先輩社長の今井さん、安藤さんとは連絡を取り合い情報交換した。地震の時一緒だった大橋さん、伊藤さんと連絡が取れた。大橋さんは機械の横ズレの復旧作業をしていたが、福島原発の水素爆発で建屋の上部が吹っ飛び、20㎞は退避、30㎞が屋内 退避の警告があり、自分の所は50㎞位であるが、念のため復旧作業を停止し従業員に屋内退避するよう指示したと話していた。大変なことになった。改めて地図で調べると我々の所は180㎞位の位置である。伊藤さんと連絡が取れたのは翌日16日だった。海岸に近いので津波の心配をしていた。津波の被害はなく、工場の被害状況は我々とほぼ同じだが、水道の復旧の目処が立たないことと、道路に陥没や歪みが出ていたと話していた。
当社の子会社である協立熱処理工業からも被害状況と復旧状況の報告が入ってきた。14日にガス洩れの点検をしたところ、窒素ガスに漏れが発生していた。配管のつなぎ目に石鹸水を濡らして丹念に洩れた箇所を探して修理を行った。15日にほぼ全部の点検が終わり、夜間中炉内の温度を上げて翌朝再度点検するとのことだった。
欧米各国は80㎞圏内から出るようにとの報道があった。後からネットで米国でも今回のケースでは10マイル(16㎞)圏内であるのに、なぜ日本の時だけ50マイル (80㎞)に設定しているのか専門家から批判と云う記事が眼に入った。日本の新聞でも米国のメディアに厳重抗議と小さな記事が出ていた。どちらの情報が正しいのかテレビ・新聞などの大手メディアから明確な報道がない。この間東京にある大使館が大阪や広島に業務を移行したとの報道がなされているが、このブログを書いている21日現在でも大手メディアが明確な報道をしていない。
そのほか各方面の人達と連絡を取り合い、情報交換を行った。8時半ごろ家に帰った。余震が続く中。夕食を済ませ早く寝た。
15日火曜日6時起床。テレビ・新聞で情報収集を行う。食事を取り、7時半ごろ出社した。この日から私は2階事務所にあるパソコンを対策本部がある現場事務所に移した。メールでのやり取りやネットで情報収集した。更に別のパソコンを並べてNHKのライブ中継を見ながら情報の収集と復旧の作業を行った。茨城県は地震の被災県と言うことで、計画停電は中止との情報が入った。計画停電が実施されると復旧に時間がかかる。特に熱処理工場は炉に火を入れ、途中で停電になると計画が立たない。しかし他の首都圏で計画停電が実施されるので、我々が出来る節電をしようと言い聞かせた。
共和工機の笹原さん、滝口さんが今日応援にくるメーカーの調整と連絡のため駆けつけてくれた。この日は14日に燃料がなく駆けつけることが出来なかった機械メーカーのオークマから瀬尾さん、石井さん、大久保さん、武藤さん、平尾さんの5名が 応援に来てくれた。オークマ日立営業所の平尾さんは、日立市からガソリンが足りないのでオートバイで駆けつけてくれた。聞けば日立市の被害は大きく電気・ガス・水道の復旧は目途が立っていないとのことだった。無心研削盤のミクロン精密から砂田さん、FMSラインに使用されている自動倉庫のダイフクから石津さん、小川さん、当社で依頼した荒川重量の荒川竹義さん、義雄さんの2名が来てくれた。
川崎重工の下津佐さん、稲垣さん、井上さんが午後西明石から駆けつけてくれた。 小山から出ている水戸線は数ヶ所が地震の被害を受けて運休のため、小山-新治間約1時間のところをタクシーで来てくれた。水平出しに使用する道具類は既に小山に向けて送ってあったが、タクシーのトランクには大きすぎて載せられないだろうと西明石から連絡があったので、当社のライトバンで取りに行った。
我々の方でも水平出しとバーフィーダ・ガントリーの調整チームを3チームから5チームに増やした。これで今日は19チーム68名の復旧作業チームが作業を始めた。製造現場は地震の影響で切削液が床面にこぼれていたが、K1・K2・K3以外の 工場は清掃が終わった。床面に油があると作業がやりにくいため、各チーム苦戦していたが、午後過ぎた頃から水平出し完了の報告が次々に入ってきた。詳細レイアウト図に作業工程を示す色を○印に色鉛筆で塗っていった。
更に、コマツみどり会の都筑製作所が長野県から、山岸さんを中心に亀岩さん、壁谷さん、指田さん、戸田さん、松林さんの6名が到着し、長津工業から寺田さん、中村さんの2名が石川県から10時間以上かけて駆けつけてくれた。
日立建機とは地震発生の時から固定電話や携帯電話に何度も連絡を試みたが、だめだった。土浦方面も大きな被害だとの情報が入っていたので、心配だった。朝早く携帯電話で連絡が取れた。電気・ガス・水道が復旧せず、我々の会社より被害が大きい様子だった。継続して連絡を取ることを確認した。
川崎重工とは地震発生の時から、私の携帯に電話がかかってきたが、着信だけで連絡が取れない。連絡が取れても、雑音が多く聞き取りにくい。すぐ切れてしまう。私は携帯のメールのほうが確実につながると思い、携帯のメールで現在の情報を知らせた。この日午後、応援チームを送ると連絡があった。ありがたい。
ハイエストコーポレーションと電話がつながり、状況報告を行った。機械の横ズレの被害が大きく、自分たちの復旧の見通しが立ち次第応援に行くと言われた。水準器が足りないことを話すと宅急便で送ると約束してくれた。ありがたい。
日刊工業新聞社の豊田支局長からお見舞いと取材の電話が入った。簡単にまとめて被害状況を報告した。茨城県の中小企業の助け合いと応援部隊の状況を取材したいと申し入れがあった。道路が寸断されているので、訪問することが出来ない。復旧作業をしている写真を数枚送ってほしいと依頼があったので、写真を撮りメールで送った。茨城産業人倶楽部や茨城県経営者協会からも連絡があり被害状況の情報交換を行った。
この日は午後9時ごろ会社を引き上げた。家に帰ってからも余震は続いていた。 10時ごろ震度4位の地震があった。夜中も何度か地震があり眼が覚めた。阪神淡路大震災のときも1ヶ月位余震が続いたことを思い出した。
14日月曜日4時半起床。テレビ、新聞で地震と津波の被害状況を確認。福島の原子力発電所が大きな被害を受けている。計画停電のこともあり電気の回復が一番心配だ。と思うと同時に自分が今出来ることを確実に早く行おうと思った。今日は全体朝礼を行い復旧対策について、全員の意思統一を行う。
7時半に出社、8時から全員社員の朝礼を行った。最初に東北関東大地震で亡くなられた人に対して、1分間の黙祷を行った。そして今回の大地震災害からの迅速な復旧と生産再開を図るため、災害復旧対策本部を設置し、その場所を現場事務所にすると説明し、全員の協力を要請した。総括と渉外を担当する本部長は私、副本部長の専務はチーム編成及び作業進捗管理、隊長の総務部長は応援チーム生活環境手配フォロー、副隊長は総務部主任、作業進捗フォローの隊長は製造部長、副隊長は生産技術部長を配置した。その他に応援チームを案内する玄関受付、伝令を行う係りをそれぞれに配置した。
『災害復旧対策本部』
復旧を迅速に行う為の基本方針は製造課・保全課・生産技術課チーム、応援チーム、機械メーカーチームで機械の水平出しを行い、試削り後の品質確認、連続運転が出来て完全復旧とした。現場事務所に設置した災害復旧対策本部の壁に工場全体のレイアウト図、K1~K10工場の詳細レイアウト図に機械の型式をつけて、外部の応援チームの人達が一目で分かるようにした。詳細レイアウト図に水平出しを着手した機械は水色の○印を、水平出しOKは水色の○印の周りに紺色を塗り、試削り・品質確認終了し立ち上げ完了は機械全体に緑色を塗ることにした。異常が発生した機械には黄色の○印をつけて区別し作業の進捗を見えるようにした。報告の都度、作業進捗表に記入し漏れのないようにした。一般作業者は後片付けと清掃を行い、水平出しを完了した機械の試削りを行うこととした。
『応援に来た重機(復旧対策本部前の駐車場)』
KYBチームは相模工場から2名、相模の重量運搬の中村運送6名、同じく岐阜の 興亜組7名が加わり総勢15名、クールテックチームが4名、それぞれ本部で登録していただいた後、レイアウト図を渡して作業を開始した。チーム数は当社の3チームと合わせて7チーム、28名であった。まもなくしてコマツチームが大阪工場の人を中心に小山工場から到着した。前日下見に来た福本さんを中心に星野さん、真田さん、山田さん、中村さん、森島さん、佐藤さん、皆川さん、重量据付の三徳さん、 電気の大晃さん総勢18名の応援チームだった。
13日日曜日6時起床。地震と津波による被害の大きさに自分は何が出来るのか自問自答した。結論は協立を早く復旧させることが自分に出来ることだと改めて思い復旧の先頭に立つことを心に決めた。いつもより多くの朝食を取った。もしかしたらしばらく食べることが出来ないかもしれないと思ったからだ。
いつもと同じ7時半に出社した。幹部や従業員の人達が出社、メチャクチャになった2階事務所は5~6人で後片付けを行い、パソコンのネットワークのチェックを行い皆が出社する月曜に連絡が遅滞なく出来るようにするためだ。機械の水平出しは保全課の1チームがK1のスプール工場から作業を始めた。製造設備にとって機械の精密水平は命である。
前日、結城市で泊まるところを見つけ、朝一番でKYBの長谷川さんと池田さんが応援に駆けつけてくれた。私の旧知の人達なので心強く思った。まもなくクールテックから広瀬さん、宮原さん、上田さんが応援に来てくれた。皆さん60歳以上の超ベテランで、全体を統括する田所さんもお見えになり、状況把握に努めていた。その後クールテックは山下さんが加わり4名で水平出しをおこなった。感謝の気持ちでいっぱいだった。午前、コマツの小山工場と電話がつながり応援に行く用意をしているとの言葉をもらった。午後になるとコマツの西川さん、福本さん、鈴木さんが来社し、被害状況を把握し、必要な人数を決めるために打合せを行った。
17時頃、応援部隊の人達と共に早く終わることにした。出社出来た人が少ないので、ムリをすることはないと思った。本格的な復旧作業は月曜日からだ。長丁場になると決意を新たにした。出社出来た人達の家の状況を聞くと電気・水道が回復していないとのことだった。
機械商社の共和工機の社長・会長から全面的に支援するとの申し出を受けた。機械メーカーへの連絡・調整をお願いした。この日は携帯がつながらなく、何度も何度も電話をした。私はいつも予備の電池1個と補充充電アダプター1個を持ち歩いているが、今日は電池2個を使い切り補充充電アダプターを携帯に差し込んだまま使用した。こんなに電池を使ったのは初めてだ。このような大災害の時に携帯電話の重要さを再確認した1日だった。
家に帰ってからも余震が続いていたが、早く寝ることにした。明日も頑張ろう。
皆さんありがとう。
12日土曜日朝6時に起床。テレビで地震と津波の被害状況を見た。阪神大震災を思い出したが、それ以上の大惨事だ。軽い食事を済ませ、早めに会社にいった。自宅の復旧を最優先に行い、その上で出社できる人は出てきてほしいと前日に皆にアナウンスしてあった。20人位の人が出てくることが出来たので、それぞれの持ち場を中心に後片付けをすることにした。
私は普段座っている机とその周りの後片付けを行った。私と専務の机の後ろは保管書類のエリアと事務所を仕切っているガラス入りのパーテーションがある。後ろのガラスが横揺れの歪で割れてしまった。割れたガラスを一箇所に集め、周囲を掃除し自分の仕事場を確保した。更に役員室に入ると二段重ねの書類棚の上段部が全面のガラス方向に倒れてしまいガラスの破片と書類が散乱していた。この部屋は最後に片付ければよいと思い、現場の状況を把握するため工場に向かった。
私は専務と明日以降の復旧手順の打合せを行い現場事務所に常駐することにした。翌日は日曜日であるが、出勤できる人の人数を製造部長が連絡を取り確認し、それぞれの部署に就いた。
私はお客様と連絡を取り復旧の支援を仰ぐことにした。電話がつながらない中で最初に連絡が取れたのはKYBで、当社の被害状況の報告とKYBの被害状況の情報交換を行った。そしてすぐに今から必要な道具を持たせて2名行かせると連絡があった。結局、渋滞で12日中に到着できない旨の連絡があり、翌日朝一番で来社されることになった。
クールテックの越藤さんから携帯に電話がかかってきた。何か困っていることがあれば遠慮なく行ってほしいと、大変ありがたい言葉を頂いた。私は機械の水平出しを行う水準器が当社には2台しかないので、調達できないかとお願いした。越藤さんは快諾し、更に人手も出すと申し出てくれた。私は恥も外聞もなく、更に応援をお願いするため、その他のお客様、取引先、機械メーカー、機械商社に連絡を取り続けた。
従業員の人達には長丁場になる。早めに帰り、明日は日曜日であるが、出られる人は出てほしいとお願いし、復旧1日目は19時に終了した。自分たちの家も被害を受け、まだ電気も水道も回復していない中での復旧1日目だった。
ありがとう。
私は片づけが終わっていない二階の寝室に行った。本棚が倒れて、ガラスと本がベッドの上に散乱していたので、寝る場所を確保するために後片付けをした。掃除を手伝っていた娘が、夫は海外出張で小山市の自宅が留守になっている。心配だと言うので、家族全員で車に乗り小山市に向かった。停電の中、暗く寒い家にいるより、車の中の暖房が良いと思った。又、食事の用意が出来ないので、小山市まで行けば何か食べることが出来るだろうと思った。小山市に向かうときには国道50号線は渋滞が予想されたので、裏道を通っていった。
この頃既に各々のガソリンスタンド前に20~30台の車の行列が出来ていた。私の車には3/4位のガソリンが入っていたので給油しなかった。40分ほどで娘の家に着いた。家の中の被害はほとんどなかったので、火気のチェック済ませ一緒に自宅に帰ることになった。途中、食事が出来る可能性の高い国道50号線を下っていったが、何もなかった。結城市に入った時に吉野家の牛丼店が開いていた。数人の人が並んでいたが、車を止めて店に行った。私達の前で「売り切れました」と店の人が大きな声で話しているのを、耳にしたとき急にお腹が空いてきた。それまでは空腹は感じていなかったが、食べられると期待が大きかったので、ガッカリした。
気を取り直して車を走らせていくと普段見慣れたファーストフード店やレストラン、コンビには皆閉まっていた。鬼怒川の橋を渡り終わり川島に入ると、すきやの牛丼店の看板の明かりが見えた。やはり数人の人達が店に入っていた。息子がお土産用の牛丼を買いに行ったが、ご飯がなくなってしまったので牛皿しか買えなかった。車の中で食べた温かい牛皿は美味しかった。
筑西市に入るころ大渋滞。1時間経ってもぜんぜん動かない。水戸線をまたいでいる陸橋が地震の被害で通行止めになった。通行止めのたて看板が眼に入った。迂回路に誘導されたが、狭い道では大型車がすれ違うことが出来ずますます渋滞した。ようやく車が順調に流れた頃、開いているコンビニを発見した。食料の類はほとんど売り切れだが、わずかに残ったパンを買うことが出来た。
家に帰る前、念のため工場に立ち寄って状況を確認しに行った。大分手前から会社の周辺で電気の明かりが見えた。既に当社の電気関係を管理している為貝電気が変電設備の点検をしていた。急いで家に帰り、電気が復帰したことを確認し暖房を入れた。23時を回っていた。余震が続いていたが、明日からの復旧作業のために休もうと思い、午前0時眠りについた。長い1日だった。
3月11日金曜日14時46分、私は栃木県小山市にあるお客様の二階大会議にいた。15時からの会議に向けて知り合いの人達と情報交換をしていたその時、地震が起きた。私が住んでいる茨城県は地震が多く揺れには慣れていたので、1分位で収まるだろうと思った。しかしこの時は揺れがなかなか収まらず、時間を追う毎に横揺れが激しくなってきた。2分位経ったころ更に激しくなり立っていられなくなった。いつもと違う揺れ時間の長さだった。とっさに太い柱の元にしゃがみ込み揺れが収まるのを待った。初めて恐怖感を覚えた。
5分位経って、少し揺れが収まってきたので、階段を駆け下りて表に出た。大勢の人達が同じように表に出て建物に近づかないように通路の真ん中に集まった。友人の伊藤さんの車に乗り込んでテレビを見て、初めて巨大地震であることが分かり、大津波の警報が出ているのが分かった。この間会社に電話を入れたがつながらない。家族や東京に住んでいる両親・娘に電話してもつながらない。1時間位してから退避命令が解除になったので会議室に戻り、カバンを取ってから車に乗り込み会社に向かった。この間も電話がつながらない。
国道50号線は停電のため信号機がつかないこともあり大渋滞。農道や裏道を走った。会社に着く少し前に総務部長と携帯電話がつながり会社の状況を把握した。17時頃、会社に着いたときには、既に全社員を帰宅させた後だった。自分がいない時にどのような判断をしたか心配だったが、的確な判断をした。現場に行ってみると機械のズレがはっきり分かり、周囲の棚が倒れていた。2階の事務所に上がってみると机や椅子、パソコンが床に倒され、天井のボードが剥れ落ちていた。まさに足の踏み場もない状況だった。余震が続いているので会社を後にして自宅に帰った。
自宅周辺を見るとブロック塀が崩れ、屋根瓦が破損している家が数軒眼に入った。自宅の中はガラス類のほとんどが破損し台所は足を踏み入れるところがないくらいだと家内が当時の状況を語った。私が家に帰ったのは18時位だったので、先に帰っていた子供達が部屋の片付けと掃除を済ませていた。幸い屋根と外部の壁に損傷は見られなかった。
「2階事務所の天板落下」
多くの方々からご心配とご支援を頂き、予想より早く復旧が進んでいますので、当社の現況をご報告いたします。
幸い人的被害はありませんでした。建物の損傷も軽微で2階事務所の天井のボードが落下、一ヶ所天井からエアコン落下、机の書類はメチャメチャでパソコンはほとんど落下、ロッカー類は一部横倒しになり、足の踏み場もないような状態位でしたが、300台超の機械が横ズレしてしまいました。
工場の電気・水道は11日(金)夜11時に復帰しました。社員の住居が多くある地域の電気は14日(月)~15日(火)に復帰しましたが、霞ヶ浦水系の水道は未だ復旧していないとのことです。機械工場にとって機械を精密に水平に保つことは会社の命です。出社できる社員で12日・13日から機械の水平だし作業や事務所・工場現場の後片付けを行いました。14日から災害対策本部を設置し、社員一丸となっての復旧作業が本格化しました。
お客様やお取引先様そして機械メーカー等から応援が得られました。皆様に改めて感謝申し上げます。13日(日)に5名、14日(月)に50名、15日(火)に60名、16日(水)に50名、17日(木)に20名、18日(金)に20名、19日(土)に10名、20日(日)に8名、21日(月)に4名が応援に駆けつけてくれました。応援に来た方の総数は222名にもなりました。17日には90%の機械の水平出しが終了し、18日はおよそ50%の設備が稼働しました。19日中に全ての機械の水平だしを終わらせる予定でしたが、21日までかかりました。22日から本格的な稼働を目指します。
熱処理工場は15日午前で炉の点検が終わり、1号炉・3号炉の2基が稼働しました。17日に4号炉の修理が終わり3基稼働することが出来ましたが、2号炉は冷却ポンプの修理が出来次第稼働の予定です。地震で洩れてしまった窒素ガスが20日に入荷するとの連絡を受けましたので、21日から5号炉(ガス軟チッカ)も稼働させる予定です。
22日から当社の社員でだけで本格稼働を目指します。機械の点検が終わった後でも試削りや品質確認等、問題が多々発生すると予想されますが、社員一同この困難を乗り越える所存です。本格稼働が始まりましたら、応援していただいた方々へのお礼の意味を込めまして、このブログに詳しく掲載したいと思います。
25㎞付近の給水所は水を取りに行く人達で混んでいたので、走るのを止めて水を取り飲んだ。再び走り始めたとき体の異変を感じた。両太ももの内側の筋肉に鈍い痛みを感じた。今まで体験したことのない痛みである。なぜか思いいたったのが、ダイヤモンドヘッドを登りきった後の長い下り坂で、いつもより歩幅が大きくなって走ったため、いつも使っていない筋肉を伸ばしたためだと思った。痛みがだんだん強くなり途中で歩いてしまった。その後歩いたり走ったりの繰り返しの連続で、30㎞地点まで到達した。4時間46分12秒を表示している電光掲示板の前で記念写真を撮った。結構気持ちの余裕はあった。
「30km地点にて」
その後は内股の筋肉の痛みで走ることが出来なくなったが、早歩きで歩くことにした。30㎞地点からゴールまで約2時間と目標を定め、ゴール到着時間は午前11時30分頃で6時間30分と考えながらゴールに向かった。最後は走ってゴールしたいと思い、400m位手前から走り始めた。ゴールした時の気持ちはなんとも言えない達成感があった。
ゴールした後、完走した人にだけ与えられる前面にフィニッシャーと書かれた青のTシャツを受け取りに行った。ホテルに帰って、シャワーを浴び、青のTシャツに着替えて昼食に行くと、行く先々の人から笑顔で「おめでとう」と言葉をかけられ、誇らしい気持ちと共に改めて完走した実感を味わった。
還暦の記念にフルマラソンに挑戦したいと思いたってから、練習を積んできたが、途中右膝の故障もあり不安だった。スタートラインに立ったときから完走することだけを考えて、ゴールに向かって行った。終わってみると足が痛いだけで体はなんでもなく、体力に自信が持てた。年が明けると61歳になるが、週1~2回のペースでジョギングを行い、再度挑戦したい。
「完走証明書」