シングルへの道(5) 

2011年の平均スコア88.5、2010年89.6、2009年88.2、と足踏み状態である。2010年よりは良くなっているが、2009年よりは悪くなっている。

 

シングルへの道(4)のブログでは、「原因を考えると練習量が少なかったことが一番だと思う。2009年は週一回の練習を行ったことが平均スコア88.2の結果が出たのだと思う。練習をしないと良い時と悪い時の差が大きすぎる。失敗すると自分のスイングに自身がなくなり、不安を持ったままスイングして失敗する。この繰り返しでスコアが伸びない。2009年は週一回の練習を欠かさなかったので、失敗しても自分のスイングに迷いはなかったことが、平均スコア88.2を達成できた要因だと思う。ゴルフは難しい。」と記した。

 

2011年は震災の復旧・復興で練習も出来なくなり、5~6月は震災の影響で納期遅れの挽回のため、忙しかった。7~9月は罰金を伴う節電で、サマータイムを導入し朝6時から出勤、エアコンは禁止、デマンドシステム監視装置の警報が鳴り出すと、現場の機械を順次止めていくルールを決めた。夜勤は従来から行っているので、節電にはならない。

 

ようやく9月からゴルフを行うことが出来た。この頃フォームがみだれてきた。練習場で自分のスイングをビデオで見ると、バックスイング時に右膝が流れてしまい、タメが作れなくなると同時にスイングの軌道がばらついてきた。自分がイメージしていたフォームとまるで違っていた。そこでレッスンプロに教えてもらうことにした。

 

私はゴルフの理論はまるで知らない。若いときに上手な人のフォームを真似していただけだった。はじめてプロに教わると自分のフォームがバラバラになってしまい、2~3年は安定しないと聞いていた。しかしこれ以上、我流ではシングルになれないと思い、月2回程度レッスンを受けることにした。

 

メンバーコースのハンディキャップは10である。9にするためには半年以内で3回アンダーを達成すれば良いと聞いた。1月4日の新年杯では81のスコアでアンダーを達成しているので、6月までに2回アンダーでプレーすれば良いことになる。

 

「強く思えば達成できる」と信じて頑張って行きたい。2012年再挑戦するゾ。

 

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リーマンショックから3年過ぎて(2)

ヵ月後、雇用調整助成金の申請を行い09年1月から3勤4休の勤務体制を敷き、9月まで継続した。月曜日は幹部のみ出勤し会議を行い、金曜日は完全に休んだ。我社の弱みである生産管理システムを強化するため、08年11月から09年2月の4ヶ月間工場長をチームリーダーに各部署から人員を引き抜き5名のプロジェクトチームを作って改善を進めた。

 

私の事業再構築の骨子は、受注は80%減、売上高は20%しかないが、世界の需要は50%減である。お客様の在庫調整が終われば、最低でも売上高は50%まで回復する。我社の経営を50%でも継続できる体質にすれば生き残ることが出来ると思った。

 

この間、取引先の金融機関に融資のお願いをするため、出来るだけの資料を用意してコミュニケーションを欠かさなかった。私は社長になった18年前から月に1回、各金融機関の支店に出向いてコミュニケーションを図ってきたが、リーマンショック後は金融機関に今回の米国発の不況は従来と異なると説明し、従来通りの融資を統制するため、3カ年計画を作成し背景を説明した。結果として4行が計画通り融資が実行され、1行が6ヶ月遅れて実行された。

 

金融庁のガイドラインで中小企業の格付け審査をするときに、劣後債は資本勘定で良いとの通達が出たので、2009年9月に日本政策金融公庫より劣後債を入れ、資本の増強に努めた。茨城県では協立製作所が第一号だった。劣後債を入れるときの審査は大変厳しかった。最初に事務方同士で徹底的に帳簿のチェックを行い、最後は私と後継者へのインタビューであった。約3時間、我社が何度か事業の業態を変えて行った時の考え方を多く聞かれた。大変熱心で創業のときから私が社長になってどのように事業に取り組んでいったか質問に対して丁寧に答えた。私の後に息子である後継者へのインタビューが始まった。事前のアドバイスは一切していなかった。

 

2009年9月頃予想通りお客様の在庫調整が終了し、受注が戻ってきた。2010年は急速に受注が回復したので、4月から約半年で130人増員し生産に対応していった。2011年 1月決算時の売上高は2007年度過去最高に迫る回復をした。まさにジェットコースターに乗っているような経営である。2011年2月新しい期を迎えてリーマンショックで痛んだ財務を回復させようとした時に、3月11日14時46分あの大震災が起こった。

 

リーマンショックから3年過ぎて(1)

リーマンショックから3年が過ぎた。今この3年間を改めて振り返ると苦しかったことがはるか昔のような気がするから不思議なものである。

 

2008年9月15日米国のリーマンブラザーズが倒産したことから大きな津波に襲われたような錯覚に陥った。私が幸運だったのは心の持ち方に準備期間があったように思う。過去に数度の不況に襲われたが、その度に順応しながら生き抜いてきた。かねてよりどんな苦境に陥っても健康で気力が充実し、幾多の体験と経験を積んできたことを考えると常に最悪の事態になっても逃げずに立ち向かえると思っていた。

 

米国のサブプライムローンの問題を知ったのは2005年12月頃だった。新聞にこの問題を取り上げ始めたのが2007年6月頃だったと思う。注意深く関心を持って見守っていた。そんな時2008年8月中国にある上海協立の総経理から8月の受注が半減したと報告があった。北京オリンピックの影響で8月は電力制限があり、例年より暑いので現場の作業者が体力を消耗するため、生産性が著しく低下してしまうので受注が減ってちょうど良いくらいにしか考えなかった。

 

しかし上海協立の受注は9月に入って回復するどころか低下した。おかしいと思って調査していくうちにリーマンショックが起こってしまった。日本の協立はこの時過去最高の受注で、 残業・土日出勤の連続だった。私は大きな恐怖感に襲われた。我社は数年の間に企業規模を 3倍規模に拡大し、大きな設備投資の連続だった。従って損益分岐点売上高が危険水域に近づいていたためだ。

 

恐怖感は資金繰りに行き詰まり倒産することが現実味を帯びてきたからだ。私は情報を収集し、一つの結論を出した。未曾有の不況が来る。私は知りえる限りの対策の骨子を幹部に提案した。10月の第1週の日だった。最初に役員報酬の60%削減、現場の3班2直4勤2休 体制を廃止し、1直体制に、社員の残業ゼロ、派遣社員130人の契約満了時継続不可、聖域を設けず経費のカット、消耗工具の棚卸による経費削減等々の計画を示した。

 

茨城県ホームページ

茨城県のホームページに支援事業として当社が紹介された。受賞理由が記されているので、ホームページの内容を紹介したい。

 

いばらき産業大賞表彰式開催
茨城県では,本県産業の発展を支え,地域経済の活性化に貢献している企業等を表彰するいばらき産業大賞の表彰式を県庁において実施しました。
式において,上月副知事から受賞者の皆様に表彰状と記念品が授与されました。
 (受賞者)
  大 賞:㈱協立製作所
  奨励賞:㈱三友製作所,
      NPO法人くらし協同館なかよし

132号ブログ写真①-1.jpg     後列左から宮田審査委員長、横山商工労働部長、守谷産業政策課長、                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  

     前列左から塚越様(くらし協同館なかよし)、高橋(協立製作所)、

     上月副知事、加藤木様(三友製作所)

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いばらき産業大賞受賞

7月7日茨城県県庁5階にある上月副知事応接室において、いばらき産業大賞の表彰式が行われ、私と総務部長が協立製作所を代表して出席した。受賞企業は大賞が㈱協立製作所、奨励賞が㈱三友製作所とNPO法人くらし協同館なかよしの三社である。

 

いばらき産業大賞の趣旨は本県産業の発展を支え、地域経済の活性化に対する貢献が顕著であると認められる県内の企業及び団体を顕彰することにより、受賞した企業・団体の更なる発展を支援すると共に、県内の企業・団体の活動意欲を高め、地域の核となる企業・団体として育成することを通じて、「産業大県づくり」を推進するとある。2回の予備審査を経て、いばらき産業大賞委員会(委員長:宮田武雄県立産業技術短期大学校学校長(前茨城大学学校長))の 審査により決定した。

 

当社の選定理由は「創業以来積み上げてきた精密技術を基に、建設機械などに使用される油圧機器及部品の一貫生産を行っている。原材料の切削、熱処理からミクロン単位の精度が要求される研削、組立、塗装、性能検査までを自社で実施している。また、国内工場で高精度の部品を生産するほか、上海で自社生産したユニット部品の一部を逆輸入することで、精度、コストの両面で競争力の高い製品を国内外に供給している。特にスプールのシェアーは、パワーショベル用機器の世界約4割に達している。県内においても大手建設機械メーカーへ部品納入している」とある。

 

私が大学三年のとき創業者の父に対して後を継ぐ条件として地方に工場を作れば、協立に入社すると言って、卒業後他社で2年間の修行をえて、東京から茨城工場に来たのが24歳のときだった。あれから37年自分の持てる力を100%出し続け、挑戦し続けた結果だと思う。これからも挑戦し続けたい。挑戦する意欲が無くなったときが引退の時期と定めて。

 

 

131号ブログ写真①.jpg 131号ブログ写真②.jpg 131号ブログ写真③.jpg

 中央左が私、中央右が上月副知事、右端が㈱三友製作所の加藤木社長、左端がNPO法人くらし共同館仲良しの塚越代表。 

節電について考える(3)

すぐ東電に確認したが、罰金については自分たちの範疇ではないので経産省に問い合わせしてほしいとのこと、経産省関東局に問い合わせたところ故意でなければとの 繰り返しで、当社としても故意に節電に協力しないということは無いが、昨年7月をベンチマークにすると仕事量が大幅に増えている現況では実質30%以上の節電になり遵守出来ない可能性が大きい。結果として冷房を犠牲にすることになり従業員に暑さの中での仕事を強いてしまい大きな負担になるといったが、個別に対応出来ないとのこと。当社は精密部品を作っているのでミクロン単位の精度が要求されている現場ではエアコンで一定の温度に室温を保っているが、他の製造現場は外気温が30度になると工場内は40度近くになる作業環境になってしまい、設備の故障率も上昇し生産が低下する可能性がある。

 

私がこのように発言すると協立の社長は自分のことしか考えていないとんでもない人だ、「東北3県の被害が分からないのか」「自分たちも自粛しないと」「皆で我慢しないと」と言う人がいる。しかし私は云いたい。メディアの茨城県に対する取り上げる頻度が少ないからと言って知らないだけでしょう。私たち茨城県にある会社も被災しているのですよ。幸い人的被害は無く一部工場の損傷ですんだが、生活の糧である300台超の生産設備が地震の影響で横ズレしたため、元に戻さないと生産できない。全社員一丸となり又各方面から延べ人数240人の方々の応援を得て、約10日で復旧した。必死だった。

 

そして日本ブランドの基幹部品を作っている我々が一刻も早く部品を供給しなければ、お客様に迷惑をかけてしまう。台頭している新興国に仕事が移ってしまう可能性もある。結果として雇用も守れないし、競争力のある製造業の衰退につながってしまうという強い懸念を持っているからだ。このような考え方で懸命に復旧作業を行った中小・中堅企業は多いと思う。もちろん他の業種にしても自社のためと言うより日本の衰退を心配して懸命に復旧・復興に尽力されている企業・個人が大勢いると思う。

 

なぜ浜岡原発を唐突に停止要請したのか、いくら停止する理由を読んでも合理性は見出せない。日本の国難と云うからには復旧・復興を第一優先にする。そうであるならば電気の供給は復旧・復興には欠かせない要因である。日本ブランドの基幹部品の生産が復旧し、経済活動が回復してから停止要請をしても良いのではないか。せめて涼しくなる10月からの停止に出来なかったのか。懸命に復旧・復興に努力している企業にこれ以上の苦しみを強いないでほしい。

 

節電について考える(2)

月4日からサマータイムを導入し、朝6時出勤15時を定時とした。合理的な理由がある場合は除外した。生産管理部門はお客様対応のため通常の8時出社、一部製造ラインはお客様の勤務体系に合わせて土・日曜日出勤し、月・火曜日を休日にした。 子供を保育園に連れて行くため6時出社が無理な場合は通常の8時にする等々臨機応変に対応することにした。時差出勤である。1直だけの製造ラインや消費電力の大きい真空炉や設備等は全て20時以降の夜勤に変更した。そしてデマンド監視装置の 警告がなり15%ラインになったら、停止する機械・エアコン等の順番を決めた。 もしこの体制でも15%節電が達成できなければ、次の節電方法は土・日曜日を出勤にし、最小の班単位でばらばらに平日の休日を決め、使用電力量を分散していく。

 

しかし私共の会社は昨年7月に較べて今期の7月は生産量が25%増加している。更に3年ぶりの設備投資が出来るようになり、3月の地震直前に4台、6月末4台の 新規設備を行った結果、4台約40kwの機械が8台、合計320kwが7月から順次稼働して行く。節電のベンチマークが対前年7月比15%である。生産量は対前年7月比で130%、新規設備機械で電力は20%増である。生産量と電力の使用量は比例するから、昨年7月比15%削減は、実際には30%以上の節電になってしまう。

 

なぜ経済産業省・東電は対前年同月比をベンチマークにしたのか分からない。リーマンショック後の傷が治り始めこれから元気になっていくときなのに。長い不況の中でも頑張っている企業が多数あるのだから、昨年7~9月の平均をベンチマークにするのではなく、震災直前の3ヶ月とか6ヶ月平均をベンチマークにし、節電していくという現実に即した解決方法を取れなかったのだろうか。節電のルールにしても5月の発表と6月の発表で大きく違うのは罰金と報道の量にある。5月発表はテレビ・新聞が大きく取り上げ、守れない場合には月当たり100万円の罰金が課されると報じられた。しかしいつの段階かはっきりしないが6月中旬に経産省のホームページでたまたま見つけたQ&Aで、故意に守れなかった場合は罰金を除外するが、1時間に付100万円の罰金が課されると明記してあった。

 

節電について考える(1)

電力不足による節電が7月1日から始まった。大変厳しいと言わざるを得ない。  昨年、7月の電気使用量を基準に15%削減すると発表され、対策を議論してきた。当初、新聞・テレビで報道されていた内容は500kw以上を大口需要家とし15% 削減、オーバーした場合は月額100万円の罰金を課すとのことだった。当社は契約電力が2ヵ所になっていて第一工場は800kw、第二工場が1,040kwと成っている。第一工場は昨年9月に契約電力を増やしたので、7月を基準にすると15%削減は646kw、第二工場は884kw、合算で1,530kwが15%削減の数値になる。5月末に約100万円の費用をかけてデマンド監視システムを導入し、6月初めから1ヶ月デマンド監視を行ってきた。朝10時頃から第一工場は20%ラインの 警報が鳴り始め、30度を越えると夜7時頃まで、警報が鳴っている状態が続いた。

 

工場の勤務体系は3班2直の4勤2休体制を取っている。つまり作業者は4日働いて2日休み、次の4日は夜勤で働いて2日休み、その次の4日は昼勤で働くという仕組みで、常に工場は24時間30日稼働している。なぜこのような勤務体制にするかと云うと高額な設備投資を押さえ、設備投資効率・工場面積効率を上げていかないと経営が困難になるからである。国内企業や韓国・中国との競争が背景にあるのは云うまでもない。

 

6月中旬、総務部長が経済産業省のホームページのQ&Aを見て、罰金は故意によるものは除外されるが、1時間1回に付100万円と記されていると報告が有った。「故意」の内容が定義されていないので、解釈の違いが起こるのは当然だ。我々は故意になどオーバーさせるつもりは無いが、後に解釈の違いをめぐって争っても定義があいまいな以上相手が経産省では勝ち目がない。従って大いに不満はあるが、対応せざるを得なくなる。1時間に付100万円の罰金というのは30(720時間)稼働している我々にとって会社の業績を大きく左右する。ようやくリーマンショックの傷が癒え始めた矢先に、多額の罰金を払うか工場の稼働を低下させお客様の製造ラインを止めて迷惑をかけ取引停止になるリスクを犯すかである。このことが大きなプレッシャーになってきた。

 

茨城経協11-5月号 トップインタビュー(8)

体を鍛え、夢を追う

坂寄 休日はどんなことをして過ごしますか。

高橋 ゴルフとジョギング、マラソンですね。週一のジョギングは5キロから10キロ、これはゴルフを続けるための基礎体力作りです。ゴルフはなんとか今年中にシングルになりたい。去年12月までにシングル入りを果たしたかったのですが、果たすことが出来ませんでした。シングルプレーアーになって、シニアゴルファーになるのが次の夢です。

坂寄 HPを拝見しますとフルマラソンに挑戦したそうですね。

高橋 去年初めてホノルルマラソンに出ました。

時間半でゴールしました。制限時間がないので、ピクニック気分で楽しく走れます。ここでは5歳刻みの年齢ごとに到着順位が示されて、95~100歳という枠もありました。アメリカ人で腰が90度に曲った人が走っていましたよ。走っている格好は、ほとんど歩きでしたね。3万人参加するホノルルマラソンで半分ぐらいが日本人と言われますので、平均旅費がいくらで、どのくらい経済効果があるものやら。東京マラソンは制限時間が7時間ですよね。1日ぐらい東京停めたってかまわないから、制限時間をなくしたらどうかとか、今年は申し込んだのですが抽選で外れましたので、10万円払って走るチャリティーランナーをもっと増やすために、7万円にして基金を増やしたらとか、外国人枠を10,000人とかに増やして出場人数を

35,000人から倍にして東京を活性化したらどうかとか、苦しかった30㎞付近から、いろいろ愚考を広げ、楽しんでゴールしました。

坂寄 忙しい社長業を退任したらどうなさいますか。

高橋 女房とは唯一趣味が合って楽しめる海外旅行にでかけたいものです。若いころからほとんど家を留守にしていましたので、その穴埋めに頑張らないとね。息子は31歳になりますが、最初から生産技術部に入れました。若いうちに技術技能をしっかりと身につけて、一人前の生産技術者になってから営業を経験させようと思っています。これからは次の世代の後継者育成にも力を入れていきたいですね。

坂寄 巨大地震の後でご多忙のところ、貴重なお話を拝聴しました。ご活躍とご発展をお祈りいたします。ありがとうございました。   

 

 

茨城経協11-5月号 トップインタビュー(7)

中国進出の意味

坂寄 上海への工場進出も大きな決断だったのではないでしょうか。

高橋 結果的には成り行きだったのですが、1991年に上海協立機械部件有限公司を立ち上げました。この6月で創立20周年になります。私が月に1回4~5日行って指導してきましたが、日本人スタッフは1人も派遣していません。パートナーの上海人はもともと協立製作所茨城工場に2年半勤めていた人です。

坂寄 どんな経緯で中国進出を決めたのですか。

高橋 バブル全盛の頃で業容拡大が続き、本工場の増築を検討していました。ところが土地の用途変更があり、増築を認めてくれませんでした。茨城へ工場進出して7~8年後に市街化調整区域に指定されていたのです。ある人の知恵で当地選出の県会議員の力を借りて町や県へ何度も陳情に出かけ、ようやく確認申請が出たときは2年半が経過していました。バブルがはじけた直後で山形県や岩手県への進出も考えましたが、どうせリスクを冒すならいっそうのこと中国へ行こうと決めたわけです。

坂寄 上海協立社は順調だったのですか。

高橋 会社は小さいのですが、日系の油圧機器メーカーとしてしっかりした技術を持ち、売上の50%を油圧機器で占めます。中国国内はもとよりフランス、スペイン、オランダの会社と取引しています。現在従業員は私を入れて28人です。ピーク時は60人もいましたが、数年後に危惧される中国経済の鈍化傾向を見越して拡大基調を抑えています。少数精鋭の今の方が60人時代より売上も利益も多いですね。中国には外注工場が非常に少ないので、農村部で工場経営を行いたい人に経営のやり方と機械設備の導入方法や加工方法を教えて、100%仕事を発注しています。付加価値の低い粗引き加工は外注工場に出し、精度の高い仕上げ加工だけを社内で行っています。

坂寄 中国への進出は順風満帆と言えますね

高橋 「小さく生んで大きく育てる」を基本に活動してきました。最初、上海協立で製造した部品は100%日本の協立に輸出していましたが、設備償却が大きいため、設立後8年間は赤字でした。転機は1998年の日本の金融危機でした。日本の協立が不況で仕事を発注できなくなり、協立以外のお客様の開拓を始めました。日系や米国の油機メーカー、近年ではヨーロッパのメーカーとも取引を拡大し、業績が拡大してきました。20年間操業を続けられ、利益も出てきたことは成功といえます。しかし一番の成功といえるのは私自身への教育です。文化の違う外国で、一人で考え行動して来た事が、困難なことにぶつかっても自分自身で切り開く行動と考え方がより身についたと思います。2月に上海に行き、2031年までの営業許可の延長申請が受理されました。これからが成功といえるように頑張って行きたいと思っています。

 

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