今朝の日本経済新聞「日銀マネー中小に届かず」という記事があった。日銀が供給したマネーが実態経済に浸透しにくくなっている。銀行の融資を通じてどれだけ経済に出回ったかを示す「信用乗数」は今年2月に2007年4月以来の低水準になったと伝えている。信用乗数とは金融機関が経済活動に必要なお金を貸し出す能力を示す指標で、金融機関の貸し出し能力が高まると信用乗数は上昇し、能力が落ちると乗数は低下するということだ。信用乗数は2007年6月から2009年1月までは7.1~7.3倍だったが、今年の2月は6.9倍に急低下し、約2年ぶりに7倍を割り込んだ。つまり金融機関の貸し出し能力は低下している。
そしてもう一つの記事は「メカバンク3行最終赤字」である。この記事の詳細は省くが、信用乗数が低下していることは金融期間の貸し出し能力が低下していることだ。メカバンク3行が最終赤字で有ることを考え合わせると、日銀は資金供給を急拡大させたといっているが、我々中小企業の資金繰りは改善していないし、今後の業績悪化を受けて貸し出しがさらに伸び悩み、貸し渋りが増加していく懸念があると思う。
一方、日本政策金融公庫は前年同期に比べて貸し出しが3割増えたと伝えている。業績が悪化している企業向けに審査基準を緩和した貸付が大きく伸びた為だと云う。民間銀行が融資を渋る一方で、政府系金融機関は経営環境の激変で対応出来る唯一の存在になるのではないか。私は民間で出来るものは民間に、官から民へは基本的な考え方であると思う。しかし、お金が国境を軽々と乗り越えて動いてしまうグローバル経済では、今回のアメリカ発の金融危機のようなケースでは民間金融機関では乗り越えられないと思う。危機対応の機能を持った政府系金融機関は必要不可欠であると思う。
我々中小企業の経営者は、常日頃から金融機関と密度の濃いコミュニケーションを図らなければならないと思う。100年に一度といわれる不況に対して支援を受けるためにも、その時になって頼み込むなど進められない。資金繰りは財務・経理部長に任せてチェックすればよく、社長は企業のビジョンを語れば良いという人もいますが、今回のような厳しい時には、他人任せにせず担当者と一緒になって行うことが肝要である。これが私の考えです。
今日は朝から東京にある銀行に訪問予定なので、日本対韓国の決勝をビデオに録画し、日本が優勝することを願いつつ家を出ました。
午前中は本社に行き、その後近くにあるメインバンクに行き、午後からは渋谷にある政府系金融機関を訪問しました。打合せ終了後、近くにある喫茶店に入り、同行した部長と打合せ内容を確認し、今後の方針を議論していました。注文をとりにきたウェイトレスにWBCの結果を聞いたところ、「残念ながら韓国が負けているのですよ」と言われ、何で日本人なのに韓国を応援するのかと、何気なく部長に聞いたら、「アクセントが少し違うから韓国の人ではないですか。」先入観とは怖いものです。この喫茶店には数年前からアポイントの時間調整の為、コーヒーを頼み一言二言は話していたのに、全然気がつきませんでした。胸に日本名の名札を付けていたので、すっかり日本人であると思い込んでいました。少しアクセントが違うから、どこの地方の出身者かなとしか思っていませんでした。そういう私も茨城県に住んで35年が過ぎ、同窓会に出席すると「高橋アクセントがおかしいぞ」と言われますので、アクセントで人のことは言えません。
夜は実家に宿泊し、WBC決勝のゲームをテレビで見ました。私が選んだMVPは岩隈、イチロー、内山、ダルビッシュの順です。岩隈は安定感のある投球で素晴らしい内容でした。イチローは最後に一番おいしいところをもっていきました。運を持っているのだと思います。かつての長島みたいに。 内山の逆シングルでのクラブさばきは見事の一語に尽きます。あの取りにくいハーフバウンドのボールを捕球し、その反動を利用して起き上がり、二塁に送球してアウトにしました。このプレーは相手の戦意を削ぐのに十分なものでした。ダルビッシュの投球は指先に全体重をのせてボールを投げる、小気味よい投球でした。プロ野球を見なくなって十数年過ぎ、新聞のニュース欄でしか見ませんでした。今回のWBCは久々に試合が待ち遠しく思えました。それは多分、昨年来の100年に1度といわれる不況に対して、出口が見えない焦燥感。政治の混迷による閉塞感。毎日暗いニュースや底の浅い取材しか報道しないマスコミへの苛立ち。核家族化が進行した日本社会では皆で楽しむ伝統的なお祭り騒ぎに対する渇望。日本人の平均年齢は50歳を超えたといわれています。やはり若い人が安心して結婚し、子供を作り、育てられる社会にしたいと思いました。WBCを見ながらこんな事を考えていました。
2008年9月15日、リーマンブラザーズが破綻して半年が過ぎました。世界中で金融機関の信用収縮が起こり、世界同時不況の様相を呈しています。
協立製作所のお客様は輸出の売上が80%を占める企業です。従って、協立製作所は間接的な輸出売上80%、国内売上20%の構造体質になっています。金融機関の信用収縮により、世界中でキャンセルが発生し、あっという間に受注が無くなり、在庫が積み上がり、生産調整に入った為、製造メーカーは操業短縮の苦境に入ってしまいました。地球は狭くなったといわれています。グローバル企業が世界中で活躍を可能にしている通信・物流・言語があります。特にインターネットの役割が大きく、情報が一瞬にして生産調整まで意思決定するまで1ヶ月もかからない状況になっています。
協立製作所にとっても、昨年10月から急速に受注が落ち込みました。10月にたてた対策は三班二直四勤二休体制から、一班一直体制への転換、残業規制、生産管理システムの改革による在庫圧縮、変動費の圧縮、役員給与のカット、徹底したムダの排除です。2009年の1月から毎週金曜日を一時帰休にし、2月からは月曜日と金曜日を一時帰休にしました。当初1月~3月で底を打つを思っていましたが、お客様の在庫調整が遅れている為、6月まで底を這っていくものと予想しています。その後、回復するものの2008年上期の60%位ではないかと思っています。予想していたこととはいえ、大変厳しい状況です。
世界同時不況の中、各国が金融安定化・景気対策を打ち出していますが、日本は政局の混乱からタイムリーに政策を打ち出せないでいます。我々、製造業は100年に1度の大不況で苦しんでいるというのに、義憤さえ覚えてきます。早く総選挙を行い、民意を問う政権で対策を立てなければ、この閉寒感を破ることが出来ないと思います。中小企業の社長の私には、この金融危機や世界同時不況の問題を解決する力はありませんが、この問題で起きている苦境を乗り越えることは出来ると思っています。自助努力は当然ながら、苦境を乗り切るには、長年取引をしている金融機関の支援です。金融庁が銀行に対する検査マニュアルを改訂し、中小企業の審査基準を緩和しています。私はさらに努力して景気回復のシナリオを銀行に提供し、密度の高い意見交換をしていきたいと思っています。
購買方針説明会の会場である熱田神宮は、その昔の戦国時代に織田信長が今川義元の本陣に奇襲攻撃を行う為、清州からわずかな供周りをつれ単騎で熱田神宮に向け馬を走らせ、家来たちが後から追いかけるように当地に参集したそうです。そして出陣前に戦勝祈願を行い、織田信長はいわゆる「桶狭間の戦い」で少数の軍勢で、圧倒的多数の今川勢を破った有名な戦いがありました。
信長の優れているところは、奇襲攻撃はこの戦いだけで、後の戦い方は外交と軍事力を増強し、大軍をもって敵を各個撃破していきます。その為、時には自分の方がまだ不利だと認識すると、相手方(武田・上杉)に対して恭順を示すがごとく、下手にでた行動をしていきます。奇襲攻撃は何度も成功しないことをよく知っていたのでしょう。しかし、自分の全人生をかけて戦う時は、過去の常識にとらわれることなく一世一代といわれる大博打を打ちました。しかもそれは一回だけです。(我々中小企業に通じる生き方ですネ。)そして、経済を発展させた楽市楽座は現代にも通じる政策だと思います。
私はいつも高速道路で料金を徴収される度に思い返すのは、450年も前に関所を廃止し、通行料を免除し、人の行き来を活発にして経済を拡大・発展させて、別な形で税を税収して国を富ませたことを思うと、高速道路の料金所が戦国時代の関所に見えて仕方がありません。ETCは非常に便利ですが、国土交通省が数百億円の予算を取り、民間に開発させ、一台数百万円のETCゲートを全国に設置して、どれだけの税金が使われるのかも公表されず、自分だけETCをつけ、人よりも早くゲードが通過出来たと喜んで、税金がどれだけ多く使われているかなど気にもしていない。経済をどのように発展させていくかを考えたときに、信長の楽市楽座の精神を学んではどうですか。つまり徹底したムダを排除し、必要な費用は別な形で税として徴収し、高速道路は無料にして関所をなくすことだと思います。
大分話がそれてしまったので、熱田神宮の紹介を頂いたパンフレットで概要を少し紹介します。
祭神の熱田大神とは、草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を御霊代(みたましろ)として慿(よ)らせられる天照大神(あまてらすおおかみ)のことです。草薙神剣は、三種の神器の一つであり、スサノオノミコトが出雲国で、八岐大蛇(やまたのおろち)から獲られた天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)を天照大神に献じ、天孫降臨の際、大神が皇位継承の御璽(みしるし)としてヤタノ鏡・ヤサカニノ曲玉と共に親しく授けられた。
第12代景行天皇は、皇子日本武尊に東夷征討を命じられ、その途中、尊は伊勢の神宮において、御夷倭姫命から天叢雲剣を授かり、駿河国で草を薙ぎ払って難を逃れられ、荒ぶる豪族を平らげてから、草薙神剣といわれる。尊は、尾張国造止興命(おとよのみこと)の子建稲種命を一軍の将として従え、無事東夷平定の後、尾張国造の館にとどまり、その娘媛命を妃とした。
やがて、神剣を娘の媛命の手元に置かれ、近江国伊吹山の賊徒討伐にむかわれ、病を得て、景行天皇43年伊勢国能褒野(のぼの)で崩せられた。娘の媛命は、草薙神剣が天璽之神宝(あまみしるしのかんだから)で、尊が常に御身近に斎かれたことを畏まれ、ここ熱田の地に神剣を奉斎せられた。これが熱田神宮の創祀である。
お客様の2009年度の購買方針説明会が熱田神宮会館で行われるので、名古屋に行きました。名古屋駅の人の往来を見ていると不況の影響を受けているとは思えない程、人の行き来は多く活気があるように見えました。不思議ですネ!
名古屋駅桜通口から移した駅構内
昨年から起こっている不況で大きな影響を受けているのは、地方の工場地帯のエリアであることが、都市型の中心地に来ると良く分かります。桜通口を出るとトヨタ本社と毎日新聞社が入っているミッドランドスクウェアが他を圧するように立てられています。
私は名古屋から機械設備の立会いに、よく工作機械メーカーを訪問しました。JRから名鉄に乗り換え20分位すると江南駅に到着し、車に乗ると10分位の所です。20年程前から工作機械を購入する都度訪問しましたので、何度行ったか記憶にないくらい訪問しました。現在、機械設備の購入では、生産技術や製造の人達が、メーカーと打合せを行い、見積りをとり、起案書を提出して承認を受ける仕組みになりましたので、私が直接メーカーに行くことはなくなりました。若い人達が自分で計画し、議論し、起案書を提出する。承認するときに起案書の内容を確認し、様々な質問を行います。結果として担当者達が自然とPDCAのサイクルを回す思考方法が身につき、レベルアップに繋がると信じています。名古屋駅に着き、昔のことを思い出しました。
今朝、5時半に起きました。今日は12時から準決勝進出をかけた韓国戦。『日本代表頑張れ!』と祈りつつ、新治駅6時39分発の電車に乗り、お客様がある兵庫県西明石へと向かいました。到着したのは11時半、昼食後タクシーで約20分訪問先に到着、5時過ぎまで打合せを行いました。
タクシーに乗るやいなや携帯電話で韓国戦の結果を見ると1-4の敗退で、19日の敗者復活戦に回り、キューバと戦うことになりました。夜、ホテルでダイジェスト版を見ると実力よりも、全てに運がなく空回りしていました。空回りというのは勝負事にはつきものです。会社の仕事も同じようなものです。会社もチームで組織的に仕事を進めていきます。努力して、頑張って、絶対上手くいくと思っても空回りして成果が出ない。私はこのような体験は過去に何度も味わいました。このような時は気持ちの持ち方が肝要です。ネバーギブアップ・決して諦めない・心を折らないことです。日本代表選手は選ばれた人達です。19日のキューバ戦は期待しましょう。岩隈頑張れ!
19日の名古屋の熱田で、お客様の2009年度の経営方針説明会があり、新幹線で向かっているところです。説明会が終わった頃には結果が出ていると思います。勝利のニュースが聞けることを楽しみに今日も1日頑張ろう。
16日の朝5時に起きてテレビを見ました。日本対キューバの試合は、見事日本の勝利に終わりました。久しぶりにスカッとしました。松坂はレギュラーシーズンよりコントロールが良く、素晴らしいピッチングをしていました。私は後を受けて登板した岩隈に注目し、期待しています。楽天に移籍してから肩の故障で辛いシーズンを送っていました。ゆっくりしたフォームから投げられるボールは打者の手元で予想よりも伸びていく印象を受けます。松坂に勝るとも劣らないピッチャーだと思います。今度は東京ラウンドで1勝1敗の韓国が相手です。
今回のWBCでは、1次予選と2次予選で「ダブル・エリミネーション方式」という変則的なトーナメント戦が実施され、1度負けても敗者復活戦にまわり、そこで勝ち抜けば予選を通過できるシステムになっています。もし日本と韓国で決勝が行われると、予選から数えて5戦することになります。サッカーファンにとってはおかしな方式と思われるかも知れませんが、私はベースボールをを考える上で妥当であると思っています。甲子園の高校野球で分かるように、一発勝負のトーナメントは80%投手によって勝敗が決まります。そうすると、高校野球の監督はエースに対して無理な登板をさせ、高校生も意気に感じて連投します。その為、過去に何人の優秀な投手が連投による疲労から故障し、野球人生を棒に振っています。近年はその反省から投手に対して制限を設けています。従ってWBCを考える時、真の勝者を決めるにはレギュラーシーズンのように試合をして勝率で競わないと無理です。トーナメント方式では実力とは違う要素が入ってきて、またピッチャーの出来不出来での要素が大きすぎるので、日程を考えると苦肉の方式だと思います。
それよりも大事な事は、長年の夢であった国別対抗で開催されたことです。WBCはメジャーリーグを盛り上げるための前座だとか、ピッチャーの投球数制限とか、サドンデス方式はなじまないとか、いろいろな批評がありますが、私は出来ない理由を並べてやらないより、不完全であっても実行することが大事なことです。そして、回を増す毎に修正していけば良いと思っています。様は続けることです。
我々の仕事においても、出来ない理由を沢山言うよりも、どうしたら出来るかを考えて1歩1歩実行することが大事だと思っています。出来ない理由を言う人はやりたくない事を正当化しているだけです。従って何もやりません。問題が発生した時に解決出来る方法を考える習慣を身に付けましょう。必ず解決方法は見つかるものです。
第2ラウンドの決勝は韓国です。皆で応援しましょう。
3月9日、『高収益トップ3%倶楽部』勉強会に初めて参加しました。東京国際フォーラムの会議室で行われたのですが、内部は非常に広い空間があり要所に喫茶店やレストランがさりげなく配置されていて、さすが国際フォーラムと名前をつけるだけのことがあると思いました。
19年前、私はこの近くにある大手の商社を何度か訪問していました。懐かしくもあり、また東京国際フォーラム建設前の取り壊しの様子や建設現場を見ながら通っていたのを思い出しました。当時(1989年)中国の上海に会社を作ろうと思い、紹介して頂いたのが共産主義国を専門に取り扱う大手の商社でした。そこで、上海に会社を作るための方法や設立後の輸入業務・輸送・通関など今まで体験したことがない仕事を行いました。上海設立の経緯は別な機会に機会にお話したいと思います。
東京国際フォーラムG610の会議室で18:30から約2時間、終了後に懇親会を行い、名刺交換や意見交換を行いました。出席者はおよそ80名で若い方が多く、私は年長者の5人の中に入ると思いながら講義を受けました。主催は㈱日本経営教育研究所で、石原社長から勉強会の主旨説明がありました。9年前から毎月1回東京・名古屋・大阪で開催し、初期のころは4~5名のこともあったが、少人数であるがゆえに充実した勉強会ができたなどのお話がありました。現在は盛況に勉強会を続けていました。継続は力なりですネ。
石原先生は徹底して売れる仕組みは、ビジネスモデル70+マーケティング30が機能した状態であり、「起業する」と「企業を経営する」は別の次元であると力説されていました。一人当たりの収益力が高い会社は組織化が難しく、その逆の場合は組織化が容易である等々。
協立の場合は、昭和28年に先代の社長が起業し、切削工具や油圧部品の研磨加工で卓越した技術を商品とし、お客様が仕事を持って来て下さいました。零細企業でしたから名人が優れた職人でしたので、高い収益力を得ていました。私は昭和49年東京から茨城工場に赴任し、5年程過ぎて思った事は、職人を育てることの難しさと長い時間が必要であることを考えると東京本社のビジネスモデルでは難しいと思い、コンピュータ付工作機械を導入し、作業を標準化して誰が作業しても精度の高い製品が出来るようにビジネスモデルを転換していきました。当時はマーケティングという手法は知りませんでしたが、お客様からお客様を紹介して頂くということで拡大していきました。現在は、油圧ショベルをコントロールするバルブの部品でスプールは世界シェアの45%を得ることが出来ました。この加工技術を基本にスプールと油圧ピストンポンプ・専用油圧バルブのOEM商品を三本柱にビジネスモデルを転換しました。私は37年間の協立での体験と16年間の社長としての経営体験を振り返りながら聞いていました。私はこのような勉強会は考えを明確に整理するためにも大変良いものと思っています。
続いて専属コンサルタントの平居先生から企業の組織化についての講演がありました。平居先生は島津製作に技術者として入社され分析器などの開発を手懸けられ、様々な体験の後に子会社の社長になり見事に赤字会社を収益力の高い会社へと変革させた経歴の持ち主で、経営改善の事例を豊富な経験を基にお話頂きました。私と同じ共通体験をしていると感じ、交流会で貴重な意見交換ができました。平居先生ありがとうございました。
㈱日本経営教育研究所 石原社長の勉強会は、こちら から
こんにちわ。 今回は自己紹介をさせてください。
私は1950年2月に茨城県下館市稲荷町(現筑西市)の借家で産声を上げました。当年59歳です。7歳の時、東京都品川区立平塚小学校に入学し、中学は専修大学付属高校、高校は日大三高、大学は日本大学理工学部精密機械工学科に入学し、昭和47年に卒業しました。中学時代は野球部が無く、やむなくバレーボール部に入り練習に励んでいました。東京オリンピックでは6人制でしたが、中学生の大会では9人制でした。
私は足腰を鍛える為に自宅(品川区東中延)から自転車通学をして 品川区自宅 いました。自宅から環状7号線まで10分、環7から甲州街道の笹塚 まで全力で飛ばして25分、学校まで5分、合計40分ひたすら足腰 の鍛錬の為、3年間通っていました。しかし、どうしても野球がやりた いので、高校生の草野球に入れてもらい、日曜日に練習や試合をし ていました。
そこで私は高校進学に当たり先生・親の反対を押し切って、東京都で名門といわれた日大三高の野球部に入り、甲子園を目指していました。目指しているというよりも野球が大好きだったという方が当たっているかもしれません。しかし、2年に進級する時に文科系か理工系かの選択をしなくてはならず、数学が好きで、国語が特に作文や感想文を書くのが嫌いだったので、理工系を選択しました。当時、理工系を選択すると野球部は辞めなくてはいけませんでした。なぜかというと理工系の勉強と野球部の練習は両立できないとのことでした。私は不満でしたが、野球部の練習が終わって家に帰るのは毎日11時を過ぎていました。食事をして勉強を終わらせると毎日午前2時頃でしたので、大学受験を考えるとやむを得ないと考え、2年生からテニスに転向し、大学に入ってからもテニスを続けました。戦績は関東理工系テニス連盟の大会で3年、4年とダブルスで2年連続ベスト4になったのが最高でした。中学時代の3年間、自転車通学40分、ほぼ全力でペダルをこいで体力をつけたおかげだと思っています。
若い時の趣味は、テニス・野球・スキー・ボーリング・水泳など。大学の時に研究所の助手の方から囲碁を、教授からコントラクトブリッジとお酒の飲み方を教わりました。クラシックギターは1年間通信講座で勉強し、社会に出てからはテニスとスキーを続け、30歳を超えた頃から歴史小説を乱読していました。現在は、ゴルフが大好きでオフィシャルハンデ15で目標は2年以内にシングルハンデになることです。50歳の時に、伝統芸能江戸小唄の松風派松陽会に入門し、稽古に励み、4年間に名取となり『松風裕日出』の名を頂きました。
どんなに忙しくても時間を上手に使うことを考えていれば時間は作れます。私は年代によって趣味が変わってきていますが、今でも変わらないのはいつも鞄の中に経済・経営・歴史小説・レポート類・文藝春秋そして、数独(パズル)など2~3冊の本を入れておきます。電車の中・待ち合わせの時間・突然のキャンセルで空いた時間・一人で外食する時の時間・寝る前等々時間を作っています。忙しい事を理由に時間がないと出来ない理由を言って、何もしない事にならないようにしましょう。わずかな時間の積み重ねを10年・20年・30年と続けていくと自分がその積み重ねた分だけ厚みを増し変化していきます。
最初、私は製造現場でフライス盤を使ってフルバックで鉄を平面に削り、エンドミルで溝を削っていました。それから直立ボール盤で穴あけ作業、旋盤で鉄を削る切削作業を5年ほどやっていました。その後、コンピュータの発達に伴い数値制御のNC旋盤やマシニングセンターを導入し、工程設計・ツーリング設計・プログラム作成・段取り作業・加工作業・検査と行ってきました。その合間に工場経理を勉強し、見積りを覚え、営業を行い、将来協立にとってどの方向の仕事を選択していくべきか、日々悩んでいました。そして、気がついてみると、現場を約20年体験していました。私は現場を中心に仕事を行いながら、経理・総務・庶務・生産技術・製造技術・営業・機械修理・品質保証そして経営戦略を行ってきました。43歳で社長になり、山あり谷ありの16年間でした。16年間の中でも今回の世界同時不況は過去の例と質の違う不況です。それは短い時間で落ち方が激しく底が見えないことです。幸い私は過去5度の不況を乗り切った体験があり、優秀なスタッフがサポートしてくれています。
全員で世界同時不況を乗り切ろう。
はじめまして。 私は、高橋日出男と申します。 今回、社長ブログを始めることになりました。
きっかけは、昨年2月に茨城県経営者協会経営教育委員会主催の「中小企業の人材採用」の講演を聴いたことです。私は13年前に経営教育委員会の委員になりました関係から、この講演会の主催者の一員として出席しました。講師は日本経営教育研究所の石原社長です。講演の内容は中小企業の人材採用をWebサイト上で行うことです。具体的な成功事例を紹介した内容は私にとって新鮮な講演内容でした。既存のホームページの採用サイトとは異質なものでした。良い人材を採用し、教育し、定着させる、その上で安定した利益を確保し続け、社会に貢献するにはどうしたらいいか、常に悩んでいました。そこでおよそ1週間後に東京の神保町にある日本経営教育研究所を訪問し、石原社長に相談に乗っていただきました。そして、2008年6月からコンサルタント契約を結び指導を受けることになったわけです。早速7名の若手をスタッフに選任し、教育をはじめました。
その結果、Webサイト上に協立製作所のホームページを2008年11月に載せることが出来ました。キーワードは「見える化」です。会社の中を見えるようにして、Webサイトに会社の活動や社員の紹介・イベント・トピックス等々、社外の人達に協立製作所を良く知って貰おうということです。そうした「見える化」活動を通じて、協立製作所に興味を持ち応募してくる人が、Webサイトを通じて協立製作所の活動を我々と共有し、入社前と後の仕事に対するギャップを少なくすることができ、そうすれば入社後も違和感無く仕事に徒事できると思います。
もう1つのきっかけは、昨年、茨城大学で私がボランティアの講義を行ったことです。講義の地域連携論とは茨城県内で活躍している大企業・中小企業の経営者の企業理念・活動と産業界のダイナミックな活動を紹介して、学生に実経済の企業活動を考えさせることです。学生は講義のレポートを提出し単位を取得するわけですが、そのレポートを見ると、県内で世界シェアを取っている会社があるという驚きの感想が非常に多かった。我々の会社は油圧ショベルをコントロールするバルブの部品(スプール)で世界シェア45%を持っています。茨城県内に建設機械用油圧機器で頑張っている会社があるとは知らなかった。等々新鮮な驚きを表したレポートが多かった。協立製作所を知ってほしいと宣伝もしていましたが、完全なミスマッチであることを思い知らされました。
では、なぜ学生が実社会の企業活動を知らないのか考えてみました。テレビのコマーシャルに出てくる企業の名前は知っているが、中小企業は分からない。全国に企業数は260万社にあるが、その内、95%が中小企業です。しかし、メディアに露出する企業は残り5%の中のごく一部であることを考えると無理もありません。ましてや物づくりの現場など知る術もありません。
私は子供の頃、東京の品川区荏原という所で育ちました。私の家の周りには畳屋さん・プレス屋さん・金属加工さん・靴屋さん等物作りの零細企業がたくさんありましので、工場の中を覗いたり、靴を作っている所をしゃがみこんで見ていたり、生活の中に物作りがありました。日本でバブルがおこった1980年代、物作り企業の工場は地方・海外へと移っていきました。一部の零細小企業は東京に残りましたが、大田区にある京浜工業地帯といわれる地域にある「もの作り企業」はバブル時に 約10,000社ありましたが、2000年の頃には半減したといわれています。東京から都市部から生活の中に物作りの現場が消えていきました。従って多くの学生が物作りの工場を知らないのは、生活の中に物作りが無くなって来たからだと思います。我々の会社を知らないことは、学生に問題があるのでは無く、我々自身に問題があり、努力が足りなかったと思いました。
以上、述べた経緯で、今回Webを活用して社員・地域社会・茨城県・日本・世界の人に協立製作所を知っていただき、我々の会社の企業活動をPRしていきたいと思った次第です。社長ブログはその一貫です。
これからも宜しくお願いいたします。