷美観地区」として、伝統的な建物が作り出す町並みや、倉敷川沿いの風景が世界中の人を魅了し続けている。夕食はイタリア料理店「.COMBINAT(ドットコンビナート)」で、生ビールと赤ワインはボトルで注文し、楽しい時間を過ごした。
九日目 4月23日
日曜日
5時起床。前日、コンビニで買ったおにぎりと菓子パンで朝食を済ませ、7時に田部井さんと出発した。今日は旧山陽道に戻るため、旧山陽道日芳橋まで1.1km、その後堀越宿跡、毎戸一里塚、矢掛本陣、下道氏墓案内板、吉備寺、井原線清音(きよみ)駅まで28kmを歩き、清音(きよね)駅から電車で倉敷駅に向かう行程だ。倉敷は旧山陽道の宿駅ではないが、旧道ではホテルを見つけることが出来なかったので、倉敷のアパホテル倉敷駅前に宿泊することにした。
気温10℃、少し肌寒いがすぐに体が温まって、ちょうど良い。ホテルを出て、左に進み旧東城往来笠岡線を右に曲がり、10分程で十字路を左折すると、西国街道(旧山陽道)に出て、小田川に架かる日芳橋を渡った。この辺りはナビでも縮尺によって西国街道が表示されるので、絵地図をみなくて済むので、歩きやすい。30分程進むと「北条早雲ゆかりの地荏原周辺案内図」看板があった。北条早雲の名前を見ても、小田原の北条氏と結びつかなかった。調べてみると北条氏の祖である北条早雲は、戦国時代初期の英雄、伊勢新九郎とのこと。
この地に生まれ青年期を過ごし、のちに北条早雲と名乗り61歳の時、相模三浦氏を滅ぼし、相模を平定し、小田原北条氏となった。北条氏は戦国時代に戦国大名として関東を広く支配したが、1590年の豊臣秀吉の小田原征伐で滅びた。徒歩以外に移動手段が少ない時代に、相模にまで進出し、一時代を築いた北条早雲に畏敬の念を持った。案内板のすぐ近くに一里塚が置かれてあった。さらに進んで行くと、「北条早雲誕生の地高越城址」があった。高越城は旧山陽道を眼下に、見下ろす高越山山頂(172m)に築かれた中世の山城である。井原線と小田川の間にある西国街道を行くと、まもなく堀越宿に着いた。
堀越宿は、小田の堀越、西荏原とともに旧山陽道の矢掛、七日市間の「間(あい)の宿」として賑わい、江戸時代、宿場と宿場を結ぶ街道筋にある宿駅の補助をする宿場を「間の宿」と呼び、本宿で常備する人馬数の一部を負担し、荷物の付け送りをする問屋(といや)などがあり、旧堀越宿には78軒の屋敷があったと伝えられている。今でも虫籠窓を備えた町屋が並び、当時の街道筋の賑わいを垣間見ることが出来るという。
その少し先に旧山陽道の目印の毎戸一里塚があり、矢掛本陣跡の手前の標識に「矢掛商店街 篤姫が泊まった矢掛本陣石井家」の大きな案内板あった。小田川の栄側道橋を渡ると、矢掛本陣の本陣通り(旧山陽道)に入る。矢掛宿は山陽道の宿場として室町時代の「屋蔭」から来ているとされ、矢掛宿とは異なり、茶臼山西麓の古市にあったとされてい
る。
江戸時代初期の参勤交代では古市から現在の場所、矢掛宿に移転され、本陣や脇本陣をはじめ江戸時代の旧姿をとどめた町並みは、岡山県町並み保存地区に選定されているという。通り入口の右側に旧矢掛本陣石井家住宅がある。旧矢掛本陣石井家住宅は寛永12年(1635)から幕末まで、200年以上本陣職を務めた石
今日から一緒に旅をすることになった田部井さんの 足取りも快調だ。昨年も中山道の旅で日本橋から浦和まで25kmを走破し、最長の距離を歩いた。自信がついたので、碓氷峠(1200m)も一緒に越えることになった。
順調に進み、藤井川を渡り、今津宿本陣跡(河本家)に着いたのは11時半だった。今津宿本陣跡は、豊臣秀吉の全国統一が実現し、文禄・慶長の役にあたり、京都大阪から肥前名護屋に至る街道が整備され、慶長七年(1602)には今津宿が設けられた。江戸幕府による宿駅・伝馬の制や大阪から長崎に至る西国街道が整備充実され、今津宿は神辺・尾道間の宿場町として戸数三百戸以上、商家軒を連ねて賑わったと伝えられている。宿の中核となった本陣は代々庄屋職を務めた河本家により世襲され、現在でも表門、堀、石垣などに当時の面影を残しているという。
昼食を取り、二人で話しながら歩き、大分経ってから田部井さんから道が違うのではないかと言われ、再度確認したところ真直ぐに進むところ、右に曲がってしまったようだ。やむなく来た道を引き返したので、往復で10km近く余計に歩いてしまった。
計画では備後赤坂駅から電車に乗って、井原駅まで行く予定だったが、既に歩行距離は30kmを越えているので、一つ手前の松永駅から井原駅まで行くことにした。私も計画を変更して一緒に行くことにした。松永駅から山陽本線(長船行)福山駅で乗換えた。ホームの目の前に福山城がそびえたっていた。福山城は元和8年(1622)に 築城され、伏見櫓、鉄筋御門は、京都伏見城から移された
もので重要文化財とのこと。五層の天守閣は戦災で焼失したが再建され、内部は郷土博物館として歴代藩主の遺品、草戸千軒町遺跡から出土品が展示されているという。福山藩祖の水野勝成は安土桃山・江戸初期の大名で、関ヶ原の戦い、大阪夏の陣で、数々の功を上げ、元和5年、福山に移封された。福山駅から福塩線(府中行)で神辺駅に行き、神辺駅から井原鉄道(早雲の里荏原行)に乗って井原駅15時52分に到着し、タクシーでビジネスホテル歴上荘に着いたのは16時過ぎだった。
行程は間違ったが、到着時間は予定通りだった。結果として田部井さんは35.7kmを走破し、新記録を達成した。
チェックイン後、いつも通り洗濯をするため、ランドリーに向った。途中食堂があったが、客が少ないので、食事は提供していない。新型コロナのため、客はいなかった。客層は近くの工場への出張者や長期の期間工が多いとのこと。風呂場は大きく、 足を延ばしてリラックスすることが出来た。食事は、田部井さんが周りを散策した時に、見つけた居酒屋に入り祝杯を挙げた。しかしここで事件が起きた。ビールを飲み、食事が終わって、ほろ酔い気分で帰ろうとしたとき、靴を履いたところ、感触が違う。足裏の感触と全体の作りが貧弱だ。何度確認しても私の靴はなかった。客は5~6人と少ないので、私の靴を間違えて履いて、帰ってしまったに違いない。HOKAの長距離を歩く靴だ。店に間違いのことを話してもここに帰ることはないので、残された靴を履いてホテルに帰った。9時過ぎに就寝。
八日目 4月22日 土曜日
5時起床。前日、コンビニで買ったおにぎりで朝食を済ませ、出発は6時。今日の計画は尾道市、防地峠、今津本陣跡、備後赤坂駅まで26kmは、田部井さんと一緒に行き、田部井さんは備後赤坂駅から電車で井原駅に行き、ビジネスホテル歴城荘で合流する。私は大渡橋、神辺駅まで36kmを歩き、ここから電車で井原駅に行きホテルで合流する。
福山市は広島県の中でも大きな都市である。しかし2ヶ月前にネットや電話で、ホテル、旅館、民宿のすべてにアクセスしたが、すべて満室だった。あまりに込んでいるので、旅館の人に聞くと、「ももいろクローバーZ」というアイドルのコンサートがあるので、福山市一帯の宿泊施設はどこも満室とのことだった。予約が取れたのは、岡山県井原市の井原駅から徒歩15分の所にあるビジネスホテル歴城荘だけだった。私は旧山陽道を歩いて井原まで50km、正味10時間だが、食事、休憩、見学などを加えると、11.5時間はかかる。行けないことはないが、まだ先があるので、無理のない計画にした。
事前に田部井さんに理由を話して、井原駅のビジネスホテル歴城荘に、宿泊することを連絡した。田部井さんも同ホテルの予約が取れたことを連絡してきたので、変則の行程に決まった。
最初の目的地は尾道だ。県道185号線を進み和久原川を渡って、山陽本線糸崎駅を通り、糸崎神社に着いたのは6時44分だった。糸崎神社は尾道と三原を結ぶ国道2号線沿いにあり、瀬戸内海に面し、長井の浦と呼ばれる風待ちの浦として「万葉集」にも読まれている歴史ある旧県社とのこと。境内にそびえる御神木の大楠(クスノキ)は、樹高30m、胸高さ幹囲13m、樹齢推定500年で、三原市の天然記念物に指定されている。
神社を後にして、5分程進むと「六本桜 一里塚跡」の石柱があった。瀬戸内海沿いを進んで、尾道駅に着いたのは8時50分だ。旧道を少しそれて、アーケードが掛かっている「尾道本通り商店街」に向った。朝早いので開いている店は少なかった。
商店街のアーケードには、大きな垂れ幕「古寺めぐり入り口千光寺公園登山口」が目に入る。千光寺は標高140m、尾道港を一望する大宝山の中腹にあり、弘法大師が開いたと伝えられている。
「尾道町奉行所 平山角左衛門尚柱」と「奉行所跡」の石柱、「尾道商工会議所創立120周年記念碑」などがあり、この商工会議所の建物は鉄筋コンクリート造りとしては、現存する日本最古のも
標識のある地点から20分位すると、史蹟貞丸古墳と記された白木板が目に入った。貞丸古墳は沼田川支流の尾原川の左岸丘陵斜面に営造された古墳群で、1号、2号古墳がある。築造時期は古墳時代終末期の7世紀前半頃と推定されている。更に40分程で御年代(みとしろ)古墳の入り口の案内板があった。御年代古墳は、古墳時代終末期の7世紀中葉頃の築造と推定され、畿内型古墳で全国的にも数の少ない複室構造の1石室2石棺の古墳である点で注目され、沼田地方の首長墓として当時の政治情勢を考察する上で重要視される古墳であると云う。旧山陽道の絵地図に載ってあったので、旧道を歩く時の目印にしただけで、古墳自体の見学は行わなかった。次に向かうのは安芸高木山城跡だ。旧山陽道と並走して国道2号線が走っている。12時半頃に昼食を取り15分位休憩をとったのち、目的地に向かった。
絵地図とナビで歩いて行った場所は、小さな集落で10件程の家がある場所に着いた。しかし城跡らしき空間がなく、標識もなかった。3回ほど行ったり来たりしながら、探したが見当たらない。上の方を見ると小高い丘にそれらしい公園が見えるが、周りに人影もなく、聞くこともできない。グ―グルで検索したが、城跡の位置は民家を指している。別のサイトを見ると山の上に矢印で指している写真があって、これかなと思ったが、案内板もないので、登って行くことをあきらめた。進んで行くと、程なく甑(こしき)天満宮に着いた。説明文によると、甑天満宮は石段を登って行くと社殿があり、祭殿には天神様、学問の神様として信仰されて菅原道真公はじめ、その他諸神を祀ってある。
伝承によると「延喜(901)元年、菅原道真が左遷され九州大宰府へ下向の途中に立ち寄ると、土地の人々は水不足で大変苦労していた。道真は自ら井戸を掘りはじめると、こんこんときれいな水が湧き出し人々を救った。
里人は道真の干飯を甑で蒸して差し上げた。その後この甑で納めて祀ったのが甑天満宮である。」と言われている。足を先に進め、沼田川を渡り、20分程で山陽本線本郷駅に到着した。午後1時半だった。
宿泊地の三原ステーションホテルには、昨年、中山道の日本橋から浦和、横川から碓氷峠を越えて軽井沢まで、一緒に歩いた田部井さんが待っている。本郷から途中は沼田川沿いに国道2号線の歩道を歩いた。3時半に三原市郊外に到着し、5時半に三原ステーションホテルに到着した。歩行距離40km、歩数57,417歩だった。ホテルで田部井さんが出迎えてくれた。早速、チェックインし、シャワーで汗を流し、三原名物のタコ料理を食べようと、三原市1番人気の店を紹介してもらった。
徒歩3分とのこと。店に入ったが、予約でいっぱいで断られた。やむなく次の店に入って、蛸をメインに料理を注文し、ビールと地酒を飲みながら、 昨年の中山道の思い出や下関からここまでの出来事を話し、盛り上がった。明日の打合せを行い、早めにホテルに帰り、9時に就寝。
5時起床。前日、コンビニで買ったおにぎりで朝食を済ませ、出発は7時。今日は仁賀(にか)ダムを通り、目印の賀茂川荘行き、国道2号線と合流して、安芸高木城跡、山陽本線本郷駅、三原城址、三原ステーションホテルまでの約37kmあり、仁賀ダム展望台までは約10kmの道のりだ。
街道の情報がない一般道を行くのはつらいものがある。ホテルを出て、安芸津下三永線を右方向に上三永ICまで進み、高架下を通って、県道330号線(上三永竹原線)を右折すると一本道だ。仁賀峠に向けて緩やかな長
出発して1時間を過ぎたころ集落が見えてきた。少し先に進んで行くと竹原市の標識があり、更に歩を進めていくと「仁賀町 上仁賀」の道標が、目に入る。その先に、浄土真宗本願寺派鳥越山延命寺があった。この辺は信仰心の篤い檀家が多いのだろうと思った。檀家がしっかりしていなければ、この立派なお寺を維持することが出来ないだろう。
この辺りから緩やかな下りになる。上仁賀の集落を通り過ぎ、しばらくすると仁賀ダムのダム湖(芙蓉湖)が見えてきた。仁賀ダムの展望台が最初の目印だ。目的地が見えてくると歩くのが早くなる。仁賀ダム展望台に着いたのは9時10分だった。歴史的な情報のない道を歩くと、精神的につらいと思ったが、自然豊かな道や集落を歩いていると、住む人の息づかいを感じることが出来、精神的なつらさはなかった。
到着は10時、予定通りだ。賀茂川荘は県道330号線から山陽道(国道2号線)に合流する分岐点にあったので、目印の場所とした。調べてみると、ここは湯坂温泉郷といい、およそ1350年前の大化の改新の頃、山陽道の宿駅として栄えたと伝えられている。そのまま真っ直ぐ進むと山陽道(国道2号線)に出た。
東広島駅に着いたのは、午後4時だった。ホテルは駅前の通りの、真向いにある「東横イン東広島前」だ。チェックインして、洗濯を終わらせ、シャワーを浴びて汗を流し、ホテルの夕食をとって、ホテルの隣にあるコンビニで朝食のおにぎりと飲み物を購入して、部屋に戻った。今日の歩行距離44km、63,416歩だった。明日の天気予報は晴れ気温12℃~21℃。ちょうど良い。9時就寝。