7月8日(火)水戸市三の丸ホテルにおいて「平成26年度・第51回茨城産業人クラブ定時総会」が開かれた。総会は順調に進み、1~4号議案まで可決承認された。
私は会長に就任して二期目を迎え、役員の選任を求める議案では副会長を1名から4名、新たに理事2名を迎えて、更なる組織の充実を図ることが出来た。
以下に、総会の開会挨拶を記す。
「会長を仰せつかっている高橋でございます。
日頃は産業人クラブの活動にご支援・ご協力いただきまして、ありがとうございます。またご多用の中、平成26年度定時総会にお集まりいただき、重ねてお礼申し上げます。
定時総会の開会挨拶は、産業人クラブ理事長であり、日刊工業新聞社の東京支社長がご挨拶申し上げるところですが、社用のため出席出来ませんので、私がご挨拶させて頂きます。
我が国の産業・経済活動は、アベノミクスによる景気刺激策により、税収の増加、有効求人倍率の上昇、都市部の一部では人手不足が起きるなど期待が高まる一方、 4月からの消費税増税、原油・資源高、さらに電力料金の高止まりなど中小企業を取り巻く環境は依然厳しい状況にあります。国内の少子高齢化を背景に、生産拠点は国境を越えグローバル化が本格化しています。大手企業の海外進出は加速し、調達も国境がなくなりつつあります。そして国内製造業の空洞化が懸念される中、日本経済は構造変化の時代に突入しました。
ほとんどの人が「景気が回復した」「景気が良くなった」と思うには4~5%の経済成長が必要と云われています。現在の1%前後の経済成長では景気の回復を実感として感じるのは、ごく一部で、多くの業種では、また多くの企業では景気動向にバラツキが生じます。平均値で議論していては経営の方向を間違う恐れがあると思います。
中小企業の経営上の問題として、国内需要の低迷・減少、国内市場での国内企業同士の競争激化が上位を占めています。その打開策として販売先の新規開拓、設備投資による生産性向上、新規分野への進出など前向きな改善策を掲げています。私共の会社もまさに同様でございます。
我々経営者は時代の環境に適応しながら、経営の舵取りを行わなければなりません。内向き・下向き・後ろ向きからは希望は生まれません。お互い前向きに一緒に頑張りましょう。開会の挨拶とさせて頂きます。
本日は1日宜しくお願いします。」
総会終了後、「ベトナムにおける日中韓の比較~ハノイ駐在経験から感じたこと~」と題して、ジェトロ茨城の西川所長の講演が行われた。その後の懇親会では橋本知事、商工労働部長をはじめ県幹部の参加を得て、開会の挨拶を日刊工業新聞社の井水社長が行い、橋本知事の挨拶、阿部理事の乾杯で懇親会が始まった。
シングルプレイヤーに仲間入りしたゾー。目標達成。
2014年2月16日大洗ゴルフ倶楽部の倉田杯でINコース43、OUTコース40の83で終了し、ネット73の1オーバーで優勝した。当日は寒くコンデションの悪い日だった。前半は調子が悪く、ホール毎に少しずつスイングを変えたり、パティングの時にボールを目で追わないように打ったり、自分でチェックポイントを決めて、我慢のゴルフをした結果、大きく崩れないで43でまとめることが出来た。後半は食事を少しにしたことが幸いしたのか、調子が良いという感覚はないが、40で上がることが出来た。パーオンは少なかったが、アプローチショットがうまくいってワンパットでパーを取ったホールがいくつかあった。
ホールアウトしたときの成績はトップであったが、優勝は2アンダー位と思っていたので、まさか優勝するとは思わなかった。そして2月26日海外出張先で大洗ゴルフ倶楽部からハンデキャップ改定の通知が届いたと連絡を受けた。素直に嬉しかった。
月1ゴルファーの夢であるシングルプレヤーになりたいと目標を掲げてから約5年、 59歳の時である。最初は15から始まり、10まではおよそ1年超で行くことが出来たが、その後が大変だった。年間でアンダーを3回公式カードを提出することが、シングルの条件だった。
3年前の夏のこと、たまたま娘と一緒に近くの練習場でドライバーの練習をしていた時、娘がビデオを持っていたので、撮影してもらった。再生したとき、そこに映っているスイングは、私が描いていたスイングとは、あまりにもかけ離れていたのでショックを受けた。やはり自己流の練習では無理だと思い、その場で練習場のゴルフスクールに入り、土日の週2回練習することにした。
2009年以前のデータは記録していないが、およそ年間平均スコアは92位だと思う。2009年から記録をとり始めて、最初の年は88.3、2010年89.6、2011年88.5、2012年86.6、2013年86.4としり上がりに良くなってきた。
次の目標は8を目指そう。いや思い切って6を目指してもいいかな。
やはり目標は明確な方がいい。よし6を目指そう。
皆さん入社おめでとうございます。
私は社長の高橋です。皆さんの入社を、全社員を代表して心からお祝いいたします。
皆さんは当社に入社することによって、社会に出る第一歩を踏み出しました。運命というのは、出合い、すなわち「縁」によってきまります。縁が織りなす結果として運命が決まります。こうして皆さんが入社することによって、我社と皆さんの縁が始まったわけですから、この縁が皆さんにとって良い出会いであることを願っています。
今、世界を取り巻く政治・経済は、先進国であるG8からロシアを外しG7で制裁を行うとしていますが、世界経済を不安定化要因として危惧されています。アメリカはシェールガス革命でエネルギーコストを大幅に下げることに成功し、経済は堅調であるといわれています。中国経済は景気減速しているものの昨年から底を打って緩やかな回復をしていますが、金融問題で不安定な状態になっています。一方日本経済は東日本大震災の復興が本格し、建設機械の需要が上向いてきました。また4月1日からの消費税増税とジーゼルエンジンの排気ガス規制による建設機械の値上で、昨年から買い込み需要で上向きましたが、2014年度はこの反動が心配されています。日本は円安株高政策で、一部の輸出大手企業を中心に明るさが戻ってきていますが、まだ実体経済は予断を許しません。
我社は日本経済に大きな打撃を与えた「バブル経済の崩壊」を乗り越え、「ピンチの後にチャンスあり」の格言通り、中国市場の成長が始まったチャンスを捉え、他社に先駆けて積極的な経営を行い、第二の創業といわれる躍進を果たしました。我社は常にピンチを乗り越え、チャンスに変えて、成長してきました。今後も我社の理念である「挑戦と創造」で、進んでいく企業であり続けたいと思っています。
仕事は人・物・金で動いています。仕事をしていて、人・物・金のすべてが、揃っていることはありません。自分のまわりは不足している条件だらけということは多い。それでも、小さな第一歩を踏み出すことです。現在が出発点。道のりは遠いが、歩き始めればいつかは着きます。皆さんは無限の可能性を持っています。しかし最初は仕事に慣れず、いろいろ苦労があるでしょう。まずは先輩達の中でどん欲に仕事を覚えていって欲しいと思います。
最後に、希望に満ちた今の気持ちをいつまでも忘れずにいてください。新鮮な心をもってしっかりと将来を見据えて、たゆみなく前進を続けてください。
今、ここにいる皆さんが、我々と一緒に将来の協立製作所を築いてくれることを心より願い、本日の入社式の挨拶とさせていただきます。
茨城県経営者協会発行の月間冊子「茨城経協」の念頭挨拶の執筆を依頼された。「茨城経協」の表紙とその内容を以下に示します。
新年明けましておめでとうございます。
昨年は年初、超円高から金融緩和・財政出動そして成長戦略の期待感から、円安株高へと転換し、優位な製品を武器にグローバ化した大手企業を中心に業績の回復が鮮明になってきた。しかし我々中小企業にはその波及効果はなく、円安のマイナス部分が出ていた。今年は期待したい。
今年12月、当社の海外子会社である上海協立に創業22年目で初めて総経理として社員を出向させた。中国社会では外国企業が出資した合弁・独資会社の総経理を中国人にするとナンバー2の人材を育てるどころか辞めさせてしまうことが多い。管理者層でも同じである。ナンバー2が実力をつけてくると自分の地位を脅かすと考える。いろいろな知識・技術を教え込んでいくと、自分を売込んで少しでも給与の高い会社に移り、転職を繰返していくことも要因の一つと思われる。
15年程前に中国人経営者と懇談会の機会を得た。自己紹介で私は油圧機器部品製造一筋に40年生産活動をしている会社であると話したところ、なぜそんなに長く同じ仕事をしているのかと中国人経営者から質問があった。私は加工技術を極めながら、改善を進め、現場の力を高めていくからだと答えたが、理解して貰えず、逆質問をした。
あなたは今の仕事をどのようにしようとしているのか。すると彼は企業価値が一番高い時に会社を売り、その資金で不動産業を始めると答えた。当時も今も中国の錬金術はただ同然の土地を特別開発区に指定し、市・地方政府は成功した経営者に共同で商業区・工業開発区の造成を行い、利用権を販売する。日本の製造業経営者とは価値観がまるで違うと痛感した。日本人と中国人「似て非なるもの」である。我々は今、文化の違いを乗越えることが問われている。
1週間に1回ヒアルロン酸を直接右膝に注射した。6~7回注射し痛みがなくなってから、プールで歩くリハビリを行った。同時に膝周りの筋肉を強化する練習を行い、 9月からジョギングの練習を始めた。ホノルルに出発する1ヶ月前から1週間に1回のペースで痛み止めのステロイドを4回注射した。ホノルルマラソンでは前日両膝のテーピングを行い、万全を準備を行った。詳細はブログの「マラソンへの道」で述べたが、右膝内側の痛みは出なかった。しかしダイヤモンドヘッドを上り、緩やかな下り道で失敗した。体調がいいので、緩やかな下り坂で少しストライドが大きくなったのが原因で、両太ももの内側の筋を伸ばしてしまい、20㎞付近で走れなくなった。 あの痛みは過去にも体験したことのない痛みだった。6時間37分でゴールしたときの達成感に満ち溢れた気持ちは今も忘れない。
61歳のホノルルマラソンは、両太ももの内側の筋を痛めないため、普段からストレッチを行い克服したが、27~28㎞付近で右膝外側の痛みが出て、30㎞の壁を越えられずに歩いてしまった。62歳の東京マラソンでは浅草雷門の折り返しから日本橋付近で、右膝外側の感覚がなくなり、走ることが出来なくなった。やはり30㎞の壁は越えることは出来なかった。それでも約22分近くタイムを短縮し、6時間14分59秒でゴールした。
東京マラソンでは36,000人のランナー、新宿都庁をスタートし、飯田橋、日比谷公園、増上寺、品川駅を折り返して、銀座4丁目の交差点を浅草に向かい、スカイツリー眺めながら、雷門を折り返し、日本橋、銀座、歌舞伎座を通り、築地からラストに4つの橋を渡り、東京ビックサイトでゴールした。石原東京都知事は8時20分スタートの号砲を鳴らし6時間15分1秒(プライベートタイム)後、ゴールに知事が立っていて完走したランナーとハイタッチをしている姿が印象的だった。私もハイタッチしたのは自然の流れだった。
あの感動をもう一度味わいたい。しかし右膝に続き、右ふくらはぎの肉離れの故障を体験して、大げさに言えば、仕事(飲み会も含)・マラソン・ゴルフを続けるのは、心技体が充実していないと続けることは難しい。マラソンは63歳で断念した。今度はシングルプレヤーに挑戦したいと思っている。もちろんジョギング程度は気持ちの良いときにやっていく。これで5年に渡って続けた「マラソンへの道」のブログも終了する。
現役を引退したら、マラソンに再挑戦するかもしれない。
翌日滋賀県方面のお客様と午前中の約束をしていたので、東京駅近くのホテルに泊まるために、出張の用意をして東京駅にいった。電車の乗り降りは階段を使わないルートでいった。いつもなら八重洲口からホテルまで5分位で行くところ、右足を引き摺りながら、20分かかったのを覚えている。翌月曜日、5時に起床し朝一番の新幹線に乗った。10時に訪問先に入り、打合せを済ませてから、帰宅したのは夜9時頃。しかし翌日の火曜日に、目が覚めた時にはすっかり痛みは治まっていた。この体験で、シューズの重要性を認識し、初心者用のシューズを購入した。ランニングマシンの練習はマシン自体がクッションになり、膝周りの筋肉が付きにくいため、膝がロードに耐えられないと分かったので、その後はロードでの練習を主体にした。
忘年会の勢いで約束したが、本当にフルマラソンに挑戦しようと思ったのは、若い時にテレビで見たホノルルマラソンだ。人生の節目である還暦の年に、夫婦で国内旅行でも、海外旅行でもなくもっと記憶に残ること、海外でフルマラソンの完走が人生の記憶に残る事だと思った。幸いにもホノルルマラソンは制限時間がなく、楽しみながら走れる。国内のマラソン大会は制限時間が6~7時間なので、時間内にゴールするは無理だった。何よりも最初のマラソンは完走したかった。
59歳の5月、連休の間、毎日10キロを走った。調子がよかったので、ある日初めての20㎞走を行った。自宅から旧道を通り、筑西市の県西運動公園を通り過ぎ、下館駅まで10㎞、往復20㎞のコースである。5㎞位を過ぎると体がなじんできて、足も軽く快調に走ることが出来た。しかし15~16㎞地点で右膝に違和感を覚え、 痛みが出てきたので、残りは徒歩で行った。この痛みが取れないので、整形外科に行き診察したが、先生の診断は加齢による膝の軟骨の磨耗が原因とのこと、走るのは諦めなさいといわれた。先生に還暦の記念にどうしても12月のホノルルマラソンに行きたいことを話した。そして無理して走り続けた場合、右膝が最悪どのようになるのか先生にしつこく聞いた。6ヶ月の治療でも最悪は走ることが出来なくなりますと云われた。私はフルマラソンに1回だけ走ることが出来れば、後はマラソンが出来なくてもかまわない、歩くことは大丈夫ですかと質問したら、大丈夫との回答があった。ではゴルフをプレーすることは出来ますかと質問したら、たぶん大丈夫といわれたので、「老後にゴルフが出来なくなるのは困るが、出きるならOKです。治療をお願いします。」といった。
マラソン好きなお客様のある部長と忘年会でダイエットの話で盛りあがり、スポーツクラブで走っていることを話したら、フルマラソンも完走することが出来ると進められた。自信もないし体力が持たないと思っていたが、したたかに酔っ払っていたので、勢いでフルマラソンに挑戦することを約束した。相当酔いが回っていたが、不思議とマラソンを走ることだけが、記憶に残っていた。いきなりフルマラソンを走るのは無謀と思い、毎年④月に土浦市で行われるかすみがうらマラソンの10マイルの 部門にエントリーした。1~3月の間にランニングマシンで相当走りこんだ。
いよいよ60歳の4月、かすみがうらマラソン10マイル(16㎞)の部に出場した。 レース当日不安もあったが、心地よい緊張感で気分も適度に高揚していたのを覚えている。会場である土浦の陸上競技場に1時間前に到着するように、車を土浦駅近くの駐車場におき、徒歩で陸上競技場にいった。陸上競技場は2万人を超える人で、開会式のセレモニーが華やかに行われていた。私は練習で計測した持ちタイム2時間のスタート場所に並んだ。一番後ろである。この時16マイル出場者は約6,000人だった。スタートして15分位して常磐線の陸橋を渡るとき、はるか遠くまで人の帯が続いていた。壮観に一言である。
走るペースを一定にするため、時計でチェックしながら走った。5kmを過ぎた頃から体が軽くなり、いつもよりペースが上がった。このままどこまでもこの早いペースで行けそうに感じた。これなら1時間30分でゴールできる。しかし12~13kmを過ぎた頃、右膝内側に違和感を覚えた。少しペースを落として走ったが、徐々に違和感が痛みに変わり、ラスト1kmで走れなくなった。後は右膝をかばいながら、歩いてゴールした。タイムは1時間46分。何よりも完走出来たことに、言葉に表せない達成感を覚えた。
ゴール後、荷物を取ってからが大変だった。特に土浦駅に向かう途中の歩道橋を上がるとき、ふだん触ったこともない補助レールにつかまりながら、痛さに堪えて階段を上がっていった。下りの階段がもっとひどかった。右足を下ろそうとすると、膝に感覚がないため、階段から落ちそうになった。やっと駐車場にたどり着くのに倍以上の時間を要してしまった。
一念発起してスポーツクラブに入会した私は、目標を定めて運動と食事の総カロリー削減のダイエットを始めた。体重は79.5kgから69kg、ウエストは95㎝から85㎝以下、見た目の体形を重視することを目標にした。筋力トレーニングと食事を中心とするダイエットを始め三ヶ月を経た頃、ランニングマシンを併用するようにした。筋力トレーニングでは器具を使って胸・背筋・臀部・太ももの運動、腹筋は腰痛を防ぐために、3種類の方法を行った。もちろん最初はトレーナーに教わった。2週間を過ぎた頃には周囲の人の運動を見て、真似をして覚えた。週2~3回筋トレを行い、2ヶ月位過ぎたある日、筋トレ後のシャワーで汗を流し、バスタオルで体を拭いていた姿を見ると、お腹回り、特に腹筋のある両サイドが窪んでいるのが見て取れた。うれしかった。
3ヵ月以降は筋トレとランニングマシンを併用することにした。最初は1時間5㎞のスピードで、6㎞に上げ、更に7㎞に上げた。もう小走りに走らないと追いつかなくなった。スポーツ飲料を飲みながら15~30分行うと汗が大量に出る。半そでのシャツが胸くらいまで、汗で濡れて来るのが良く分かる。半年後には筋トレ1時間、ランニングマシン1持間の計2時間をこなすようになった。この頃には8㎞のスピードで1時間走り続けることが出来るようになった。1時間も走っているとシャツの汗は、手で搾ると床に落ちるくらいだった。いままでの不摂生がたたり、メタボ状態の体は、あたかも水ぶくれになっていたかのようだ。少しずつジョギングからランニングが出来るようになり、調子のよいときは10kmの速さで1時間走れるようになった。この時のランニングによるカロリー消費量は約1,000キロカロリーである。1年が過ぎ、体重は79.5kgから69.5kg、ウエストは95㎝から83cmとなりほぼ目標を達成することが出来た。
二次的効果として胸囲は95㎝から100cm、体脂肪率は20を切るようになった。血圧は138~85だったのが、125~75に下がり、30代の頃の血圧に戻った。毎年行っている人間ドック検診で、医者から血液検査も含めて、1年前とは劇的に改善しているので、びっくりしていた。どのようにしたのか聞かれたので、食事と筋トレ+ジョギングのダイエット法を実施していると説明したが、ニンジンとリンゴのミックスジュースについては良く理解していない様に見受けられた。石原医師のことは特に話さなかった。完全な健康体ではないが、還暦直前の年齢を考えると、大変良いとお褒めの言葉をいただいた。50代後半から運動を始めると60代、70代を健康な生活が出来る可能性が高くなりますといわれた。
「食べない健康法」をよく読み、自分のアレンジも加えて実践した。正しくはニンジン2本とリンゴ1個をジューサーでミックスジュースにするのだが、ジューサーの掃除が面倒なので、ニンジンとリンゴジュースをスーパーで買い求め、2対1の割合でミックスにしたジュースを、コップ1杯、紅茶に生生姜の摩り下ろし少々と黒砂糖をいれた生姜紅茶を作り、ヨーグルトと共に朝食とした。白い砂糖はいろいろな添加剤を使用しているので、使わない。黒砂糖は添加剤を使用しないので、ミネラルが豊富だ。昼食はだいたいザル蕎麦、夕食は普通にとった。1日1回は満腹感が得られるので、長く続けられる。10日くらいたったある日、真っ黒い便が出た。これはニンジン・リンゴジュースにより食物繊維を豊富に取っているので、宿便が取れたのだ。
そんな時、免許更新の案内がきた。更新手続きが終わり、帰る途中にスポーツクラブを目にした。筋力トレーニングを具体的にどのように進めていくか決めていなかったので、思い立って直ぐ入会した。自宅から15分、こんな近いところにスポーツクラブがあるのに気が付かなかった。興味がないと目の前にあっても気がつかない典型だ。平日は夜10時まで営業しているのも、私にとっては都合が良い。ダイエットを始めたときの基礎代謝は1,550キロカロリーだった。それまで成人男性の1日の摂取カロリーは2,500キロカロリーと言われていたが、正確に摂取カロリーは把握していたわけではない。そこで大まかな食事のカロリーを勉強し、レストランなどのメニューでカロリー表示を意識して覚えるようにした。1日の摂取カロリー2,000キロカロリーを目標にした。家庭の夕食は約1,000キロカロリー、昼食の蕎麦は500キロカロリー、その他500キロカロリーが大まかな目安だ。当然晩酌はしない。このままで行けばすぐに体重は落ちるのだが、週の内3~4回は外食がある。特に宴会料理は危ない。お酒も入れると一度に2,500~3,000キロカロリーは摂取してしまう。
マラソンへの道をこの5年間歩んできた。公式レースはフルマラソン3回、10マイル(16km)3回出場したが、怪我と仕事との両立に限界を感じ、マラソンへの道を終了することにした。昨年、両親が長年住みなれた東京都大田区の家から、私の自宅近くの介護付老人ホームに転居して来たことも、時間が取れなくなってきた一因である。
昨年の7月末、早朝の練習中5km付近で、突然右ふくらはぎが激痛に襲われ、あまりの痛さに5分ほど動くことが出来なかった。直感的に肉離れをやったと思った。すぐ医者に行き、治療を受け、テーピングを足裏から踵、ふくらはぎまで行ったところ、痛みは治まった。2週間ほど治療を受け、日常生活は影響がないまでに回復したが、肉離れは癖になりやすいから気をつけるようにと医者からアドバイスがあり、年内はジョギングさえもおこなわなかった。今年の4月暖かさが感じられる頃に、散歩とジョギングを行ったが、体が大変きつく、両膝に違和感を覚えてきた。やはり長期の練習中断は想像以上に、体の回復を遅くしていた。年のせいかなと思いつつ、何度か練習を行ったが、やはり体が思うように動いてくれない。仕事との両立がきつくなってきたので、マラソンの練習として走ることは止めることにした。
振り返ってみると、マラソンへの挑戦は59歳のときに思い立った。58歳のとき体重が79㎏超になり、健康を気にし始めた頃、銀行のセミナーで「食べない健康法」の著者である石原医師の講演を聞いたのがきっかけとなった。石原医師はご自分でも実践している健康法を分かりやすくお話しされ、現代人はカロリーの取りすぎによることが病気の原因である。その為には一日の総カロリーを抑え、ほとんどの栄養素をバランスよく取れるニンジンとリンゴのミックスジュースを朝コップ一杯、そして一日の脳の栄養源である糖分を取るため、紅茶に黒砂糖と生生姜を摩り下ろして飲む。
生生姜は体温を上げる作用があるので、免疫力を上げることが出来る。昼はザル蕎麦を取る。理由は忘れたが、そばは糖質がないので良いのだと思う。夜は何を食べてもよろしいといわれた。本当は朝十分な食事を取り、夜の食事は少ない方が良いのだけれど、会社を経営している立場の人は一日の生活が不規則で、夜の付き合いも多いのだから、良い事をいくら言っても実行は出来ない。であるから一日の総カロリーを抑制した方が良いのだと云う主旨だった。