山陽道・西国街道旅日記 十四日目(P77~78/P89)

293-1.jpgのサムネール画像です。今現在残っているには、塔身と一石彫成の請花・宝珠だけで、火輪と地輪を欠かしているのが惜しまれます。塔身は、高さ58.5センチ、請花は高さ21センチ、宝珠の高さは39.4センチありますが、本来の完全な形であれば、総高230センチもある、大形塔です。」とある。石碑には平安時代の有名な歌人で和泉守橘道貞に嫁いだことから、この名前がつけられた。道貞と離別後、藤原保昌と再婚し、保昌が摂津国河辺郡平井(現宝塚市)の人であったことから、この地に供養塔が立てられたとのこと。293-2.jpg和泉式部の墓や供養塔を伝える石塔は各地にあるが、これは女性の遊行聖(ゆうぎょうひじり)が和泉式部の名で各地を回り、信仰を広めたことに由来するものと考えられるとのこと。式部の歌の中で、伊丹に関係のある和歌は「津の国 こや(昆陽)とも人を いふへきに ひまこそなけれ 芦の八重葺」と歌われたただ一首とのこと。泉式部の墓を後にして、西国街道に戻った。
10分程でJR宝塚線を渡って、T字路にぶつかる。左に曲がると北伊丹東有岡線にでて、川沿いを行くと171号線にでて、右に曲がり猪名川の軍行橋を渡った。293-3.jpg京都・茨木の標識が目に入り、ゴールの京都に近づいている実感がわいてきた。そのまま進んで行くと突き当りになり、左に曲がって、2号線を渡り、新開橋の信号を右に曲がり、箕面川の橋を渡った。道なりに行くと西国街道に出た。そのまま進み中国縦貫自動車道の高架下を通ってすぐに左に曲がると、西国街道に出た。この辺りの西国街道は分り難い。池田市住吉2丁目の交差点を真直ぐ進み、阪急宝塚本戦の踏切を渡ると、すぐ左側に旧石橋村の高札場跡と道標があった。道なりに進むと石橋阪大下の五差路を斜め右に進んだ。

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この右手の方に大阪大学がある。そのまま進み、171号線を横断して箕面川手前の十字路を右に曲がり、5分程で阪急箕野線桜井駅に着いた。桜井駅を右手に見て進み、171号線に合  流したころ、お昼を過ぎていたので、街道沿いのそば屋に入り、ざるそばを食べ、30分程休憩した。

蕎麦屋を出て171号線を進んだが、途中で西国街道に出るのを間違えてしまった。戻るのも面倒なのでそのまま171号線を進んだ。歩道を歩く人はあまりいないが、前方から自転車を引いて歩いて来る男の人がいた。すれ違いざまに「えろー、焼けてまんな」と声をかけてきた。一瞬、意味が分からなかったが、私の顔が異常に日焼けして真っ黒なことを言っていると分かったので、「下関から旧道を歩いて14日目です」と答えると、「げぇ」と声を上げた。

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簡単に下関から京都まで歩いていることを説明した。「いくつになりまんね」と言われたので、73歳だと答えた。「げぇ」と、また驚いた顔をした。私と同じ位の年齢だと思ったので、「お宅さんはおいくつですか」と聞いたら、「とてもとても」と言って別れた。どうやら私よりもだいぶ下で60代半ばのようだ。程なく、菅野三平旧邸の案内板が見えた。途中、「芝村の高札場跡」の案内板があった。それによると「江戸時代、幕府や領主からだされたお触れを掲示する場所で、旧西国街道が通っており、人通りが多いところで、また一里塚あったことが古地図記されている」と記されていた。すぐ近くに菅野三平旧邸がある。今回の旅で菅野三平ことは全く知識がなかった。
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大橋さんが作ってくれた絵地図に西国街道のチェックポイントとして、行程表に入れたに過ぎなかった。記念館

山陽道・西国街道旅日記 十四日目(P75~76/P89)

292-1.jpg戎開門神事福男選び」が正月に行われ、毎年テレビで報道されている。西宮神社の境内に入った時、この福男選びがここで行われていることに、初めて気が付いた。西宮神社を後にして、絵地図に載っている西国街道の甲武橋に向った。193号線を行き、西宮駅を右手に見て、通り過ぎ、産所町の信号を右折し2号線にでて、程なく札場筋の信号を左折し、171号線に出る。阪急神戸線を突っ切り、道なりに進むと、左側に西宮市立中央体育館・陸上競技場が見える。御手洗川橋手前を左折すると西国街道だ。


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川沿いをしばらく進むと小さな広田橋を渡り、左に曲がりすぐ右に曲がる。この辺りの西国街道は分り難い。津門川の橋を渡り、川沿いに進んで行くと、阪急今津線の門戸厄神駅(もんどやくじん) を右手に見て、踏切を横断する。ほぼ道なりに進み171号線に合流し、武庫川の甲武橋に到着したのは850分だった。橋を渡り終え、川沿いに旧道を左に曲がり、狭い歩道を進んで行くと「西国街道・髭の渡し」があった。説明板によると「江戸時代に武庫川を越える西国街道のし場があった。


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街道沿いの西昆陽(にしごや)村に髭を生やした老人が営む茶屋があったことから「髭の渡し」と名付けられた。参勤交代の大名や往来の旅人など数多くの人々に利用されてきたこの渡しは、明治の終わりに下流に甲武橋が架けられ、西国街道の新道(現国道171号線)が出来るまで続いた」とのこと。更に1キロ進むと左側に「師直塚」の石碑が目に入った。高師直は南北朝時代の武将で,このあたりで戦死したと云われている。南北朝時代の観応2年(1351年)2,幕府の将軍足利尊氏(あしかがたかうじ)と執事の高師直(こうのもろなお)は,尊氏の弟直義(ただよし)と打出浜(芦屋市)の戦いで敗れた。


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師直・師泰父子は京都へ帰る途中、武庫川を過ぎたあたりで敵方に襲われ討たれたと云われている。場所はよくわからないが、江戸時代の山田村にはすでに高師直塚があり、文化3年(1806)年完成の「山崎通分間延絵図」にも塚地が西国街道北側に描かれている。大正4年(1915)になって村の人々が石碑を建てたが,その後場所が転々とかわって現在地に移ったとのこと。師直塚から10分位で昆陽寺(こやてら)に着いた。


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昆陽寺は天正5年(733)僧行基の開創と伝えられている。その後、天正7(1579)織田信長の兵火にかかって、一山の堂塔を消失したという。山門は、旧西国街道に面して立っている。層周囲に縁をめぐらし、細部に見る絵様繰形の形式手法は江戸中期のもので、豪壮な山門は県かでも類例がなく貴重な構造であると云われている。次に向うのは「伝和泉式部の墓」まで、約3㎞の道のりだ。歩き始めて程なく、「西国街道の碑西天社前」」の信号を斜め右に曲がり、旧西国街道に入る。少し進むと「西国街道昆陽宿跡碑」の説明板が設置されてあった。

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更に進んで行くと、稲野小学校前の道標が立っていた。道標の詳しい事は分からなかった。伊丹警察署前の信号を通り過ぎると、「西国街道の碑」があった。碑には江戸時代には大名行列をはじめ商人や巡礼などが行き交い、俳人の松尾芭蕉や地理学者の伊能忠敬らもこの道を通ったと記されてあった。

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また碑には宿場町が西宮、昆陽、瀬川、郡山、芥川、山崎、京都までの道中筋宿場一覧表が記されてあった。少し先に伊丹坂の地蔵尊が在る所を斜め右方向に行くと、伝泉式部の墓に到着した。墓の周囲は一般の民家の駐車場らしきところであるが、ホームページでは「和泉式部の墓は、旧西国街道の伊丹坂に臨む崖上の小堂内にある、高さが152センチ程の花崗岩製の美しい五輪塔


山陽道・西国街道旅日記 十四日目(P73~74/P89)

十四日目 4月28日 金曜日

 291-1.jpg4時起床。天気予報は曇り、気温は14℃から22℃だ。足の調子は良い。今回の計画段階で、ここ神戸からどこまで行けばよいか、一番悩んだ。郡山宿までの約40㎞の距離が一番良いのだが、近くにホテルがない。手前の桜井駅近くでもホテルを見つけることが出来なかった。やむを得ず、高槻駅近くのホテルに宿泊することにした。問題は高槻駅近くのホテルまで約50㎞の距離だ。およそ12時間の行程になる。史蹟・旧跡を見学すると1314時間を要する。朝5時に出発しても到着は午後6時過ぎだ。いろいろなルートを探したが、三ノ宮駅から芦屋駅までの区間を電車で行き、芦屋駅から高槻のホテルまで約37㎞を行くことに決めた。

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ホテルを550分に出発して、昨日行くことが出来なかった海軍操練所跡に向い、6時に到着した。海軍操練所跡は現在の中央区新港町にあり、錨(いかり)の形をした記念碑が建っている。神戸海軍操練所は、「明治維新の中心人物として幕末の志士たちに大きな影響を与えた勝海舟は、神戸を拠点に壮大な構想を実現させようとしました。海軍操練所跡は現在の中央区新港町にあり、錨(いかり)の形をした記念碑が建っている。

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神戸海軍操練所は、「明治維新の中心人物として幕末の志士たちに大きな影響を与えた勝海舟は、神戸を拠点に壮大な構想を実現させようとしました。操練所の開所期間は非常に短かったものの、その間に坂本龍馬、陸奥宗光など新しい時代を担う人々を育て、日本の海軍の歴史にも大きな足跡を残した。」とのこと。

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すぐ近くに神戸の発展に寄与した網谷吉兵衛の顕彰碑が建てられていた。碑には「72歳にして安永新田に船蓼(ふなだて)(舟底の貝殻や舟虫などを焼く場所)の建造に着手、苦節三年大願成就する。1863年時の将軍家茂公が小野浜に上陸の際『この地は港に最適でございます』と進言し、後年この船蓼場は勝海舟の幕府海軍操練所となって、神戸港の夜明けを迎え、今日の繁栄の基礎となる。

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明治293日天寿八十戸歳」と記されてあった。三ノ宮駅発625分電車に乗り、芦屋駅に633分に到着、ここからが高槻に向けての第一歩が始まる。最初の訪問地は西宮神社まで約3㎞、途中、西国街道(171号線、国道2号線)に出て、着いたのは715分頃だった。西宮神社(にしのみやじんじゃ)は、兵庫県西宮市社家町にある神社で、全国に約3,500社あるえびす神社の総本社であり、地元では「西宮のえべっさん」と呼ばれているという。


291-6.jpg第一殿はえびす大神、第二殿は天照大神(あまてらすおおみかみ)、第二殿(治初年に配祀)は大国主神(おおくにぬしのかみ)、第三殿は須佐之男大神(スサノオ)を祀っているという。また福男選びでは、110日午前4時から「十日えびす大祭」が執り行われ、午前6時に終わると同時に表大門が開かれ、参拝者が本殿までの230mを「走り参り」して、先着の3人が福男と認定される恒例の「十日            

山陽道・西国街道旅日記 十三日目(P71~72/P89)

290-1.jpgの片隅に「旧西国街道」の石碑と「旧西国街道~大路(おおみち)~」の案内板があった。中央幹線を挟んで南北両側に「大路通」という町名があり、この町名の由来は西国街道だと云われている。街道は、時代とともにその役割を変化させてきた。古代(律令時代)には街道の重要度や利用頻度などから大路・中路・小路に分けられ、そのうち山陽道は唯一の「大路」とのこと。その後、中世(鎌倉・室町)時代には公定のルートとしての山陽道は存在しないが、近世(江戸時代)に入ると、江戸幕府は参勤交代のために五街道と脇街道を整備した。西国街道は脇街道の一つで、西国大名の参勤交替に使われたとのこと。

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阪神高速3号神戸線の高架下を通り、妙法寺川に架かる三の井橋を渡り、進むと「蓮池の池跡碑」が目に入った。国の史跡に指定されている蓮ヶ池横穴群一帯を整備した公園の中にあり、18㎡の園内に厩舎、鍛冶屋、横穴群集墓などを再現している。西代蓮池公園にある整備された監物太郎頼賢の碑に向った。監物太郎頼賢は、平家の大将・平知盛の家臣であった。一ノ谷の合戦の際、平家の主力である知盛の軍勢は生田の森に陣取って源氏と戦っていたが、劣勢になると浜へと逃れ船で海上へと退却を始めた。大将の知盛も、嫡男の知章、家臣の監物太郎を伴って海辺へ向かって馬を駆っていた。

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ところがその途中で源氏方と遭遇し戦いが始まった。激闘の末、監物太郎は、大将の嫡男知章を斬った敵を討ち取り、奮闘したが、多勢に無勢、ついに左膝を射抜かれ、討死したと云う。監物太郎が討死したとされる場所は、現在碑がある場所から離れたところとされる。享保年間(1716-1735年)に儒学者の並河誠所が監物太郎の忠義を顕彰するために、討死の地からより人通りの多い西国街道沿いである現在地に移動させたという。平家方の名のある武将が多数討死した一ノ谷の合戦の古戦場周辺には、いくつもの碑が立っている。しかし監物太郎のような平家の郎党身分の者の碑は稀であると云う。

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予定よりだいぶ遅れたので、高田屋嘉兵衛本店の地は行かないで、足を速めたところ、平経俊を祀ってある鎮守稲荷神社と石碑があった。案内板によると「平経俊は、平清盛の甥で一の谷の合戦に華と散った敦盛の兄である。

湊川の合戦で、鵯越の守備についていたが、戦利あらず長田の森を経て、西出の浜へと落ちのびてきたところを、源の範頼の郎党名和太郎に追い迫られ、勇ましくも組打ちとなり当地で落命した。時に寿永三年二月御年わずか十八歳であった。」と記されてあった。あと宿泊地の「ホテルヴィアマーレ神戸」まで、約2.5kmだ。到着予定時間は310分を計画していたが、大幅に遅れているので、海軍操練所跡は行かずに、直接ホテルに向かうことにした。ここからはスマホのナビの案内で、2号線の歩道を行くことにした。

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神戸駅南口前を通り、NTT西日本 神戸駅前電話交換所、栄町通4の信号を過ぎ、栄一丁目の信号を左折し、最初のT字路を右折して、仲町通りに入り、4ブロックの左側角にホテルがあった。2時間遅れの5時になっていた。チェックインして、コインランドリーに向い、シャワーを浴びて夕食に出かけた。途中、「旧神戸居留地十五番館」のプレートがあり、慶応312月の兵庫開港により、126区画、25.8haの外国人居留地が開設され、商館を中心として領事館やホテル、教会などが次々に建てられたと当時の状況が詳しく記されていた。

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ホテルの近くの「ニュー居留地ラフレア」というレストランで、ステーキサンドを頼んだ。本日4462,384歩。見学に時間を要し大幅に遅れた。いつになく疲れたので、部屋に戻り、すぐ就寝。明日は高槻サンホテル。2日後に京都だ。

山陽道・西国街道旅日記 十三日目(P69~70/P89)

289-1.jpgの命を受けて、勝鱗太郎(海舟)の指導のもと、明石藩が築造した砲台場。タオがんの淡路島にある徳島藩松帆台場と協力して、明石海峡を通過する外国船を挟み撃ちにしたと考えられたとのこと。左手にはJR神戸線の舞子駅が見える。明石海峡大橋の下を通り、兵庫県立舞子公園の真ん中を進んで行く。


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この舞子駅は何度か利用し、左手に見える「シーサイドホテル舞子ビラ神戸」でお客様の生産説明会・懇談会を行った。懐かしい思い出だ。海岸沿いの舞子公園は松林が整備されリゾート地の趣がある。ここに来る観光客はこの道が西国街道だと気が付く人は少ないのではないかと思う。


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山陽垂水駅を通り越すとすぐに海神社(わたつみじんじゃ)が目に入った。海神社は「綿津見神社」とも表記され、「かいじんじゃ」とも読まれる。社伝によると、神功皇后が三韓征伐からの帰途、当地の海上で暴風雨が起こって舟が進めなくなったため、皇后が綿津見三神を祀ると暴風雨が治まり、その縁でこの地に綿津見三神を祀る社殿を建てたのが始まりと云う。「日本書紀」に記される広田神社・生田神社・永田神社・住吉大社創建の記述とほぼ同様であるが、「日本書紀」には当箇所の神社の記述はないという。

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福田川を渡り、JR塩谷駅を過ぎ、JR神戸線の塩屋跨線橋を渡り着いたのは1時40分だった。この辺りは源平一の谷合戦場として知られ、寿永3(1184)27日に、当時16歳の平敦盛が、熊谷次郎直実によって首を討たれ、それを供養するためにこの塔を建立したという伝承から「敦盛塚」と呼ばれるようになったという。

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この五輪塔は花崗岩製の総高4mで、中世の五輪塔としては石清水八幡宮五輪塔(京都府八幡市)に次ぎ、全国で2位の規模を誇るという。このほか、鎌倉幕府の執権北条貞時が平家一門の冥福を祈って、弘安年間(1278~1288) に造立したなど諸説があるという。

一の谷の戦いで源義経の逆落としの奇襲で平家を破ったのは有名だが、裏の崖は断崖というほどではなく、本で読んだイメージとはだいぶ違う。また海がこれほど近くに迫っているとは思わなかった。現場を見ると、より想像力が働くのではないか。いつか平家物語や吾妻鏡を読み直してみたいと思う。見学後、遅い昼食をとることにした。幸い敦盛塚の入り口にある敦盛そば屋に入り、蕎麦とそばの実が入ったぜんざいを注文した。蕎麦も美味しかったが、疲れた体にぜんざいは美味しかった。30分で昼食を終わらせ、出発した。ここは須磨浦公園の端にあり、400mほど進むと細長い公園の終わりに「源平史跡 戦の濱」の石碑があった。

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15分程進むと左手に「村上帝社の祠」があった。村上天皇の琵琶にまつわる伝説から、この地に村上天皇を祀り神社としたもので、この地には以前から前方向円墳があり、琵琶に      似ていることから琵琶伝説に結び付いたと云われている。琵琶伝説とは平安末期、太政大臣藤原師長は琵琶の名人であったが、さら奥義を極めたいと入唐の志を持ってこの地に来た。ところが村上天皇と梨壺女御の神霊が現れ琵琶の妙手を授けたので、入唐を思いとどまり帰京したと云われている。見学を終えて、2号線(西国街道)を進み、千守の交差点を左に曲がり、すぐにY字路を右に進むと、2号線と分かれ、西国街道に出る。整備された西国街道は歩きやすい。

山陽道・西国街道旅日記 十三日目(P67~68/P89)

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空港に行き、ポートライナーで三宮駅に行き、乗換えして三ノ宮駅から明石駅に行き、タクシーで工場を訪問した。この場所も何回も来ているが、新幹線で来るのとは景色が違うように感じる。西明石5丁目信号を過ぎ、斜め左に行くと西国街道に戻り、100m程先を右に曲がり、明石城跡に向う。

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明石川の嘉永橋を渡り、右に曲がり道なりに行くと、織田家長屋門がある。案内板によるとこの付近は明石城築城の当時から歴代家老・重臣が住んでいた屋敷跡で、門は舟上城(ふなげじょう)から移籍されたもの、築城は江戸時代初期のもので、門の留め金は室町後期の様式を伝えているという。1020分、明石城跡に到着した。

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入口に大洋漁業株式会社の創業者・中部幾次郎翁の銅像が建立されてあった。幾次郎翁は慶応二年(1866)明石市東魚町(現根本町)に生まれ、幼少のころから父の生魚運搬卸業を手伝い、地方の一個人商店にすぎなかった林兼商店を日本有数の水産会社に育て上げ、昭和21(1946)323日には貴族院議員に勅撰されたが、同年519日八十一歳で没し、浜光明寺に葬られたという。

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「史跡 明石城跡」の石碑があり、その奥は明石城や明石城本丸跡があるが、予定よりも遅れているので中に入らなかった。明石駅の真ん前にあり、仕事で何度も訪れたが、一度も訪れたことがなかった。久しぶりなので、北出口から駅の中を通って、東出口行き、明石銀座通りを通って、道標「みぎ ひめじ ひだり 大坂道」の石碑を左に曲がり、目印の光明寺を通り過ぎ、明石市役所北庁舎の信号を左に曲がり、次の十字路を右に進んだ。


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明石警察署大蔵交番更に大日本中央標準時子午線通過地標識の十字路を左に曲がり、目印地の稲爪神社と大蔵谷駅を目指した。明石は、日本の時刻の基準となる、統計135度子午線が通る「日本標準時のまち」「時のまち」として知られている。これは、明治19年に世界の標準時であるイギリスのグリニッジからちょうど135(9時間の時差)にある位置上の時刻を日本の標準時として定めたものだと いう。

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稲爪神社に着いたのは11時少し前だった。稲爪神社は推古天皇の御代の創建で、不死身の鉄人伝説の宮で勝運の神様が祀られているという。稲爪神社を通り過ぎ十字路を左に曲がり、2号線に出てしばらく歩くと大蔵谷駅が見えてきた。この駅は山陽電鉄線とJR神戸線が並走している。2号線・西国街道を進み朝霧駅を通過すると、右手には大蔵海岸海水浴場がある。

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更に海岸沿いを進み、山田橋を渡り、西舞子一丁目(差点)を右に曲がり、西国街道に入ると、右手には瀬戸内海が広がっていた。神戸舞子学院を左に行き、2号線に合流した。

舞子公園西を通り越し、明石藩舞子台場跡が右に見える。そしてようやく十三日目で神戸市に入った。明石藩舞子台場あと(舞子砲台跡)は幕末に外国船の侵攻に備えて、文久3年(1863)に幕府

山陽道・西国街道旅日記 十三日目(P65~66/P89)

十三日目 4月27日 木曜日

 

5時起床。天気予報は曇り、気温は9℃から19℃だ。足の調子は良い。朝食は昨日買ったおにぎりとパン、牛乳と飲むヨーグルトを食し、6時に出発だ。今日の予定は西国街道に出て、目印の土山駅近く、住友神社、光明寺、敦盛塚、一之谷戦の濱碑、、監物太郎の碑、高田屋嘉平の碑、神戸海軍操練所跡を通って、「ホテルビィルマーレ神戸」までの約40kmだ。穴田荘を出発して、5分もしないうちに西国街道に出る。左に曲がり進んで行く。朝早いので、人は見かけなかった。道の両側には趣のある大きな家があり、往時を偲ばせる街道だ。20分程で、西谷八幡神社があった。

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案内板によると「西谷八幡神社の御祭神は「誉田別命(ほんだわけのみこと)といい、第十五代応神天皇である。降誕のおり屋敷に八本の幟が立てられたことから「八幡さま」の名で親しまれてきた。戦勝を祈願したことに始まり、敵を除けることから「弓矢の神」「勝利の神」として武将から信仰を集めてきた。後に、疫病が流行する中、次第にあらゆる災いを除ける「疫病の神」として名高い神社」と記されてあった。


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神社を過ぎるとすぐに2号線に合流して、約300m進み斜め左に行くと西国街道だ。JR神戸線を通過し、左手に平岡公民館を左手に見て進み、穴田荘を出て1時間位たったころ、公園らしき道を行くと、旧街道らしく芝生の中に「1180年 平清盛が福原に都をうつす」「1192年 源頼朝が鎌倉幕府を開く」など歴史が年代順にわかるようにプレートが埋め込まれてあった。 

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更に30分程で進んで行くと、「清水新田 宝篋印塔(ほうきょういんとう)」の石碑が建っていた。案内板によると宝篋印塔は江戸時代後期に建立され、この辺りは西国街道と呼ばれる街道があり、往来する旅人が数多くいた。江戸時代の旅では途中で命を落とすことも珍しくなく、清水新田の地で行き倒れとなった旅人も多くあった。行き倒れの旅人を供養し、地域に災いが起こらないようにと清水新田の人々がこの地に宝篋印塔を建立した」と云われている。


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更に進んで行き、清水川と瀬戸川を渡っていくと、道標「右あかし道 像」の石碑があった。風化して文字は読み難い。この道標を過ぎると、左側に「臨済宗妙心寺派 公明山西福寺」があり、その先の街道沿いには清水神社鳥居、その奥に清水神社神門、清水神社がある。旧街道には神社仏閣が数多くある。改めて日本の歴史を感じる。この近くには西国街道と並行して2号線が走っており、その2号線沿いに弊社のお客様である建設機械メーカーの事業所がある。また反対方向へkm程の距離にお客様である油圧機器メーカーがあり、何度か訪問したことがある。JR神戸線の魚住駅でタクシーに乗り訪問したが、歩いて近くまで来ると感慨深いものだ。

更に進んで行くと、T字路に突き当り、右に曲がると、2号線に合流する。JR神戸線大久保駅の前を通り過ぎると、「明治天皇大久保御小休所建物」の石碑があった。道なりに進むと、セブンイレブンがある信号を斜め左に行くと、2号線と分かれ西国街道にでて、小さな川を渡ると大久保本陣跡があり、再度、2号線と合流して、左手に雲楽池という大きな池があり、そのまま進んで行くと西明石駅が見えた。この地にも弊社お客様の油圧機器メーカーの工場があり、新幹線でこの西明石駅を降りて、タクシーで行ったものだ。現在では茨城空港から神戸

山陽道・西国街道旅日記 十二日目(P64~64/P89)

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寺境内に入る。入口の門の大きな石碑には「天台園圓宗念仏道場」の文字が彫られてあり、ここは教信寺の総門だ。教信寺は称名念仏の創始者である教信によって開基され、教信は興福寺の僧であったが、奈良の貴族仏教に満足できず、各地を放浪し、現在の加古川野口町にあった賀古駅家(かこのうまや)の北辺に庵を建て、ここを永住の地としたという。

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この少し先に五社宮野口神社があった。五社宮野口神社は、比叡山延暦寺の守護神日吉大社の分霊を祭る由緒ある神社旧西国街道沿いにある五社宮の東南角には、古い道標が立っている。

秀吉の播古磨攻めの際、黒田官兵衛の指揮した秀吉軍と教信寺の僧兵と野口城兵が戦った。野口城は現在の五社宮(野口神社)付近にあったと云われている。

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ここからおよそ15分でビジネス宿泊穴田荘に到着した。女将さんが待っていた。女将さんは話好きだ。私が下関から12日かけて加古川に来たこと、15日かけて京都に行くことを話した。女将さんは話好きだ。本四架橋の工事の時、この穴田荘はいつも満杯で、良い時代だった。今はコロナもあって閑散としている。もう閉めようと思う等々。チェックイン手続きを終え、畳の部屋に入った。洗濯をすませてから、シャワーを浴び、イオン加古川店に行き、朝食を買い、フードコートで食事を済ませた。今日の歩いた距離は44.5km、歩数は63,602歩だった。京都まで、後三日だ。12日間の旅を振り返りながら、9時に就寝。

山陽道・西国街道旅日記 十二日目(P62~63/P89)

285-1.jpgのサムネール画像
配され、ここより内側の中曲輪には侍屋敷が配されていました。」と記されてあった。このようなことを記録として残すのは姫路城の歴史の理解に役立つ。今回の姫路城訪問では外観だけ見学して、中に入ることはしなかった。あまり見学時間が多くなると、15日で京都まではいけないし、今日の宿泊は加古川宿まで行かなくてはならない。姫路城は一部工事をしているので、良い写真が取れない。クレーン車のアームが移ってしまうので、広場の中に入って、クレーン車が移らない場所を探した。


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姫山の地に初めて砦が築かれたのは1333年、赤松氏の時代と云われ、13氏・48代が城主を務め、戦塵にまみれることなく今日に至っている。赤松氏の後、西国統治の重要拠点として羽柴秀吉、池田輝政、本田忠正が城を拡張して、今見られる全容が整ったのは、戦乱の世が落ち着いた1617年とのこと。30分程滞在して1250分に姫路城を後にした。何気なく姫路駅に向かう大手前通りに戻り、左折して2号線の歩道を歩いた。

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しばらくして道に間違えたことに気が付いた。大手前通りの手前、大手前公園の所を左折すれば、西国街道に出る。ナビと絵地図で確認したが、戻るのは嫌なので、そのまま進んだ。まもなく市川の市川橋にさしかかった。この市川橋の手前で西国街道がこちらに合流した。橋を渡り進んで行くと、播磨国分寺跡200mの標識があったので、行ってみることにした。播磨国分寺は姫路市御国野町国分寺にある真言宗の寺院、奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺の一つであるという。

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建年の741年とされている。2号線に戻り、天川を渡って、左手に御着城跡がある。御着城は場内に山陽道や城下町を取り込んだ惣構えの平城、赤松氏の一族小寺氏の居城で、1519年に小寺正隆が築城し、 1579年に羽柴秀吉に攻められて落城した。廃城後、江戸時代には御着本陣が置かれていたという。御着所跡公園を後にして、2号線を進んで行くと、312号線の佐土川西の信号を直進して、別所口西の信号を左に曲り、すぐ細い道を右折すると、西国街道に出る。しばらく進むと、弁慶地蔵の説明の木柱が目に入った。

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弁慶の母は、福居村(別所)の生まれで山廻井といい、父は熊野神社別当で、書写山に預けられた弁慶が、京からの帰途、福居村庄屋の娘玉苗と一夜をともにしたのが、この地蔵堂であると伝えられている。

弁慶の両親の話は今まで知らなかったので、興味深い。さらに進むと、六騎塚の木柱があった。初めての言葉だ。それによると南北朝時代の延元元年(1336)児島高徳の父範長主従六人の自害を弔って建立したと伝えられている。「太平記」巻十六によれば、延元元年足利尊氏が大軍を率いて、九州から東上してくるのを備後守範長が迎え撃ったが、戦いに敗れ、最後に主従六騎となり、阿弥陀宿の辻堂で自害したという。

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昔、太平記を読んだが、足利尊氏との戦いで、備後守範長の記憶になかった。すぐ隣に「備後守児島君墓」と記されたお墓があった。今でも供物が置かれている。児島範長が人々から慕われ、今に伝わっていると思うと、自然と手を合わせた。

そのまま進んで行くと、2号線と合流し進んで行き、     国道2号線と姫路バイパスを突っ切って、加古川市内に入ったのは午後4時だった。

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そのまま進み加古川橋西詰に着いたのは4時半、すぐ左側には旧加古川大橋親柱が残されていた。加古川は大きな川で、橋を渡ると河川敷公園になっており、中央には中洲がある。西詰から東詰まで約400mの橋だ。橋を渡り終えると、加古川駅前、駅前東と進んで行き、坂元の信号を左折し、すぐ右折すると、西国街道に入る。しばらく行くと「西国街道風土期の道」の石碑が目に入った。公この碑を左に行くと教信

山陽道・西国街道旅日記 十二日目(P60~61/P89)

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徳太子が建てた寺院とのこと。また太子町は「宮本武蔵生誕の地」と言われている石海神社があり、晩年の宮本武蔵が記した「五輪書」に、「生国播磨の武士」と書かれているとのこと。宮本武蔵に関する資料は過去の大火災で喪失しているが、生家跡として云い伝えられた場所には古井戸が残っているとのこと。

大阪まで100kmの看板が見えた。あと100kmと思うと元気が出てきた。少し雨が小降りになってきた。マクドナルドの姫路太子町店に入り、コーヒーを頼んで、30分程休憩した。出発したのは1040分頃、雨は止んでいたので、雨合羽を脱いで歩き始めた。

284-2.jpg太子町牛飼を通った頃には気温も上がり、ジャンバーも脱いで、半袖のシャツだけになった。少し汗がにじんできた。2号線(179号線)を進んで行き、トヨタ販売店が左にある十字路を左折し、すぐ右折すると西国街道に入る。まもなく大津茂川の橋を渡り、進んで行き、 179号線(西国街道)を左折する。




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ここから179号線を進み、上之池を右手に見て、Y字路を左に入る。最初の信号の横断歩道を渡り、Y字路を右折し進む。2号線を突っ切り、青山団地第三公園を右に曲がり、青山西5丁目の信号から2号線の歩道を進み、但陽信用金庫ATMを斜め左に入っていく。


昔は西国街道には夢前川の船の渡し場があったのだが、今はなく、西国街道も途中で途切れている。現在では道なりに進み、2号線に出て左折し、夢前川の夢前橋を渡る道しかない。2号線と西国街道が入り組んでいて、歩きにくかったが、グーグルナビで西国街道が標記されているので、助かった。まもなく山陽新幹線の高架下を通って、播磨高岡駅に着いた。昼食をコンビニで済ませ、姫路城に向った。

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ここから西国街道が所々入り混じっているので、姫路城までは2号線を進むことにした。姫路城の外堀と見られる船場川に架かっている白鷺(はくろ)橋を通り過ぎると、姫路城の外郭の石垣の一部が見えてきた。石垣沿いに進み、大手前通りの信号に来た。

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右に行くと姫路駅、左に行くと姫路城広場だ。左に進み大手前公園を右に進み、多くの観光客と一緒になって進んで行った。「国道2号線建設之碑」が目に留まった。碑には「この石碑は昭和7(1932)2月、国道2号線の回収を祈念して建てられた。改修にあたって、中堀東西約450mに渡って埋め立てられた。中堀があったことが分るように、その境界にこの石がたてられた。

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この石碑は、元々は道路の西側にあったが、昭和61(1986)の国道2号線拡張工事のため、同署に移転された。中堀の埋め立ては大正期にも進められていた。

昭和7年当時、この石碑から東側はすでに埋め立てられて商業地区に変貌しており、姫路市立女子技芸学校(現在の姫路市立琴丘高等学校)も建てられていた。」と記されてあった。

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また、姫路城の中濠(なかぼり)跡の案内板があり、「この土塁は姫路城の中濠の土塁で、その南にある国道二号線は中濠を埋め立てて埋設されたものです。この濠より外曲輪には主に町屋が

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