Q-景気の流れを踏まえて、どのような取り組みを行っていきますか。
A-「厳しい見方をしており、リーマン・ショックに匹敵する対応が必要と考えている。すでに残業なし、一時帰休を実施している。時間に余裕が出てきたので、納期遅れゼロ、客先クレームゼロ達成に向けた人材育成の取り組みを強化している。リーマン、東日本大震災から立ち直って、12年は過去最高の売上を達成した。納期対応のための無理が、無駄を生む構図になっていた。製造業が世界との競争で、勝ち残るには人しかないと思っている。13年は一度リセットして改善活動や、社員教育をこれまで以上に強化する時期としたい」
Q-世界の景気の動きは予断を許さない状況ですが、一方の茨城県内の経済状況はいかがでしょうか。
A-「県内も楽観できない経済環境だと思う。12年11月末までで県内高校生の就職内定率は69.7%。1500人が、まだ内定をもらっていないと聞いている。 約150の茨城産業人クラブの会員企業でも、業種や企業規模、個別の事案に応じて、好不調それぞれあると思う。こうした時にこそ、産業人クラブの活動を通じて、会員間の意見交換を深めて、経営改善に、役立てて欲しい」
Q-茨城産業人クラブの13年の方針は。
A-「会員増強と、会員間におけるビジネス情報の交流の場の拡充、後継者育成などを毎年のスローガンとしている。昨年は、日立製作所など県内に立地する大手企業の生産部門の責任者による討論会『工場長サミット』の開催や、茨城県つくば市にある産業技術総合研究所との交流会などを実施した。また、ニッチ市場ではあるがトップシェアを持つ県内中小企業経営者数人による討論会や、新日鉄住金の鹿島製鉄所の見学会も行った。今年も趣向を凝らした取り組みを実施し、交流の場を実りあるものにしていく予定だ」
Q-会員各社にひと言お願いします。
A-「厳しい経済環境の時こそ、社会環境の変化に柔軟に対応することは不可欠。協立製作所の経営理念は『挑戦と創造』で、これは、私が協立製作所の社長に就任して以来、常に行動してきた結果を文字にした。常に挑み続け、立ち止まることのない経営を目指している。そのためには、茨城産業人クラブを軸にそれぞれの立場で情報交換し、経営の質を高め合うことが、私にとって、かけがえのないものになっている。内向き・下向き・後ろ向きの中からは不安と絶望しか生まれてこない。外向き・上向き・前向きの中からこそ希望が生まれてくると信じている」
「産業人クラブの一層の活性化が会員各社の経営・事業にも大きな刺激を与え、希望を見いだしていくと思う。先人たちの築いてきた産業人クラブの歴史をさらに発展させるよう微力だが、力を注ぎたいと思う。今年も会員のみなさまの協力をお願いしたいと思う」
昨年12月7日、水戸三の丸ホテルにおいて、日刊工業新聞社の水戸支局長から 約2時間のインタビューを受けた。2013年1月1日付け、2012年産業人クラブ新会長のインタビュー記事が掲載された。
記事の前段要約では
2013年が幕を開けた。安倍晋三首相による日本経済復活に向けた政策に産業界は大きな期待を寄せている。全国各地の中堅・中小企業経営者を中心に組織する産業人クラブは支部を含め30組織あり、会員は1800人。日刊工業新聞社の支社・総局・支局が事務局を務める。異業種交流組織の草分けとして14年には栃木産業人クラブなどが創立50周年を迎える。地域を越えた産業人の交流は、ビジネスのヒントになるだけでなく、経営者同士の絆を強固にする。年頭にあたり、茨城、栃木、新潟の各産業人クラブ会長に今年の抱負を聞いた。
以下一問一答形式。
Q-景気は不透明感が払拭されません。
A-「2012年7月に茨城産業人クラブ会長に就任した時から比べて、厳しさが増していると思う。円高は長期化し、さまざまな法整備や税の問題、さらにエネルギー問題など課題は山積みだ。例えば電気代の値上げの問題では、わが社は年間4000万円の負担増になる。コストの中で電気使用の占める割合が、高い企業はもっと大変だと思う」
Q-建設機械用油圧機器向けの部品の加工が主力ですが、建機の巨大市場である中国は混迷しています。
A-「世界の建機市場の半分は中国。当社の主力ユーザーが戦う油圧ショベルの市場はマイナス成長が続いている。中国は政治・経済の混迷が複雑に絡み合い楽観できない。一方で、日本や米国、アフリカの市場は好調。12年12月に南アフリカ共和国とザンビアを訪問し大型建設機械を使った露天掘りの鉱山などを視察したが、市場に勢いを感じた」
新年明けましておめでとうございます。こうして皆様の元気なお顔を拝見し大変嬉しく思います。
昨年の世界経済は、ギリシャ・スペイン・イタリアの債務問題が、引き続きヨーロッパ経済の停滞を招き、この影響により中国経済や好調だったインドネシアを初めとする新興国の経済も昨年中盤から大きく後半しました。北米は財政問題を抱えているものの堅調で、資源国であるアフリカも堅調に推移しました。
一方日本経済は、超円高が続く中で、時代に会わない法規制や税金問題に加えて、エネルギー政策による電力料金の大幅値上は「製造業は国内から出て行け」と云われているに等しいとおもう。震災復興で需要はプラスに作用しているものの、世界経済の減退、とりわけ中国経済の影響を受け、輸出が大きく後退しました。このような中で、我々㈱協立製作所は受注の大幅な減少を余儀なくされ、やむを得ず10月から一時帰休を始めました
我々にとって2013年は大変厳しい状況が続くものと予想されます。年末から円安に触れているものの、新興国との価格競争を余儀なくされる状況に変わりはありません。我々のとるべき方策は、安全第一の下、客先クレームゼロとお客様指定納期100%の確保です。これが達成できれば、コストダウンも実現でき、競争に打ち勝つことが出来ます。
一
現在、産業人クラブは、東京、大阪など全国に27カ所あり、総会員数 約2,000名を数えます。茨城産業人クラブは、日刊工業新聞社茨城支局が事務局を務め、県内の製造業、金融機関、大手企業の工場、支社・支店など会員数は約150。名誉会長は橋本昌茨城県知事で、茨城県商工労働部長や筑波大学、茨城大学などが参与として参加しています。講演会や意見交換会、工場見学などの活動を通して、会員相互の交流、経営強化などを促しています。各地域の産業人クラブとの連携・交流も近年は盛んになっています。
昨年の東日本大震災では、会員各位におかれまして、大変な被害を受けたこととお察しするとともに、心からお見舞い申し上げます。この一年あまり、従業員・関係者が一丸となって結束し、この難局を打開してきたことと思います。
復旧・復興に向けた取り組みのなかで、景気は緩やかな回復を示してきました。ただ、今後の経済環境も、なお楽観できません。今年度の国内GDP成長では2%台半ばが予想されています。ギリシャ議会選挙で、財政緊縮派が勝利し、ギリシャがユーロに留まることになったとはいえ、依然として欧州経済の不安は尽きません。また、国内では大飯原発の再稼働が決定しましたが、エネルギー問題そのものが解決したとは言い難い状況です。県内経済の見通しも楽観視するほどの材料はありません。
こうしたなか、変化に柔軟に対応することは不可欠です。協立製作所の経営理念は「挑戦と創造」です。これは、私が社長に就任して以来、常に行動してきた結果を文字にしました。常に挑み続け、立ち止まることのない経営を目指すためには、茨城産業人クラブを軸にそれぞれの立場で情報交換し、経営の質を高め合うことが私にとってもかけがえのないものになっています。内向き・下向き・後ろ向きの中からは不安と絶望しか生まれてきません。外向き・上向き・前向きの中からこそ希望が生まれてきます。
産業人クラブのさらなる活性化がみなさまの経営・事業にも大きな刺激を与え、希望を見出していきたいと思っています。先人たちの築いてきた産業人クラブの歴史をさらに発展させるよう微力ではありますが、力を注ぎたいと思います。みなさまのご協力をよろしくお願い申し上げます。
7月3日(火)水戸京成ホテルにおいて、茨城産業人クラブの定時総会が行われ、第8代の会長に選任された。産業人クラブは産・学・官に金融を加えた異業種交流会である。副会長を2期4年務めた後ではあるが、身の引き締まる思いである。会長就任の挨拶を2回に分けて記すこととする。
「先程の総会において会長に選任いただきました㈱協立製作所の高橋でございます。就任にあたりひと言ご挨拶させていただきます。
柳生前会長におかれましては、政治・経済が混迷する中、リーマンショック、東日本大震災を経て、今日まで産業人クラブを率いていただき感謝に耐えません。ありがとうございました。
産業人クラブは、政治、経済、技術などの情報を交換し、経営者の資質向上、事業の拡充を図り、わが国産業の発展に寄与することを目的に、昭和39年4月、工業人クラブとして、当時、関東地区の産業人111人で設立されました。正確な産業情報を素早くキャッチし、また、交換し、それぞれの企業経営に役立てること。さらには産業界に起こるさまざまな問題の研究や、解決を図りながら「日本の将来は工業立国である」という共通の目標のために手を組んで進もうと組織されました。
茨城産業人クラブは昭和39年4月7日(火)、いわき地区を含む常磐地区の産業界の交流、発展を図るために「常磐工業人クラブ」としてスタートしました。初代会長は、茨城県日立市の日立機械工業社長の北山直太郎氏が就任。副会長には前会長であります、コロナ電気、柳生社長のお父様が就任しています。その後、4代目には、日東電気の阿部、前社長、5代目にはデベロの立井前社長、6代目に平沼産業の平沼社長を経て、私が8代目を務めることとなりました。
景気の紆余曲折で、産業人クラブの活動は一時、停滞した時期もありましたが、会員相互に経営の資質向上に努め、情報を発信し続けることで、常に県内の産業界をリードしてきました。この姿勢は今後も変わることはないでしょう。
6月16日(日)、協力会であるきょうわ会の総会コンペで、ベストスコア74の成績を上げることが出来た。場所は鬼怒川CCのFTで、距離は5,757(大谷C 2,874 鬼怒C2,883)である。普段プレーしているコースに比べると短いが、コースのフェアウエイの所々に木々とバンカーがグリーンをガードしており、二打目を考えてティショットを打たないと、思わぬところで大たたきしてしまうコースである。戦略性にとんだコースレイアウトである。
出だしの大谷コースはドライバーの調子が悪く苦戦した。しかしパットの距離感と方向感が合っていたため、ワンパットが4回あり14回だった。その結果スコアは2バーディ・4ボギーの38でホールアウトすることが出来た。後半の鬼怒コースは出だしからドライバーの調子がよく6番まで連続パー、7番が3オンし5メートルのパットを外してボギー、8番パー、9番は2オンし4メートルを沈め、バーディとした。 1ボギー1バーディの36で、74のベストスコアで上がることが出来た。
パートナーは木城製作所の木城社長・曙産業の杉沢社長・日章製作所の高田社長で、緊張感を持ちながらも、楽しくプレーすることが出来た。お三方ありがとう。
2009年からシングルプレーヤーになりたいと思い、練習を始めたが、我流では壁にぶつかり、2009年平均スコア88.3、2010年89.6、2011年88.5と低迷した。昨年の8月から近くの練習場でスクールに入り、今月で15回のレッスンを受けた。最近この成果が出てきて、現在では平均スコア87.5に上昇してきた。
シングルに向かって挑戦するぞ!!!
現地販売に方針転換したとのことですが。
進出当初、現地法人ではコストメリットを活かした部品を、国内では付加価値の高い作業を行っていました。現地法人で加工したものは100%本社へ輸出し、本社で品質保証をして販売していました。しかし98年のアジア通貨危機の際に仕事量が激減し、現地法人に発注する仕事が無くなってしまいました。日本向けの仕事だけでは、需要の変化に対応できないという教訓から、日本の本社向けに20%確保すれば、自社で営業活動を行い、自立する活動に方針転換しました。それから、顧客の紹介などの人脈を通じて、現地法人は新規取引先の開拓に取り組んできました。その結果、現在の取引先は上海に進出している日系メーカーにとどまらず、欧州メーカーにも広がりました。販売先の割合は、本社向けの輸出が10%で、現地日系メーカーな販売が40%、50%は欧州メーカー向けに輸出しています。
上海における事業環境の変化はどのように変わってきましたか。
上海では、人件費が急速に上昇しています。進出当時、人件費は工場労働者で約8千円だったが、現在は残業代まで含めるとおよそ4万円から5万円に上昇しています。また、上海などの沿岸部の人件費の上昇により、生産拠点が内陸部へシフトしていることも大きな懸念材料です。今後、内陸部に働く場所が出来たことで、内陸部から農民工といわれる労働者が、沿岸部まで出てくるかは不透明な状況になっています。
拡大する需要への対応は。
建機業界は、需要の変動が激しい産業です。油圧機器の需要は、リーマンショック後に大幅に減少しましたが、その後回復し、新興国の需要増加を背景に、2010年度比で2015年後は1.5倍に伸びると予想されています。当社も、拡大する需要に対応できる生産体制をいかに構築していくかが今後の課題になっています。設備投資だけでなく、人材の育成も最重要になっています。
企業の発展に向けては。
当社が進出した当時に比べ、中国に進出している日系企業も多くなりました。行政や地元金融機関の事務所も現地に置かれ、情報を集めやすくなっています。今後も国内の事業環境が好転することは、期待できない状況です。中小企業も国内だけにとどまらず、海外に進出して相乗効果をもたらし、国内の事業を発展させることが重要だと思います。
常陽銀行のシンクタンク「常陽地域研究センター」の月刊誌4月号の「視点」に、中小製造業のグローバル化と題して寄稿した。同時に研究委員から様々なことのインタビューがあった。
スプールの製造販売で世界シェア4割とのことですが。
当社は、油圧機器の専門製造メーカとして、原材料から、NC工作機械による切削加工、焼入れ、研削、組立、試験の一貫生産ラインを構築し、油圧のピストンポンプやバルブのOEM(相手先商標)商品と油圧機器の精密部品を販売しています。
中でも、油圧ショベルの主要コンポーネントであるコントロールバルブのスプールは、バルブ内に組み込まれたスプールを動かすことにより、建機の円滑な操作を可能にするもので、当社は世界シェアの約40%(当社推定) を生産しています。
海外進出時の苦労は。
中国上海に進出したのは1991年です。当時茨城工場の拡張を検討していましたが、土地の用途変更があり拡張できなかったこと、バブル経済の真只中で人員が思うように集まらなかったことが進出の背景にありました。
このような事情から、当社独自の判断で進出を決断しました。当時は中国に進出している企業が少なかったため、周囲から当社の事業規模では進出を考え直すよう言われました。当時の政府はココム規制がある共産圏への投資に協力的ではありませんでした。
海外進出に際し一番苦労したことは、そうした時代背景の中で、近くに相談できる相手がいなかったことです。国内で働いていた中国人や同時期に北京に進出しようとしていた商社、既に進出していた顧客等から現地の情報を集めました。
5月14日(月)水戸京成ホテルで、茨城産業人クラブ経済講演会「グローバル時代を勝ち抜くニッチトップ企業の挑戦」というテーマをパネラーとして出席した。
茨城県商工労働部の中島勝也産業技術課長の司会により、討論が進められた。パネラーは4社、新熱工業㈱大谷直子社長、日本エクシード㈱高山直紀社長、㈱エイ・イー・エス富田一正筑波事業所長、そして私の4人である。
最初に、自己紹介・企業紹介シェアの高い製品・サービスの説明、そして我々の戦っている市場の説明を行った。私は日本フルードパワー工業会の油圧部門の出来高と工業会賛助会員会社の推定出来高を話し、その中で油圧ショベルに使用されるコントロールバルブのスプールを紹介した。
次にどのようにしてトップシェア製品を生み出してきたかと云う討論に入った。私は「30年程前、お客様から標準スプールに特殊な加工を依頼されたので、自分たちで刃物を作りお客様の要望に応えることが出来た。標準スプールを製造していたメーカーが、ギブアップしたことが弊社に依頼が来た、と聞いたのは大分後になってからだった。その後、特殊加工のスプールが標準になってきたことが、増産につながった。このことがきっかけになり、バブルの崩壊を経て、お客様の内製化・市場の低迷の中、各社から注文の依頼があり、積極的に対応したことがシェアの高い製品を生み出した。」と説明した。
詳しくは6月7日の日刊工業新聞社に掲載されるので、私も一読後感想をブログに 載せたいと思う。