以下、記事を書いた谷口正次氏が解説をしているこの映画に潜む、気高い「野蛮人」に憧れる野蛮な「文明人」のアメリカの苦悩を紹介したい。
この映画は、アメリカでも大変な反響であったようだが、保守派の人たちには我慢ならなかったらしい。米海兵隊を侮辱する反米映画だというわけだ。
また、日本の観客に多かった感想として、「ストーリーが単純すぎて途中で眠くなった」という。これらの反応の単純さにこそ、筆者は驚く。と嘆いている。
今現実に地球上の自然生態系豊かでかつ資源豊富な発展途上国で、先進国と新興国の鉱山会社が、膨大になったメタル資源需要を満たすために大規模資源開発を行っており、それに伴ってナヴィと同じ運命に翻弄されている先住民がいかに多いことか。
監督のキャメロンは、そのことを知っているからこそ、映画は地球上で行われていることを宇宙版にしただけなのである。ダンス・ウイズ・ウルブズ(ケビン・コスナー主演)は、南北戦争時代という歴史上のことゆえ保守派も何も言わないわけだが、アバターは、宇宙版にしてもあまりに刺激的だから、恥部を突かれた思いで反発しているのであろう。
しかし、映画と同じようなことをやっているのはアメリカだけではないのだ。カナダ、イギリス、オーストラリア、ロシア、スイス、中国、ブラジル、インドといった国々の鉱山会社も多かれ少なかれ同様のことに手を染めているのである。
それを裏付けることとして、資源開発に伴う問題発生を防止するために、次のようないくつかの国際的な動きがある。
昨年12月末話題の映画「アバター」を2Dで見たが、3Dで見たいと思い先月3D版で再度見にいった。圧倒的な映像に引きもまれながらも、昔見たハリウッド映画の西部開拓時代の白人とインディアンの戦いを思い出した。
つまり自然が豊かで、資源豊富で未開拓な発展途上国で、先進国が需要の大きくなった資源を獲得するために大規模な開発を行い、これに反対する先住民との戦いを描いている。ストーリーは先が読める展開であるが、それよりもCG表現の圧倒的なすばらしさのため、3Dで見たいと思い映画館に足を運んだ。
アバターを見ていない人のために、あらすじを谷口正次氏の記事の一部を引用して紹介する。
時は22世紀、アメリカの資源開発公社RDAは、地球の熱帯雨林のスケールをさらに大きくしたような原生林に覆われた宇宙衛星パンドラに、超伝導物質のレアメタルの鉱床を発見する。そのレアメタルの価値は1キログラムで約20億円だ。しかし、その鉱床は、ナヴィとよばれる先住民が、ジャングルの中で狩猟採集の生活をしている地域の地下に眠っている。
先住民といっても、緑色をした人間の体型そっくりの身体にしっぽがある。身長は約3メートル、今の地球人から見れば未開人ということになるだろうが、野蛮ではない。そして野生ではあるが、知性もある。聖なる山に棲む母神エイワを崇拝するアニミズム信仰の"ヒト"たちである。聖なる山には魂ノ樹と呼ばれる想像を絶する巨木が生えている。
RDAは、鉱石採掘に先立って、ナヴィを移住させ、聖なる山を破壊し、魂ノ樹を切り倒さなければならない。RDAは地球上の場合と同じように、まず懐柔策に出る。学校を作り英語を教え、地球人の文明を植えつけようとする。しかし、ナヴィは決してなびかない。業を煮やしたRDAは元海兵隊大佐をリーダーとするPMCの部隊を送り込み、パンドラ制圧を目指す。
侵攻に先立ち、スパイとして元海兵隊員ジェイクを送り込む。ただし、地球人はパンドラでは大気を呼吸できないため、ナヴィと人間の遺伝子を組み合わせてナヴィと同じ肉体を持った、ジェイクの思い通りに行動する化身すなわちアバターを作り出した。
アバターは、レアメタルが埋蔵されているナヴィの一部族オマティカヤの村に、情報収集のために送り込まれたわけだが、部族長の娘であり戦士のネイティリと恋に落ちる。そして、いつしか、森の中であらゆる生物とともに共生・進化してきたナヴィの多神教の世界に魅せられてしまい、ナヴィとともに侵略者と闘う決心をする。
3月2日に行われたTPM改善活動発表会において、優秀賞は佐藤リーダーの『エクス・スキナチーム』、準優秀賞は小林リーダーの『チームUチーム』が選ばれたことを全員に報告した。改善は会社方針に沿って、毎日の業務で困っていることを着眼点において目標を明確にすることを訓示し、改善活動に対する感謝の気持ちを述べた。
受注状況は、中国がダントツにV字回復を果たし、インド・インドネシアも好調に推移していることを述べた。次に当社の緊急の課題として納期遅れが目立ってきたことに対するお客様の受け取り方が過去のそれとは違ってきていることを説明し、納期遅れの解消を強く要請した。
期日指定納期に納入できなくても、製造ラインが止まらなければ良いと思っていては困る。昨年の不況から立ち直った今、指定された納期に指定された数量を納入しなければならない。
お客様は、リーマンショック後世界同時不況を乗り切り勝ち残っていくためには、期日指定納期に納入し、停滞無くラインを稼働させ、仕掛在庫を持たない経営をすることが勝ち残るための絶対条件だと認識しているからです。
私は我々の会社に来社されたお客様に協立製作所に来て良かったと思っていただける会社になりたい。お客様に感動していただける会社にしたい。感動していただけるには、「工場がきれい」「作業がきびきびしている」「機械が清々と稼働している」「機械稼働や生産・品質・納期の状況が一目で分かる」等々あるが、何といっても協立製作所に来ると心地良いと思ってくれることだ。一人ひとりに何が出来るか皆で考え、行動していきましょうと話を結んだ。
日本の工作機械生産額が世界首位から27年ぶりに陥落したと日本経済新聞がつたえていた。2009年の日本の生産額は2008年度比57%減の5200億円に落ち込んだのに対して、中国の工作機械生産額は9%増加したため9800億円に伸ばし、一気に日本の首位を奪ってしまった。
その差は2倍近くに開いており、首位の座を取り戻すのは容易ではなく、世界のものづくりを支えてきた日本の製造業が、大きな転機を迎えていると報じられた。
私は2年ごとに開催されている日本とヨーロッパの国際工作機械見本市は欠かさず、視察している。日本の見本市での中国企業の存在感は出展社数も少なく、出展機械も日本製より精度的に見劣りしているので、日本のユーザーは価格よりも高機能・多機能そして何より機械精度の方をより重視していることもあり脅威はさほど感じなかった。しかしヨーロッパでの見本市は10年前から年を増すごとに、出展社数も増えており、展示のフロアスペースも大きく取って存在感を増してきている。日本だけを見ていると分からないことである。
中国メーカーは日本よりもヨーロッパを足場にして、市場を開拓しているようだ。その魅力はなんといっても価格である。上海協立では荒・中仕上げは中国製を使用し、精度の高い仕上げ加工は日本製を使用している。中国では現地法人の日系工作機械メーカーは、ほとんどが日系の現地法人の製造会社に販売しており、中国国内の製造会社にはあまり販売されていないと云われている。中国の会社にとって、日本製の工作機械は価格が高いため、精度の高い機械だと分かっていても購買行動に至らないようだ。しかし確実に中国の存在感は日を追うごとに増していくだろう。
我々日本の製造業はどのようにして生き残っていくか。明確な答えはない。ダーウィンの進化論にあるように環境に適用し、変化できるものだけが生き残り、勝ち残っていくのではないか。グローバルな世界では誰も答えを教えてくれない。自分たちの頭で考えていくしかないと思う。
『ヨーロッパ国際工作機械見本市』
1月25日、私の友人である㈱デカルジャパンの松本さんが尽力された中国法人のデカルCHAINA(shanghai)の開業式に出席した。将来を見据えた判断は敬服に値する。工場の見学では普段見ることの出来ない印刷の工程を丁寧に説明頂き、異業種の門外漢ながら勉強になった。
同じく友人である安藤さんの会社アンテックスと塚本さんの会社リーデンを見学させて頂いた。
その後、当社子会社の上海協立機械部件有限公司に来社され、意見交換を行った。我々の上海協立が設立は一番早いが、後発の皆さんが大きく発展している様子をみると良い刺激を受け、まさに切磋琢磨という言葉がぴったりの開業式と会社訪問だった。
これを機会に「上海友の会」を結成し大いに情報交換をしていくことになった。
「デカル上海」会社説明風景
「デカルchiana」玄関前で記念撮影
上海協立の玄関前で記念撮影
2010年最初の取引先業務連絡会が20社の出席を得て21日に行われた。新年の挨拶で、私が「昨年を振り返りますと、世界同時不況が深刻化した結果、皆さんに多大なご心配とご迷惑をおかけしました。お客様の在庫調整が終了した9月から最盛期の50%程度に戻ってきましたが、回復は緩慢で予測より低く推移した結果、非常に厳しい経営を強いられた一年であったと思います。今年は60~70%程度の回復が予想されますが、一安心できるほどの回復ではありません。気を引き締めて頑張って行きましょう」と挨拶し、工場長が景気動向の説明を行い、品質保証部長から品質情報、購買部長からQ(品質)C(コスト)D(納期)の現状報告が有った。
続いて、2009年度の優秀取引先の表彰式を行い、感謝状と記念品を贈呈した。
品質の部門では客先クレームゼロ、受入不良0件の(有)川津精工殿。
コストの部門はコスト改善に協力いただいた筑波野口(株)殿。
納期の部門では高い納期同期化率を達成した(有)谷津製作所殿。
筑波野口殿
谷津製作所殿
川津精工さん、筑波野口さん、谷津製作所さんありがとうございました。
(川津精工殿 不幸があった為、欠席)
我々の会社はお客様のグローバル化に伴い、世界NO1の実力を持った企業でなくてはならない。従って協立製作所だけでなく、きょうわ会を中心としたお取引先の皆さんも同様にレベルを上げていかなければならないと思っています。
発動機の販売奨励金で資金を蓄え、将来は農機具販売店を経営したいと夢を持ち始めた。そんな矢先の工場閉鎖であった。昭和28年(1953年)日平産業伊賛美工場の閉鎖が発表された頃、東京の工場で働いていた2つ違いの弟に研磨を主体にした会社を作らないかと持ちかけた。庫吉は敗戦の濃くなった昭和20年(1945年)中国出征の とき、弟に研磨はいい仕事だと言い残して戦地に赴いていったのだった。そして庫吉は東京で仕事が成り立つか見極めるため家族と離れ一人東京へと赴いた。
最初、
その後仕事も順調に推移したこともあって叔父夫婦は
昭和39年(1964年)親会社のT社が新社屋を作り、移転した跡地の工場を購入した。そこで従来の工場には叔父夫婦が2階に住み、1階の工場で仕事を続け、庫吉は新しい工場に引越し1階が工場、2階が住まいで1~2名の住込み従業員との生活が始まった。この移転をきっかけに、叔父は高橋研磨(現ミクロテック)として独立、(有)協立製作所は庫吉がそのまま引き継いだ。後年、庫吉は私に「あの頃は借入金も少なく会社の資産を半分に分けることが出来た」と話してくれた。兄弟2人が助け合いながら、別々の道を進んでいくことになった。私が中学2年、世は東京オリンピックで高度成長時代の只中であった。
当時は経営と組合が先鋭化していた時代である。大会では経営側の提案に対して何でも反対を大声で言っていた。屈折した正義感から回りの人におだてられ、組合活動の先頭に立っていた。後年、組合活動に対しても懐疑的になったのは、お互いの議論よりも何でも反対すれば、経営側が譲歩してくる。それが許された時代かもしれないと云う。
当時の雰囲気は今日一生懸命働けば、明日の生活はよくなる。一年後にはもっとよくなるかもしれない。だからこそ経営側は低めに回答し、労働側は高めに要求し、ストライキの姿勢を見せながら、高めに妥協をしていたのだと思う。
茨城工場の入り口ロビーに置いてある発動機は次のように記されている。「伊讃美発動機(3馬力)昭和26年頃、脱穀機・精米機・籾摺り機に使用。
昭和25~27年、創業者高橋庫吉は日平産業伊讃美工場(筑西市川島)に勤めていた。発動機の製造部で旋盤・プレーナー・ジグボーラー等の職人として従事した後、農機販売店に出向した。販売奨励金で資金を貯め、工場閉鎖の時にその資金で協立製作所を設立した。
日平産業伊讃美工場は昭和28年工場を閉鎖し、横浜工場に集約した。昭和59年トヤマキカイと合併して、株式会社日平トヤマとなった。その後平成20年小松製作所の完全子会社となり、コマツNTC株式会社として活躍している」
昭和28年、伊賛美工場を閉鎖し、横浜工場に統合するとの発表があった。工場の跡地は日立化成が従業員ごと買収したが、管理職や一般従業員で妻帯者は再雇用しないとのことだったが、社宅は1年近く使用が認められたので、庫吉は妻子を残し、一人東京に仕事を求めて出かけていった。
当初、旋盤工を希望したが欠員がなく製造部のプレーナー(平削盤)工として入社した。腕の良い職人と評価され、フライス盤工としても活躍し、その後冶工具課に配属されジグボーラーを操作して冶具を製作していた。発動機のクランクシャフトが入る内径加工では、直径が大きいため加工するフライス盤やジグボーラーがなかったので、旋盤の刃物台を外して、台の上に取付け冶具を製作し、旋盤のチャックに刃物を取り付け回転させ、内径の加工作業を行う。旋盤のチャックは加工物を回転させるのであって、刃物を回転させるものではない。まさに逆転の発想である。日平産業は3馬力の伊賛美発動のブランドで、農業機械の脱穀機・精米機等の駆動源として好調に販売を伸ばしていた頃である。
次に配属されたのは組立と試運転、その次は技術員として代理店を回り指導に当たっていた。そして技術員として下館の塚田農機に出向を命じられた。出向期間中、農機具店の拡販のため販売員も依頼された。月に1台のペースで発動機を販売し、成績はトップにいたと云う。当時は1台の発動機を販売するとバックマージンとして1万円、付属の備品のマージンでも5千円が支給された。当時の給料が5千円であるから給料の2.5ヵ月分の販売奨励金を得ていた。約2年半、毎月1台の販売を続けることができたので、蓄財が出来たと云う。なぜ毎月販売できたのか。農家が困っていると休みや時間に関係なく相談にのり、農業機械の修理を自分で行った。また軽微な修理では費用は取らなかった。頼りになる農機具店の人間がいると農家の評判を呼び次々に親戚や友達の農家を紹介してくれたことが、販売のトップセールスマンとしての成績を維持したのだと云う。しかし農機具店でお金を貯められるからと割り切っていたが、自分が知らないうちに同僚から成功したことへの妬みを受けていた。
創業者・庫吉は述懐する。製造部に所属していたとき、自分は機械工として誰にも負けない技術技能を持っている。しかしなぜか昇進できなかった。なぜなのか何が問題なのか。急に作業者が休んだ時など、良く便利屋に使われていたが、自分は何でも出来るのだとの自負心から積極的に協力しているのにと不満を持っていたと云う。そんな時、組合に誘われ執行委員になった。
創業者 高橋庫吉は大正13年4月3日、茨城県西茨城郡岩瀬町(現桜川市)において芳之助・はる夫妻の三男として誕生した。兄弟は5男1女の4番目である。閉農機には農耕馬に乗り、相撲も強く、総じて腕白な子供であった。父親から子供のころから「手に職をつけろ」と言われ続けていたことkら、高等小学校を卒業後、親戚の紹介で昭和13年14歳の時、東京都墨田区にある水谷鉄工に就職する。水谷鉄工は工作機械の部品の製作や一部組立をしていた。設備は旋盤・プレーナー・シェーパ・キサゲ・組み立てなどを行い、昭和18年まで勤務していた。18歳の時無理をして運転免許を取ったのも、父芳之助から「手に職をつけろ」と云われたことが動機になっていた。勘が良く工作機械の習熟度も早く、工作機械の精度を左右するヘッドの擦動部のキサゲ作業を習得していた。後に独立時の資金が乏しい時、中古の工作機械を加工作業ができまでに修理し、回復させる技術技能を修得していたことは幸運だったと述べている。
昭和18年、水谷鉄工を退社し故郷に帰ったのち、召集令状のもと健康診断で甲種合格し少年兵として徴兵されていった。派遣先は中国河北省石家庄市で戦車の整備兵として任地に赴いた。昭和20年8月に石家庄市で終戦をむかえて捕虜にあった。捕虜生活のうつ7ヶ月は、鉄道の枕木を埋設する工事で、枕木を運び固定する鉄杭をハンマーで打ち付ける作業に徒事させられていた。満州にいた関東軍の捕虜はシベリアに連れて行かれ、想像を絶する捕虜生活を送り、日本の土を踏まずに亡くなった方が大勢いた。それに較べると自分は幸運だったと回想している。
捕虜生活では線路を引きながら、汽車の修理を施し、線路に乗せ走らせながら上海に到着するまで作業が続いた。上海に到着後、幸運にも昭和21年4月に帰国が許され、上海から船に乗って博多に向かった。船の中では全員が階級章を外し、日本軍時代に理不尽な理由で制裁を受けた上官に対して、一部で報復が起こったと云う。一週間を費やし博多港に着き、博多駅から上野を経由し、故郷の水戸線羽黒駅に着くのに2週間を要した。やっと戦争が終わったと実感したと云う。
帰国後、昭和21年6月水戸線川島駅にある日平産業伊佐美工場に就職した。そして昭和23年1月に同じ坂本村に住む鈴木をいと結婚し、長男 日出男と次男 茂の2子を儲けた。戦後の混乱した経済の中、実家から食料を分け与えられて家計をしのいでいた時期もあった。