東海道五十三次旅日記
5時起床、6時に朝食を取り、7時に出発。3日間はハードな日程を組んでいたので、4日目は余裕を持った日程を組んだ。予定は7時出発、由比宿の割烹旅館西山まで、35km。到着予定時間午後3時を頭に入れて、出発した。足の調子は痛みもなく快調であった。しかしナビを使ってホテルから国道1号線に出る予定が、30分程歩いても国道に出ない。そのうち住宅街に入ってしまい、迷子の状態になった。犬の散歩をしていた人がいたので、道を聞いた。ナビより分かりやすい。20分もするとようやく国道1号線に出た。自分の現在位置がはっきり分かったので、ナビと古地図を見ながら、沼津一里塚跡を目標に仕切り直しした。道が明確になり、足の進みが早く感じる。昨夜の善整骨院の治療の効果だろうか。更に沼津宿を通り過ぎ、左手に駿河湾、右手に富士山という位置取りであるが曇っているので富士山を見ることが出来なかった。原宿を通り過ぎ、東海道本線の吉原駅手前の踏切を渡り、河合橋を渡ると、東海道新幹線のガード下が見えた。吉原宿の目印である錦町北の交差点を左折し、高島交差点、富安橋を過ぎて、富士総合庁舎に向かった。その後道なりに富士川の富士川橋に向かい橋たもとの水神社に着いた。
この辺りは一番下流の渡船場で、富士川は船運により甲信地方と東海道を結ぶ経済的大動脈でもあった。富士川橋を渡り、間の宿岩淵にある小休本陣常盤邸を取り過ぎた。間の宿とは宿泊が許可されていないので、大名などの休憩施設は小休本陣とか茶屋本陣と呼ばれていた。間の宿は幕府の駅制下では、基本的に宿場以外での宿泊は禁止されていた。しかし宿場間の距離が長い場合や、峠越えなどの難路の場合、宿場間に休憩用の「宿」が置かれ「間の宿」と呼ばれていた。
3日目(4/27)火曜日 小田原宿出発
4時モーニングコールで目が覚めた。こんなに寝たのは久しぶりだ。疲労は回復した。いよいよ東海道五十三次の最大の難所箱根越えだ。計画段階で箱根を越えて、一気に三島に行くか、箱根で一泊するか悩んだ。これによって全体の日程が狂ってしまう。事前に46km走を6回実施し、自信はついてきたが、毎日ではないので、少し不安だが、体も足の調子も良い。小田原から箱根峠まで19㎞、相当に気合を入れて5時に出発した。三枚橋まで5.3㎞は緩やかな登り坂であるが順調に進んだ。三枚橋を右手に進むと箱根湯本駅があるが、左手に進む。県道沿いの箱根郷土資料館や早雲寺近辺の道はカーブが多く、歩道も狭いので、注意して歩いた。しばらくすると「旧街道入口案内板」があり、旧街道の観音坂は舗装もしてあるので、歩きやすかった。
道入口・割り石坂あたりになると、小さな木橋をいくつか渡り、往時の石畳みが良く残っている大澤坂を上って行った。この辺りは湿気が多く石に苔がついて、滑りやすい坂だ。足元を良く見て歩かないと捻挫する可能性がある。一人旅なので、怪我でもすると大変なことになると思い、手ごろな枯れた木を見つけ、枝を払って杖代わりにした。杖があるとバランス良く歩けるようになった。一歩一歩足を前に進め畑宿一里塚あ
「江戸幕府は元和四年(1618年)十六夜記でも知られる旧来の湯本から湯坂山-鷹ノ巣山-芦ノ湯を経て、元箱根に至る湯坂道を廃し、湯本の三枚橋から須雲川沿いに畑宿を通り、二子山の南側を経て、元箱根に至る古い山路をひろげ世に箱根の八里越えと伝えられる街道を作った」とある。
茨城産業人クラブの事務局がメールで小田原駅近くのステーキ店を紹介してくれたが、この時は、歩くのが嫌でホテル近くで、夕食を取った。海鮮丼を注文し、ご飯は半分残して、お茶漬け風にして食した。コンビニで翌日の朝食を買い、部屋に戻り、翌日の箱根越えの道順を確認し、すぐ出発できるようにリュックの中を整理し、準備万端にしてから風呂に入った。近年これほどの疲れは経験したことがない。普段なかなか寝付けないが、このときはすぐに熟睡した。