質問者:そのプラスチックの型はどこかに外注しているのですか。
高橋:はい。ジャスト・イン・タイム生産方式のもとで,このプラスチック箱が使った分だけ毎日我社に返ってきます。その返ってきた分だけ翌日すぐに出荷するという,そういうシステムで回しています。あとはバルブアッセンブルですが,これは月産2万台の生産能力があります。
高橋:次に我社の製品別の売上ですが、バルブアッセンブルが33%,メインスプールが25%,ポンプアッセンブルが24%となっています。先にお話ししたように,我社はメインスプールのシェアが高いのですが,アッセンブル製品のほうが1台あたりの値段が高いので,売上高でみるとアッセンブル製品の比率が高くなっています。協立製作所としては,将来,メインスプールで高いシェアを維持しながら,ポンプとバルブAssy製品の売上をもっと増やしてゆく方針です。
高橋:なお我社は自社ブランドの製品はありません。OEMメーカーに特化しています。そして,これらの製品を受注する際に設計者がいないとお客様に有効な提案ができないということで,技術部に3名を配置しています。日大と足利工業大で油圧を勉強した人たちです。よく色々な人に「なぜ自社ブランドを出さないのか」と尋ねられますが,理由は簡単で「自社ブランドを出すと,油圧メーカーなどと競合することになってしまうから」です。それで我社は自社のブランド製品を出さず,あくまでOEMに徹しています。OEMはお客様の図面で作るだけなので付加価値は低いのですが,我社では設計者3名を抱え,彼らをお客様のところに2~3年ほど行かせて,そこの設計技術を学ばせています。そしてお客様との共同開発のなかで,提案型の営業をしながら取引関係の強化をはかっています。これに対して,自社ブランドでやるということは結構大変です。自社ブランドでやるということになれば,世界中に自分たちのサービスや営業の拠点を作らなくてはなりません。これにはものすごい費用が固定費としてかかります。それを避けるためにOEMに徹しています。そういう会社は日本にたくさんあります。例えば岐阜県にある会社は,ポンプのある部品について,世界の50%を握っています。また石川県のある会社は,ピストンポンプのシリンダーブロックという部品で世界の6割を握っています。日本はこういう中小企業が本当に多いのです。
質問者:最終製品の時点では名前が出ないけれども,それを支える部品のシェアでは高い比率を占める日本の中小企業がかなりあるということですか。
高橋:そうです。ですから製品の中を開けてみるとメイドインジャパンがたくさんあるということです。たぶんこれからの日本の生き残り策の一つは,そうしたコアパーツを世界中に供給していくということだと思います。しかしそれは非常に地味な仕事です。そのことをどう若者に理解してもらい,興味をもってもらうかということが大事だと思います。今の若者は,パソコンに向かって図面からプログラムを作るのは好きです。しかし本当に大事なことは,どういう刃物や工具を使ってどういう順番で削っていくのかという点にあります。ツーリング設計と言いますが,この設計が大元で,これができてしまえばあとのプログラムは,多少の語弊があるかもしれませんが,わりと簡単なのです。ツーリング設計というのは,ある程度下積みを経験しないとできません。この仕事は,図面を見て,立体的に描いて,ここはどういうふうに加工するか,どういう刃物を使うか,どっちの方向から刃物を入れるか,あるいはこの精度を維持するのにはどういう機械の組み合わせが最適かといったことを考えながら設計をしていきます。例えば刃物を40本から50本使うとすると,それを全部頭のなかで組み合わせる必要があります。ツーリングで,1番目に使う刃物はこう,2番目はこう・・・というのは,ある程度製造現場で経験を積まないとできません。それは文系か理系かは関係ありません。
3.企業業績の推移と主要取扱製品
高橋:続いて我社の業績についてお話しします。まずバブル崩壊後の1990年代前半期は,売上でみて12~13億円の水準で,ずっと横ばいで推移しました。これに対して2002年から我社の成長が始まりました(図1参照)。これは先ほども説明したように,部品だけを作る部品メーカーから脱皮して,OEMの
図1 協立製作所・年次売上額の推移
(資料) 会社提供資料より作成。
(注) 単位:10万円。
質問者:しかし2010年にはV字回復されたようにみえますが。
高橋:そうですね。2009年の10月頃に中国が4兆元の公共事業をやることを発表したのです。油圧ショベルの需要というのは,世界需要の半分が中国です。その中国で4兆元,当時の日本円でいうと60兆円規模になります。これを3年間で予算執行するということで,この公共事業により我社の業績もV字回復をとげることができました。続いて東日本大震災があった2011年ですが,3月に地震がありここ(茨城)の工場も被害を受け,復旧するのに約2週間かかりました。それから4月くらいまでは,お客さんに納品ができず、売上も上がりませんでしたが,その後一気に回復して過去最高の売上となりました。2012年ですが,7~8月から経営にブレーキがかかりました。これも中国が原因です。中国は先ほど言ったように4兆元(60兆円)の財政支出をしたのですが,
これが終わったのです。その影響が一番大きな要因です。
高橋:次に我社の取扱製品ですが,メインスプール,ポンプAssy,バルブAssyおよび従来から手がけてきたその他油圧機器部品で構成されています。
質問者:製品のうちでサブアッセンブルというのは完全に組み立てていない製品をいうのですか。
高橋:そうです。実際,スプールの中にはいろんな部品が入っていますが,完成品にする一歩手前のものを我々はサブアッセンブルと呼んでいます。
高橋:なおコントロールバルブ用のスプールですが、2012年時点での我々の推定ですと世界シェアの約40%弱を我社が占めています。
質問者:それはNO.1のシェアということですか。
高橋:油圧ショベル用のスプールに関してトップだと思います。スプールは農業機械とかフォークリフトでも使われます。これらの製品で世界一シェアを持つメーカーはスウェーデンの企業です。我社は油圧ショベル用のスプールで,高いシェアを持っています。
高橋:次にポンプAssyですが,月2,500台の能力があります。加工後に組立・性能試験を行い,塗装もして,相手先の銘版を貼ったうえで,そのまま顧客に直接出荷します。あとの様々な製品ですが,旋回モーターや走行モーターの部品を,プラモデルみたいなキットにまとめてお客様の製造ラインに納めています。これら一纏めのキットは,ラインで直ちに組み立てに使えるようになっています。パーツキットと言いますが,それぞれの部品の形状に合わせてプラスチックの型を作り,そこに部品を入れておくことで作業者が間違えにくいようになっています。
質問者:そのプラスチックの型はどこかに外注しているのですか。
高橋:はい。ジャスト・イン・タイム生産方式のもとで,このプラスチック箱が使った分だけ毎日我社に返ってきます。その返ってきた分だけ翌日すぐに出荷するという,そういうシステムで回しています。あとはバルブアッセンブルですが,これは月産2万台の生産能力があります。
高橋:次に我社の製品別の売上ですが、バルブアッセンブルが33%,メインスプールが25%,ポンプアッセンブルが24%となっています。先にお話ししたように,我社はメインスプールのシェアが高いのですが,アッセンブル製品のほうが1台あたりの値段が高いので,売上高でみるとアッセンブル製品の比率が高くなっています。協立製作所としては,将来,メインスプールで高いシェアを維持しながら,ポンプとバルブAssy製品の売上をもっと増やしてゆく方針です。
高橋:なお我社は自社ブランドの製品はありません。OEMメーカーに特化しています。そして,これらの製品を受注する際に設計者がいないとお客様に有効な提案ができないということで,技術部に3名を配置しています。日大と足利工業大で油圧を勉強した人たちです。よく色々な人に「なぜ自社ブランドを出さないのか」と尋ねられますが,理由は簡単で「自社ブランドを出すと,油圧メーカーなどと競合することになってしまうから」です。それで我社は自社のブランド製品を出さず,あくまでOEMに徹しています。OEMはお客様の図面で作るだけなので付加価値は低いのですが,我社では設計者3名を抱え,彼らをお客様のところに2~3年ほど行かせて,そこの設計技術を学ばせています。そしてお客様との共同開発のなかで,提案型の営業をしながら取引関係の強化をはかっています。これに対して,自社ブランドでやるということは結構大変です。自社ブランドでやるということになれば,世界中に自分たちのサービスや営業の拠点を作らなくてはなりません。これにはものすごい費用が固定費としてかかります。それを避けるためにOEMに徹しています。そういう会社は日本にたくさんあります。例えば岐阜県にある会社は,ポンプのある部品について,世界の50%を握っています。また石川県のある会社は,ピストンポンプのシリンダーブロックという部品で世界の6割を握っています。日本はこういう中小企業が本当に多いのです。
質問者:最終製品の時点では名前が出ないけれども,それを支える部品のシェアでは高い比率を占める日本の中小企業がかなりあるということですか。
高橋:そうです。ですから製品の中を開けてみるとメイドインジャパンがたくさんあるということです。たぶんこれからの日本の生き残り策の一つは,そうしたコアパーツを世界中に供給していくということだと思います。しかしそれは非常に地味な仕事です。そのことをどう若者に理解してもらい,興味をもってもらうかということが大事だと思います。今の若者は,パソコンに向かって図面からプログラムを作るのは好きです。しかし本当に大事なことは,どういう刃物や工具を使ってどういう順番で削っていくのかという点にあります。ツーリング設計と言いますが,この設計が大元で,これができてしまえばあとのプログラムは,多少の語弊があるかもしれませんが,わりと簡単なのです。ツーリング設計というのは,ある程度下積みを経験しないとできません。この仕事は,図面を見て,立体的に描いて,ここはどういうふうに加工するか,どういう刃物を使うか,どっちの方向から刃物を入れるか,あるいはこの精度を維持するのにはどういう機械の組み合わせが最適かといったことを考えながら設計をしていきます。例えば刃物を40本から50本使うとすると,それを全部頭のなかで組み合わせる必要があります。ツーリングで,1番目に使う刃物はこう,2番目はこう・・・というのは,ある程度製造現場で経験を積まないとできません。それは文系か理系かは関係ありません。
質問者:油圧は人気がないということですか。
高橋:現状はそうです。油圧というのは表面に出ない縁の下の力持ちです。ディズニーランドの地下に行くとよく分かりますが,そこには油圧機器がたくさんあります。例えば「カリブの海賊」というアトラクションがありますが,あの船を動かし、周りの人形を動かす際には,そのほとんどを油圧で制御しています。空気圧でも制御できるのですが,空気圧だとなめらかな動きができません。また「スターウォーズ」では,座席がガガガと揺れ、画面と一体になって下に落ちていく時には降下するような感覚があります。あれは座席の下に油圧機器が60個設置されているのです。シリンダーがあって,こっちを下げたりあっちを上げたりしながら体感させる仕組みです。ディズニーランド以外では,飛行機のパイロットが飛行訓練を行うためのシミュレーション設備などで使われています。
質問者:宇宙飛行士のトレーニングでも使いませんか。
高橋:使います。しかしなかなか表に見えないものです。
質問者:熱処理も同様に人気がないのですか。
高橋:ないですね。熱処理自体は2000年前からありますが。
質問者:歴史は古いが,新しい成果を出しづらいために人気が無いのですか。
高橋:進歩がないからということよりも,むしろ熱処理の技術者というのはどれだけ多くの失敗を積み重ねて,その積み重ねた失敗を技術の方に落としこんでいけるかという点が重要です。というのは,理論ではまだ完全に解明できていないところがたくさんあるからです。ですから我社の場合でも,熱処理の炉を入れる時には火の神様を怒らせると大変だからということで,神主さんをお呼びして祈祷してもらいました。
質問者:マニュアルにはしきれない微妙なものがあるということですか。
高橋:そうです。ですから例えば中国とか新興国で車の組み立てを行う場合,エンジンのコアパーツを日本から持ってくることになるのですが,その部品の性能とか車の性能や寿命などを決めるのは1個1個の部品です。その部品では材料と焼入れ=熱処理工程が大切です。しかしこれらは地味な分野です。また実際の作業現場で技術者はそれほど沢山いりません。我社の場合も熱処理の技術者は2人しかいません。熱処理の作業自体は難しくないので,いったん技術者がセッティングすれば,あとは現場の従業員が担当することになります。
高橋:それから2008年2月にはISO14001の認証を取得しました。これは環境のISOです。そしてこの年の4月には,経産省の「元気なモノづくり中小企業300社」に選ばれました。なおこの時は茨城県から5社が選ばれました。
高橋:また2008年には,コマツの4~5トンクラスのフォークリフト向けバルブをOEMで作り始めました。そしてリーマンショック後の2009年には,東京工場を閉鎖して茨城に統合しました。そしてこの年に日立建機へPS(パワーショベル)用のレギュレータバルブの納入を開始しました。PSの1つのポンプには2台のレギュレータが付きますが,日立建機向けのポンプは全て我社で引き受けることになりました。さらに2011年には,我社にとって一番の商品であるメインスプール(油圧ショベルに搭載するコントロールバルブ用スプール)の増産に向けて新たな設備を導入しました。その結果,これまで月間8万本の出荷数であったところを,さらに2万本増やし,現在の10万本の生産が可能となっています。
質問者:日立以外との取引に関してはいかがですか。
高橋:79年5月に油圧専門メーカーの油研工業と取引を開始しました。油研の本社は神奈川県にありますが,戦時中に茨城県の大子,袋田の滝の近くに疎開した工場が今もあり,そこと取引をしています。さらに同年9月には富山県の不二越と取引を開始しました。
質問者:その後,90年代に入ってから取引関係を拡大していったようにみえますが。
高橋:はい。我社の特徴の1つですが,バブルが崩壊した後にむしろ取引が拡大し,成長が始まったといえます。日本のバブルが崩壊したのは89年の終わりです。バブル崩壊後の時期にあたりますが,我社は,91年に兵庫県明石にある川崎重工業油圧事業部と,続いて92年には小松製作所(現コマツ)と取引を開始しました。小松製作所では川崎工場で油圧機器を作っていたのですが,91年に川崎工場から栃木県の小山工場に移転されましたのが取引の契機です。
高橋:こうした取引の拡大とともに工場を増設してゆきました。スプールという油圧ショベルを動かす時にコントロールするバルブがあります。油圧ショベルでは、この部品を平均9本使います。93年にはこのスプールを加工する専用工場をこの地(茨城)に完成しました。また96年には部品の組立工場を完成し、バルブAssy製品の納入を開始しました。さらに97年には熱処理工場を完成させ、熱処理工程を内製化しました。
質問者:Assyとはassembleと同じ意味ですか。
高橋:同じ意味です。アッセンブルと言うと長いので,我々はAを大文字にしてAssyを小文字にした略語を使います。
高橋:続いて2000年以降ではISOの認証取得に取組みました。ISOというのは主にヨーロッパの品質に関する規格で,ヨーロッパに輸出する時にはこの規格を取得していないと輸出できないので,我社のお客様もISOの認証を取得し,我々に対しても取得の働きかけがあったので、2000年にISO9001の認証を取得しました。それから2001年には東芝機械,現在は分社化してハイエストコーポレーションとなっていますが、同社の相模原にある油圧機器事業部と取引を開始しました。またこの年の10月に,キャタピラー三菱(現在キャタピラージャパン)とも取引を始めました。ただキャタピラー社とはまだそれほど大きな取引をしていません。2004年には三菱重工業相模原製作所とも取引を開始しました。
質問者:2004年以降になると,ポンプAssy製品の納入が開始されますね。
高橋:はい。この年にハイエストコーポレーションへ,初めて油圧ポンプのAssy製品を納入しました。油圧には3要素があります。このうち(1)ポンプというのは,油の圧力を発生する文字通り心臓です。モバイル(移動体)ではエンジンにポンプを取り付け,エンジンを回転させることによって圧力を発生させます。(2)発生した圧力をコントロールする―例えば一定の圧力にコントロールするとして,油圧ショベルの場合だと1平方センチメートル当たり350キロの圧力が加わりますが―その圧力をコントロールする。さらに方向もコントロールする。この方向や圧力をコントロールするのをバルブといいます。そして(3)アクチュエーターというものがありまして,実際に油圧を発生させて,直進運動をさせるのをシリンダーと云い、回転運動をさせるのが油圧モーターと云います。油圧モーターは油圧ポンプとほぼ原理が一緒ですが,ポンプはエンジンを回して圧力を発生させる。モーターは逆で,こちらから油を送り込むと回転し始めます。油の量を多くすると回転が速くなる。逆に少なくすると回転が遅くなります。従って無段変速が可能となります。
質問者:つまり油の量で回転をコントロールするわけですか。
高橋:そうです。圧力は一定ですから変わりません。そうするとこれは無断変速になるわけです。いちいちギアチェンジをしません。そういうものがポンプとバルブとアクチュエーターで,これが油圧の3要素です。その場合,我社はシリンダーの製造には手を出さない方針できました。これは大体6割くらいが材料費で付加価値が少ないためです。そこで我社は,当初,ポンプやバルブの部品製造を専門にやっていました。しかし,それだけでは企業規模を大きくすることが出来ません。そこで,OEM商品(相手先ブランドによる製造)のポンプやバルブを作ることにしました。まず2004年に東芝機械のポンプをOEMで受注することができ,その後,コマツからも注文を受けることができました。
高橋:そして2006年に熱処理工程を協立熱処理工業として分社化し,独立させました。分社することで,我社のみでなく外部の仕事も受注できるようにと考えたからです。この周辺ですと日立市や水戸市の仕事を取るようにしています。熱処理というのは,大学の理工学部や工学部系でも学科があるところはあまりありません。私が知っているのは東海大ぐらいです。また油圧の研究室を持っているところも少なくて,日本の大学では東工大にはありますが,この辺では栃木の足利工業大学が研究室を持っているくらいです。
1.企業理念及び経営方針
質問者:それでは御社の企業理念および沿革からご説明ください。
高橋:我社の企業理念は「挑戦と創造」です。先代(創業者高橋庫吉氏)の時は企業理念と云うのはありませんでした。どちらかと言えば,理念よりは「生きていくため」という思いが強かったのです。私も最初はそうだったのですが,この会社に入って20年近くがたち,ちょうど40歳になった頃に自分のこの20年間の歩みを振り返り、「挑戦と創造」という言葉がピッタリとくると思い,以後それを企業理念として使っています。また経営方針は3つあります。(1)油圧機器の部品製造を通じて社会に貢献する。(2)常に先端の加工技術と製造システムを追及する。そして,(3)健全な企業活動と従業員の幸福な生活の安定を目指すということです。経営判断が必要とされる際には,以上の経営理念と経営方針を基にして行うことにしています。
2.協立製作所の沿革
高橋:わが社の設立は1958年ですが、創業は1954年です。現在の資本金は9,400万円です。最初の資本金は50万円で,それから増資して50万から200万,400万,そして2,000万,9,400万と増資していきました。2013年4月1日現在の従業員数は273名で,正社員が248名,パートと派遣の人が25名います。それから本社および関係会社ですが,本社は登記上,東京の品川区にあります。3階建の小さなビルですが,昔はそこに色々な機械を詰め込んでやっていました。現在、工場はなく、1,2階をテナントとして貸し,3階にだけ我社の調達関係の従業員を2名駐在しています。この部分だけ東京に残しているのは,日本中から最適調達を行なう場合に東京が非常に便利だということが1つ。それと東京で調達をやっているベテラン社員がもう70才近いので,若い人を1人,向こう(東京本社)に送ってベテラン社員から調達ノウハウを学ばせています。学び終わったらこちら(茨城)に戻すと思います。その時には本社を茨城に持ってくることになるかもしれません。今は昔ほど何でもかんでも東京にないと困るわけではないので。さらに茨城工場がここ(茨城県筑西市)で,子会社として同じ敷地内に協立熱処理工業があります。それから上海市の松江工業区に上海協立機械という会社があります。なお上海工場がある松江工業区ですが,この松江というところは茨城県と関係がありまして,旧水戸藩で日本に帰化した儒学者がいました。そして今も水戸と松江は関係が非常に深いのです。
高橋:話を創業当初に戻しますと、その頃は切削工具と言いまして、鉄を削る工具の最終工程をやっていました。それを我々は「刃付け研磨」と言うのですが,その工程を機械化してやったのが切削工具の研削という工程で,これを創業当時,父と叔父が2人で始めました。そして1958年に有限会社協立製作所を設立し,65年に油圧との出会いがありました。その当時、カヤバ工業と云う会社,現在はKYBとなっている東証一部上場の会社ですが,そこの油圧部品の最終工程の研削工程だけを引き受けてやっていました。
高橋:そして私が大学を卒業する1年前の71年に茨城工場を開設しました。 この工場は、「「地方に工場を作るなら、自分が後を継ぐ」という条件で建てたもの です。ただ工場とはいっても,広さが約20坪,60平米ぐらいのもので、工場というより鶏小屋みたいなところでした。最初は,現在我社の顧問になっている社員が先発でやっていました。その当時私はまだ何もできないので,卒業してから2年間は大田区にある小さな町工場に行き,現場の仕事を教わってから,こっち(茨城)に来ました。
質問者:茨城に来てから日立製作所との取引が始まったのですか。
高橋:日立製作所との取引のきっかけは2つあります。1つは,私が大学を卒業し、工場に勤め始めて2年目の時です。日立製作所川崎工場の方から相談があり,「スイスのメーカーと超高圧給油ポンプで技術提携した。ついてはこれを日本で国産化したいので協力してほしい」という話がありました。その時渡されたスイスの図面というのは全部ドイツ語です。そこで私は,まずそれを日本語に翻訳し,また機能をある程度理解しながら必要な部品を大田区のいくつかの工場に発注し,試作品を組み立てました。先にお話ししたように,当時,私は、昼間は他の工場に勤めていたので,その仕事は夜にやったわけです。それを日立製作所に納めた時,「ものができるのはわかったけれど、油圧のことがわかる技術者がいないと仕事を出せない」とのことでした。それで私はそれまで勤めていた大田区の工場を辞めて,こちら(茨城)に来て,その仕事を始めたというわけです。残念ですが、現在日立製作所との取引は終了しています。もう1つは,80年に土浦にある日立建機と取引が始まりました。その頃,日立建機は油圧機器の内製化の初期のころで、私共に部品供給の依頼があったのがきっかけです。
2013年5月、筑波大学人文社会系 平沢照雄教授から連絡を頂き、「茨城におけるものつくり企業経営」の研究の一環としてゼミの学生5名と会社訪問と工場見学の申し入れがあり、そのインタビューを平澤研究室で筑波大学『経済学論集』第66号(2014年3月)に発表されたので、本日公表する。
表題
オーラルヒストリー
茨城におけるものづくり企業経営史
―協立製作所・高橋日出男社長に聞く―
平 沢 照 雄 1)
はじめに
本稿は,茨城におけるものづくり企業の史的展開を明らかにする作業の一環として,協立製作所社長高橋日出男氏に,創業から今日に至る同社の企業経営について聞き取り調査を行った記録である2)。
ここで同社の概要を示すと表1のようになる。同社は油圧機器部品の専門
表1 協立製作所・会社概要
設立 1958年2月(創業者:高橋庫吉)
資本金 9,400万円
従業員 273名(正社員:248名、パート他:25名)
事業内容 精密加工による油圧機器部品の製造
本社 東京都品川区東中延1丁目
茨城工場 茨城県筑西市三郷1239
関係会社 協立熱処理工業(株)(同上)
上海協立機械(中国上海市松江工業区)
(資料)1会社提供資料より作成。
(注) 従業員数:2013年4月1日現在。茨城工場および協立熱処理工業の
合計
1) 筑波大学人文社会系教授
2) 高橋日出男氏略歴
1950年に創業者高橋庫吉の長男として生まれる。1972年日本大学理工学部精密機械工学
科卒業後、1974年3月協立製作所に入社。1993年9月同社社長に就任し、現在に至る。
平 沢 照 雄
メーカーとして,油圧機器の精密部品製造をはじめとし,油圧のピストンポンプやバルブのアッセンブルを主な事業として発展してきた。なかでも建設機械の分野において,油圧ショベル用コントロールバルブの主要コンポーネントであるスプールで世界シェアの約4割を占めるに至っている。
また表2の沿革に明らかなように,同社は、日本経済が高度成長を開始した時期に東京品川の地において製造を始め,高度成長末期にさらなる成長を期して茨城に進出した中小企業であった。茨城におけるものづくり企業に関しては,県北部の日立地区に集積する中小企業がその代表事例として取り上げられるこことが多い。これに対して協立製作所は,そうした産業集積地である日立以外の地域への進出を企図したこと,また進出当初から特定企業の下請けにとどまらず自立経営を指向した点で注目される事例である。
同社は茨城進出直後に石油危機に直面するが,1970年代末以降に取引企業を拡大する形でそれを乗り越える。さらにバブル崩壊と前後する形で中国(上海)に進出するとともに,日本国内においては部品製造にとどまらずアッセンブル製品も積極的に手がけつつ取引相手をいっそう拡大することで,「失われた10年」と言われる時代にも成長を続けてきたものづくり企業として注目することができる。なおこうした発展により,同社は2008年に経済産業省「元気なモノ作り中小企業300社」にも選ばれるに至っている。
およそ以上の展開を踏まえ,本調査では,主に以下の3点を中心に聞き取りを行った。(1)同社の経営にとって大きな画期となった2つの地域展開-①東京から茨城への進出,②中国上海への進出が,どのような意図あるいは経緯で行われたのか。(2)70年代の石油ショックをはじめとして90年代初頭のバブル崩壊さらには2008年のリーマンショックに至る外部環境の激変に直面しながら,それをどのように乗り切ってきたのか。(3)ものづくり企業として持続的な成長を実現するにあたり,同社の企業理念や経営目標さらには社長の経営思想がどのような役割を果たしてきたのか,という点である。
茨城におけるものづくり企業経営史
表2 協立製作所・沿革
1954年 11月 切削工具の研削・製造開始
1958年 2月 東京都品川区に有限会社協立製作所を設立
1965年 5月 油圧部品の研削・製造開始
カヤバ工業(株)(現KYB)と取引開始
1971年 8月 茨城県真壁郡協和町(現 筑西市)に茨城工場を開設
1979年 5月 油研工業(株)と取引開始
9月 (株)不二越と取引開始
1980年 7月 日立建機(株)と取引開始
1991年 6月 上海協立機械部件有限公司を設立
川崎重工業(株)と取引開始
1992年 9月 (株)小松製作所(現コマツ)と取引開始
1993年 11月 (茨城工場)スプール専用工場完成
1996年 10月 組立工場完成、バルブAssy製品納入開始
1997年 9月 (茨城工場) 熱処理工場完成
2000年 11月 ISO9001認証取得
2001年 7月 東芝機械(株)(現ハイエストコーポレーション)と取引開始
10月 キャタピラー三菱(株)(現キャタピラージャパン)と取引開始
2004年 4月 (茨城)新工場完成、FMS導入、三菱重工業(株)と取引開始
4月 ハイエストコーポレーションへポンプAssy製品納入開始
2005年 12月 コマツへポンプAssy製品納入開始、ISO9001(2000年版)更新
2006年 2月 協立熱処理工業(株)設立
2007年 9月 (茨城)新工場増設(K6工場)
2008年 1月 資本金9,400万円に増資
2月 ISO14001認証取得
4月 経済産業省「元気なモノ作り中小企業300社」に選ばれる
6月 コマツへフォークリフト用新バルブAssy製品納入開始
2009年 5月 東京工場を茨城工場へ統合
7月 日立建機へパワー・ショベル(PS)用レギュレータバルブ納入開始
12月 ISO14001(2004年版)更新
2010年 2月 ISO9001(2008年版)移行・更新
2011年 7月 「いばらき産業大賞」(茨城県知事表彰)を受賞
8月 パワー・ショベル用メインスプール増産設備(20,000本/月)導入
11月 ISO9001(2008年版)更新
(資料) 会社提供資料より作成。
なお調査は,2013年6月4日に協立製作所茨城工場(茨城県筑西市)におい
て実施された。調査実施にあたっては、高橋社長とともに同社総務部長飯塚勝
夫氏に大変お世話になった。記して感謝の意を表する次第である。当日の聞き手は平沢照雄および筑波大学社会学類平沢ゼミナール学生(市瀬,北浦,津留,長門,浜野)である(以下,本文では一括して質問者と表記する。また本文中の( )内は,特に断りのない限り平沢が補足したものである)。
新年あけましておめでとうございます。
昨年、本格的な建機の回復は「4~5月頃の需要状況を見て判断する必要がある」と報告したが、予想を超えた回復に生産が追い付かず、大変忙しい一年だった。有効求人倍率は1.5倍に迫り、製造部門の人手不足は酷く、昨年だけでも90人増員したが、そのほとんどが外国人労働者だった。今年も10%程度の生産増が予想される。今後の生産年齢人口の減少を補うには、技能実習制度を超えた労働力の国際化は急務である。
次に昨年の新年号の続きを述べさせていただきます。91年に上海市で営業許可を取り、ココム規制をクリアし、茨城工場で働いていた中国人2名と現地採用の会計士の3名で市内の賃貸工場を借りて上海協立の生産が始まった。生産の全量を日本に輸出し、生み出した利益を設備投資に回し、紆余曲折はあったが、95年頃に50人を超え、上海市新橋区にある特別開発区の工業団地に移転した。その後業績を伸ばしていったが、98年金融危機の時、日本からの注文が激減したため、中国国内の外資系企業から注文を取るように経営方針を変更した。順調に受注を伸ばしていった2004年、従業員は60名を超えたが、中国政府の金融・インフラ開発の経済政策の変更で、経済は急減速したため、厳しい経営を余儀なくされた。
2008年、農民工と云われる製造現場の労働者は雇用契約の更新延長で従事していたが、労働契約法が終身雇用制に改正されたため、労働問題に巻き込まれるのを回避するため、外注工場の開拓を進め、改正の猶予期間中に人員を半分以下にした。中国の景気は2011年をピークに2015年には底を打ち回復してきた。中国市場の回復は㈱協立製作所に多大な影響を及ぼしている。今年は徹底したムダの排除を行い、スマートな工場を再構築していきたい。
8月初旬、いつも通り大洗ゴルフ倶楽部でプレーし、ホールアウトしたところ、総務課長が出迎えてくれた。「髙橋さん会報誌の思い出のホールと云う企画に寄稿してほしい」と依頼された。かねてより会報誌の「思い出のホール」を読んでいたので、快諾した。その記事と会報誌の表紙・5番ホールの写真を下記に掲載する。
5年前、5番ホールでイーグルをとれた事が、私の強烈な思い出です。ドライバーは芯をくいナイスショット、ベストポジションの右寄りをキープ、ピンポジションはセンター手前のやや右寄り、残りおよそ170ヤード、5番アイアンをやや短めに持ち、バックスウィングのトップの位置も決まり、バランス良く最高のスイング。フォロースル-もピタリと決まり、そのままボールの弾道を追いかけた。グリーンセンターを狙っていたが、意思に反してややフェード気味に、グリーンエッジに落ちて、そのままカップイン。イーグルだ!ボールが転がって行く様子をはっきりと目で追いながら、信じられない気持ちとこれだからゴルフは止められない、そしてますますゴルフにのめり込んでいきそうな気持ちになった。
未だにホールインワンをしたこともない私がイーグル。それも屈指の難コースである大洗のハンディキャップ1の5番ホールで、イーグルを取れるとは考えもしなかった。しかし奇跡は二度起きた。後半の10番ホールで3打目、およそ100ヤードを左のラフからナイスショットでイーグル。二度あることは三度あるとばかりに、プレーしたが、今日まで奇跡は起きていない。やはりまぐれ?
9年前の58才の時、友人に誘われ大洗のメンバーになった。コースに魅了され次第に訪れる回数が増えていった。そのうちにシングルの域に達したい思いが強くなり、月一ゴルファーが60歳の時には週一ゴルファーに、65歳を過ぎると華麗なる変身を遂げて週二ゴルファーになった。さて70歳からは週三ゴルファーになれるか楽しみである。ちなみに64歳でハンデ9を達成。現在ハンデ8。
最後になりますが、いつも楽しくプレーさせていただいているメンバーに感謝いたします。ありがとうございます。
(左)昭和48年頃の5番ホール
(右)5番ホール全景
2017年6月7日水曜日水戸プラザホテルにおいて、茨城県経営者協会の創立70周年記念総会が開かれた。それに先立ち会報誌に寄稿した。
「茨城県経営者協会創立70周年誠におめでとうございます。
この記念の日に鬼澤会長のもとで、副会長として皆様をお迎え出来ることを大変うれしく思います。
私は平成25年4月より副会長を務め、今回の記念総会に参加できること光栄と同時に、改めて役職の重さに身が引き締まる思いです。会員企業の多くが中堅・中小企業であり、中小製造業の意見を経営者協会に、協会から茨城県へ届けることが、私の役割と思い活動してまいりました。私は1996年茨城県上海事務所の開設をきっかけに、経営者協会の経営教育委員会で「中国事情」をお話しする機会がありました。このことがきっかけになり、委員会活動に参画すようになりました。委員会活動を通じて異業種の人達との出会いは大変勉強になったのと同時に楽しい思い出にもなりました。
私が茨城県民になったのは1974年です。東京で育ち、学び、㈱協立製作所に入社し、茨城工場立ち上げのため筑西市に移り住み、44年が経ちました。この間、世界経済の激変は云うまでもありません。85年のプラザ合意からバブル崩壊、金融危機、リーマンショックそして2012年以降の中国経済の低迷。私の会社が属する建設機械は2000年以降に中国で急成長しましたが、リーマンショック後の大不況、中国の約60兆円の財政出動による急回復、その後2011年をピークに長期の低迷、2015年に底を打ち、2016年後半に急回復と世界経済の荒波にもまれてきました。
日本の製造業はコストの低い新興国に進出し、グローバル化に順応してきましたが、足元を見ると長年の課題である少子高齢化に歯止めがかからず、生産年齢人口の減少が中小製造業にとって重くのしかかっています。製造業の立場で課題解決に向けて情報発信を行っていきたい。」
現在、会員数は7月末時点で1,146社、今期の会員増強運動で目標会員数は1,170社。
半年以上遅れてしまったが、茨城県経営者協会の新年号の寄稿を掲載する。
建設機械の代表的な機種である油圧ショベルは世界需要の半分を中国が占める。昨年前半、4年に渡る不況に底打ち感が出てきた。8月頃から対前年同月比で増加に転じ、11月に入っても改善が続いている。今回の長い不況は2008年のリーマンショック後に60兆円の財政支出を実施し、世界経済を支えた中国が、そのリバウンドで需要の減少、過剰在庫、腐敗撲滅運動による工事の未着工等々が長い不況の要因と考えられる。特に地方政府の資金不足が影響したと云われている。昨年、新規国債の発行が、地方政府の仮需の借り換えで可能になり、工事再開の需要条件が整ってきたことが回復の要因としてあるようだ。しかし本格的な回復を予想するには4~5月頃の需要状況の様子を見て判断する必要がある。
1989年12月22日の夜、初めて上海の虹橋空港を降り立った。空港内には機関銃を持った人民解放軍の兵士がパトロールしていた。半年前に起きた天安門事件の影響で警戒しているとすぐに分かった。出口に向かって行くと、うす暗い中で目だけが光っている大勢の人達がこちらに視線を向けていた。異様な光景だった。知人二人の顔が見え、安堵したのを覚えている。上海で会社を作って、人を集め、日本語教育を行った後、協立製作所で技能実習を行い、上海に戻して部品を製造し、日本に輸出する。当時の人手不足の解消と海外進出の目的のため、自分の目で見て、肌で感じて、実施の可能性をみたいと思った。
1971年創業者の父と会社の将来を話し合った。当時、東京品川の小さな町工場だった協立製作所は10人足らずの従業員で、1階が工場、2階が住まいで住込みの従業員も数人いた。私は地方に工場を作れば、自分が行くと話した。品川の工場は常に人手不足で、納期を間に合わせるため、両親は従業員が帰ってからも仕事をしていた。これらを解消するため、地方の工場であれば、人手不足を解消できるのではないかと提案した。入社後いかに考えが甘かったかを思い知らされ、後に人手不足解消のために上海進出へと繋がって行くことになるとは、この時思いもよらなかった。
茨城工場に赴任した時は40坪の工場に4名で始まった。それから15年の間に3回の増築で工場は320坪に拡大し、社員は50名を超えていた。80年のバブル時代、人手不足は恒常的に起こっていた。東京でスポーツ新聞に社員募集を出したところ、中国人1名が応募し入社した。この中国人から友達を紹介してもらい、茨城工場に2名の中国人が来ることになった。バブル期後半には中国人や他の外国人だけで30~40名在籍するようになり一時的に人手不足は解消した。同時に発生していたのが、工場スペースの不足だった。土地の用途変更があり、工場の増築は出来ず、深刻な問題へと発展していった。移転できる適当な場所が見つからなかったが、およそ3年で開発行為と建築確認の許可をもらうことが出来た。新工場は経営の決定から4年目で完成した。また同時に活動を開始していたのが、中国に進出し、人手不足解消と工場面積の拡大を行うことである。会社設立の活動を始めてから1年で認可を受け、貸工場の契約も行い準備ができた。中国の会社には最初に茨城にきた中国人2名が設立に参加した。しかしその後さまざまな困難が待ち受けていた。
続きは次の機会で報告したい。
字数が限られていたので、続きは2018年の新年号に掲載予定。