山陽道・西国街道旅日記 六日目(P34~35/P89)

271-1.jpgように続いている。中大山交差点を通り過ぎ、桜河内交差点に出た。この右手には瀬野川公園やデイキャンプ場の案内板があった。更に進むと「涼木の一里塚跡」の道標が立っていた。そのすぐ先には「吉田松陰詩詠の地」の道標があった。

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旧山陽道には吉田松陰の痕跡が数多く残る。若くしてその意思を貫き通し、処刑されたが、松陰の影響を受けた多くの長州人によって、維新を成し遂げたことに改めて尊崇の念を抱いた。ここから20分程で大山峠の頂上に着いた。大山峠は、標高は低いのだが、長い登り坂が二か所あり、結構きつかったが、靴下を変えたせいか足の調子は良い。瀬野川沿いを下って行くと、30分程で東広島市八本松町に入り、30分程歩いて行くとハンバーガーの看板があったので、昼食をとることにした。

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店の名前はグレイビージャックという。中に入って、メニューを見ると巨大なハンバーガーだ。高さが15㎝位あり、どのようにして食べるか考えた。両手で持ってもうまく食べられないので、下の方から少しずつ食べることにした。肉がしっかりしていて美味しかった。近くに工業団地があるせいか、お客は若い人が多い。アベックは1個頼んで、シェアして食べている。食べるに大分時間を要した。家に帰ったら、もう一度食べたいと思ったので、店員さんにこの店は他の地域でも展開しているか尋ねたが、ここでしか営業していないとのこと。残念。

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店を出ると気温は25℃に上がっていた。10分ほど行くと「長尾一里塚跡」の石碑があった。八本松駅手前を右に曲がり進んで行くと、右手に八本松南運動公園が見える。この辺りは工場、商店、住宅が多く、山陽道の面影はなかった。のまま進んで行くと、広い道に出た。山陽ふるさと街道という。街道から西条駅までの道はナビで行くことにした。この辺りは旧山陽道の道標がないため、道がよくわからない。計画では西条駅近辺のホテルに泊まろうと思ったが、ナビ表示では広島市から西条駅まで34kmと短い、いつも40kmの所で宿を探しているので、中途半端な距離だ。絵地図では、この先にある松子山大池付近までが4.4kmで、ちょうど38.4kmになるので、この近辺で宿を探したが、見つからない。宿は皆無だった。やむなく、旧山陽道から大きくそれてしまうが、西条駅を南下して約6kmの山陽新幹線駅前にあるビジネスホテル「東横イン東広島前」まで行くことにした。
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計画段階でこのルートが一番悩んだ。ポケットサイズの絵地図だと全体の位置関係や方向が分らないので、グーグルマップで広島市から東広島駅までのチェックポイントと、翌々日の三原市までのチェックポイントを経由地の地名に入れていき、地図を作った。いろいろ検討した結果、東広島駅の行程は2.5kmの遠まわりになるが、宿泊施設が決め手で東広島駅ルートにした。     

 

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東広島駅に着いたのは、午後4時だった。ホテルは駅前の通りの、真向いにある「東横イン東広島前」だ。チェックインして、洗濯を終わらせ、シャワーを浴びて汗を流し、ホテルの夕食をとって、ホテルの隣にあるコンビニで朝食のおにぎりと飲み物を購入して、部屋に戻った。今日の歩行距離44km63,416歩だった。明日の天気予報は晴れ気温1221℃。ちょうど良い。9時就寝。


山陽道・西国街道旅日記 六日目(P32~33/P89)

六日目 4/20木曜日

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5時起床。前日、コンビニで買ったおにぎりで朝食を済ませ、出発は615分。右足小指の治療を行い、昨日買った靴下をはいてみた。痛みがいく分和らいだ。今日は海田脇本陣、山陽本線の安芸中野駅、瀬野駅、八本末駅、西条駅を通って、東広島駅前にある「東横イン東広島駅前」までの約41kmだ。チェックアウトし、ロビーに出ると何人かの人がいたが、私の服装は際立っていた。帽子、サングラス、マスク、黄色の半袖ティーシャツそしてリュックを背負い、靴はトレッキング用の靴、何とも違和感のある服装だ。ロビーから玄関に出て、スマホのナビで旧山陽道に行く道を確認した。


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ところがナビの画面が固まってしまい、道順が表示されない。このホテルは広島サミット関係者も宿泊するので、1ヶ月後に控えたサミットのため、警備が厳重だ。玄関を出ると左右の交差点に警官が一人ずつ配置されている。私がスマホの画面を回復しようとしている姿は、警備している警官から見れば、挙動不審者に見えるかもしれない。職務質問でもされると面倒だと思い、サングラス・マスク・帽子を取って、警官の方に向かって行き、道を尋ねた。


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「東広島市に行きたいが、この道でいいですか」、警官「車ですか」と聞かれたので、「いえ、歩いて行きます」といったら、怪訝な顔をしたので、これから京都まで、歩いて行きますと説明した。大筋の道を聞いたので、歩きながらスマホの電源を切り、再起動したら、回復した。20分程で京橋川の上柳橋を渡り、真直ぐに進み、駅前大橋南詰の信号を直進し、猿侯川復元記念モニュメントを左に見て、猿侯川の猿侯橋を渡った。ナビにこの道が西国街道(山陽道)だとある。山陽新幹線、芸備線、呉線そして山陽本線広島駅から出ている4線の陸橋を渡って、才蔵寺手前を右折し、温品川の府中大橋を渡った。スマホのナビ画面は、ある縮尺になると道路に西国街道と記してある。今頃気が付いた。道に迷わずに済む。しばらく進むと、安芸山陽道の道標があった。歩いて旅する者にとってはうれしいかぎりだ。

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比丘尼坂を上がって行き、舟越峠を越えていくと町中に、織田幹雄生家跡があった。織田幹雄は明治38年、安芸郡海田町で生まれ、昭和3年オランダアムステルダムで開催された第9回オリンピックの三段跳びで優勝し、日本人初のオリンピック金メダリストになった人である。地図で見ると海田脇本陣はすぐ近くだが、標識がない。近くを行ったり来たりしたが分からない。   

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役所の広場の中に入っていくと、右わき奥に掲示板の隣に説明板があった。すぐ近くにある「千葉家住宅」は、数少ない江戸時代中・後期の建築様式を今にえ、玄関は入母屋(いりもや)造り、座敷は数寄屋風書院(すきやふうしょいん)造りで、寛政元年(1789)の建物略図も残っているという。

270-6.jpg成本、石原を通っていくと安芸中野駅手前に「中野砂走の出迎えの松」がある。案内板によると、旧国道沿いに立ち並ぶ松並木は、西国街道にかつて植えられていた海道松の名残で、樹齢150250年と推定され、「出迎え松」の名は、当時参勤交代の責を終えた安芸国の藩主を家来や村人がこの松の辺りまで出迎えたという。瀬野川と平行に走る山陽本線沿いに進んで、安芸中野駅前に着いた。

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そのまま行くと山陽道だが、斜め右に山陽本線の下を通り抜け、左の曲がると瀬野川沿いの道に出た。川沿いを歩くと気分が変わる。20分程歩いて踏切を渡って、山陽道に合流し、中野東駅を通り過ぎた。                   

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安芸山陽道を順調に進んで行くと、左手に広島国際学院大学の校舎が見え、1040分に瀬野駅に着いた。
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この辺りは国道2号安芸中野~中野東の道線、山陽本線と旧道が絡みつく   
芸中いに


山陽道・西国街道旅日記 五日目(P29~31/P89)


269-1.jpgわたり、長州藩を攻めた戦い。長州戦争、などとも呼ばれ、幕府は蛤御門の変を理由に、元治元年(1864)長州へ出兵したが、外国の連合艦隊の下関来襲で危機に立っていた長州藩が恭順したので、戦わずに撤兵した。後に、長州藩首脳はこの処置に不満を抱いた高杉晋作らの強硬派が恭順派一掃し、幕府に対抗する姿勢を示した。幕府は第二次長州征伐で出兵したが、敗退し撤退した。長州の役戦跡碑は小瀬川西岸に佇んであった。苦の坂峠を越え、大竹市に入って進み、山陽本線と国2号線が平行に入っているところに合流した。絵地図ではここから西の山側を通っていくようになっているが、国道2号線の歩道を行くことにした。

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右側は瀬戸内海が見え、海岸沿いに工業地帯が、左側にはすぐ山が迫っている。大竹市役所を通り、945分に玖波駅に到着した。
工業地帯の大きな工場や国立病院等大きな施設があるが、玖波駅は駅が小さいと感じた。

周りに就労場所が多くあるのに、この駅で通勤時の混が起きないかなどと考えながら玖波駅を後にした。

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次のチェックポイントは山陽本線の大野浦駅だ。ここからは国道2号線を行くことにした。2号線は瀬戸内海海岸沿いで、景観が良いからだ。
瀬戸内海には牡蠣の養殖場がたくさん見られ、右斜め前方には大きな島が見える。厳島(いつくしま)だ。大野浦駅に着いたのは11時だった。ここで休憩を取り広島市役所に電話した。というのも出発前に統一地方選挙の期日前投票を広島市で行う予定を立てていた。期日前投票は20時頃まで出来ると思っていたが、念のため市役所に電話をかけて確認した。広島市役所到着時間は午後450分なので、大丈夫ですかと尋ねたところ、不在者投票は午後5時までしかできないと言われた。なんでと質問したが、髙橋さんは期日前投票ではなく、不在者投票ですと云われ、なすすべがなかった。そこで急遽予定を変え、山陽本線で広島駅に行くことにした。  残念。

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大野浦駅からの時刻表をスマホで調べると、1114分発の電車があった。広島駅到着は1148分だ。歩いて行くと5時間強かかるが、電車だとわずか34分だ。計画の廿日市と古江はパスしたが、止むを得ない。広島駅に着くと、駅内は活気にあふれていた。ここに来るまで旧街道を歩いていたから、過去から現代にタイムスリップした感じだ。

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時間は十分にあるので、駅から広島城に歩いて行くことにした。およそ1.5km20分の距離だ。京橋川の栄橋を渡り、広島城の正面に行くと池田勇人銅像が立っていた。

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   お堀を通って裏御門跡、南小天守跡、東小天守跡、天守閣、広島大本営跡、本丸御殿広間跡、広島護国神社、中国軍管区司令部防空作戦室原爆被災説明板とほぼ一周して広島城の見学を終わらせた。

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途中、町並みを見学しながら、広島市役所に向った。広島サミットを1ヶ月後に控えて、町並みが綺麗に整えられている。追い込みの工事が何ヵ所か見られた。右足小指が痛くなってきたので、タクシーで市役所に行った。案内の人に聞くと不在者投票は市役所ではなく、北区役所で投票できると云われ、道路の真向いにある区役所に行った。

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訪問の目的を告げると職員3人が対応してくれ、別室に通され投票した。投票用紙を筑西市返信用封筒に入れるのを確認して、初めての不在者投票が終わった。私は物好きだから普段やらないことを体験したが、スマホで投票できる人は、いつでもどこでも投票に行けるようにしてほしいものだ。


269-10.jpg今夜宿泊は4星ホテルのリーガロイヤルホテル広島だ。この旅を通じて一番良いホテルだ。チェックイン後、コインランドリーに行き洗濯をした。シャワーを浴びて汗を流し、食事に行く。  

本場の広島焼が食べたかったので、普段、産業界で世話になっている日刊工業の茨城支局長が広島出身だと聞いていたので、メールでお薦めの店を教えてもらった。

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それによると「みっちゃん総本店八丁堀店」が良いとのこと。午後545分店に入ると仕事帰りの人たちが男女を問わず、満席だった。運よくカウンター席が一つ空いていたので、そこに座り、生ビールと八丁堀セット3,000円を注文した。スペシャルお好み焼き(焼きそば入り)、牡蠣焼きがついている。

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生ビールを一気に三分の一程度飲み、牡蠣焼き7個を食べた。次にお好み焼きだ。関東よりキャベツの量が圧倒的に多く入っている。写真は上から取ったので、ボリュウーム感に乏しいが、実際は厚みも十分で、美味しかった。ホテルには途中でコンビニにより、明日の朝食と靴下を買った。右足小指が痛いので、少し厚みのある靴下を探した。今日は電車に乗ったが、総距離30km43,861歩だった。明日の天気は12℃から最高で21℃、丁度良い天気だ。9時に就寝。 

山陽道・西国街道旅日記 五日目(P27~28/P89)

五日目 4/19水曜日
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5時起床。前日、コンビニで買ったおにぎりで朝食を済ませ、窓の外から夜明けの錦川、錦帯橋の写真を撮った。昨夜治療した右足小指のマメが痛いので、再度消毒液を使い、大きいバンドエイドで小指を巻くように貼り付け、痛みを和らげた。治療に時間がかかったが、予定通り6時に出発した。 


268-2.jpg朝の澄んだ空気を吸い、錦川沿いに進み、錦城橋を通り過ぎたところで、山の頂にある岩国城を仰ぎ見た。岩国城は岩国藩主吉川広家によって、慶長13(1608)に作られた山城で、眼下を流れる錦川を天然の外堀にし、標高約200mの城山に位置しているという。この道は藤生停車場錦帯橋線(岩国道)と長い名前がついていた。約30分で関戸宿にある目的地吉田松陰東遊記念碑に着いた。

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関戸宿は山陽道の本陣が置かれた宿場町、本陣跡近くには松陰が当地で詠んだ詩を刻んだ碑がある。松陰は安政の大獄によって江戸に護送される際、防長惜別の地である小瀬の渡し場で、歌を詠んだと云われている。

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650分にこの地を立って、古い家並みを通り過ぎると旧山陽道の道標が建ててあった。このような道標は道を間違えないで済むので、大変ありがたい。小瀬峠の標高は低いのだが、竹林が多くカーブが少なく一直線に上るような道なので結構きつい。朝早いこともあり行きかう人はいなかった。静かな山の中をゆっくり歩いた。

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右足小指は痛いというより、ジンジンとしびれる感じだが、問題なさそうだ。一本道だが、途中「旧山陽道」の道標があり、道を間違えないことから、この地域を管轄する人たち(岩国市教育委員会)に感謝の気持ちが生まれる。小瀬峠を越えたころ「旧山陽道跡」の案内板があった。
山陽道は大化の改新(645)により都(奈良)から九州大宰府までの官道として整備され、七道中唯一の大路であった。古代には「かげとも(南斜面)のみち」とも呼ばれていた。この道は廿日市市大野大竹市小方を過ぎ、小瀬川を渡って岩国市小瀬に入り、山道を越え岩国市関戸に至る道であった。中世に入り、やや荒廃したが、近世の山陽道は、大阪から下関を経て九州小倉を結ぶ行路で、西国大名の参勤交代等により国内陸路の主要道として利用された。小瀬川の渡し場はここより南東50m付近にあった。」と記してある。
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少し先に吉田松陰歌碑があった。長州藩の東端にある岩国・小瀬川は、陸路で旅をする長州藩士にとって、故郷との別れの地であり、帰藩に安堵する地でもあったという。松陰は生涯4度、岩国を通っている。最初22の時、江戸遊学に胸躍る旅路だったが、江戸から東北へ行った折に、藩の許可証を持たずに出かけたため、脱藩の罪で帰国命令を受けた。

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2度目は再び江戸遊学の許しを受け、舟で江戸を目指す途中、岩国に立ち寄った。3度目の岩国通過は物々しい護送となった。ペリーの黒船による密航を企てたが、失敗し、罪人となって帰藩した。

4度目は日米修好通商条約の調印を批判し、江戸への護送を命じられ、岩国を通過した。小瀬川で、松陰は長州への決別の思いを歌に託した。「夢路にもかへらぬ関を打ち越えて今をかぎりと渡る小瀬川」と読まれ、夢の中でも戻れないという歌の如く、この年10月に松陰は29歳の若さで処刑された。小瀬川にはこの歌の碑がひっそりと佇み、松陰の想いを現在へ伝えている。

松陰歌碑から小瀬川沿いに進み、和木町立和木小学校を過ぎ、大和橋を渡り、長州の役戦跡碑に着いた。到着は8時半だった。跡碑は幕末、江戸幕府は二度に

山陽道・西国街道旅日記 四日目(P24~26/P89)

267-1.jpg昼食は高森駅近くのステーキ専門店「高森亭」に入り、冷たい水を何杯もお代わりしてから200gのランプステーキ定食を注文し、英気を養った。昼食後、12時半に出発し、新岩国駅を通って、今夜の宿泊地岩国宿に向けて歩き出した。周りの景色を見ると、小高い山々が見え、道路沿いには様々な店があり、私の地元と変わらない風情だ。東川の橋を渡り、進んで行くと、左側に岩徳線と国道2号線が平行しているのが267-2.jpg見える。

玖珂本郷宿を通り、絵地図に記してある欽明寺に行こうとした。絵地図で見ると欽明寺は道路沿いにあるものと思い、疑いもなく欽明路道路の標識がある道を進んで行った。順調に歩いて行くと、トンネルが見える。絵地図では右に迂回して行くようになっているが、道が見当たらない。トンネルの抜け出たばかりとみられる人が、出口の空地に座り込んでいる30歳代の人がいた。私よりも重装備して、歩いて旅をしているようだ。挨拶を交わすと、このトンネルの歩
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道は大変狭く、歩くのに危険だから気を付けてとアドバイスがあった。お礼を言って、別れを告げ、トンネルの中を進んで行った。

トンネルの中は歩道と呼べるようなものではなかった。歩道は車の路面より15cm高くなっていて、歩道というより側溝で、幅は肩幅と同じくらいの約60cm、側溝には蓋が置かれているが、蓋と蓋の間には大きな隙間がある。躓いて車道側に転ぶと車に接触してしまう恐れがある。このトンネルは交通量が多い。立ち止まったままでも10t車が来ると、風圧で体が引き込まれそうになる。慎重に蓋の隙間に躓かないように、足元をしっかり見定めて歩いて行くが、意外と真直ぐに歩くのは難しい。
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車道側に体が行かないように、気を付けていると左側に体が傾き、その都度左側の壁に腕をこすりつけ、態勢を真直ぐに立て直す。何度も同じことが起こった。大げさに言うと、人生でこれほどの緊張感を持ったことはなかった。右に体が傾くとトラックと接触事故、ドライバーもまさかこのトンネルに歩行者が入るとは思ってもいないと思う。ようやく出口の明かりが見えてきた。通過するのに約20分かかったが、通過した時の安堵感は近年経験したこと がない。後に調べてみると欽明路トンネルというのだそうだ。最初、絵地図を見た時、トンネルの手前に旧山陽道があるように見えるので、疑わずに来てしまった。もと来た道を戻って旧山陽道に行くには、予定の到着時間を大幅に超えて、暗くなってから旅館に着く恐れがあったので、このままトンネルの中を行くことにした。計画は慎重に作らないといい結果が出ない。このような事故に遭う可能性のある計画はしてはならない。

次にトンネルがあったが、300mくらいか、出口の明かりが見える。側溝の幅は1m程度、それほど神経を使わずに済むので、歩きやすい。次のトンネルは同じく300mくらいで側溝の幅は60cm、出口の明かりが見えるので、しっかり足元を見て歩いた。トンネルを出て御庄川を渡るとコンビニがあったので、中に入り、水を買ってから、トイレを借りた。左腕とシャツが埃だらけ、左の壁に擦って着いた汚れを落とすため、腕を洗い、シャツを着替えて、岩国に向った。道なりに進んで行くと、ここは御庄宿だ。岩徳線川西駅を右手に見て川西交差点を左に曲がり、右に小野畳店の十字路を右に曲がり、錦川の臥龍橋を渡って、最初の信号を左に曲がり、錦川沿いを進んで、錦帯橋の入り口に着いた。見事な5連のアーチからなる木造橋だ。橋の入り口には案内板があり、「錦帯橋は延宝元年(1673)第三代岩国藩主吉川広嘉によって創建された。
それまでの橋は、錦川の洪水の度に流されたが、 広嘉の斬新な発想と藩の技術者のたゆまぬ努力によって現在の橋が出来た。
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その後台風により橋は流失し、昭和281月に再建され、現在の橋は、平成13年度から平成15年度にかけて橋を架け替えられた。橋の長さは、橋面にそって210m、直線で193.3m、幅5m、橋脚の高さ6.64mとなっている。錦帯橋といえば、周囲の景観と調和した美しい姿が特徴ですが、木組みのアーチや橋脚、その橋脚を支える敷石等の技術は、現代の土木工学においても通用する技術である」と記されあった。

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宿泊の末岡旅館は5分程で着いた。昭和の初めに建てられ、ろくに修理もしていないと、フロントのご主人が自嘲的に話した。部屋に案内されると8畳二間で広いが、トイレ・風呂は共同である。コロナの非常事態で観光客の姿も少なく、宿泊客は私一人だった。お好み焼きが食べたくなり、10分程で店に到着したが、閉店だった。他にも当たったが同じだった。仕方なくコンビニで食事とおつまみ・ビールを買い、部屋に戻って食事をとった窓から見る錦川と河原、錦帯橋と奥の山の頂上には岩国城が見える。

267-7.jpgその景観を眺め、ビールを飲んだ。本日は43.5km62,182歩の旅のだった。両足の小指が痛い。明日は歩き出すまでが大変だ。明日の天気は晴れの予報だ。9時に就寝した。

山陽道・西国街道旅日記 四日目(P21~23/P89)

四日目 418日 火曜日
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5時起床。前日に買ったおにぎりで朝食を済ませた。出発予定6時だが、右足小指のマメが痛いので、治療に時間がかかり、6時半に出発した。今日のチェックポイントは久保市公園、勝間駅、高水駅、米川駅、周防高森駅、欽明寺、新岩国駅、そして宿泊地岩国の末岡旅館までの約39kmだ。


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薄曇り少し寒い、風は微風。国道2線を久保市に向けて歩き始めた。しばらくすると左手に山陽新幹線と岩徳線の二線が平行して、こちらに向ってくる。しばらく並行していくと、旧道に出た。汐入峠を越えて、7時40分頃久保市に着いた。ここから山陽本線の勝間駅まで、約5kmの距離で、国道2号線とほぼ同じ道のりを行く。

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標高の低い峠を越えて、山陽本線の踏切を渡り、少し歩くとまた山陽本線の踏切を渡り、勝間駅に8時40分に着いた。ここも無人駅だった。国道2号線を進み、ガソリンスタンド手前の信号を右折し、旧道に入っていく。岩徳線の踏切を渡ると、左に西善寺というお寺が見える。

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この辺りが呼坂(よびさか)宿だ。少し先に「吉田松陰 寺島忠三郎決別の地」の顕彰碑と辞世の碑があった。安政六年五月吉田松陰は江戸に送られることになり、25日檻輿(囚人用の籠)は萩を発し、小郡を経て山陽道を東進し、高水村を通過した。忠三郎は当時高水におり、呼坂に於いて師と無言の別れを告げた。 

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島忠三郎は天保14(1843)近習寺島大治郎の二男として生まれ、16才で松下村塾に入り、吉田松陰の弟子となり、尊王攘夷運動に尽くしたが、禁門の変に際して久坂玄瑞と共に自刃した。寺島忠三郎生誕の地はこの少し      先にある。

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中村川の呼坂橋を渡ると呼坂本陣跡があった。呼坂本陣跡は防長両国を東西に通じる山陽道は古くから開け、万葉集に歌われ、また、南北朝時代の旅日記「道ゆきぶり」に現在の呼坂の地名が「海老坂(えびさか)」と記されているという。                                   


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江戸時代、河内家は代々庄屋や大庄屋を    勤め、天明年間(1781)より七左衛門が本陣を引き受け、参勤交代の大名や幕府の上使が宿泊や休憩をしたと云う。左手に高水駅をみて、先に進み、岩徳線の踏切を渡り、今市宿に入った。



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高水村塾之址の石碑と浄土宗正覚寺を、右に曲がり道なりに進むと、芭蕉塚があり石碑俳句が彫られているが、文字が薄れ判読が出来なかった。更に道なりに進み踏切を渡り、進むと「郡境の碑(山陽道中山峠)」と石碑に彫られた道標があった。「従是東玖珂郡 従是西熊毛郡」と記してあり、東玖珂方面に足を進めた。中山峠の山中を歩く。行きかう人はいない、静かな山の中を歩くと水の流れる音が絶え間なく、聞こえてくる。山の斜面から、小さな水の流れ、少し大きな水の流れを、あちこちから見ることが出来る。このような空間で水の流れる音だけが聞こえる体験は初めてだ。 

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少し行くと石仏4体ありと絵地図に記されてある。調べたが、由来が分からない。ここはもう岩国市だ。島田川支流の橋を渡り、島田川沿いに進むと左手に、米川駅が見える。のどかな日和の中、島田川沿いをのんびりと歩いた。島田川支流を渡って、真直ぐに行くと旧山陽道だが、少し寄り道をして高森天満宮に着いたのは1140分だった。

266-11.jpg高森天満宮由緒には、菅原道真公を主神に奉ってあり、延喜元年菅原公57歳の時、左大臣藤原時平が右大臣である道真公を政敵として排除し、九州に左遷された道真公は太宰府の途中、当地梅林またの名を緑江の里で島田川に面した岸辺にコンコンと湧き出る泉で喉を潤し、長旅の疲れを癒されたと伝えられている。この由緒ある地に総持寺の勝宗和尚により祠が建立されたと云われている。 
 
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 見学後、旧道に戻り、高森宿の中心部周防高森駅に到着した。結構大きな街だ。途中、吉田松陰宿泊の地の石碑が、また「作家 宇野千代先生文学の碑 入口」の碑が建てられてあるのを見つけた。

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宇野千代は、大正・昭和・平成にかけて活躍した小説家で、 出生地は岩国市(川西駅)とある。高森本陣跡には「旧山陽道 高森本陣跡」と記された白木が建立されてあった。    

      


山陽道・西国街道旅日記 三日目(P17~20/P89)

三日目 417日 月曜日
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5時起床。前日に買ったおにぎりで朝食を済ませ、6時半に出発。今日の予定は宮市宿にある佐波神社、富海(とのみ)、福川、富田(とんだ)、徳山、花岡(下松市)39kmの行程だ。宮市宿の佐波神社に向えば、旧山陽道と合流する。気温は7℃半袖シャツに薄いジャンバーを着て歩き始めた。出発してまもなく記憶にとどめるため、山の写真を撮った。

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佐波神社へはグーグルナビを使い、6.5km1時間20分の道のりだ。二日続きの雨の中、今日は雨に降られることはないだろう。まだ通勤の車はわずかだ。旧山陽道は標高の低い山が多く、450m前後だという。観光地の道路標識が目に入り、近辺の旧所名跡が分る。佐波神社に着いたのは8時だった。

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佐波神社は、元は金切神社といい仲哀天皇が筑紫征伐の折ち寄った社伝を持ち、天照皇大神ほかの十三柱をまつる神社で、周防国総社として代々の国司が参拝したと伝わっている。明治後半に他の四社を合併し、佐波神社と改称されたとのこと。参拝を済ませ、神社を出て、左に進むと左手に毛利氏庭園があり、その山の手には毛利庭園ゴルフ倶楽部がある。


265-4.jpg毛利氏庭園は旧長州藩主毛利家に伝来する美術工芸品歴史資料2万点を蔵、公開しており、これらの資料の内国宝が47点、重要文化財が約9千点、西日本有数の博物館として知られている。合わせて、国の文化財に指定されている庭園と屋敷を公開しているという。今宿、浮野を通り抜け、浮野峠108mの茶臼山を越えて、下っていくと山陽本線が右手に見え、瀬戸内海に出て、山陽本線沿いに歩くと左手に旧山陽道の橘坂があり、進んで行くと山陽本線富海駅(とのみ)に着いた。駅の小さなロータリー近辺にある「山陽道富海一里塚跡」を探したが見つからない。


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道を掃除していた人に聞くと、「一里塚なんてものはないよ」と言われてしまった。私の服装を見て質問してきた。旧山陽道を歩いて下関から京都まで歩きながら、街道の歴史を調べていると云うと、幕末に伊藤博文がイギリス留学を中断して、舟でこの富海を経由して下関に行ったとのこと。初耳だ。調べてみると文久3(1863)イギリスにいた伊藤博文、井上薫は英米仏蘭の4ヶ国連合艦隊が下関を                 攻撃するとの情報に接し、英国留学を中断し         

265-6.jpgて帰国の途に就いたとのこと、両名は元治元年(1864)624日に富海に上陸し、飛舟問屋入本屋磯七の宅で、刀を借り、衣服を着替えて、山口の藩庁へ行き、勝ち目のない戦いを止めるよう説得をしたが、関門海峡の戦いで長州藩は大敗を喫したという。

初めてのことを知ることが歩き旅の醍醐味だ。富海本陣跡が目に入った。入口には江戸時代山陽道沿いの、宮市から福川本陣へ向う半宿であり、大名行列の休憩、長崎奉行やオランダ人、日田御用金輸送などの比較的小規模な人数の宿泊に利用されたと記してあった。富海駅から国道2号線を突っ切り、ほぼ並走して椿峠を越えて行った。頂上にはドライブインが2軒あるが、両方とも廃屋になっていた。

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椿峠から緩い下りの道を戸田山、赤迫越えを通り、周南市の福川に着いた。福川の本陣・脇本陣は、ともに御茶屋と称して代々福田家がこれを預かるとある。西町にある本陣は表口17間、奥行き14間で門構えのある大規模な屋敷だった。しかし今は門構えだけ残されて、表札は福田で門の奥は福田の住居になっているようだ。午1時前にファミレスのジョイフルで昼食をとることにした。日替わり定食を注文し、30分の休憩を取り、山崎八幡宮を目指した。30分程歩いて行くと道路沿いに鳥居が見えた。

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これが山崎八幡宮の入口である。山崎八幡宮は和銅二年(709)の建立と伝えられる由緒ある神社とのこと。豊作を祈願して山車を坂から突き落とす「本山神事」が有名とのこと。この神事は元禄十五年(1702)徳山藩主の毛利元次が、五穀豊穣を祈願し、奉納したのが始まりと伝わっている。社殿に入りお参りをした。

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山崎八幡宮を出ると、「左下関道 右上方道」の石碑があった。上方方向に歩き始め、次のチェックポイント徳山市にある「孝女阿米の碑」に向った。旧山陽道沿いにある徳山駅近くだ。徳山駅は山陽本線、岩徳線、山陽新幹線が通っている大きな街だ。商店街を通っていくと、眼鏡専門店があったので、サングラスを買うことにした。店主に、昨日から目が充血しているので、UVカットのサングラスを買いたいと話し、べっ甲もどきの サングラスにした。店主からどこから来たのかと聞かれ、下関から歩いて来て今日で三日目、京都まで行くと話したら、驚いた表情を浮かべていた。会計を済ませてドアを開けようとしたとき、冷たいオロナミンCを渡された。その場で飲み干し、お礼を言って店をでた。気持ちの良い人だ。

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店を出ると間もなく目的地の「孝女阿米の碑」に着いた。こんな近いところにあるとは思いもよらなかった。「孝女阿米の碑」の碑文には寛政三年(1791)現在の周南市(旧徳山市)橋本町に生まれ、6歳の時に母を失い、12歳の時に父が病に伏したため、孝行心の篤い阿米は四六時中、父の看病に尽くし、病状の回復のみに気を配り、孝養を尽くすこと31年に至ったとのこと。阿米さんは62歳で亡くなったが、今も市内の徳応寺には父母の墓と並んで「孝女阿米墓」があり、多くの市民が供養に訪れ、この碑はその功徳を偲ぶ人たちに守られ、今を生きる私たちに「親孝行の大切さ」語り続けているとのこと。碑文の前には花が生けられていた。一昨年両親の七回忌を済ませた自分にとって、改めて親孝行について問うた。 

 山陽新幹線の橋脚下を通り、左折し花岡宿に行くのが、旧道のルートではあるが、ちょうど良いところに宿泊施設がないので、少しルートの外れた南側の国道2号線沿いにある「サンホテル下松」に泊まることにした。新幹線の橋脚を通り過ぎ、末武川の末武大橋を渡り、およそ20分で「サンホテル下松」に到着した。ここは国道2号線と周南バイパスのインターチェンジにあるビジネスホテルだ。450分チェックイン。43.3km62,225歩の3日目だった。

コインランドリーで洗濯。フロントで幕の内弁当を注文、シャワーを浴びて汗を流した。右足小指に大きなマメの水を抜き、消毒液で消毒し、バンドエイドを貼って治療した。1日を振り返りメモを取っていた時、徳山駅近くにある児玉源太郎像に、気がつかず、通り過ぎてしまった。児玉源太郎は明治期の軍人・政治家で、日露戦争では満州軍総参謀長として日本を勝利に導いた。特に203高地の攻防では、多数の犠牲者を出し、遅々として前進できず膠着状態に陥り、バルチック艦隊が日本海を通過し、旅順港に入られると、日本軍は満州での戦いで補給路を絶たれ、全滅する恐れがあった。そこで海軍の提案を受け入れ、203高地を奪取し、観測地を設け半島の反対から、艦砲射撃で旅順港に停泊している旅順艦隊を撃沈した。児玉源太郎は大臣を辞め、格下の総参謀長に鞍替えして、乃木希典大将を助け、203高地の取るため、戦力を集中させるように助言をした。反省を込め、9時就寝。

山陽道・西国街道旅日記 二日目(P13~16/P89)

二日目 416日 日曜日

264-1.jpg  5時起床。目的地の天気予報は曇り時々雨。すぐに雨合羽を取り出せるように、リュック内に一番上に置き準備をした。今日の予定は舟木、山口、小郡、富田、宮市、42kmの計画だ。コンビニのおにぎりを食べて、ホテルを6時に出発した。気温は10℃、若干左足の右側甲部に痛みがあるが、支障はない。足の調子も良い。歩き始めてしばらくして頭に、冷たいものが落ちてきた。264-2.jpg

電線の水滴だ。思わず頭に手を当てたら、帽子をかぶっていない。部屋に忘れてきた。ホテルに引き返し、帽子をかぶり再出発、25分のロスタイムだ。踏切を渡り、厚狭川を渡って道なりに進むと小さなため池があった。

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池の右側を回り込むように進んで行くと、右手から朝日が差し込んできた。さらに狭い道を進んで行くと国道2号線(舟木津布田線)にでた。右折して2号線の歩道を行き、標高57mの西見峠を越えて、チェックポイントの逢坂観音堂を7時過ぎに通過し、次のチェックポイント岡崎八幡宮に向った。途中山間の道を進んで行くと屋根の色が茶色、茶褐色、黒色と同じ色にした 家々が数件ずつ、集落ごとに固まって立っている。一族の結束を示すための屋根の色のように見えた。船木宿に入ると岡崎八幡宮の案内版が見えたので、境内に入った。

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少しさびれている大きな農家の庭みたいだが、中に入ると大きなクスノキがあり船木地区の産土神(うぶすなかみ)で土地の守護神だという。当社は清酒の御神酒の醸造が許可されている全国に四社しかない神社の一つとして知られているという。岡崎八幡宮でお参りし、国道2号線を進んで行くと、標高90mの吉見峠を8時半に越え、山陽新幹線の橋脚下を2度通過し、大坪川を渡り、山陽本線の厚東(ことう)駅近くを通り過ぎたのは910分だった。


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再度、山陽新幹線の橋脚下を通過し、山陽本線と並走し、再再度、山陽新幹線の橋脚下を通過し、進んで行くと瓜生野区に、ぽつんと白木に「殿様道(山陽道往還跡)」の記念碑があった。

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 新町に入り、二俣川を渡り進んでいくと、山中本陣跡、その先に薬師堂と記された白木がひっそりと建っていた。周辺には往時を偲ぶものは皆無だった。12時にコンビニで大盛りのスパゲティとお茶を買い、少し休憩して、次のチェックポイント旧山陽道近くの山口線周防下郷駅だ。国道2号線と旧道が入り組んでいるが、山陽本線の嘉川駅近くを通るので、そこを目指した。順調に進んで周防下郷駅に到着。ここは無人駅だった。次に向かうのは四辻(よつつじ)駅だ。しかしここで道を間違えて反対方向に進んでしまった。方向が分からなくなり、 分かりやすい新山口駅に向い、仕切り直しをした。新山口駅から30分位進んだ時に、空が暗くなって、雷の音が聞こえ、同時に冷たい風が吹いてきたので、急いで店の軒先を借り、雨合羽を取り出し、ズボンも雨用に着替えた。このまま少し歩いて進んだが、雹が降ってきたかと思うと、激しい雨も降ってきたので、通りかかった斎場の大きな屋根の下で、黒い雲が通り過ぎるのを待った。20分後に小雨になったので、次の「大村益次郎の墓」に向って歩き始めた。右側に見える山陽本線と並走して歩き、金毛川を渡って、インターチェンジを通過し、住宅地を通って、目的地の大村益次郎の墓所に到着した。裏山の所を整地してあったが、既に大村神社の社殿は移設してあるとのこと、旧大村神社の社殿の案内板があり、お墓だけがひっそりと佇んであった。

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案内板によると大村神社はこの地にあり、「大村益次郎が明治2年に亡くなった後、この場所にお墓が作られた。明治天皇の名代として、岩倉具視や木戸孝允ら政府高官がお墓にお参りし、彼の遺徳をしのぶに及んで、鋳銭司村の人たちは明治5年益次郎を祭神とする大村神社を建てた。明治11年には三條実美や伊藤博文ら関係者74人が協力して神社の前に神道碑を建てた。明治24年には鳥居が立てられようやく郷土の偉人を祀るに相応しい神社となった。昭和21年神社は長沢池畔の見晴らしの良い現在地に遷座され社殿は防府市内の神社に移築された。」と記されてあった。  

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大村益次郎は文政7年(1824)周防の鋳銭司村(すせんじむら)に漢方医の子として生まれ、蘭方医、兵学者となり四国宇和島藩で、日本で初めて様式軍艦を設計し、建造した。禁門の変で朝敵となった長州藩は、幕府軍を迎え撃つため、軍の総司令官に大村益次郎を任命し、圧倒的な数の幕府軍を破り、長州戦争を勝利に導いた。  

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慶応4年(1868)の戊辰戦争の上野の戦闘では総司令官として指揮をとったが、明治2年暗殺された。 享年46歳。日本陸軍の父といわれ、司馬遼太郎作「花神(かしん)」の主人公として描かれ、維新政府に参画して近代的軍隊の基礎を作ったと云われている。私は30代にこの「花神(かしん)」を何度も読み返し、戦争の原理原則を熟知し、戦略を打ち立て、 戦闘において多数の幕府軍を打ち破ったのは良く理解できた。

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参拝後、午後320分に出発。空模様が変わってきて、冷たい風が吹いてきた。間もなく前よりも大きな雹と激しい雨が降ってきた。住宅のカーポートの軒先を借りて雨合羽に着替えていた時、家の中から20代半ばの人が玄関から出てきて、車の様子を見に来た。軒先を借りることの了承と次に行く道を教えてもらった。長沢池沿いを進んで国道2号線に出て、左折すれば良いと教えてくれた雨宿りをしていたのは約40分、小雨になってきたので、雨具を着たまま、長沢池を進んだ。途中、池を作った人の大きな石碑が立てられ、地域の人々が功績を後世に伝えようと、建立した。それによるとこの長沢池は慶安4(1651)頃、代官東条九郎右衛門の在任中に築かれ、天保年間には鋳銭司村、名田島村、台道村の田畑に長沢池の水を供給し、他村が干ばつに見舞われても、長沢池を利用する村々は干ばつを逃れたとのこと。

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大分進んだ頃、日が差してきたので、雨具を脱いで、半袖で進んだ。ドライブインで、おやつを食べ小休止を取った。この辺から本来の旧山陽道は岩淵(佐野)峠を通り若宮に行き、佐波川を渡って宮市宿に行くのだが、距離が有り過ぎる。そこで計画段階から旧道を通らずに国道2号線を通って、佐波川大橋を渡った所にあるホテルにした。国道2号線を進んで行くと、今日 3回目の雨が降ってきた。急いで雨具を身に着けた。今度は雨と強風の中を佐波川大橋に向って歩いた。ホテル到着午後515分、47.8㎞、68,455歩、計画より6㎞多く歩いた。道を間違えた結果だ。下着の洗濯、隣のコンビニで、明日の朝食買い、夕食はホテルで食べ、9時に就寝。疲れた。

山陽道・西国街道旅日記 一日目(P9~12/P89)

263-1.jpg一角に「軍神廣瀬中佐亡友展墓記念碑」の石碑があった。経年劣化で字は読みにくい。亡友と云うのは福田久槌という人であると石碑の銅板に記してあり、詳しいことは分からない。明治37年日本海軍は旅順港内の閉塞作戦を実施、軍艦「朝日」の水雷長広瀬武夫は、この決死隊指揮官として二度にわたって出撃したが、散弾に倒れた。37歳であったという。30歳代に司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読み、漢詩を愛し、講道館柔道に熱中し六段、ロシア駐在武官時代ロシア語に熟達、ロシアの子爵令嬢から惚れられた話は有名で、ドラマにもなった。風雲渦巻く明治という時代を太く短く生きた男に一種のあこがれを感じていた。
ここから10分もしないうちに高杉晋作回天義挙碑がある功山寺(こうざんじ)に着いた。時間は830分。
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功山寺は鎌倉幕府が滅ぶ6年前、1327年に開かれた曹洞宗の寺院で、高杉晋作が挙兵した寺である。境内にある馬上姿の銅像からはわずか80名という少人数で藩に立ち向かった晋作の強い決意がうかがえる。境内を散策すると三吉慎蔵の墓所が目に入った。
263-3.jpgのサムネール画像幕末、寺田屋における坂本龍馬襲撃事件の際、長州藩から護衛として京に入った人物で、坂本龍馬を助け、一緒に薩摩藩邸に逃げ込んだ人物である。この境内で三吉慎蔵お墓があるとは思いもよらなかった。お墓に向って合掌した。263-4.jpgのサムネール画像  



またこの功山寺には、幕末において7人の公家が京都から追放された。俗にいう「七卿落ち」で、うち5人は功山寺に滞在した。ところが第一次長州征伐の結果藩政の実権を握った俗論派は、5人を追放しようと謀った。高杉晋作の騎兵隊クーデターは、これが原因で起こったものである。すぐそばにある下関市立歴史博物館を訪れた。印象的だったのが「下関に集う志高き人々」のパネルだ。                
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こには中山忠光・久坂玄瑞・高杉晋作・平野国臣・中岡慎太郎・坂本龍馬らが街道と海道が交わる下関において、攘夷戦や幕長戦争の最前線で活躍した人々の紹介をしていた。他にも大内氏の滅亡と毛利氏の進出、毛利秀元と長府藩の始まり、幕府側の長州再征軍進発の絵巻物、幕長戦争、小倉藩との小倉戦争の概要、高杉晋作と坂本龍馬の写真や交流のいきさつ、坂本龍馬の使用した飯碗の展示、長府毛利家に仕えた三吉慎蔵の日記など見ごたえのあるものが多かった。263-6.jpgのサムネール画像のサムネール画像のサムネール画像

更に旧道を行く。歩きだすと正面方向に長府毛利邸が見える。長府毛利邸は長府藩14代当主毛利元敏、東京から長府に帰住し、この地を選んで建てた邸宅とのこと。武家屋敷造りの重厚な母屋と白壁に囲まれた日本庭園は、新緑や紅葉の季節に一段と映え、しっとりとした風情を感じさせるという。長府教会を過ぎ、十字路を左に曲がると、古い壁に囲まれた多くの家屋がある通りを進んで行った。しばらく歩くと商店街があり、「乃木さん通り」の標識があった。乃木さんとは長州藩出身で、日露戦争を戦った乃木希典大将のことだ。下関には多くの乃木神社があるが、この通りの近くにも乃木神社がある。また東京赤坂の乃木坂にも乃木神社がある。近くの海岸沿いには工業団地があり、神戸製鋼所やブリヂストンタイヤ工場ある。長府印内町、長府八幡町を過ぎると、左手に山陽本線が見え、線路と並行して進んで行くと山陽本線長府駅まえに着いた。長府駅は旧山陽道沿いにあり、ナビの目的地にすると歩きやすいので、チェックポイントにした。

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次に向かうのは東行記念館だ。しばらく山陽本線の線路沿いを平行に進み、491号線を横断して、宇部市の西町を通り、東町辺りから左に折れ山陽本線を渡って神田川の神田橋を渡った。予定よりも遅れているので、小月駅手前のコンビニでおにぎり弁当を店内で済ませ、出発した。そのまま491号線を進み、木屋川手前を左に曲がり、木屋川沿いに下関宿から四番目の吉田宿に、午後1時半に到着した。吉田宿は大名の宿泊施設たる本陣も置かれ宿場町として栄えた。この町は赤間ヶ関から厚狭、舟木を経て山口に至る山陽道本街道と、長府方面より藩都萩へ通ずる萩街道の分岐点にあたるため、郡役所にも比すべき役所を置いて厚狭郡             一帯の政治経済に当たっていた。

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高杉晋作率いる奇兵隊も駐屯して訓練に励んだゆかりの地とのこと。旧山陽道を少し外れるが、高杉晋作の東行(とうぎょう)記念館(東行庵)に向う。東行記念館は曹洞宗功山寺の末寺で清水山東行庵(せいすいざんとうぎょうあん)と称し、維新の革命児・高杉晋作の零位礼拝堂として明治17年に創建された。初代庵主となったのは、高杉晋作の愛妾おうのである。

晋作の死後、おうのは「梅処(ばいしょ)」と称して晋作の眠るこの地で菩提を弔うことを余生としたと伝えられている。早速記念館の受付で入場券を購入した。

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受付のおばちゃんが私の身なりを見て、話しかけてきた。どこから来たの、下関から歩いてきたと言ったら、驚いていた。これから晋作のお墓参りをして、15日かけて京都に行くことを話したら、さらにびっくりした表情を浮かべて、お歳は、何処からと質問してきたので、茨城県から新幹線で下関に来て今日が一日目だと話すと、郷土の英雄晋作を我がことのように教えてくれた。晋作は病気療養のため下関から、3日かけてこの地に来たことを昨日のことのように話してくれた。このような地元の人達が晋作の記念館を守っているのだと感じた。

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靴を脱いで館内に入っていくと、晋作の歴史がわかるように「第一章 藩内における戦い」尊王攘夷を掲げて、長州藩の禁門の変や下関戦争の敗北を受けて、三家老四参謀が死罪、これをきっかけに晋作が起こした功山寺決起は、藩論を変えるきっかけを作り出した。「第二章 幕府との戦い」征長戦争・小倉戦争に勝利し、藩の存亡をかけた戦いで勝利に貢献した。「第三章 病との戦い」では小倉戦争中、体調不良を訴えていた晋作は戦線を離脱し、東行庵で闘病生活に専念した。愛人おうの等が、懸命に看病したが慶応3年(1867年)413日夜半に27歳8ヶ月の生涯を閉じた。

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当時、日本が欧米列強の植民地にならずに、今日の日本の繁栄の礎を築いた偉人の一人だ。このような人々がこの時代に現れたのは、日本の奇跡だ。有名な晋作の辞世の句「おもしろき おもしろきなく世におもしろく」をかみしめて記念館を後にした。今日の宿泊地厚狭市に向う。近くに司馬遼太郎文学碑や奇兵隊の墓があるが、見学で大分時間を費やしてしまったので、拠るのを断念ししばらく歩くと宇賀山陽線を左に曲がり、埴生口峠を越え、山陽本線を横断して、中村の信号を左に曲がって、広い道路(厚狭・埴生線)の歩道を進んだ。         

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前場川を渡りしばらく進むと山陽自動車道がみえ、橋脚下を過ぎ、埴生インターチェンジの標識を過ぎて、談合東の信号を左折し、舟木津布田線に入ると、右手には工業団地が見え、しばらく団地沿いに進んで、宿泊地、山陽本線の厚狭(あさ)駅近くホテルに到着した。一日中小雨が降っていたので、雨合羽を着たままでの一日目の旅だった。到着時間午後5時半、41.3km59,044歩。すぐに下着の洗濯、汗を流し、近くの居酒屋で夕食を取り、9時に就寝した。


山陽道・西国街道旅日記 一日目(P6~8/P89)

一日目 415日 土曜日262-11.jpg

4時に起床。窓を開け、外を見るとやや強い雨が降っている。予定では7時出発だが、しばらく様子を見ていた。雨の降り方が少し弱くなってきたので、40分遅れて出発した。友人からのアドバイスで購入した登山用の雨合羽を身に着け、京都へ上洛の旅の第一歩を踏み出した。雨合羽は軽く通気性も良いので、歩きやすい。

 最初に訪れたのは、旧山陽道の起点とされる亀山八幡宮まで、約2㎞だ。ホテルを出てほどなく右手に見える「市立しものせき水族館 海響館」を過ぎると、唐戸市場が見える。

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唐戸市場は活気あふれる大きな市場で、刺身や寿司、加工食品を販売する露店がたくさん並んでいる。朝早い時間帯と雨が降っているので、客はあまり見られなかった。真向いには亀山八幡宮がある。この亀山八幡宮の石段下に旧山陽道の起点とされる石碑がある。亀山八幡宮は、平安時代に宇佐神社(大分県)から勧請され、室町時代に明と貿易が始まると、遺明船は太刀を奉納し航海安全を祈願したと云う。戦国時代、国内はもとより藩も疲弊し神社も荒廃していたが、藩主大内義興は朝鮮国国主に当宮修復の寄進を要請し、社殿等を修復した。

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当時朝鮮と交易していたとは言え海外に寄進を仰いだことは毛利氏が支配するようになっても能舞台を建立するなど八幡宮を保護した。

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江戸末期の文久3年(1863年)藩主は攘夷を祈願し、慶応3年(1867年)に困難は去ったとして剣馬を寄進された。このように亀山八幡宮は、累代藩主の崇敬と庇護が篤い八幡宮であった。また開国を迫る諸外国への危機感が高まり、長州藩は全国に先駆け外敵防衛策を取り、亀山八幡宮を始め、市内各地に砲台を築き攘夷戦に備えた。   

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砲台跡を見たのち、亀山八幡宮で参拝を済ませ、歩き始めるとすぐに日清講和記念館が見えた。日清戦争は朝鮮の情勢をめぐり、朝鮮半島の権益をめぐる争いが原因となって、日本と清国の間で、主に朝鮮半島と遼東半島・黄海で明治27(1894)に交戦し、明治28(1895)日本側の勝利とみなせる日清講和条約の調印によって終結した。すぐ近くに赤間神社がある。赤間神社は壇ノ浦の戦いにおいて、入水した安徳天皇を祀っている。

江戸時代まで安徳天皇御影堂といい、仏式により祀られていた。平家一門を祀る塚があることでも有名であり、前身の阿弥陀寺は「耳なし芳一」の舞台であったと云う。「耳なし芳一」は、古代の日本を舞台とした会談である。

262-77.jpg昔、読んだ本や映画を思い出した。さらに歩みを進めていくと、下関と北九州門司区を結ぶ関門橋(かんもんきょう)が目に入った。昭和48(1973)に開通した全長1,068mの吊り橋で、開通当時は東洋一の長さだったという。橋を通り過ぎると壇ノ浦の古戦場跡がある。この辺一帯は海岸と国道に挟まれた公園になっている。

262-88.jpg  壇ノ浦の戦いは、平安時代末期の1185324日に、長門国赤間関壇ノ浦を舞台としたこの戦いで、栄華を極めた平氏が滅亡した戦いで、源氏と平氏がおよそ6年に渡って争った。
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これによって源氏の棟梁「源頼朝」が鎌倉に幕府を開き、本格的な武家政権を確立した歴
史のターニングポイントになった。公園に足を踏み入れると、大きな「壇ノ浦古戦場跡」の石碑が置かれてあった。
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寿永四年(1185年)三月二十四日、平知盛を大将とした平家と、源義経率いる源氏がこの壇ノ浦を舞台に合戦をした。当初は平家が優勢であったが、潮の流れが西向きに変わり始めると源氏が勢いを盛り返し、平家は追い詰められ、最後を覚悟した知盛が、その旨を一門に伝えると、二位の尼は当時数え八歳の安徳天皇を抱いて入水し、知盛も後を追って海峡に身を投じ、平家一門は滅亡したと云う。

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さらに2~3分歩くと天保製長州砲の跡がある。幕末、関門海峡での6次にわたる攘夷戦は、元治元年(1864年)8月、長州藩兵と英・仏・蘭・米4カ国連合艦隊との交戦をもって終結したが、同時にこれは明治維新の具体的始動につながった。


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この歴史的事件で下関海岸砲台に装備された長州藩の青銅砲は、すべて戦利品として外国に運び去られ国内から姿を消してしまったが、1966年作家の古川薫氏によってパリの軍事博物館で発見され、当時の外務大臣阿部晋太郎氏の尽力により、1984年貸与の形で里帰りした。この機会に下関東ロータリークラブでは創立20周年記念事業として精密に模造して下関市に送ったという。

 国道9号線を先に進み山陽新幹線の橋脚を横切り、「平家の一杯水」を過ぎ前田の交差点を左折した。ここからが旧山陽道だ。この鬱蒼とした旧道は、今ではハイキングコースになっている。しばらく進むと空地の

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