1月26日(日)初めての冬の東京マラソンに不安を感じながら、新宿駅に朝7時15分に到着した。曇り気温5度、トップランナーには良い天気だが、私にとっては気温が低すぎる。1月の練習の時、気温が5℃~8℃の環境で20㎞走った。最初3㎞位で汗が出始めるが、10㎞ 過ぎた頃、だんだん寒くなってくる。練習後風呂に入り、体を温めても風邪を引いた症状が出てしまう。不安が襲う。
早めに荷物を預け、7時30分スタート地点に到着。足踏みをしながら、待っていたが、とにかく寒い。9時10分スタートが告げられたが、なかなか動かない。スタートゲートを通過するのに約20分以上かかったが、出だしは快調。最初は長い下り坂が続くので、飛ばし過ぎないように、体を温める程度にと言い聞かせながら走った。しかしスタートまで2時間近く待っていたため、寒く体が冷えてきたこともあって、尿意を感じてきた。やむを得ず4km地点の トイレに入った。長い行列が出来ていたが、先は長いと思い列に並んだ。スタートするまで15分掛かってしまったが、体調は良好。
5km地点の飯田橋交差点を右折し、西神田を回ると、皇居が見えてきた。日比谷の交差点を右に曲がると、日比谷通りに入り、12キロ付近となる東京タワーや増上寺を通過し、折り返し地点の品川駅を南下していき、Uターンした。このままのペースを維持しようと言い聞かせながら、1キロ当たり6.5分のペースで走った。調子はいい。
しかし、17キロ付近で右膝外側に違和感を覚えてきた。2月に20キロの練習した時、 15キロ付近で右膝に違和感を覚えたので、練習を一時中断した経緯があった。膝の痛みの再発を心配しながら、少しペースを落とすことにした。銀座四丁目交差点を左折し、給水所で水とチョコレートパンでエネルギーを補給した。日本橋、水天宮、浅草へと足を進めていった。多くの応援の人がいて、元気をもらった。しかしこの頃になると右膝の痛みが激しくなってきたが、我慢できる範囲と言い聞かせながらの走りとなった。東京スカイツリーが見えてきた。
コースは28キロ地点で2回目の折り返しとなる浅草・雷門を通り抜けた。ものすごい大観衆である。大観衆の前を走っていくのは、気持ちが高揚して膝の痛みを忘れさせる程の効果があった。東京下町の名所では多くのイベントが開催されて、ランナー達を元気づけていた。
2011年の平均スコア88.5、2010年89.6、2009年88.2、と足踏み状態である。2010年よりは良くなっているが、2009年よりは悪くなっている。
シングルへの道(4)のブログでは、「原因を考えると練習量が少なかったことが一番だと思う。2009年は週一回の練習を行ったことが平均スコア88.2の結果が出たのだと思う。練習をしないと良い時と悪い時の差が大きすぎる。失敗すると自分のスイングに自身がなくなり、不安を持ったままスイングして失敗する。この繰り返しでスコアが伸びない。2009年は週一回の練習を欠かさなかったので、失敗しても自分のスイングに迷いはなかったことが、平均スコア88.2を達成できた要因だと思う。ゴルフは難しい。」と記した。
2011年は震災の復旧・復興で練習も出来なくなり、5~6月は震災の影響で納期遅れの挽回のため、忙しかった。7~9月は罰金を伴う節電で、サマータイムを導入し朝6時から出勤、エアコンは禁止、デマンドシステム監視装置の警報が鳴り出すと、現場の機械を順次止めていくルールを決めた。夜勤は従来から行っているので、節電にはならない。
ようやく9月からゴルフを行うことが出来た。この頃フォームがみだれてきた。練習場で自分のスイングをビデオで見ると、バックスイング時に右膝が流れてしまい、タメが作れなくなると同時にスイングの軌道がばらついてきた。自分がイメージしていたフォームとまるで違っていた。そこでレッスンプロに教えてもらうことにした。
私はゴルフの理論はまるで知らない。若いときに上手な人のフォームを真似していただけだった。はじめてプロに教わると自分のフォームがバラバラになってしまい、2~3年は安定しないと聞いていた。しかしこれ以上、我流ではシングルになれないと思い、月2回程度レッスンを受けることにした。
メンバーコースのハンディキャップは10である。9にするためには半年以内で3回アンダーを達成すれば良いと聞いた。1月4日の新年杯では81のスコアでアンダーを達成しているので、6月までに2回アンダーでプレーすれば良いことになる。
「強く思えば達成できる」と信じて頑張って行きたい。2012年再挑戦するゾ。
昨年の中国研修のブログが抜けていた。時期は過ぎてしまったが、載せることにした。主要顧客であるK社様の協力会の海外研修会(2010年9/12~9/16)が中国で行われ、現在世界で一番元気のある中国の建機メーカー・油機メーカーを見学した。中国は難しい国と言われているが、我々の会社にとっては避けて通れない市場である。我社の進むべき方向性を考える重要な機会を提供していただいたお客様に感謝したい。
私は上海での仕事を済ませるために、視察団より1日早い9月11日に上海に入った。翌日の12日集合場所であるレストラン「阿一海鮮」に出向きました。「阿一海鮮」は上海人の誰もが知っている老舗のレストランで、上海でもおしゃれな店が立ち並んでいる准海路にあり、私は現地法人「上海協立」の総経理に送ってもらった。渋滞を考えて一時間前に「阿一海鮮」を訪れましたが、視察団は予定より2時間近く到着が遅れたため、結果的に3時間店で待つことになってしまった。私が中国上海を最初に訪問したのは1989年です。21年も訪問していると交通事情などで時間に遅れたことが何度もありましたので、中国出張の時は待ち時間をつぶすためにいつも2~3冊の本をカバンに入れておきます。このときもロビーで本を読んでいると店員が気を遣ってお茶を持ってきてくれました。昔の上海ではこのようなサービスは考えられないことだった。
さて翌13日私が最も楽しみにしていたのは国内最大手重機メーカーの工場見学会です。私がこの重機メーカーを知ったのは5年ほど前からでローカルの油圧ショベルメーカーで販売シェアーに名前が載ってきた頃で、直近の油圧ショベルのシェアーは10%に迫る勢いとのこと。総経理のお話は油圧ショベルの生産を毎年倍々に増やしていき、長期展望では世界NO1の油圧ショベルメーカーを目指し、その為人・物・金を積極的に投資し、海外展開も積極的に行うと自信を持ってプレゼンしていた。K社殿の油圧機器を高く評価される一方で自社の発展のスピードに付いてこられないメーカーはバッサリと切り捨てる。あの自身に満ちた発言の根拠の裏づけがどこから来ているのか一度じっくり聞いてみたいとおもった。
我々の会社は高度成長時代から第一次オイルショック、第二次オイルショックを経験し、低成長時代に突入した。その後1985年前のプラザ合意により円高が容認され、輸出を継続するため徹底した原価低減の時代に入って行った。円高を乗り越え、つかの間のバブル経済に入ったが、1990年バブルの崩壊、1998年の不良債権に端を発した金融危機、ITバブルの崩壊、そして2008年のリーマンショックと幾多の障害を乗り越えて、今日の企業があることを思うとき、あの自信がうらやましくもあり、危うさも感じられた。中国と20年前から関わってきた私としては、しばらく中国の経済は成長が続くと思うが、注意深く、慎重にそして時には大胆に関わって行きたいと思う。
『三一重機昆山』
20世紀の中国、毛沢東が発動した文化大革命においては別の意味で孔子が重要な存在となった。毛沢東とその部下達は批林批孔運動という孔子と林彪を結びつけて批判する運動を展開。孔子は封建主義を広めた中国史の悪人とされ、林彪はその教えを現代に復古させようと言う現代の悪人であるとされた。しかし現代中国では林彪の再評価の動きがあり、もちろん孔子の評価はゆるぎない。現在孔子の子孫は直系以外も合わせ400万人いると云われ、孔子の町として観光地化しているところもある。
現代でも孔子の教えは確実に我々の思想と行動の規範になっている。日本で広く知られている仁・義・礼・智・信のキーワードは、孔子が説いた儒教にある。『仁』とは施しの心、優しさ、愛である。
『義』義とは人助けの心、義侠心である。
『礼』礼とは礼儀、礼節の心である。
『智』智とは正悪を真に理解できる知恵である。
『信』信とは信頼されるような人になることである。
人は『仁義礼知信』の五つの徳を養わなければならない。これを五常の徳といい、言葉と行動が一致すること。人を欺かないこと、嘘をつかないこととされている。この五常の徳が今の普通道徳の基礎と成っている部分とのことです。
孔子のほんの一部を記してきたが、論語をもう一度読んでみたいと思った。
上野の湯島天神に湯島聖堂孔子廟(大成殿)として祭られている。湯島天神のホームページから写真を拝借した。
寛政2年(1790)、武士の学問を重視した老中松平定信は、儒学のなかで朱子学を正学とし、他の学派を異学とする寛政異学の禁を定めて、朱子学の振興をはかった。柴野栗山・岡田寒泉ら林家の系統以外の学者を教官に登用し、寛政9年(1797)には聖堂西隣の学寮・宿舎を建てるなど、施設の整備拡充をはかり、幕府の正式の学校とした。やがて昌平坂学問所と名づけられ、直参の弟子のほか、諸藩の俊才が青雲の志を抱いて集まる最高の学府となった。
日本では孔子様として昔から広く知られ敬われている。私は孔子のことは良く知らかったので調べてみた。
孔子は約2600年前に、山東省曲阜市で生まれる。卑賎階級の巫女の子として生まれたとの異説もあるが、孔子自身は論語で「貧しくて賎」と語っていると云う。幼くして両親を失い、孤児として育ちながらも苦学して成長していった。身長は216cmの長身で「長人」と呼ばれたという。52歳のとき魯の定公によって中都の宰相に取り立てられたが、後に国政に失望して弟子とともに諸国巡遊の旅に出た。しかし孔子を受け容れる国は無く、69歳の時に魯に帰国した。その後は弟子の育成に専念し、73歳で没したと云う。
孔子の人生の大部分は無冠の一学者に過ぎなかったが、漢代の史家司馬遷の『史記』では、その功績を王に値すると評価したそうである。
孔子の思想は仁(人間愛)と礼(規範)に基づく理想社会の実現である。それをまとめたものが論語である。孔子はそれまで原始儒教を体系化し、一つ道徳・思想に昇華させた。その根本義は「仁」であり、仁が様々な場面において貫徹されることにより、道徳が保たれると説いた。しかしその根底には中国伝統の祖先崇拝があるため、儒教は仁という人道の側面と礼という家父長制を軸とする身分制度の双方を持つにいたった。
孔子は自らの思想を国政の場で実践することを望んだが、ほとんどその機会に恵まれなかった。孔子の唱える、体制への批判を主とする意見は、支配者が交代する度に聞き入れられなくなり、晩年はその都度失望して支配者の元を去ることを繰り返した。それどころか、孔子の思想通り、最愛の弟子の顔回は赤貧を貫いて死に、理解者である弟子の子路は謀反の際に主君を守って惨殺され、すっかり失望した孔子は不遇の末路を迎えたと云う。
孔子の死後、孟子・荀子といった後継者を出したが、戦国から漢初期にかけてはあまり勢力が振るわなかった。しかし前漢・後漢を通じた中で徐々に勢力を伸ばしていき、国教化された。以後、時代により高下はあるものの儒教は中国思想の根幹たる存在となった。