マラソンへの道ファイナル⑥

週間に1回ヒアルロン酸を直接右膝に注射した。6~7回注射し痛みがなくなってから、プールで歩くリハビリを行った。同時に膝周りの筋肉を強化する練習を行い、 9月からジョギングの練習を始めた。ホノルルに出発する1ヶ月前から1週間に1回のペースで痛み止めのステロイドを4回注射した。ホノルルマラソンでは前日両膝のテーピングを行い、万全を準備を行った。詳細はブログの「マラソンへの道」で述べたが、右膝内側の痛みは出なかった。しかしダイヤモンドヘッドを上り、緩やかな下り道で失敗した。体調がいいので、緩やかな下り坂で少しストライドが大きくなったのが原因で、両太ももの内側の筋を伸ばしてしまい、20㎞付近で走れなくなった。 あの痛みは過去にも体験したことのない痛みだった。6時間37分でゴールしたときの達成感に満ち溢れた気持ちは今も忘れない。

 

61歳のホノルルマラソンは、両太ももの内側の筋を痛めないため、普段からストレッチを行い克服したが、27~28㎞付近で右膝外側の痛みが出て、30㎞の壁を越えられずに歩いてしまった。62歳の東京マラソンでは浅草雷門の折り返しから日本橋付近で、右膝外側の感覚がなくなり、走ることが出来なくなった。やはり30㎞の壁は越えることは出来なかった。それでも約22分近くタイムを短縮し、6時間14分59秒でゴールした。

 

東京マラソンでは36,000人のランナー、新宿都庁をスタートし、飯田橋、日比谷公園、増上寺、品川駅を折り返して、銀座4丁目の交差点を浅草に向かい、スカイツリー眺めながら、雷門を折り返し、日本橋、銀座、歌舞伎座を通り、築地からラストに4つの橋を渡り、東京ビックサイトでゴールした。石原東京都知事は8時20分スタートの号砲を鳴らし6時間151(プライベートタイム)後、ゴールに知事が立っていて完走したランナーとハイタッチをしている姿が印象的だった。私もハイタッチしたのは自然の流れだった。

 

あの感動をもう一度味わいたい。しかし右膝に続き、右ふくらはぎの肉離れの故障を体験して、大げさに言えば、仕事(飲み会も含)・マラソン・ゴルフを続けるのは、心技体が充実していないと続けることは難しい。マラソンは63歳で断念した。今度はシングルプレヤーに挑戦したいと思っている。もちろんジョギング程度は気持ちの良いときにやっていく。これで5年に渡って続けた「マラソンへの道」のブログも終了する。

 

現役を引退したら、マラソンに再挑戦するかもしれない。

 

マラソンへの道ファイナル⑤

翌日滋賀県方面のお客様と午前中の約束をしていたので、東京駅近くのホテルに泊まるために、出張の用意をして東京駅にいった。電車の乗り降りは階段を使わないルートでいった。いつもなら八重洲口からホテルまで5分位で行くところ、右足を引き摺りながら、20分かかったのを覚えている。翌月曜日、5時に起床し朝一番の新幹線に乗った。10時に訪問先に入り、打合せを済ませてから、帰宅したのは夜9時頃。しかし翌日の火曜日に、目が覚めた時にはすっかり痛みは治まっていた。この体験で、シューズの重要性を認識し、初心者用のシューズを購入した。ランニングマシンの練習はマシン自体がクッションになり、膝周りの筋肉が付きにくいため、膝がロードに耐えられないと分かったので、その後はロードでの練習を主体にした。

 

忘年会の勢いで約束したが、本当にフルマラソンに挑戦しようと思ったのは、若い時にテレビで見たホノルルマラソンだ。人生の節目である還暦の年に、夫婦で国内旅行でも、海外旅行でもなくもっと記憶に残ること、海外でフルマラソンの完走が人生の記憶に残る事だと思った。幸いにもホノルルマラソンは制限時間がなく、楽しみながら走れる。国内のマラソン大会は制限時間が6~7時間なので、時間内にゴールするは無理だった。何よりも最初のマラソンは完走したかった。

 

59歳の5月、連休の間、毎日10キロを走った。調子がよかったので、ある日初めての20㎞走を行った。自宅から旧道を通り、筑西市の県西運動公園を通り過ぎ、下館駅まで10㎞、往復20㎞のコースである。5㎞位を過ぎると体がなじんできて、足も軽く快調に走ることが出来た。しかし15~16㎞地点で右膝に違和感を覚え、 痛みが出てきたので、残りは徒歩で行った。この痛みが取れないので、整形外科に行き診察したが、先生の診断は加齢による膝の軟骨の磨耗が原因とのこと、走るのは諦めなさいといわれた。先生に還暦の記念にどうしても12月のホノルルマラソンに行きたいことを話した。そして無理して走り続けた場合、右膝が最悪どのようになるのか先生にしつこく聞いた。6ヶ月の治療でも最悪は走ることが出来なくなりますと云われた。私はフルマラソンに1回だけ走ることが出来れば、後はマラソンが出来なくてもかまわない、歩くことは大丈夫ですかと質問したら、大丈夫との回答があった。ではゴルフをプレーすることは出来ますかと質問したら、たぶん大丈夫といわれたので、「老後にゴルフが出来なくなるのは困るが、出きるならOKです。治療をお願いします。」といった。

 

マラソンへの道ファイナル④

マラソン好きなお客様のある部長と忘年会でダイエットの話で盛りあがり、スポーツクラブで走っていることを話したら、フルマラソンも完走することが出来ると進められた。自信もないし体力が持たないと思っていたが、したたかに酔っ払っていたので、勢いでフルマラソンに挑戦することを約束した。相当酔いが回っていたが、不思議とマラソンを走ることだけが、記憶に残っていた。いきなりフルマラソンを走るのは無謀と思い、毎年④月に土浦市で行われるかすみがうらマラソンの10マイルの 部門にエントリーした。1~3月の間にランニングマシンで相当走りこんだ。

 

いよいよ60歳の4月、かすみがうらマラソン10マイル(16)の部に出場した。 レース当日不安もあったが、心地よい緊張感で気分も適度に高揚していたのを覚えている。会場である土浦の陸上競技場に1時間前に到着するように、車を土浦駅近くの駐車場におき、徒歩で陸上競技場にいった。陸上競技場は2万人を超える人で、開会式のセレモニーが華やかに行われていた。私は練習で計測した持ちタイム2時間のスタート場所に並んだ。一番後ろである。この時16マイル出場者は約6,000人だった。スタートして15分位して常磐線の陸橋を渡るとき、はるか遠くまで人の帯が続いていた。壮観に一言である。

 

走るペースを一定にするため、時計でチェックしながら走った。5kmを過ぎた頃から体が軽くなり、いつもよりペースが上がった。このままどこまでもこの早いペースで行けそうに感じた。これなら1時間30分でゴールできる。しかし12~13kmを過ぎた頃、右膝内側に違和感を覚えた。少しペースを落として走ったが、徐々に違和感が痛みに変わり、ラスト1kmで走れなくなった。後は右膝をかばいながら、歩いてゴールした。タイムは1時間46分。何よりも完走出来たことに、言葉に表せない達成感を覚えた。

 

ゴール後、荷物を取ってからが大変だった。特に土浦駅に向かう途中の歩道橋を上がるとき、ふだん触ったこともない補助レールにつかまりながら、痛さに堪えて階段を上がっていった。下りの階段がもっとひどかった。右足を下ろそうとすると、膝に感覚がないため、階段から落ちそうになった。やっと駐車場にたどり着くのに倍以上の時間を要してしまった。

マラソンへの道ファイナル③

一念発起してスポーツクラブに入会した私は、目標を定めて運動と食事の総カロリー削減のダイエットを始めた。体重は79.5kgから69kg、ウエストは95㎝から85㎝以下、見た目の体形を重視することを目標にした。筋力トレーニングと食事を中心とするダイエットを始め三ヶ月を経た頃、ランニングマシンを併用するようにした。筋力トレーニングでは器具を使って胸・背筋・臀部・太ももの運動、腹筋は腰痛を防ぐために、3種類の方法を行った。もちろん最初はトレーナーに教わった。2週間を過ぎた頃には周囲の人の運動を見て、真似をして覚えた。週23回筋トレを行い、2ヶ月位過ぎたある日、筋トレ後のシャワーで汗を流し、バスタオルで体を拭いていた姿を見ると、お腹回り、特に腹筋のある両サイドが窪んでいるのが見て取れた。うれしかった。

 

3ヵ月以降は筋トレとランニングマシンを併用することにした。最初は1時間5㎞のスピードで、6㎞に上げ、更に7㎞に上げた。もう小走りに走らないと追いつかなくなった。スポーツ飲料を飲みながら1530分行うと汗が大量に出る。半そでのシャツが胸くらいまで、汗で濡れて来るのが良く分かる。半年後には筋トレ1時間、ランニングマシン1持間の計2時間をこなすようになった。この頃には8㎞のスピードで1時間走り続けることが出来るようになった。1時間も走っているとシャツの汗は、手で搾ると床に落ちるくらいだった。いままでの不摂生がたたり、メタボ状態の体は、あたかも水ぶくれになっていたかのようだ。少しずつジョギングからランニングが出来るようになり、調子のよいときは10kmの速さで1時間走れるようになった。この時のランニングによるカロリー消費量は約1,000キロカロリーである。1年が過ぎ、体重は79.5kgから69.5kg、ウエストは95㎝から83cmとなりほぼ目標を達成することが出来た。

 

二次的効果として胸囲は95㎝から100cm、体脂肪率は20を切るようになった。血圧は13885だったのが、12575に下がり、30代の頃の血圧に戻った。毎年行っている人間ドック検診で、医者から血液検査も含めて、1年前とは劇的に改善しているので、びっくりしていた。どのようにしたのか聞かれたので、食事と筋トレ+ジョギングのダイエット法を実施していると説明したが、ニンジンとリンゴのミックスジュースについては良く理解していない様に見受けられた。石原医師のことは特に話さなかった。完全な健康体ではないが、還暦直前の年齢を考えると、大変良いとお褒めの言葉をいただいた。50代後半から運動を始めると60代、70代を健康な生活が出来る可能性が高くなりますといわれた。

 

マラソンへの道ファイナル②

 そしてもう一つ大事なことは筋力をつけることである。私たちは若いときいくら食べても太らない時期がありました。それは筋肉の量が多く、常にカロリーを消費しているので、太らない。私も若いときには寝ているだけで、朝目覚めたとき体重が減少しているという体験があった。年とともに運動の量が減り、脂肪がつき、筋肉の量が少なくなり、基礎代謝が落ちて体重が増える。であるから食事療法だけでダイエットを行うと体を壊すことがあるというのだ。

 

「食べない健康法」をよく読み、自分のアレンジも加えて実践した。正しくはニンジン2本とリンゴ1個をジューサーでミックスジュースにするのだが、ジューサーの掃除が面倒なので、ニンジンとリンゴジュースをスーパーで買い求め、2対1の割合でミックスにしたジュースを、コップ1杯、紅茶に生生姜の摩り下ろし少々と黒砂糖をいれた生姜紅茶を作り、ヨーグルトと共に朝食とした。白い砂糖はいろいろな添加剤を使用しているので、使わない。黒砂糖は添加剤を使用しないので、ミネラルが豊富だ。昼食はだいたいザル蕎麦、夕食は普通にとった。11回は満腹感が得られるので、長く続けられる。10日くらいたったある日、真っ黒い便が出た。これはニンジン・リンゴジュースにより食物繊維を豊富に取っているので、宿便が取れたのだ。

 

 

そんな時、免許更新の案内がきた。更新手続きが終わり、帰る途中にスポーツクラブを目にした。筋力トレーニングを具体的にどのように進めていくか決めていなかったので、思い立って直ぐ入会した。自宅から15分、こんな近いところにスポーツクラブがあるのに気が付かなかった。興味がないと目の前にあっても気がつかない典型だ。平日は夜10時まで営業しているのも、私にとっては都合が良い。ダイエットを始めたときの基礎代謝は1,550キロカロリーだった。それまで成人男性の1日の摂取カロリーは2,500キロカロリーと言われていたが、正確に摂取カロリーは把握していたわけではない。そこで大まかな食事のカロリーを勉強し、レストランなどのメニューでカロリー表示を意識して覚えるようにした。1日の摂取カロリー2,000キロカロリーを目標にした。家庭の夕食は約1,000キロカロリー、昼食の蕎麦は500キロカロリー、その他500キロカロリーが大まかな目安だ。当然晩酌はしない。このままで行けばすぐに体重は落ちるのだが、週の内34回は外食がある。特に宴会料理は危ない。お酒も入れると一度に2,5003,000キロカロリーは摂取してしまう。

                                                                                                                 

マラソンへの道ファイナル①

マラソンへの道をこの5年間歩んできた。公式レースはフルマラソン3回、10マイル(16km)3回出場したが、怪我と仕事との両立に限界を感じ、マラソンへの道を終了することにした。昨年、両親が長年住みなれた東京都大田区の家から、私の自宅近くの介護付老人ホームに転居して来たことも、時間が取れなくなってきた一因である。

 

昨年の7月末、早朝の練習中5km付近で、突然右ふくらはぎが激痛に襲われ、あまりの痛さに5分ほど動くことが出来なかった。直感的に肉離れをやったと思った。すぐ医者に行き、治療を受け、テーピングを足裏から踵、ふくらはぎまで行ったところ、痛みは治まった。2週間ほど治療を受け、日常生活は影響がないまでに回復したが、肉離れは癖になりやすいから気をつけるようにと医者からアドバイスがあり、年内はジョギングさえもおこなわなかった。今年の4月暖かさが感じられる頃に、散歩とジョギングを行ったが、体が大変きつく、両膝に違和感を覚えてきた。やはり長期の練習中断は想像以上に、体の回復を遅くしていた。年のせいかなと思いつつ、何度か練習を行ったが、やはり体が思うように動いてくれない。仕事との両立がきつくなってきたので、マラソンの練習として走ることは止めることにした。

 

振り返ってみると、マラソンへの挑戦は59歳のときに思い立った。58歳のとき体重が79㎏超になり、健康を気にし始めた頃、銀行のセミナーで「食べない健康法」の著者である石原医師の講演を聞いたのがきっかけとなった。石原医師はご自分でも実践している健康法を分かりやすくお話しされ、現代人はカロリーの取りすぎによることが病気の原因である。その為には一日の総カロリーを抑え、ほとんどの栄養素をバランスよく取れるニンジンとリンゴのミックスジュースを朝コップ一杯、そして一日の脳の栄養源である糖分を取るため、紅茶に黒砂糖と生生姜を摩り下ろして飲む。

 

生生姜は体温を上げる作用があるので、免疫力を上げることが出来る。昼はザル蕎麦を取る。理由は忘れたが、そばは糖質がないので良いのだと思う。夜は何を食べてもよろしいといわれた。本当は朝十分な食事を取り、夜の食事は少ない方が良いのだけれど、会社を経営している立場の人は一日の生活が不規則で、夜の付き合いも多いのだから、良い事をいくら言っても実行は出来ない。であるから一日の総カロリーを抑制した方が良いのだと云う主旨だった。

 

一時帰休解除

昨年前半から急激に受注が減少したため、やむを得ず雇用調整助成金の申請を行い、 10月から毎週金曜日を一時帰休日とした。その為、協立の経営に不安と不満を持った社員が、自ら新たな道を選んで会社を去っていった。一時帰休を実施するに当たり、経営者はもちろん管理者層にも減給をお願いした。この間、大変苦渋の選択をいくつもせざるを得なかった。月・月若干の受注回復基調と社員の減少で操業を維持できるようになったので、20日をもって一時帰休を解消し、通常勤務に戻ることにした。


年前の11で工場や社員の家も被災した。工場は社員と200人を超える応援者のおかげで、週間足らずで復旧を果たすことが出来た。その後、急激な受注の増加で生産が間に合わず、設備投資と人員の増強も行ったが、お客様に迷惑をかけてしまった。この年の売上高は過去最高を記録したが、人員の増加が利益に結びつかず、計画を下回ってしまった。ようやく体制が出来上がった時には、先行きの需要に陰りが見え始め、一時帰休の決断をせざるを得なかった。


世界の経済が結びつき、グローバルという言葉が一般化して久しい。私共のお客様はほとんどグローバル展開をしているので、約年にわたる超円高はお客様の経営を圧迫し、我々サプライヤーも生残りをかけてコストダウンに取り組んできた。しかし変化が早いこの時代に対応するのは大変である。しかしダーウィンの進化論にあるように、「最も大きいものが生き残るのではなく、最も強いものが生き残るのでもない。環境に適応できるものだけが生き残る」を肝に銘じて。


茨城県経営者協会年頭挨拶(2) 

【年頭挨拶全文】

新年明けましておめでとうございます。

私は昨年の定期総会において副会長に選出いただきました高橋でございます。

さて昨年の世界経済は欧州の債務問題、中国の景気減速に伴い、アジアの成長にも減速感が出てきました。このような状況の中、我々中小中堅製造業は、新興国との競争にさらされ、大変厳しい状況が続いています。このような製造業の立場から、経営者協会を通して情報を発信していくことが、副会長としての私の役割だと思う。

中小中堅の製造業にとって超円高が長引く中、現在の日本の法制度、法人税、CO2排出規制等の環境規制、経済連携の遅れ、そしてエネルギー政策は、誤解を恐れずに申すならば、「製造業は国内から出て行け」と言っているに等しいと思う。今年度中にも質の高いTPP交渉に参加しないと、出来上がったルールを受けいれるか否かの二社択一の選択しか出来なくなり、それこそ国益を損なうと思う。戦後の日本の繁栄は、自由な貿易が出来ることで可能になったのだから、相手の国で商売をさせてもらっているなら、日本でも相手を受け入れなければならない。難しい問題が多くあることは承知の上で、これを乗り越えなくては、将来豊かさを維持出来なくなり、日本は今の豊かさに負けた国として記憶されてしまう。

今後、世界のそして日本の経済動向は予断を許さない状況ではありますが、内向き・下向き・後ろ向きの中からは不安と絶望しか生まれてきません。外向き・上向き・前向きの中からこそ希望が生まれてきます。皆様と一緒に頑張ってまいりましょう。

茨城県経営者協会年頭挨拶(1)

昨年の定期総会において副会長に選任され、最初の新年号の年頭挨拶を寄稿した。

年頭挨拶は会長・鬼澤邦夫氏(㈱常陽銀行 代表取締役会長)、茨城県知事・橋本昌氏、経団連会長・米倉弘昌氏の挨拶に続いて、副会長の小濱裕正氏(㈱カスミ 代表取締役会長)、佐藤修二氏(㈱日立ライフ 取締役社長)、木村和弘氏(日鉄住金鉱化㈱代表取締役社長)、そして私は「外向き・上向き・前向きの中から希望が生まれる」と題し年頭挨拶を行い、最後に専務理事・清水賢一氏で締めくくられている。

会報誌「茨城経協」は26ページで県内の情勢・報告が多数掲載され700社を超える経営者の貴重な情報誌になっている。

 

社長ブログ 154号.jpg

平成25年筑西市商工会会報に寄稿(2)

「新年明けましておめでとうございます。

㈱協立製作所は、建設機械に使用される油圧機器及び油圧部品を専門に製造している会社です。

さて昨年の世界経済は欧州の債務問題、中国の景気減速に伴い、アジアの成長にも減速感が出てきました。このような状況のなかで中小中堅の製造業は、新興国との競争にさらされ、大変厳しい状況が続いています。更に超円高が長引く中、現在の日本の法制度、法人税、経済連携の遅れ、そしてエネルギー政策による電気代の高騰は、誤解を恐れずに申しあげるならば、「製造業は国内から出て行け」と言っているに等しいと思う。

私が㈱協立製作所に入社してすぐに、第一・第二次のオイルショックに見舞われ、1985年プラザ合意による円高ショック、90年のバブル崩壊、97・98年の金融危機、2008年のリーマンショックと過去6度の困難を乗り越えてきました。今回の不況は何と呼ばれるか分かりませんが、リーマンショックに匹敵する不況と認識しています。その中で常に「挑戦と創造」をキーワードに現実を直視し、乗り越えて来ました。

今後、世界のそして日本の経済動向は予断を許さない状況ではありますが、内向き・下向き・後ろ向きの中からは不安と絶望しか生まれてきません。外向き・上向き・前向きの中からこそ希望が生まれて来ると信じています。明日を信じ社員がベクトルを合わせて挑戦してまいります。」

 

社長ブログ 153号.jpg

 

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