東京工場は昭和39年(1964年)に品川区東中延の現在の地に移ってきました。それまでは、 1キロ位離れた所にある荏原4丁目の平塚小学校のすぐそばにありました。1階が工場、2階が住居という当時としては典型的な零細企業の体をなし、総勢で7~8名の人が働いていました。協立製作所は昭和29年(1954年)に創業しました。創業は私の父(現会長)と叔父(父の弟)の二人で、切削工具の研削加工を主体に営業を始めました。創業して10年後、業績も順調に推移し工場が手狭になったため、近くにある工場を購入し、移転しました。このことをきっかけに二人は独立し、叔父は創業の場所を引継ぎ「高橋研磨(現ミクロテック)」を設立し、工具・部品の研削加工から金型の研削加工へと新たな方向性を見出していきました。
会長は移転先(現本社)の場所で、(有)協立製作所を引き継ぎました。ここでも1階が工場で2階が住居で、家族4人と住み込みの従業員1人の5人の構成で、従業員7~8人を引き連れ、新生(有)協立製作所として第一歩を踏み出しました。移転後まもなく油圧機器メーカーである萱場工業㈱東京工場殿と取引をすることが出来、工具と油圧機器の研削加工を行う会社として、新たな方向へと舵を切りました。数年後、工具関係の仕事から油圧機器部品の研削加工に絞って業務を拡大していきました。今で言う「集中と選択」です。ここを原点として油圧機器専門の研削加工メーカーとして新たな旅立ちが始まりました。私が高校生のときでした。
20年後の昭和59年4月(1984年)現本社の新社屋を完成させました。この頃、茨城工場は第三期工事が終わり、順調に業績を拡大していき、茨城工場で機械加工を行い、次工程の熱処理は外注で、最終工程の研削加工は本社工場で加工し、精密油圧部品の一貫加工のモデルを完成させていました。1、2階が工場、3階が事務所、そして最盛期には本社の斜め向かいに工場を賃借して25人の従業員が働いていました。本社は会長と次男の茂が研削加工専門の工場として、高い研削技術を武器に順調に業績を伸ばしていきました。しかし、弟(当時専務)は病に倒れ、11年前の平成 10年(1998年)5月に亡くなりました。当時、日本は金融危機の最中で、賃貸工場は閉鎖して、 本社工場の事業を縮小し1、2階だけで営業するようにしました。弟が亡くなってから統率者がいなくなり、徐々に従業員が少なくなっていきました。閉鎖前には5人しか従業員がいないこともあり、大勢に影響はありませんが、一つの時代が終わったとの思いはぬぐいきれません。
4月17日に常陽地域研究センターによる取材がありました。6月号に掲載予定ですので、その原稿を掲載させて頂きます。常陽地域研究センターとは通称「常陽アーク」と云い、常陽銀行のシンクタンクで産・学・官から10名程の運営委員を選任し、テーマに対して意見を交換します。そして常陽アークの研究員がその内容を調査研究し、毎月冊子として発行し、常陽銀行の取引先に配布しています。運営委員の任期は年で、私は10年前から委嘱され、今日まで続けています。
製品割合は建設機械にしようされる油圧機器・油圧部品で約9割 当社は、創業当時は切削工具の研削加工専門で行っていましたが、油圧機器メーカーとの取引が始まり、油圧機器部品の研削加工の比重が次第に増えてきました。業務拡大のため茨城工場を設立し、研削加工の前加工である機械加工(旋盤、フライスなど)を取り入れ、部品の一貫加工を手がけるようになり、規模も次第に大きくなっていきました。その後は機械加工・熱処理・研削加工の一貫加工部品で業務を拡大し、近年では自社で製作された部品を使用し、組立・性能検査・塗装を行うOEM製品(ピストンポンプ・バルブ)を開発してきました。当社の製品割合は、建設機械に使用される油圧機器で約9割になります。油圧機器は、建設機械・農業機械・射出成形機・工作機械など幅広い分野に使用される補機部品です。特に油圧ショベルのスプール(コントロールバルブに使用される部品)のシェアは国内で約6割、世界で約4割となっています。バブル崩壊前は大手企業との取引では、お客様と競合している企業との取引は敵対的行為であるかのごとく思われ易いので、注意深くお客様を選んでいました。しかし、バブル崩壊後の大不況で系列関係や下請け関係が希薄になってきたので、既存のお客様の競合企業との取引を積極的に進め、不況を乗り越えていきました。結果としてお客様の数も増えていきました。
グループ会社について 特殊工程である熱処理加工は外注で行なっていますが、納期の混乱要因になっていましたので、 1997年に熱処理工場を作り熱処理を内製化しました。その後、熱処理の技術向上と収益力を上げるため、協立製作所以外の企業との取引を行うことにしたので、分社独立を行い協立熱処理工業㈱を設立しました。多くの企業の熱処理認定工場となり、取引の幅が広がりました。 また、中国では1991年に取引先に先駆けて中国進出を果たし、上海協立機械部件有限公司を設立しました。現地の日系油圧機器メーカーとは人民元、アメリカの油圧機器メーカーとはドル、フランスの流体機器メーカーとはユーロ、そして日本の協立製作所とはドルで取引をしています。
世界同時不況の影響は大きかった 当社は、直接輸出はないのですが、お客様の売上高に占める輸出割合が7割を超えていますので、今般の世界同時不況の影響を直接うけてしまいました。02年以降、建機メーカーは中国の需要をキャッチアップし、景気は上昇に向いました。その後世界の新興国の需要を取り込んだ建機メーカーは生産力の増強を図っていきました。当社はお客様の計画に基づき、毎年積極的に設備投資を実施してきました。しかし、毎年設備投資を行うことは経営のリスクが高まることを意味します。設備投資を行い企業規模が拡大するにつれ、人材教育が間に合わず、ムリやムダが目につくようになりました。変化のスピードが速く人が変化についていけないのです。しかし、このような不安定要因を持ちながらもお客様の要求を満足させるべく活動をしてきました。設備投資や人員を増やした結果、07年度の売上高は03年度比3.5倍に人員は3倍に拡大していきました。08年度の売上高は20%増の 60億円を計画していました。急成長をしている当社にとって計画通りに売上を達成できない窮地に追い込まれるという認識をいつも持っていました。 そんな中、08年8月に当社の子会社である上海協立機械部件有限公司の現地での受注が半分になったと報告を受けました。現地のお客様は日系の油圧機器メーカーで、日系の建機メーカーに油圧機器を供給しています。9月の受注も半分と報告を受け、何か異変が起きているのかと思いました。そして16日にリーマン・ブラザーズが破綻し、いわゆるリーマンショック後アメリカ発の金融危機が表面化しました。日本でも減産計画が発表され、生産調整に入ったことで、当社の月商は半分になりました。このような事態になると当社は窮地に追い込まれます。被害を最小限に止めるために10月初旬に幹部を集め、現状の状況説明を行い、かねてから準備していた対策の説明を行い、理解と協力を得られたので、計画に基づき即時に実施して行きました。 現在でも在庫調整が続いていますので、月・金曜日を一時帰休日にして火曜日から木曜日の3日働いて金曜日から月曜日の4日を休む、「3勤4休」体制を続けています。苦しい経営を強いられていますが、中国の内需拡大政策により一部に明るい兆しが出てきています。しかし、中国だけでは世界の経済を牽引することは難しく、アメリカ経済が上向かないと中国も息切れしてしまいます。6月には在庫調整が落ち着くと予想していますが、受注の回復は下期以降になるのではないかと思っています。非建機の油圧機器を受注するため営業活動をしてきましたが、少しずつ引き合いが来るようになりました。
合い言葉は、「中小から中堅へ」 当社では「中小企業から中堅企業へ」を合い言葉に、年間100億円の売上高を目指しています。会社が永続的に発展できる企業の仕組み作りが目的で必ずしも100億円が目的ではありませんが、「年間売上高100億円」が達成できれば、企業の仕組み作りも達成出来ると考えております。今後も試作から量産までのお手伝いを続けて、お客様満足度を高めていきたいと考えています。
リスク管理を徹底し、この不況下においても慣れない会社づくりを 常に先を予測することが不況の波を乗り越えるためには必要なことであるということです。リスクを予知し、もし万が一のことが起こった時のために備えをしておく。そして実際に不況が来た時には迅速に対応策が実行出来るように、体制を整備しておかなければならないと思います。その体制とは 100億円企業を実現するための「仕組み」です。 自分は2代目。「絶対に会社を潰さない」という気持ちを持って、「中小企業から中堅企業へ」体質改善を行い、全員のベクトルを合わせて実行していくことが、会社にとって大事なことだと考えています。
2月のマイナス在庫は、47件1,068個、4月末には9件144個と改善されています。マイナス在庫ゼロを達成して、システムの信頼性を高め、システムで仕事が出来るようにしていきたい。
年初に予測した景気の底は1~3月でしたが、直近の情報では3ヶ月ずれて6月まで続くものと予測されます。7月頃には在庫調整が終わり、10月には需要と同じくらい作業量が発注されるものと予想されます。その量は2008年上期の50%~60%、2009年の2~4月の2倍と予想しています。中国の景気刺激策で販売が伸びていますが、米国の回復がないと長続きしない。米国は2010年1月頃動きが出てくると予想しています。 売上が期待できない状況ですから、徹底した出銭の抑制を図っていかなければならない。①更なる工具費の削減。最適な切削条件を見つけ、最適な工具を選択すれば削減できる。②切削油の削減。床にこぼれていることは油を捨てているのと同じです。③消耗品の節約。④電気の節約。蛍光灯・コンプレッサー・機械の電源の入れっぱなし。
10月からの生産回復に向けて我々が出来る改善を進め、生産性を飛躍的に工場させる。その施策として①古い設備を休止して新鋭機に移管して加工する。②組立時間の短縮や直行率の改善。③段取り時間の短縮。④夜間の無人運転が出来るように改善。⑤設備の予防保全。これらの改善をスピードを上げて実行し、やり残しがない様にしましょう。5S・TPM活動で徹底的なムダ取りを行いましょう。そして皆さん個人のスキルを向上させ、仕組み作りを行い、システムで仕事が出来るようにしましょう。
この変化の激しい時代を生き抜いていくために、過去にとらわれていてはいけません。今の時代を生き抜くために、今なすべきことを実行していくことが肝要です。ダーウィンの進化論に「世の中で生き残っていくのは最も強い者でもなく、最も賢い者でもない。変化に対応できる者だけが生き残ることが出来る」とあります。この言葉を肝に入れ、会社の体質改善を進めましょう。
昭和28年に創業した場所は、東京都品川区荏原でした。その11年後、品川区東中延の地に移ってきたのは、今から45年前です。その本社工場が4月20日をもって閉鎖されることになりました。
昨年、9月15日のリーマンショック以来、世界の金融システムが機能しなくなり、アメリカ発の金融危機が起こりました。この金融危機が起こった時、マスコミの報道は、日本は既に金融危機を克服したので、アメリカより影響は軽徴であるとの論調を展開していました。しかし、10・11月に入ると経済の血液であるお金が回らなくなり、実体経済に波及し現在に至るまで経済は悪化の一途をたどってきました。そしていわゆる「派遣切り」が製造業を中心に各地で起き、報道は連日連夜「派遣切り」を行った派遣先の企業の非道を伝えていました。企業は派遣会社と契約を行い、法律に則り契約通りに実施していたにもかかわらずです。それは一ヶ月前に予告をして契約解除するか、一ヶ月の契約料を支払って即解除するかのどちらかです。しかし報道は過熱し、派遣会社への取材はなく現状認識を行わないまま、直接雇用していない派遣先の企業が矢面に立たされてしまいました。「法律を守っていればいいのか」と派遣労働者への救済を強く訴えていました。結果として世界同時不況の本質を外した議論が展開されてしまったと思う。
こうした状況に対応するためにセイフティネットを整備し、救済に当たるのは政府の仕事であると思うのだが、報道はセイフティネットを未整備のままにしていた政府の怠慢は取り上げず、派遣先の企業を標的にして批判を繰り返していた。私はこれまでの不況と質的に違い、大変なことになると思っていましたが、報道関係の人達はリーマンショック後の世界同時不況の影響を甘く見ていたように思います。トヨタが業績の下方修正を行い赤字決算に陥ると発表し、いわゆるトヨタショックが起きるとようやく冷静に世界同時不況の本質を議論するようになってきた。報道は事象の現象にとらわれず、 本質を見極めた議論・報道をしてほしいと思う。今起きたことの現象には必ず原因があります。この原因を分析していき、真の原因が分かれば問題は解決できると思いますが、本質を外した議論・報道では問題の解決にも役に立たず、世論を誤った方向に導いてしまうと思います。
大分話がそれましたが、今回の危機は過去に例の無い不況と捉えています。不況を乗り越えるため、昨年の10月からいろいろの対策を実施していきました。
東京工場の工場部門を茨城工場に集約するのもその対策の一つです。東京本社は、このような状況で借り手があるか分かりませんが、1・2階はテナントとして貸し出し、3階は本社として機能を残していきます。
この変化の激しい時代を生き抜いて行くために、過去に とらわれてはいけないと思っています。今の時代を生き抜くために、今なすべきことを実行していくことが肝要であり、ダーウィンの進化論に「世の中で生き残っていくのは最も強い者でもなく、最も賢い者でもない。変化に対応できる者だけが生き残ることが出来る」とあります。まさに変化に対応しないと生き残っていけません。東京工場の閉鎖は少し寂しい気持ちはありますが、生き残って勝ち抜いていくための積極的な施策と捉えています。
朝はジュースと生姜紅茶を飲み、筋力を付ける方法をどうしようかと思っていたとき、昨年3月に免許の更新で訪れた会場の階下にスポーツクラブがありましたので、思い切ってすぐ入会手続きを行ないました。決め手になったのは、平日夜の10時まで営業していたことです。仕事が遅くなっても通えるからです。この頃は、大変忙しく毎晩9時頃まで会社にいるか、出張で帰宅は10時を過ぎることも度々ありました。土曜はお客様の協力会や地域社会の活動で休む時間がありませんでした。週に一回は平日に、土日で二回、計三回は行くことに決めました。
最初は、トレーナーに指導を受けて上腕部・胸・大腿筋・腹筋などの筋力トレーニングの方法を教わりました。だんだん慣れてくるに従い、筋トレの種類を増やしながら、およそ1時間のトレーニング。次にランニングマシンで早歩きで、30分、60分と長くしていきました。3ヶ月がたった頃には走れるようになりました。週2~3回のトレーニングと食事。夜は満腹感がある食事を取ったせいか長続きしました。半年を過ぎた頃、体重は72~73kgに下がってきました。現在71kg。目標は69kg~70kgです。食事と運動の関係が分かってきたので、あと半年かけてゆっくり下げていきます。それと大事なことは毎日体重を量ることです。私は朝りんごとにんじんジュースと生姜紅茶を飲んだ後、夜の食事を取る前に体重を測定します。すると何とどれだけ食べると何キロになるか、週に何回運動すると何キロになるか分かります。
そのうちランニングマシンで走る時間・スピードを上げていくうちに、お客様のある部長に進められて、勢いで出場することになったわけです。最近、人間ドックで検査したところ大幅な改善が見られて、医者から薬を飲んでもこれほどの改善は見られません。と言われ1年間続けてきたことの成果が出てきました。人間ドックに行くのを楽しみにしたのは初めてです。体質改善に自身があったからでしょう。
継続は力なりですネ。
私がマラソンに出場したきっかけは、昨年3月から始めたダイエットです。私は身長170cmですが、昨年のお正月が終わった時、なんと79.5kgに増えていました。完全な肥満体でメタボになっていました。仕事が始まってから、食事を減らして2月には77kgになりましたが、一昨年の75kgに戻りません。
そんな時、銀行の研修会で医師による「食べない健康法」と云う講演を聞きました。その内容は「人間の病気はカロリーの取りすぎによるものが大半で、一日一食で十分である。一日三食というのは戦後の貧しいとき、三食食べないと必要なカロリーと栄養素を取り入れることが出来ない。カロリーを取りすぎると免疫力が低下し病気になりやすい。」と話されました。私は昭和25年生まれですから、物心ついたとき、お米は配給制で母親が栄養のある食事を工面して、朝と夜に生卵を食べさせてくれました。今は本当に飽食の時代ですネ。健康のためには一日三食は絶対必要と思っていましたので、お腹がすいていなくても食べていました。
続けて食事の取り方を教えていただきました。「朝しっかりと食事を取り、夜10時を過ぎたら控えめにと言われています。これは正しいことです。しかし、経営者の皆さんは夜の会合・懇親会などで付き合いも多く守ることが出来ない。私が長年研究した成果は、栄養素はりんごとにんじんジュースを1:2の割合にするとほぼ全て摂取することが出来る。そして生姜紅茶(生生姜の摩り下ろし)に黒砂糖を入れて飲んで下さい。生姜は体温を上げる作用がある。体温を上げると免疫力が上がる。黒砂糖は必ず入れる。朝糖分を取らないと脳が活性化しない。従って、朝と昼はミックスジュースと生姜紅茶と取り、昼お腹がすいて我慢できない場合は蕎麦を食べなさい。そして夜の食事はいっぱい取りなさい。同時に大事なことは筋力を付ける運動をしなさい。特にお尻と大腿部は筋肉の量が多くカロリーを消費する。つまり太りにくい体質にすることが肝要です。」とお話されました。バランスの良い食事と運動を行うことです。あたりまえの話ですが、お医者さんが健康と食事・運動のことを論理的に説明して下さいました。本も熟読して実行に移しました。石原先生の「食べない健康法」という本です。
4月19日 日曜日、6時に起床し、朝食をとり、6時20分に出発し土浦駅の駐車場に車を置き、徒歩で約10分会場の陸上競技場に7時30分に着いた。スタートは9時35分。受付を済ませ、記録用 ICチップをシューズの紐に縛り付けた。このチップはゴールのゲートを通過すると電波で確認し選手のタイムをパソコンに記録していく。エントリーは24,000人を超え、東京マラソンに次ぐ大きな大会に成長してきた。大会は5km・10マイル(16.09km)・フルマラソンに分かれて行われ、私は10マイルの部に出場しました。昨年3月からダイエットの為、スポーツクラブに入ったのがきっかけで、つい知人に進められて勢いでエントリーしました。
8時30分開会式が始まりました。 常総学園のブラスバンド・チアリーダーが演技を行い、大会役員の挨拶後、先導の白バイ隊が紹介され、オリンピックメダリストの有森裕子さんが紹介されました。 有森裕子さんはボランティアで視覚障害者の伴走者として10マイルのレースに出場するとのことでした。他にもボランティアの伴走者として140人の応募があり、本レースでは40人が伴走すると報告がありました。初めてマラソン大会に出場する私にとって、
ボランティアの伴走者が多いのに感心すると同時に、マラソンが盛んなことを認識しました。
スタートは個人の予想タイム毎に並びます。先頭は50分以内で、私は1時間30分の集団の最後につきました。スタートの合図はヘリコプターがスタートラインの真上に停止状態で飛び、花火の音で一斉に走り始めました。壮観ですよ。私が走り始めたのは5分位してからです。スタートして10分位で常磐線の陸橋の頂上に来たとき、前方・後方を見ると通路いっぱいに、人の長い列が帯をなしているかのようでした。私は自分のペースを守りながら順調に走って行きました。
ところが11km付近で右膝外側のじん帯に違和感を覚えてきました。少しペースを落とし、苦しくなった12~13kmの上り坂地点で、後ろから有森裕子さんが視覚障害者を伴走しながら、大きな声で「大きく腕を振って、あごを引いて」と何度も繰り返し、周りの人を励ましていきました。私も大きな声に励まされ大きく腕を振って坂を上って行きました。14kmを過ぎ、あと2km弱のところで右足外側のじん帯の痛みに耐え切れず、歩いてしまいました。その後、歩いて少し痛みが治まると走り始める状態を繰り返してゴールしました。目標だった感想は達成したので、満足満足。記録は後日完走証明書を郵送されるとのことですが、たぶん1時間45分位ではないかと思います。
初めての体験で、最初息切れを心配していましたが、足が痛くなるとは予想していませんでした。クラブでいつも1時間位走って一度も痛みを感じなかったからです。足の疲労を防ぐために出来るだけ軽いシューズを選んで走りましたが、失敗の原因でした。マシンで走っているとコンベアーがクッションになり、膝にくる衝撃が和らぎます。しかし一般道路のアスファルトは硬く予想以上に足に負担を負いました。やっぱり経験していみないとわかりませんネ。今度、出場する時はかかとの部分にクッションがあるシューズを履いて挑戦します。
続いて慶應義塾大学経済学部の池尾和夫氏からお話を聞きました。アメリカ発の金融危機の構造を分かり易く解説されていました。「今回の金融・経済危機の展開過程は、3つのステージに区分して捉えることが出来、第1ステージは2007年から3月から2008年3月までのサブプライム・ローン問題と呼ばれている時期です。この時期は、米国連邦準備制度の事実上の斡旋による、2008年3月のベアー・スターンズのJPモルガンによる救済合併をもって終了する。そして、全般的な信用市場の危機に拡大した時期が、第二ステージである。信用市場の危機はいまだ完全に収束してはいないけれども、この第二ステージは2008年9月のリーマン・ブラザーズの破綻までとする。それ以降は、金融資本市場の危機を超えて、実態経済の悪化を伴う経済危機の様相を呈するようになるからである。すなわち、第3ステージは、2008年9月から現在に至る世界同時不況と呼ばれるようになった時期である。」と分析していました。
さらに、「金融規制監督の面で、今回最も問題なのは、新たに出現していた重層的な市場型間接金融の連鎖がほとんど規制の範囲外に置かれたことである。何らかの規制をかける必要性は指摘されてきたにもかかわらず、規制強化の動きは阻止されてきたとともに、不適切な規制緩和がむしろ実施されてきた。」と論点を明確にしていました。つまり金融の暴走を止められなかったという事だと思います。
結びに「現状は危機の再来を防止するために、金融市場と規制枠組みを強化する改革」を検討するに先立って、「今ここにある危機をいかにして収束させるか」に注力せざるを得ないものでる。実質的に機能を停止している米国の信用市場を再起動するためには、どのような方策が有効であるか。要するに、金融機関(あるいは、投資家)が流動性を留保しようという行動を取っているのは、将来の不安に備えてであると同時に、将来の機械に備えてであると考えられる。と池尾先生は結んでいました。
私の表現で繰り返すと、暴落して価格が下がった時に買うための資金を留保し、利益を上げられるという機会を投資家・金融機関がうかがっている。利益が上げられる確立が上がってくると、物件を買出す。この行為が連続的におこってくれば資金が回りだしていく。実態経済が回復基調に入っていく。その時の為に、再発防止策として適切な規制を整備していくことであると思う。
東京財団が主催するこのセミナーは無料です。興味のある人はホームページで申し込むことが出来ます。
先週、9日に東京の虎ノ門にある東京財団ビルで開かれたセミナーに出席しました。講演は、「金融・経済危機と今後の規制監督体制」と題して、財務省国際局の中島武彦氏と慶應義塾大学経済学部の池尾和人氏からお話を聞きました。
中島氏から4月2日に開かれたロンドン・サミットでの会議内容を講演されました。前段の要約は、「世界的な危機には世界的な解決策が必要。市場原理、効果的な規制及び強力な世界的機関に基づく開放的な世界経済が重要である。サミットの合意により、IMFの資金を7500億ドルに3倍増、 2500億ドルの特別引出権新規配分を支持し、国際開発金融機関による1000億ドルの追加的貸付を支持し、2500億ドルの貿易金融支援を確保し、最貧国向け譲許的貸付のため、IMF保有金の売却益を活用する。全体として信用と成長及び雇用を回復させるための1.1兆ドルのプログラムを構成する。これは各国がとっている措置とあわせ、前例のない規模の回復のための世界プランとなる。」とお話されました。
さらに、六つの分類 ①成長と雇用の回復 ②金融監督及び規制の強化 ③世界的な金融機関の強化 ④保護主義への対抗と世界的な貿易・投資の促進 ⑤万人のための公平で持続可能な回復の確保 ⑥コミットメントの遂行 に順序良くお話いただきました。ただ世界の同時不況を解決するための金融全般を理解するのは、大変難しかった。というのは世界全体のマクロ経済の話が我々中小企業のミクロ経済の金融にどのように繋がっていくのか、時期はいつ頃か、融資は受けられるのかといったことが具体的な形でイメージできなかった。しかし私は難しい内容の話でも諦めずに、接しているとある時突然理解できるということを体験しているので勉強していきます。
20年前、私はシカゴ国際工作機械見本市に行き、友人の家に泊まったときのことです。友人の2人の子が、地元の中学校に入学した時、言葉か分からず、宿題を出されたことも分からない状態でした。しかし、3ヶ月が過ぎた頃英語が聞き取れるようになり、3~6ヶ月の間は言っていることは分かるのだが、話ことが出来ない、6ヶ月過ぎると突然話し出した。
難解な金融の話と英語が話せるようになることは、人間の脳の構造から同じではないかと思います。あきらめずに聞く、読む、話す、理解することの努力をしていると、ある日突然理解出来るものです。少しずつ理解するのではなくある日突然です。私にも同じ体験があります。あきらめずに継続する。継続は力なりです。
工作機械のメーカーのビックユーザーの会であるオークマ会に出席しました。名古屋駅で名鉄に乗り換え、犬山駅まで約20分、タクシーで約10分、愛知県犬山市のホテルに着きました。昨年は風が強く葉桜になってしまいましたが、ホテルの周りは桜が満開で大変綺麗でした。
オークマさんは創業111周年で日本の工作機械メーカーでも老舗で昭和40年代から普及が始まったNC(数値制御)工作機械を商品化したときに、機電一体で開発を進めた数少ないメーカーです。「お客様謝恩会」では社長の花木さんが「リーマンショック以来、突然受注が無くなり大変な状況にあるが、厳しい季節で寒さを乗り越えた桜はより綺麗になるがごとく、弊社も厳しさを糧にして次の飛躍のために頑張っています。また、今年開かれるプライベイトショーに10種類の新機種を発表しますので、是非お出で下さい。」と力強い挨拶をされました。そして自動車・機械・電気業界の方々と旧交を温め情報交換を行い有意義な一日を過ごしました。
私は昭和50年頃に工業新聞を見て、NC工作機械に興味を持ち調べていくうちに、オークマさんの8尺旋盤をベースに開発したNC旋盤LSNの展示会を見に行き、当時の社長(現会長)を説得して購入しました。自分でメーカーのスクールに行き、機械操作・プログラム作成の方法・保全を勉強しました。
私の大学での卒業論文は「直流モーターの位置制御」と云うテーマです。自分が勉強していた基礎研究が工作機械の位置制御に応用されているとは思いませんでした。NC旋盤の刃物台の位置を制御するのに電気で直流サーボモーターを回転させ、このモーターに直結されたボールベアリングを介して刃物台の位置制御するわけです。
NC(数値制御)は第二次世界大戦のさなかアメリカが艦船のスクリューの形状を測定するために開発されました。スクリューの形状は複雑な曲線をしていますので、最後の手仕上げの段階で曲線を測定する道具を使って完成させたそうです。この制御技術をさらに開発して工作機械に応用して数値制御の旋盤が完成されました。余談ですが、約25~26年位前に日本のT社が開発した5軸マシニングセンターをソビエト連邦に輸出し、この機械で加工したスクリューを潜水艦に装着したところ、アメリカ海軍のソナー(音波探知機)はソビエトの潜水艦のスクリュー音が捕えにくくなったそうです。その原因が日本のマシニングセンターで加工されたスクリューの精度向上であることが分かり、日本に対して激しい抗議がなされ、T社の親会社の社長までが辞職させられていました。
ブログを書いているといろいろ過去のことを思い出しますネ。