この庄野宿は歌川広重の東海道五十三次の傑作「庄野の白雨」の舞台だそうだ。亀山には予定の12時に着きそうだ。亀山宿は町を見下ろす亀山城跡があり、おもむきのある町並みが続く。12時半にホテル近くのファミレスで昼食を取り、チェックインにはまだ早いと思い、時間調整を行い1時30分にホテルに行き、チェックインを行うため、フロントに行った。しかしチェックインは3時からだと言われ、早く部屋に入れるように交渉したが、断られた。事情を話して足がくたびれているので、再交渉したが、だめだった。仕方なくロビーのソファーで休んで、3時になるまで待つことにした。すると20分位してからフロントの女性が1時間1,000円の割増料金を支払えば、部屋に入れますと云われ、結局1時間10分の割り増しで、2,000円を支払ったが、約8時間超雨の中を歩いて、疲れていたので2,000円と休みたいとの価値を考えたら、早く休みたい方が優先する。「もっと先に言ってよ」と、思わず口から出そうになった。ようやく部屋に入り、足のケアーを行い、体を温めて2時間ほど横になった。6時近くのファミレスで夕食を取り、コンビニで翌日の朝食おにぎり、サンドイッチ、野菜ジュースと水とスポーツドリンクをそれぞれ1本購入した。部屋に戻り翌日の道順と天気予報を確認した。明日は亀山宿まで43㎞所用時間約10時間、最後の難関鈴鹿峠を越えなくてはならない長距離だ。頑張るぞ。9時に就寝。
桑名は慶長6年(1601年)に藩主となった本田忠勝が整備した城下町で、現在は九華公園となっている桑名城跡がある。今日の宿泊地は桑名駅近くのビジネスホテル「桑名グリーンホテル」に午後5時前に着いた。およそ10時間かかったが、すぐに足を冷やして、シャワーを浴び、汗を洗い流した。食事の店の案内図をホテルのフロントで手に入れ、目指すは桑名名物の桑名の焼き蛤だ。
10日目5/4火曜日 知立宿出発 朝、5時に起床して、ストレッチしてから今日の予定と天気予報を確認した。桑名宿まで43㎞ 9時間30分の道のりだ。最初は間の宿有松、鳴海宿、宮宿、桑名宿と行く。桑名宿からは伊勢・近江路に入り、京都はもう間もなくだ。ホテルで朝食を取り7時に出発した。9時過ぎに間の宿(あいのしゅく)有松に入った。間の宿とは、幕府の駅制下では基本的に宿場以外での宿泊は禁止されていたので、宿場間の距離が長い場合や、峠越えなどの難路の場合、宿場間に休憩用の「宿」がおかれ「間の宿」と呼ばれていた。名鉄名古屋本線の有松駅の南側と国道1号線に挟まれて並行する旧東海道を行くと、江戸時代さながらの趣のある町並みが整備されて残っていた。江戸時代絞り染めの手拭いや浴衣などを、道中の土産に求めていたと云う。
東海道五十三次旅日記
間もなく赤坂宿に入った。赤坂宿は遊興地としての色合いが強く、広重の東海道五十三次も、風景が多い中にあって、御油と赤坂では旅の風俗が生き生きと描かれ、赤坂宿では旅籠の様子が詳細に描かれ、今日と同様、女性が多く旅していたことがうかがわれると云う。宿に入ってすぐ関川神社があり、境内に芭蕉の句の石碑の「夏の月 御油よりいでて 赤坂や」と刻まれていた。夏の夜は短くすぐに明けてしまうということを、御油・赤坂の距離の短さと松並木の美しさで表現した句だと云われている。藤川宿に入り、脇本陣跡の隣に立つ資料館に立ち寄ったが、靴を脱がなくてはいけないので、中をのぞいて上がるのをやめ、先を急いだ。藤川宿に入り、脇本陣跡に立つ資料館を覗いたが、靴を脱がなくてはいけないので、先を急ぐため上がるのを止め、岡崎宿に向かった。ここまでが日本橋から314kmの道標を見ながら岡崎市に入った。左手に公園の中の岡崎城が見えた。
ここ岡崎宿は徳川家康出生の城と呼ばれた岡崎城の城下町で、矢作川にかかる八帖橋の左手に八丁味噌の郷と記された大きな店と老舗の店が立ち並んでいた。橋を渡り終えるとそこには日吉丸と呼ばれていた豊臣秀吉と野武士の統領であった蜂須賀子六の「出会い像」の石像が建立してあった。その後15時20分に知立市に入り、16時にホテルルートイン知立に到着し、チェックイン後、すっかりルーティンになった足を冷やすことと、ストレッチを行いホテル内のレストランで食事をした。部屋に戻り、翌日の準備と天気予報を確認し、9時に就寝した。
9日目5/3月曜日
御油宿出発
朝4時に起床。今日の工程はおよそ37kmと短めなので、前日にコンビニで買った朝食をゆっくり食べ、余裕を持って7時に出発した。しかしホテルから旧道に出ようとナビを見たが、自分の位置が分からない。何度か行ったり来たりしながら、ようやく国道一号線にでた。ここから旧東海道に出て、順調に歩き始めたが、自分の頭にある地図と歩いている道に違和感がある。歩き始めてから1時間半御油駅の看板が見えた。これで分かった。前日泊まったホテルの位置を勘違いしていた。計画段階で御油駅近郊にホテルが見つからない。やむを得ず御油駅から5.5km先のホテルを予約したが、これが間違いだった。泊まったホテルは御油駅手前に位置していた。良く調べてみると御油駅から三つ手前の諏訪町駅近くだった。計画段階での失敗だった。予定より多い距離を歩くことになったが、気を取り直して赤坂宿に向かった。赤坂宿は宿場町で御油宿との距離が一番短い宿場である。 江戸時代からの松で知られる御油の松並木600m続く
御油宿の国の天然記念物の松並木は旧街道の風情を味わいながら、このような松並木保存されていることに、感心しながら進んでいくと、小さな案内板に「御油松並木愛好会と御油小学校の卒業生が記念に苗木を毎年植えている」と説明があった。ちなみに、「東海道中膝栗毛」の弥次郎兵衛が狐に化かされる話の舞台はこの御油である。資料館に立ち寄り説明文をいただいた。御油の松並木は江戸時代の初めに東海道の並木として御油・赤坂宿間に整備され、幕府によって管理されていたと云う。明治に入って宿場制度が解体され、管理の所在がはっきりしなくなったが、 地元御油町で管理を続けてきた。その後太平洋戦争のため全国的に多くの松が燃料として切り倒されていることを憂慮し、御油町の人達が並木を存続させるため、天然記念物指定を受ける働きかけを行った。その結果、東海道の松並木として代表的なものと言う理由により、昭和19年に国指定の天然記念物になったと云う。昭和47年松並木愛護会が発足し、昭和50年に大規模な松の補植が行われ、江戸時代の並木景観を現在もなおとどめていると云う。しかし昔の宿場町の面影はない。
8日目(5/2)日曜日 舞阪宿出発
4時起床。天気予報の確認したところ、曇り時々雨だ。今日の計画は新井宿、白須賀宿、二川宿、吉田宿、そして宿泊地の御油宿だが、天気が不安定なので、白須賀宿は行かずに新居宿から直接二川宿に向かうことにした。その方が距離は短縮できるし、雨を回避できる可能性が高い。一通り今日の計画を見直してから6時半に朝食会場に行った。久しぶりの朝食バイキングは感染防止のため、マスクと薄手の手袋をつけて、食べ物をトレイに盛り付け、約2mの間隔を空けてテーブルについて、朝食をとった。今日は御油宿のビジネスホテル「コンホートホテル豊川」まで35㎞と比較的短いので7時半にホテルを出た。正面に弁天島駅があり、西に歩いて行った。浜名湖にかけてある中浜名橋、西浜名橋を渡り終えると、新居関所跡に着いた。1時間もかからない距離だ。新居関所は箱根関所と並ぶ東海道の重要地点に位置付けられていたという。現在の遺構は幕末の安政2年(1855年)に再建されたもので、江戸時代の建物が残るのは全国でも新居関所だけだという。番所が公開され、資料館が併設されていた。新居関所を後にして二川宿に向かうが、ここからはガイド本にないルートだ。ナビで二川宿手前の東海道本線の新所原駅にセットし、約9kmの距離だ。旧所名跡等ない山間部と田んぼが広がる田園風景の道を歩く。遠くに大きな工業団地が見え、有名なオートバイのメーカー2社の看板が見えた。更に歩き続け細い道に出たところ「豊田佐吉記念館」の看板があった。トヨタグループの礎を築いた佐吉翁の記念館だ。
東海道五十三次旅日記(17)
東海道五十三次旅日記
7日目(5/1)土曜日 掛川宿出発
午前3時に起床、軽くストレッチを行い、前日にコンビニで買ったお握りと菓子パン、そして野菜ジュースで朝食を済ませた。本日、宿泊の舞阪宿にある「浜名湖弁天リゾート・ジ・オーシャン」まで42㎞、約9時間の道のりだ。到着地の天気予報は午後3時頃から小雨の予報なので、雨が降る前に到着するように、朝5時に出発した。到着時間は午後3時を予定。今日は掛川宿から袋井宿、見附宿、浜松宿、舞阪宿の道のりだ。最初の袋井宿は東海道五十三次のちょうどど真ん中の27番目の宿場である。掛川宿から断続的に続く松並木は久津部(くつべ)あたりで、終わりになるという。出発前にナビとガイド本の絵地図を確認、ホテルは掛川駅の南側なので、駅の北側に出て駅前通りの二つ目の十字路を左折すると旧街道に出る。いよいよ出発だ。朝5時の天気は晴れ、少し肌寒いので、半袖シャツに長袖のパーカーを羽織った。しかしここでもナビを頼りに旧街道に出ようとしたが、住宅街に入っていき、なんとなく住宅街の中を回っている感じがした。20~30分の間ナビで正常なルートに戻ろうとしたが、方向感覚が狂ってしまった。犬の散歩していた地元の人に絵地図を見せて教えてもらった。10分ほどで旧街道に出た。
この近くには十九首塚と云う平将門と家臣19人の首実検が行われた場所がある。平将門は小生の自宅から30分ほどした常総市が出生地といわれ、ここを拠点に関東を治め、「平将門の乱」と云われる天皇に反旗を翻した豪族で、藤原秀郷の連合軍に坂東市