2010年3月度朝礼

32日に行われたTPM改善活動発表会において、優秀賞は佐藤リーダーの『エクス・スキナチーム』、準優秀賞は小林リーダーの『チームUチーム』が選ばれたことを全員に報告した。改善は会社方針に沿って、毎日の業務で困っていることを着眼点において目標を明確にすることを訓示し、改善活動に対する感謝の気持ちを述べた。

 

受注状況は、中国がダントツにV字回復を果たし、インド・インドネシアも好調に推移していることを述べた。次に当社の緊急の課題として納期遅れが目立ってきたことに対するお客様の受け取り方が過去のそれとは違ってきていることを説明し、納期遅れの解消を強く要請した。

 

期日指定納期に納入できなくても、製造ラインが止まらなければ良いと思っていては困る。昨年の不況から立ち直った今、指定された納期に指定された数量を納入しなければならない。

 

お客様は、リーマンショック後世界同時不況を乗り切り勝ち残っていくためには、期日指定納期に納入し、停滞無くラインを稼働させ、仕掛在庫を持たない経営をすることが勝ち残るための絶対条件だと認識しているからです。

 

私は我々の会社に来社されたお客様に協立製作所に来て良かったと思っていただける会社になりたい。お客様に感動していただける会社にしたい。感動していただけるには、「工場がきれい」「作業がきびきびしている」「機械が清々と稼働している」「機械稼働や生産・品質・納期の状況が一目で分かる」等々あるが、何といっても協立製作所に来ると心地良いと思ってくれることだ。一人ひとりに何が出来るか皆で考え、行動していきましょうと話を結んだ。

工作機械生産額、日本首位転落

日本の工作機械生産額が世界首位から27年ぶりに陥落したと日本経済新聞がつたえていた。2009年の日本の生産額は2008年度比57%減の5200億円に落ち込んだのに対して、中国の工作機械生産額は9%増加したため9800億円に伸ばし、一気に日本の首位を奪ってしまった。

その差は2倍近くに開いており、首位の座を取り戻すのは容易ではなく、世界のものづくりを支えてきた日本の製造業が、大きな転機を迎えていると報じられた。

 

私は2年ごとに開催されている日本とヨーロッパの国際工作機械見本市は欠かさず、視察している。日本の見本市での中国企業の存在感は出展社数も少なく、出展機械も日本製より精度的に見劣りしているので、日本のユーザーは価格よりも高機能・多機能そして何より機械精度の方をより重視していることもあり脅威はさほど感じなかった。しかしヨーロッパでの見本市は10年前から年を増すごとに、出展社数も増えており、展示のフロアスペースも大きく取って存在感を増してきている。日本だけを見ていると分からないことである。

 

中国メーカーは日本よりもヨーロッパを足場にして、市場を開拓しているようだ。その魅力はなんといっても価格である。上海協立では荒・中仕上げは中国製を使用し、精度の高い仕上げ加工は日本製を使用している。中国では現地法人の日系工作機械メーカーは、ほとんどが日系の現地法人の製造会社に販売しており、中国国内の製造会社にはあまり販売されていないと云われている。中国の会社にとって、日本製の工作機械は価格が高いため、精度の高い機械だと分かっていても購買行動に至らないようだ。しかし確実に中国の存在感は日を追うごとに増していくだろう。

 

我々日本の製造業はどのようにして生き残っていくか。明確な答えはない。ダーウィンの進化論にあるように環境に適用し、変化できるものだけが生き残り、勝ち残っていくのではないか。グローバルな世界では誰も答えを教えてくれない。自分たちの頭で考えていくしかないと思う。

 

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                     『ヨーロッパ国際工作機械見本市』

デカルCHAINA(shanghai)開業式出席

1月25日、私の友人である㈱デカルジャパンの松本さんが尽力された中国法人のデカルCHAINA(shanghai)の開業式に出席した。将来を見据えた判断は敬服に値する。工場の見学では普段見ることの出来ない印刷の工程を丁寧に説明頂き、異業種の門外漢ながら勉強になった。            

 

同じく友人である安藤さんの会社アンテックスと塚本さんの会社リーデンを見学させて頂いた。

その後、当社子会社の上海協立機械部件有限公司に来社され、意見交換を行った。我々の上海協立が設立は一番早いが、後発の皆さんが大きく発展している様子をみると良い刺激を受け、まさに切磋琢磨という言葉がぴったりの開業式と会社訪問だった。

 

これを機会に「上海友の会」を結成し大いに情報交換をしていくことになった。

 

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                   「デカル上海」会社説明風景

 

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                 「デカルchiana」玄関前で記念撮影

 

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                    上海協立の玄関前で記念撮影

取引先の表彰

2010年最初の取引先業務連絡会が20社の出席を得て21日に行われた。新年の挨拶で、私が「昨年を振り返りますと、世界同時不況が深刻化した結果、皆さんに多大なご心配とご迷惑をおかけしました。お客様の在庫調整が終了した9月から最盛期の50%程度に戻ってきましたが、回復は緩慢で予測より低く推移した結果、非常に厳しい経営を強いられた一年であったと思います。今年は60~70%程度の回復が予想されますが、一安心できるほどの回復ではありません。気を引き締めて頑張って行きましょう」と挨拶し、工場長が景気動向の説明を行い、品質保証部長から品質情報、購買部長から(品質)(コスト)(納期)の現状報告が有った。

 

続いて、2009年度の優秀取引先の表彰式を行い、感謝状と記念品を贈呈した。

品質の部門では客先クレームゼロ、受入不良0件の(有)川津精工殿。

コストの部門はコスト改善に協力いただいた筑波野口(株)殿。

納期の部門では高い納期同期化率を達成した(有)谷津製作所殿。

 

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                           筑波野口殿

 

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                         谷津製作所殿

 

川津精工さん、筑波野口さん、谷津製作所さんありがとうございました。

(川津精工殿 不幸があった為、欠席)

 

我々の会社はお客様のグローバル化に伴い、世界NO1の実力を持った企業でなくてはならない。従って協立製作所だけでなく、きょうわ会を中心としたお取引先の皆さんも同様にレベルを上げていかなければならないと思っています。

創業への道(4)

発動機の販売奨励金で資金を蓄え、将来は農機具販売店を経営したいと夢を持ち始めた。そんな矢先の工場閉鎖であった。昭和28(1953)日平産業伊賛美工場の閉鎖が発表された頃、東京の工場で働いていた2つ違いの弟に研磨を主体にした会社を作らないかと持ちかけた。庫吉は敗戦の濃くなった昭和20(1945)中国出征の  とき、弟に研磨はいい仕事だと言い残して戦地に赴いていったのだった。そして庫吉は東京で仕事が成り立つか見極めるため家族と離れ一人東京へと赴いた。

 

最初、品川区東中延1丁目(現本社から100m荏原中延駅より)にある小さな賃貸工場で兄弟2人の挑戦が始まった。昭和28(1953)創業、会社名は協立製作所、由来は協力して立つということで、読んで字のごとくである。ほぼ1年後、生計の目処が立った頃私と母と弟茂の3人が東京に呼ばれ、1年間の別居生活に別れを告げることが出来た。そして庫吉は家族のため品川区荏原4丁目にある敷地20(66)の中古住宅兼工場を購入した。1階は工場と叔父夫婦の住まい、2階は我々家族4人と実家近くの坂本村から参加した1名が住込みとして、7人の生活が始まった。私が小学1年生のときである。私は近くにある品川区立平塚小学校に入学した。

 

その後仕事も順調に推移したこともあって叔父夫婦は品川区荏原7丁目に引越し、通勤するようになった。そして住宅兼工場を建ぺい率いっぱいに改築し、1階を工場、2階を住居として、私たち家族4人と3~4人の住込みの従業員との生活が始まった。私が小学4年生の頃である。そのころ工具の研磨業を主な生業とし、円筒研削盤・カッターグラインダー・ロータリーグラインダー・内径研削盤の設備で工具メーカーT社の下請けとして、高速度鋼のリーマ・メタルソー・サイドカッター等の研削加工を営業品目に順調に業績を拡大して行き、昭和34年頃(1959)従業員も5~6人になり設備を少しずつ増やしていった。

 

昭和39(1964)親会社のT社が新社屋を作り、移転した跡地の工場を購入した。そこで従来の工場には叔父夫婦が2階に住み、1階の工場で仕事を続け、庫吉は新しい工場に引越し1階が工場、2階が住まいで1~2名の住込み従業員との生活が始まった。この移転をきっかけに、叔父は高橋研磨(現ミクロテック)として独立、()協立製作所は庫吉がそのまま引き継いだ。後年、庫吉は私に「あの頃は借入金も少なく会社の資産を半分に分けることが出来た」と話してくれた。兄弟2人が助け合いながら、別々の道を進んでいくことになった。私が中学2年、世は東京オリンピックで高度成長時代の只中であった。

 

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創業への道(3)

 当時は経営と組合が先鋭化していた時代である。大会では経営側の提案に対して何でも反対を大声で言っていた。屈折した正義感から回りの人におだてられ、組合活動の先頭に立っていた。後年、組合活動に対しても懐疑的になったのは、お互いの議論よりも何でも反対すれば、経営側が譲歩してくる。それが許された時代かもしれないと云う。

 

当時の雰囲気は今日一生懸命働けば、明日の生活はよくなる。一年後にはもっとよくなるかもしれない。だからこそ経営側は低めに回答し、労働側は高めに要求し、ストライキの姿勢を見せながら、高めに妥協をしていたのだと思う。

 

茨城工場の入り口ロビーに置いてある発動機は次のように記されている。「伊讃美発動機(3馬力)昭和26年頃、脱穀機・精米機・籾摺り機に使用。

昭和2527年、創業者高橋庫吉は日平産業伊讃美工場(筑西市川島)に勤めていた。発動機の製造部で旋盤・プレーナー・ジグボーラー等の職人として従事した後、農機販売店に出向した。販売奨励金で資金を貯め、工場閉鎖の時にその資金で協立製作所を設立した。

日平産業伊讃美工場は昭和28年工場を閉鎖し、横浜工場に集約した。昭和59年トヤマキカイと合併して、株式会社日平トヤマとなった。その後平成20年小松製作所の完全子会社となり、コマツNTC株式会社として活躍している」

 

昭和28年、伊賛美工場を閉鎖し、横浜工場に統合するとの発表があった。工場の跡地は日立化成が従業員ごと買収したが、管理職や一般従業員で妻帯者は再雇用しないとのことだったが、社宅は1年近く使用が認められたので、庫吉は妻子を残し、一人東京に仕事を求めて出かけていった。

 

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                相撲が好きだった創業者19歳の時(前列右端)

70号ブログ写真①.jpg                     中国に出征する時の記念写真

創業への道(2)

 当初、旋盤工を希望したが欠員がなく製造部のプレーナー(平削盤)工として入社した。腕の良い職人と評価され、フライス盤工としても活躍し、その後冶工具課に配属されジグボーラーを操作して冶具を製作していた。発動機のクランクシャフトが入る内径加工では、直径が大きいため加工するフライス盤やジグボーラーがなかったので、旋盤の刃物台を外して、台の上に取付け冶具を製作し、旋盤のチャックに刃物を取り付け回転させ、内径の加工作業を行う。旋盤のチャックは加工物を回転させるのであって、刃物を回転させるものではない。まさに逆転の発想である。日平産業は3馬力の伊賛美発動のブランドで、農業機械の脱穀機・精米機等の駆動源として好調に販売を伸ばしていた頃である。

 

次に配属されたのは組立と試運転、その次は技術員として代理店を回り指導に当たっていた。そして技術員として下館の塚田農機に出向を命じられた。出向期間中、農機具店の拡販のため販売員も依頼された。月に1台のペースで発動機を販売し、成績はトップにいたと云う。当時は1台の発動機を販売するとバックマージンとして1万円、付属の備品のマージンでも5千円が支給された。当時の給料が5千円であるから給料の2.5ヵ月分の販売奨励金を得ていた。約2年半、毎月1台の販売を続けることができたので、蓄財が出来たと云う。なぜ毎月販売できたのか。農家が困っていると休みや時間に関係なく相談にのり、農業機械の修理を自分で行った。また軽微な修理では費用は取らなかった。頼りになる農機具店の人間がいると農家の評判を呼び次々に親戚や友達の農家を紹介してくれたことが、販売のトップセールスマンとしての成績を維持したのだと云う。しかし農機具店でお金を貯められるからと割り切っていたが、自分が知らないうちに同僚から成功したことへの妬みを受けていた。

 

創業者・庫吉は述懐する。製造部に所属していたとき、自分は機械工として誰にも負けない技術技能を持っている。しかしなぜか昇進できなかった。なぜなのか何が問題なのか。急に作業者が休んだ時など、良く便利屋に使われていたが、自分は何でも出来るのだとの自負心から積極的に協力しているのにと不満を持っていたと云う。そんな時、組合に誘われ執行委員になった。

創業への道(1)

創業者 高橋庫吉は大正13年4月3日、茨城県西茨城郡岩瀬町(現桜川市)において芳之助・はる夫妻の三男として誕生した。兄弟は5男1女の4番目である。閉農機には農耕馬に乗り、相撲も強く、総じて腕白な子供であった。父親から子供のころから「手に職をつけろ」と言われ続けていたことkら、高等小学校を卒業後、親戚の紹介で昭和13年14歳の時、東京都墨田区にある水谷鉄工に就職する。水谷鉄工は工作機械の部品の製作や一部組立をしていた。設備は旋盤・プレーナー・シェーパ・キサゲ・組み立てなどを行い、昭和18年まで勤務していた。18歳の時無理をして運転免許を取ったのも、父芳之助から「手に職をつけろ」と云われたことが動機になっていた。勘が良く工作機械の習熟度も早く、工作機械の精度を左右するヘッドの擦動部のキサゲ作業を習得していた。後に独立時の資金が乏しい時、中古の工作機械を加工作業ができまでに修理し、回復させる技術技能を修得していたことは幸運だったと述べている。

昭和18年、水谷鉄工を退社し故郷に帰ったのち、召集令状のもと健康診断で甲種合格し少年兵として徴兵されていった。派遣先は中国河北省石家庄市で戦車の整備兵として任地に赴いた。昭和20年8月に石家庄市で終戦をむかえて捕虜にあった。捕虜生活のうつ7ヶ月は、鉄道の枕木を埋設する工事で、枕木を運び固定する鉄杭をハンマーで打ち付ける作業に徒事させられていた。満州にいた関東軍の捕虜はシベリアに連れて行かれ、想像を絶する捕虜生活を送り、日本の土を踏まずに亡くなった方が大勢いた。それに較べると自分は幸運だったと回想している。

捕虜生活では線路を引きながら、汽車の修理を施し、線路に乗せ走らせながら上海に到着するまで作業が続いた。上海に到着後、幸運にも昭和21年4月に帰国が許され、上海から船に乗って博多に向かった。船の中では全員が階級章を外し、日本軍時代に理不尽な理由で制裁を受けた上官に対して、一部で報復が起こったと云う。一週間を費やし博多港に着き、博多駅から上野を経由し、故郷の水戸線羽黒駅に着くのに2週間を要した。やっと戦争が終わったと実感したと云う。

帰国後、昭和21年6月水戸線川島駅にある日平産業伊佐美工場に就職した。そして昭和23年1月に同じ坂本村に住む鈴木をいと結婚し、長男 日出男と次男 茂の2子を儲けた。戦後の混乱した経済の中、実家から食料を分け与えられて家計をしのいでいた時期もあった。

油圧との出会い(2)

親会社の社長から「仕事を切る」と言われたが、最終工程の特に切削性を左右する刃付け研削はどこでも出来る工程ではなかった。資材担当者と相談すると「社長はあのように言っても出来ないと思う」と云っていたので、1~2年は大丈夫だろうと思った。しかし早急に新しいお客さんを見つけないと経営が行き詰って、従業員に迷惑をかけてしまうとの思いから営業活動をするようになった。

 

そんな時港区芝浦にある油圧機器メーカーの萱場工業(現KYB)から油圧機器部品の研削加工の依頼があった。早速油圧部品の試作を行った結果、高い評価を得た。そして長年培った研削技術が認められ、油圧機器の仕事は急速に増えていった。工具の研削加工の仕事は従来通り続け、特に納期で迷惑をかけないように細心の注意を払っていった。しかし徐々に発注量が減少し3年後、突然T社からの発注がゼロになった。昭和45~46年の頃である。ここから油圧機器専門製造会社としての第一歩が始まった。

 

当時、油圧機器は動力を伝達する方法として、脚光を浴び暁の産業ともてはやされた。庫吉は協立製作所にとって幸運だったと述べている。一時的に工具の受注がゼロになったが、その分研削盤の工数に余裕ができたので、油圧の仕事を増やした結果、すぐに売上は回復し前よりも業績は拡大していった。

 

業績は拡大していったが、最終工程である研削加工は前工程の遅れの影響を受けてしまう為、常に短納期のため徹夜・休日出勤・深夜残業は当たり前で、予定を立てることが出来なかった。その為か従業員の定着率は悪く、いつも人手不足状態が続いていた。

 

私が大学3年の時、後継問題を父庫吉と話しあった。私は地方に工場を作ってくれれば、自分が地方に赴任し跡を継ぐと話した。私は幼い時から父の仕事を観察していたので、東京では従業員は集まらず、工場の拡張余地がないとの理由で将来性がないと思っていた。そこで地方に工場を作り、前工程の機械加工工場を建設し、部品の一貫加工体制を作れば将来が開けると説得した。そして昭和45年、父庫吉の生まれ故郷近くの茨城県真壁郡協和町(現筑西市)に敷地300(660)、建屋20(66)の工場を建設することになった。

 

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油圧との出会い(1)

新工場に移転した昭和39年、高速度鋼の刃物が好調だったこともあり、順調に業績を伸ばし、従業員も10人を超えるようになった。しかし業容拡大と共に常に伴う問題は従業員の不足である。当時、中学卒業者は金の卵ともてはやされ、東京に集団就職する人達が大勢上京する上野駅の光景が数多くニュースで流れていた。小企業は常に従業員不足を補うため、経営者自らが深夜残業・徹夜・休日出勤を行い、文字通り身を粉にして働いていた。工具の研削作業は最終工程のため、支給品(前工程)の納期遅れを取り戻すには焼入れ後すぐに研削加工をしなければならなかった。納期は常に特急で自社の都合など関係なく、納期を間に合わせるため必死に働いた。なぜならこの時代は今日一生懸命働けば、明日の生活はもっと良くなる、1年後はさらに良くなる、と貧しくても希望に満ちた高度成長時代であった。

 

しかしある時、従業員が団結して残業を拒否するという事件が起きた。最終工程の二次下請け業を行う協立製作所が、お客様に残業が出来ないから納期に間に合わない等と言うことは、仕事を他の業者に回されてしまい結果として倒産してしまう。だからこそ従業員にはどんなに遅くても21時までの残業で終わらせ、残りの仕事は社長が自らで遅くまで、時には夫婦で作業していた。このような事情を話しても理解されてもらえず話は物別れに終わった。そこで庫吉は仕事の大半を知り合いの零細企業の人達に仕事を回して危機を乗り越えた。しばらくして従業員の代表から残業に協力するから元に戻してほしいと要請があり、この事件は短期間で解決した。

 

昭和42年頃、庫吉は親会社T社の懇親旅行会に参加した。懇親会は和気あいあいと進み酒宴の終わった後、二次会の席で同業者が親会社の社長と酒の勢いもあり口論(いじめられていた?)になった。親会社の社長ということもあり、誰も止めに入らなかったので、庫吉は義侠心を発揮し止めに入ったところ、止め方が生意気だと自分の方に矛先が向いたが、ようやく収まったかと思ったとき「協立の仕事は切ってやる」と捨て台詞を残して部屋を出たという。私は中学生の頃から夏休みや春休みに現場の仕事を手伝っていたので、この頃のことは事情を良く承知していた。

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